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舞々花伝  作者: 一瀬詞貴
六ノ段
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28/41

黒翁襲来(7)

 恐ろしい女神はあれほど憎しみに燃えていたというのに、攻撃一つしてこない。それだけでなく、訝しむ僕の鼓膜を、

――ニィ、チャ

――ゴメ……ニイチャン、

――……ゴメンナ……サ……

 鈴の音のような、微かな声が震わせた。

「…………ま、さか」

「どけよ、敦盛。とどめ刺すんだから」

 いつの間に近づいて来ていたのか、元雅くんがすぐ側に立っていた。猿彦を蹴りどかすと、ついで僕に打ち杖を向ける。

 僕は両手を広げて黒翁を背に庇うと、彼を見上げた。

 元雅くんの氷のような、尖った静かな怒りに、僕は息を飲んだ。足が竦む。唇が震える。

 けれど、何とか今すぐ逃げ出したい衝動を押さえ込み、僕は二百年分の勇気に乗せて、声を振り絞った。

「そんなことしたら、君は一生後悔するぞ」

「はあ? なんで?」

「…………しいちゃんだよ」

 僕は、感じたことをそのまま舌に乗せた。

「この身体に入ってるの、しいちゃんの魂だ」

 声の質も違う。姿も違う。けれど何となく分かる。おどろおどろしい気配の中、耳に届いた微かな泣声。それが呼ぶのものを僕はすぐに理解した。

 ――兄ちゃん。

 先ほど感じた、しいちゃんへの違和感。その不安は確信へと変わる。

 黒翁は、あんな一瞬のような短時間のうちに、しいちゃんと身体を交換したのだ。

 たづさんのことが心配になる。黒翁はたづさんの身体の中から剣が生まれるのを知らない。だから彼女に危害を加える可能性だってあるのだ。しかし、今は元雅くんと話すのが先決だった。

「し、い……だって? これが?」

 元雅くんが瞠目する。

 僕で分かることが、彼に分からないはずがない。僕はその美しい切れ長の目を見返すと、訴えかける。束の間の沈黙。けれど。

「…………何を言い出すかと思えば」

 元雅くんは、ぷっと噴き出すと不遜な態度で僕を見下ろした。

「お前、馬鹿? それがしいだとして、僕が気付かないとかありえないから。しいと僕は、たった二人の兄妹なんだよ? しいを誰よりも愛してるのは、この僕だ。その僕が、しいを攻撃したとでもいうわけ? あり得ない。あり得ないよ」

「分からないの? 僕だって分かるのに、君に分からないの!?」

「……しつこいよ、お前」

 元雅くんが忌々しげに顔を歪める。

 彼に聞き入れる気配はない……僕は絶望した。猿彦は、気付いた時、悩んだのだ。たづさんを追うか、元雅くんを止めるか。そして、彼は元雅くんを止めた……彼が誤らないように。なのに、僕には止められないのか?

 打ち杖が突きつけられる。音を立てて紅の光が散る。邪魔立てするなら僕ごと消し去るつもりなのがよく分かる。

「雅兄!」

 と、しいちゃんの声に僕と元雅くんははっとして振り返った。

「しいちゃ……!?」

 庫裏の方からやってきた彼女の姿に――正確には、彼女の左手が引きずるものを見て、僕は息を飲む。

「な。敦盛? しいはいるだろ。この薄汚い子供がしいのはず、ないだろ」

 元雅くんが呪うように僕を見る。

「違う! よく見るんだ、元雅くん!」

「しい。危ないから、まだ少し下がってて。すぐに」

 気遣うように元雅くんが歩み寄るしいちゃんに微笑む。

「離れるんだ、元雅く――――」

「しい、ちゃん……?」

 そして、僕の警告は空しく風にかき消えた。麗しの顔が笑顔のまま固まる。

 元雅くんはのろのろと妹を見下ろした。

「…………未熟よの」

 しいちゃんは――しいちゃんの身体を乗っ取った黒翁は、驚愕する元雅くんを鼻で笑うと、彼の腹部へ突き立てた刀身を抜いた。

 弧を描いて朱が、しいちゃんの白い髪や肌に散る。

「元雅くん!」

 ぐらり、と元雅くんの身体が傾いだ。

「妹の霊魂すら見分けられぬか。それとも傷つけた事実を認めるのが嫌か。のう、元雅」

 地に膝をついた元雅くんを小気味良さそうに見やり、黒翁は鼻から息を吐く。

「ほっほ……貴様が殺そうとしたのは、紛う事なきお前の妹じゃ。さて、どうしたものかな。この女、どれだけ問いただしても、教えてくれなんだ……」

「たづさん!」

 そう言って、黒翁は左手で引きずっていたものを――ぐったりしたたづさんを前へと放った。黒翁は可憐な瞳を猿彦へと向け、にっと笑む。

「猿。さっさと杓文字を取れ。話してもらうぞ。剣の在処を」

 びりびりと近くにいる僕まで痺れるほどの威圧感。猿彦は黒翁から目を離さず、ヤスケを取りに走る。

 力なく倒れ込むたづさんの生死は、見るだけでは判別できない。けれど、人質としての価値を彼女に認めている以上、黒翁が今すぐに殺すとは思えなかった。

〔てめぇ、覚悟はできてんだろうな〕

「覚悟? さてはて、何に対する覚悟かの」

〔俺に、ぶちのめされるって覚悟だよ!〕

 ヤスケを取り戻した猿彦は柄でもって地を打った。地面が抉られ、砂が散る。

「できるのか? 貴様に」

 勝利の確信に赤い瞳を細めて、黒翁は首を傾げる。

「わらわのもとには、たづがおる。そして、元雅も元能も……貴様の〈顔〉もな。貴様が動けば直ちにこやつらのうち、どれかを壊してくれる」

 言いながら、彼女はちろりと赤い舌で短剣を舐めた。

「誰が良いかのぉ。初めからたづでは可哀想じゃから元雅にするかのぉ。こやつ、わらわを狗などとほざいたしのお」

 言って、彼女は元雅くんの一つに束ねた髪を掴んで顔を持ち上げた。

 しいちゃんだと気付けなかったのが相当衝撃的だったのだろう。迫る刃を見る瞳にはいつもの覇気がない。

〔…………やめろ〕

 わざとらしく刀身を元雅くんの首筋に当てた黒翁は、猿彦の制止の声に満足げに眉尻を下げた。

「思った以上に兄弟仲は良いと見える。殺すと息巻いておったのもじゃれ合いの延長か? えぇ? ……ま、なんにしても都合が良いわ」

 じっと伺うように猿彦を見つめて、彼女は睦言を囁くように艶やかな声で誘う。

「悪い話ではなかろ? わらわを解き放つとは、つまり、お主の顔が戻ることなのじゃ」

 猿彦は黙っている。

「今一度問うぞ。猿……剣は何処にある?」

 もちろん猿彦だって顔を取り戻したいに違いない。それでも黒翁の問いに応えられないのは――観世の家としての責任。

 僕は、知っている。猿彦が元雅くんに負けず劣らず、舞々であることに誇りを持っていたことを。だからその道を断たれた時、目も当てられないほど、自棄になったのだ。

 黒翁が猿彦の顔から自由になった場合、人的被害が出る確率は更に高くなる。それは、彼女という女神を使役する家として、監督する義務の放棄になる。たとえ若大夫となる資格がなくなろうとも、猿彦は自身の顔と家の義務を測りにかけた場合、迷いなく家を取る、生粋の舞々なのだ。

「わしも、心苦しいが……お主がそのようではいたしかたあるまい」

 黒翁は失望露わに顔を歪め、元雅くんの首筋に刃を押し当てた。

 観世の若大夫の命と、家の体面。

 迫られる二択に猿彦はぎゅ、と拳を作る。

〔剣は! ……剣は〕

 猿彦はじり、と一歩進めた。

「んん?」

〔剣は…………〕

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