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舞々花伝  作者: 一瀬詞貴
一ノ段
2/41

猿と杓文字と、その怨霊(1)

 藍色だった東の空が、うっすらと薄紫を滲ませる夜明けの頃。

 風も絶えた蒸し暑い夏の薄闇の中、京の東――南北に走る鴨川沿いを、僕は必死に走っていた。……三本足の足駄で疾走する、相棒の背を見失わぬように。

 短い乱髪に深緑の狩衣を身にまとい、背に上背ほどはあるだろう大きな杓文字・ヤスケを背負った相棒の名は、猿彦。その名の通り、猿面をつけている。

 観世元次という本名を自ら捨てた、僕と同じ十七歳の舞々だ。

 〈舞々〉というのは――身分の高い方々をお護りする陰陽師やお坊さんに対し、身分もお金もない庶民を、怨霊や死霊から守る祓魔師の一つ。彼は中でも、四座と呼ばれる強力な舞々一座の一、観世座に連なる者だった。

「猿彦!! 空気が重い。死霊たちが集まってるんだ。早くしないと――」

 僕が横に並ぶと、相棒は右手の人さし指で天を示して答える。

「分かった」

 その意図に頷き、僕は地を蹴った。

 成人男性の上背十倍ほど飛び上がり、宙に制止。僕は不気味に静まり返った京の町筋を背に、(かのくつ)の下に広がる河原を見下ろした。はたはたと身につけた薄紫の袍が揺れる……

 夜明けを待つばかりの四条河原は、昼間と打って変わって暗澹たる雰囲気を漂わせていた。

 河川敷に点在する貧しい人たちの荒ら屋、その前方に流れる暗い川面の上には黒い霧が立ちこめ、蠢く影があった。

 死んでなお、この世に未練を残し、生者に執着する〈死霊〉と呼ばれるものたちだ。

 腹ばいになって彷徨う餓鬼、さやさやと揺れる藻草の如きは、恨めしさを訴える死霊の腕……おぞましいけれど、さして珍しい光景じゃない。この刻限、朝日を迎える直前の世界は、生者と死者の境が最も薄れる頃合いなのだ。

 南下し、大橋に近づくにつれて、より一層、空気が淀んだ。見ているそばから死霊らが、雨水が染み出すように地から現れ、数を増していく……

「しいちゃん……一体、何処に」

 僕は焦りと共に、目を眇めて目的の人物を捜した。

 まるで美味しい餌に引き寄せられるように死霊らが向かうその先を目で追えば、黒い塊が取り囲む中心に微かな光が目に入る。

 月光りのような、澄んだ銀。

「いた! 猿彦、しいちゃんはあそこだっ!!」

 耳の上で切りそろえられた銀に近い白髪、一本歯の足駄。篠懸を着て輪袈裟をかけた山伏の恰好の幼い少女が死霊らに追われているのを認めて、僕は声を張り上げる。

 満十歳になる、可愛い盛りの猿彦の妹・観世七郞元能《もとよし》――しいちゃんだ。

 僕の声と同時に、猿彦はヤスケを背から引き抜き頭上で一回転させると、死霊らの群れに突っ込んだ。

 太陽を凌ぐ白光が煌めき、死霊らが吹き飛ばされる。その間隙を緑の狩衣が駆け抜ける。

「……相変わらず、凄いなぁ」

 彼の背後に残る累々たる死霊の残骸。幾度見ても、彼の、楽しげにも見える思い切りの良い戦い方には嘆息せざるを得ない。

「でも」

 けれど今は戦うこと、それ事態に目的があるんじゃない。死霊に追われる、彼の妹を救い出さなきゃならないのだ。

 はらはらと相棒を見守っていた僕は、しいちゃんが地に倒れ込んだのを見て、いてもたってもいられず空中を蹴った。

「猿彦! 先に行くよ!!」

 風に乗り、滑るように宙を急降下。僕は文字通りしいちゃん目がけて飛ぶ。

「あ、敦盛さん……」

「無事だね、しいちゃん。怪我は――――」

 わっと襲いかかろうとした死霊らをひらりと飛び越え、しいちゃんを背で庇うようにして着地した僕は、

「だ、だだ大丈夫!?」

 彼女を振り返り、その右の脹脛から鮮血が溢れているのに気付いて慌てた。おそばせながら死霊の爪に切り裂かれ、転倒したのだと思い至る。

「うん。平気」

 慌てる僕とは裏腹に、しいちゃんは涙の浮かぶ大きな目を袖で拭うと、笑みすら浮かべて、首を振った。

「…………そっか」

 十歳の幼子にとってどれだけ辛いことだろう。それでも必死に堪えるのは、彼女もまた舞々だからだ。それなのに、僕がしつこく気遣うわけにもいかない。

「――うん。うん、偉いね、しいちゃん。立派だ」

 そう力付けるように頷いて、僕はしいちゃんの頭に、手を添えるようにかざした。

「家に帰ったらすぐに手当てしよう。今に猿彦が来るから……」

「彦兄が……?」

 ニッと口の端を持ち上げて見せてから、僕は敵に向き直った。

 突然の闖入者である僕の力量を測ってでもいるのだろうか。幸運にも死霊たちの動きは緩慢になっている……僕は心中、手のひらを合わせ相棒の早急な到着を願った。

 早く、早く。猿彦、早く来て!

 猿彦と違って、僕は今のままじゃ何の役にも立たないのだ。

「…………黒翁」

「え?」

 ふいに聞こえたしいちゃんの不安に震える声に、目だけで声の主を見やれば、彼女が蒼白な面持ちで辺りの草むらに手を這わせていた。

「ど、何処? 黒翁……黒翁!!」

「しいちゃん?」

「敦盛さん、どうしよう。黒翁が――――」

 狼狽した様子で彼女は僕を見上げると、縋るように手を伸ばしてくる。

「あっ……」

 と思った時には、彼女は僕の身体をすり抜け地に顔から倒れ込んでいた。

「しいちゃん、落ち着いて? 一体、どうしたの……?」

 僕に触れられないことすら忘れるなど、彼女らしくもない。しいちゃんは決まり悪そうに砂に爪を立てると、きつく唇を噛んで首を振った。

「な……なんでも、ない」

 そう言って顔を持ち上げた彼女は、いつもの……年齢以上にしっかりした様子に戻っていた。でも。

「しいちゃん……?」

 僕が訝しく思ったのも束の間。

「――――――うわッ」

 耳を劈く破砕音がたち、絶命した死霊の一部が転がってきた。

 はっとして音の方へと顔を向けた僕としいちゃんは、黒い霧のような血飛沫を吹き、死霊が数体、一度に倒れるのを見た。その向こうに短い黒髪が動く。

 現れたのは、緑の狩衣をまとった猿面の男――猿彦だった。

 彼がこちらに歩み寄れば、彼より優に三回りも四回りも上背のある死霊らが、威圧感に気圧され、じりじりと後退し道を開ける。

「彦兄……」

 眉根を寄せる妹を、猿彦は肩を怒らせ無言のまま見下ろした。

 その猿面の、見開かれた目はきりりと力強く、まっすぐ通った鼻筋、毛並みを表わす漆で塗り固められた黒い部分はつややかだ。一見、厳めしく見えるが、額や口元の赤い肌に刻まれた緩やかな皺が親しみやすさを添える。しかし、いつもはどことなく剽軽な雰囲気を漂わせる精悍なその猿面は、この時ばかりは恐ろしいほどの怒気に翳っていた。

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