猿と杓文字と、その怨霊(2)
それに、しいちゃんは萎縮してしまう。
「ご、ごめ……」
「猿彦。しいちゃん、怪我してるんだよ」
乱暴にしいちゃんの胸ぐらを掴みあげた猿彦に、慌てて僕が言い添えれば、彼は苛立たしげに妹を放った。やがて大杓文字で自身の肩を軽く叩くと、
〔怪我だあ? どーせすりむいた程度だろ〕
彼は言った――いな、大杓文字の平らかな円に、すらすらと文字が浮かび上がった。
『顔なしの猿』
人は彼をそう呼ぶ。それは、猿面の下に顔がないから。
もちろん顔がなければ声もない。神力あらたかな面作者による猿面は、視覚しか補ってくれないらしく、彼はこうしてヤスケの表面に文字を浮かび上がらせることで、他人と意思疎通を図るのだった。
「少しは優しくしてあげなよ。君より七つも下なんだよ」
内心はどうあれ、幼い妹を気遣う態度を全く見せない相棒に非難の目を向ければ、彼は妹の傷を一瞥してからそっぽを向いた。
〔うるせぇ〕
やがて苛立たしげに髪をかきあげると、再び包囲の輪を狭めてきていた死霊へと向き直る。
〔わーってるよ。 ……さっさと片付けて帰るか〕
言って、彼は草を刈るようにヤスケを平行に振り、前方の死霊どもを威嚇すると、ドン、と柄の部分で大地を抉った。
〔敦盛。準備は〕
ヤスケに浮かび上がる問い。
「いつでも」
〔んじゃ、ま、盛大に送ってやるか〕
頷けば、猿彦はヤスケを手放し、面へと手をかけた。
〔舞え、敦盛!!〕
地に転がったヤスケが、ごろり、と音を立てる。
……僕は目を閉じた。
全身を駆抜ける感覚――草花の香りが鼻梁を擽り、舌を湿らせる。早朝のツンとした空気に身体が包まれる。
右手の指、左手の指、足の先まで動くのを確認。しっかりと自身の質感を感じて、僕は猿面を剥ぎ取った。
薄紫の袍に蝶紋白地の袴という僕の束帯姿は緑の狩衣へ、靴は三本足の足駄へと変わっていた。
「……敦盛、参ります」
僕には少し長い袴を足駄で蹴って、一歩前に踏み出す。
右手に持った猿面が目映い閃光を発し、一つの横笛に変形した。僕はそれを構えると、前方を見据え、息を吹き込む。
ヒュィ―――ッ
宙を裂く、細く尖った甲高い音。それと共に、ぽっかりと僕らの上空に暗闇が穿たれる。熱風を吐き出し、耳を塞ぎたくなる悲鳴と怒号を運ぶその穴は、覗き込めばちろちろと燃えさかる劫火が見えるだろう。
今、この場は地獄へと繋がったのだ。
断末魔を上げて、僕らの四方を取り囲んでいた死霊らが一斉に頭上の穴へと引きずり込まれていく。
僕は視界の端でそれを確認しながら、肺に蓄えた空気を一気に吐き出した。一際高く鳴る笛の音……風が轟き、ざわざわと鴨川の水面に細波が立つ。
……空中に浮かんだ黒点が狭まってやっと、辺りは静寂を取り戻した。死霊の姿は一つ残らずかき消えていた。
「もう大丈夫だよ、しいちゃん」
僕は辺りに危険がないことを確認すると、ヤスケを拾い上げてから、もう片方の手でしいちゃんの頭に手をおく。
「さ、一緒に帰ろうか」
触れた柔らかな感触。僕は今度こそしっかりと彼女の小さな手を握った。
もう、すり抜けたりしない。
* * *
僕の相棒・猿彦は、賤民芸と軽侮された申楽能と呼ばれる舞台芸能を、足利義満将軍に認めさせた観世三郎清次……観阿弥の孫で、後生、能楽の大成者としてその名を残す、観世三郎元清の次男坊だ。
そんな将軍お墨付きの芸能者、煌びやかな彼らには裏の顔がある。
先ほども言った通り、それは陰陽師や僧侶と並ぶ祓魔師としての顔。
死霊をその身に宿し、その力を使って魔を退ける特殊な力を使う彼らは、〈舞々〉と呼ばれていた。
そして……申し遅れました。僕の名前は平敦盛。
気弱そうな女顔に、上背もなくひょろっとした体格は、よくお公家さんと間違えられるけど、これでも歴としたあの平清盛――二百年前、権勢を恣にした大入道の甥っ子。つまり紛うことなき武士だ。
え? そんなに長生きする人間がいるはずがないって?
もちろんその通り。僕は二三二年前の寿永三年、一ノ谷の合戦で源義経に敗れて死んだ。
享年十七歳。
今は身体がないから、猿彦に身体を借りたりして、舞々の仕事を手伝ってる。
すでにお察しの通り、
僕は猿彦の〈持ち霊〉。……すなわち、怨霊だ。
(一ノ段:猿と杓文字と、その怨霊 了)
次は、11月14日(金)、七時に更新です。