壊す理由、救う理由(5)
猿彦は何か言おうとして、言葉を探したまま黙り込む。その横で、たづさんが自身の両頬を音をたてて手のひらで叩いた。
「うっし。落ち込み終了!」
言って、くるりと踵を返し土手に足をかける。
「しっかりしなくちゃ! さ、帰るわよ。おサル、敦盛くん」
「あ、は、はい」
〔ちょ……待てよ〕
呼ばれた僕が二人に駆け寄ろうとしたその時、猿彦が土手に登りかけていたたづさんの腕を取った。
「ん? 何?」
振り返るたづさんは、いつもと変わらない。でも、その心の内も同じとは限らない。
猿彦は束の間俯いていたが、顔を上げるとヤスケを前に付きだした。
〔休みたきゃ休め〕
たづさんが目を瞬かせてヤスケに浮かんだ文字を読んだ。
〔別に、誰もお前を責めたりしない〕
「……あ」
ぽろり、と、たづさんの双眸から大粒の涙が零れた。
ぽろぽろぽろぽろ。
自分の涙に呆然としたたづさんは、慌てて袖で目元を拭った。でも、止まらない。ついに彼女は顔を背けた。猿彦は――思わず、と言った様子で、その手を引き寄せた。
はっとして顔を上げたたづさんが、猿彦を見上げる。それから、ぎゅ、と柳眉を寄せると唇を戦慄かせた。その頬は夕日に照らされた以上に赤く染まった。
僕は何だか見てはならないような気がして、目を背けようとした。――と、その時だった。
彼女は僕の想像の遙か斜め上の人物だった。何事か言おうと唇を開閉させた彼女は、突然、思いっ切り猿彦に頭突きを喰らわせたのだ。
猿彦の身体が傾ぐ。
「あ、あなたに心配されたらっ、お、お終いだわ!」
それから、ぼちゃんっ、とあがる水音。
「さっ、猿彦!?」
驚き駆け下りた僕に、たづさんの拳が降る。といっても、生身の身体では僕に触れられないのだから、すり抜けるだけだけど。
「何で見てんのよ! あっち行きなさいよ、オバケ!! ばか! バカバカバカ!」
「いや、オバケってたづさんも……」
――って、そんな悠長にしている場合じゃない!
「猿彦!」
僕は大慌てで水の中に飛び込んだ。
「あ、敦盛くん?」
「ぷはっ!! あああ、びっくりした。死んだかと思った」
川面から顔を出すと、猿面を取り、僕は思いきり空気を吸う。
「な、なんで突然、憑依―――」
土手から這い上がった僕にたづさんが問うた。僕は、腰元に括り付けられている自分の面の存在を確認しつつ、答えた。
「猿彦は水に入ると呪が消え落ちちゃって、呼吸ができなくなるんです。気息の穴が塞がっちゃうから。だから僕が代わりに呼吸をする必要があって……つまり、早く、新しいの書き直さないと猿彦の魂が危険なんです。なので、お寺に帰ったら、すぐに文を書きたいのですが、色々お借りしてもよろしいですか」
猿彦には顔がない。顔がなければ呼吸ができない。呼吸ができなければ、魂が淀む――怨霊になる。だから、猿彦には特殊な呪が施され、気息の穴が穿たれているのだ。その処置を施されているのは、何も怨霊だけではない。
僕の言葉を中途で遮り、たづさんは血相を変えて僕の腕を掴むと土手を駆け上がった。
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次回は12月16日(火)、七時に更新です。




