顔のない男(2)
「この剣の能力は、もともと分離と定着の二つあったのよ」
たづさんが語り出した時、ちょうど、お寺の住職さんだろう、初老のお坊さんがお茶を持って来てくれた。
〔分離と定着?〕
丁寧に礼をして茶を手にする弟妹に対し、猿彦は礼もそこそこに、たづさんに問う。
「そう。それがあたしの、四百年前の仕事だったから」
「……四百年」
途方もない年月を想像して僕は目眩を感じた。二百年の孤独すら、僕にとっては耐え難い苦しみだったのに。
「あたしね、河の神に仕える巫女だったのよ。名前もない小さな神社の。そこでは、生きてる人間に神を定着させて祀ってた。あたしはその神の管理をしていた巫女の一人で、依代が年を取ったり、病気になったりして不適になったら、この剣で神を切り離して、別の人間に移す仕事をしていたの。それがさぁ」
言葉を切ってから、彼女は照れたように頭を掻いた。
「憑依して他人の魂を飲み込んでいくうちに、あたしの魂ったら、太って性質変わっちゃって。この剣ったら、分離しかできなくなっちゃったのよ。それで急遽、転職。除霊して諸国を回る<歩き巫女>になったの」
「ま、あたしの話はこんなもんよ」と話を締めて、たづさんは猿彦を見た。
「それで? あなたたちの事情って?」
〔敦盛。黒翁の説明〕
間髪入れずに、猿彦が僕に命じる。
「な、何で僕? そんなに詳しくな……」
まだ三年弱しか観世の家にいない僕に話せることは限られている。でも、だからと言って、猿彦や元雅くんじゃ面倒がって説明などしないだろうし、しいちゃんにお願いするなど、元雅くんの手前、怖くてできるはずもない……
「……分かりました」
渋々頷き、たづさんに向き直ると、僕は頭の中の情報をかき集めつつ口を開いた。
「えっと、黒翁というのは……観世家の守護神で、明より更に西国の――天竺から来たと言われている神様です」
猿彦が床に置いたヤスケを指先でこつこつ叩き、たづさんに見るよう示す。
杓文字の平面に、みみずがのたくったような図が滲み上がった。彼はその小魚みたいな塊――僕らの住む国を指さしてから、指先を左斜め下へと滑らせる。菱形の塊が天竺だ。
「黒翁は神様と言っても、正確には人に害なす障礙神――人の肝を食べたり、疫病を流行らせたりするなど、迷惑な神様なんです」
〔ついでに女だ〕
「女神? でも、黒翁って――」
たづさんが驚いた声を上げれば、元雅くんが優雅に茶器を置いて頷いた。
「アイツは七母天っていう姉妹神の一番末っ子。本名は波提梨姫。言いづらいから、あれを封じてた黒式尉の面――黒い翁の面にちなんで『黒翁』って呼んでる」
四座のうち、女神を持っているのは筆頭・金春座と観世座だけ。それだけで猿彦たち観世の者が舞々の中でも特別だというのが分かる。ちなみに七女神の内、二柱が金春、一柱が観世にあり、他は確かではないけれど、二柱は伊勢と近江の舞々が一柱ずつそれぞれ封じ、残りの二柱は天台系寺院の僧侶が持っていると聞いたことがある。
話は戻るけれど、要するに、観世家は頂点の金春家の次に、力も由緒もある舞々の家系なのだ。
「そんな危ない神様が、何で芸能者のあなたたちと関わりがあるのよ」
「もともと七母天はお坊さんたちのものだったんだそうです。それを譲り受けたのが、彼ら舞々の家系で」
「何故、僕らのような賤民が選ばれたのか、だって? そんなの簡単だよ」
僕の言葉を遮り、元雅くんが鼻を鳴らした。
「女神たちを操るのには多くの犠牲が必要だった。だから僕ら芸人にその役目が与えられた。何人死のうが誰も構わないからね」
皮肉な調子で言い放つ。
そう。猿彦の祖父・観阿弥さんや、父・元清さんの努力のおかげで、今でこそ彼らは人並みな生活ができているけれど、元は夙の者だとか河原者とか呼ばれていた貧者だった。それが、七母天のほとんどが舞々に委ねられている理由だ。




