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短編集Ⅲ

たゆたう

作者: 有里

「あまりに美味しそうだったから、食べてしまったの。こうやってね」

 空から、白い金米糖のようなものを指に取って、あの子は、無邪気にそう言った。――以来、僕の世界に月はない。


 名を、はるみといった。おかっぱの髪が似合う、活発そうな女の子だった。

 彼女と出会ったのは、僕が大学の民俗学サークルで訪問した古い日本家屋だ。浅葱の浴衣を着て、座敷から見える庭で柴犬と戯れていた。庭先で楽しそうに鳴く柴犬に、家の主人であるお婆さんは、

「あの子、ちょっと不思議な子でねえ。いつもああしてひとりで転げまわって遊んでいるんですよ」

 と笑っていた。その言葉に、ああ、犬は生きているのか、と思ったものだ。

「ねえお兄ちゃん――、あたしのこと分かるんでしょう?」

 無意識に、犬と遊ぶ彼女を目で追っていたのだろう、視線に気付いた少女は、浴衣の裾を払う仕草をしながら縁側にやってきていた。

「あたし、はるみ。この子はゴンちゃん」

 はるみは、にこっと笑窪を作ると、足元についてきた柴犬の頭を撫でた。

 自分は幽霊が見えるのだと理解したのは、小学五年生の頃だった。自分でも、なぜだか理由は分からない。幽霊と生きている人間とを区別することが難しかった頃は、周囲の大人からは独り言の多い奇妙な子供だと思われていたようだ。

 あれから何人もの人間の霊を見掛けてきたが、誰もかれもみな、子供の姿をしていた。もしかすると人は霊になると、幼少の頃の姿に戻るのかもしれない。もしくは、僕には子供の霊しか見えないか、そのどちらかだ。

「あたしのこと分かる人、久し振り。お兄ちゃんも一緒に遊ぼうよ」

 いつの間に座敷に上がったのか、ねえねえ、とはるみの手が、腕に触れた――ように見えた。その瞬間、体の内側から寒気が広がったような気がした。ただ、はるみが触れた部分だけ、微温湯に浸かったみたいにじわじわと奇妙な感覚に包まれる。実際には、僕の腕にはなにも触れてはいなかった。

 縁側に前足を掛けて顔を覗かせたゴンが、呼んでいる。ぐいぐいと強引に僕の腕を引っ張ろうとするはるみに、一緒には遊べないと思いを込めて視線を送ると、この地域に伝わる昔話を話していたお婆さんが、

「もしかして」

 と瞼が垂れた目を凝らしてこちらを見た。

「あなたも、みえるんですか?」

 サークルの後輩で、お婆さんの話をノートに書き込んでいた浅沼が、怪訝な顔をして僕を見る。僕の隣にいるはるみには、目もくれない。浅沼には見えないのだろう。

「あなたも…って、その、お婆さんも?」

 お婆さんは苦笑いしながら、いいやあ、と首を振る。

「私の孫がね、ここに来るたび言っていたんだよ。可愛い女の子がいるよ、って。どんな子だいって聞くと、水色の着物の、おかっぱの女の子って」

 はるみは僕の腕に手を乗せたまま、お婆さんに顔を向けて、笑顔になった。ころんと鈴が鳴るような、愛らしい笑みだった。

「お婆ちゃんね、いつも、お菓子をくれるの。あたし、それは食べられないけれど、嬉しいの」

 幽霊が物を食べられないというのは想像通りだが、幽霊本人からそう聞いたのは初めてだった。

 はるみは少し残念そうな顔をして、肩を竦めた。

「そうですか…」

「ええ。そう、…まだいるんですか、その子は。……」

 幽霊が成仏するには、なにが必要なのだろう。よく聞く話だと、霊たちはこの世に何らかの未練があるから、成仏できないという。この世にある未練とは、たとえばどんなことだろうか。

 だが、考えても思い浮かばない。このくらいの年頃の少女は、一体どんなことを考えているかさえ分からないというのに。

 気になったものだから、直接はるみに聞いてみたことがある。午前にある講義しか取っていない日だった。学校の帰りに、寄ったのだ。

「なあに、未練って。そんなもの、ないよ。あたし、気付いたらここにいたんだもの」

 縁側に腰掛けて、足をぶらぶら揺らすはるみは、嘘をついている風ではなかった。

「むかし、どこに住んでいたかとか…そういうことも覚えていないの? それとも、ここに住んでいたのかな?」

 はるみは唇を突き出し、難しそうな顔をした。

 はるみの足元にゴンがやって来る。笑うように舌を出して、尻尾を左右に振っている。ゴンは得意そうにその場でぐるぐると回ってみせ、はるみは難しい顔からすぐに破顔した。そして、ぱっと地面に下りる。

「ねえ、向こうに土手があるの。そこにね、お兄ちゃんに見せたいものがあるの」

 空がうっすらと暗くなり、星が、ちらちらと見え始めた。夕暮れ時の、ゆったりとした、だが寂しさも感じる冷たい風が吹く。

 はるみに連れられて、緩やかな流れの川を見下ろす。近隣の住人の散歩コースになっているのか、ちょうど学校帰りの時間帯なのか、学生やら中年の主婦やらが、絶えず行き来している。

 犬を連れている人もたくさんいた。それらと擦れ違う時には、いくら吠えられてもゴンは僕の足元で、尻尾を揺らしながら静かにしていた。優しい黒目が、きょろきょろと愛らしく動いている。

「お兄ちゃん、こっちよお!」

 はるみが、太い桜の根元で呼んでいる。

 はしゃいだ声を上げながら、盛り上がった根の隙間を指差している。そこ目掛けて、ゴンがわんと鳴いた。硬い幹に手をついて、もう片方の手をめいいっぱいに伸ばし入れると、指先にカサカサしたものが触れた。引っ張り出せば、土埃に薄汚れたビニール袋だ。その中には例のお婆さんから貰ったらしい駄菓子が詰め込まれていた。

「これは…」

「ゴンちゃんに頼んで、ここに隠しておいて貰ったの。あたしの、宝物」

 夕日の光に七色になるビー玉や、玩具の指輪、親指ほどの人形なども入っている。はるみは僕の手の平に広げたそれらを、きらきらと嬉しそうな目で見詰めていた。

「君は食べられないんだったっけ…?」

 この世のものは食べられないし、触れられないようだった。

 はるみは無邪気にうんと頷く。そしてふいに空を見上げると、日が沈まない内から強く輝いている一番星へ手を伸ばし、宙で、何かを摘んだように指を動かした。

「お婆ちゃんのくれるものは食べられないけどね、あたしには、お空にたくさん、金平糖があるの」

 はるみの小さな手の平には、もっと小さく砂粒のような金平糖が転がっていた。彼女はそれを、ぱくんと一飲みにする。

「あたし、お腹は空かないんだけど、何だか、寂しくなった時とか、恐くなった時に、こんな風に食べてた」

 茜色からすっかり群青色になった空を見上げると、不思議と、先程あったはずの場所に、星は見当たらなかった。

「お天道さんが、あたしにくれたんだ」

 はるみはしゃがみこんで、ゴンの頭を何度も撫でている。丸くなったその背中に、

「どうしても、自分が何で死んでしまったか、思い出せない?」

 と、問い掛ける。

 子供には、残酷な問いなのかもしれない。けれど、幽霊に子供も大人もないような気がした。もしかすると、はるみは僕の年齢以上に、あの屋敷にいるのかもしれないのだ。

 暫くゴンの茶色い背中を撫でてやると、はるみは妙に真剣な顔をして言った。

「たぶんね、そういうことを思い出したら、あたし、本当に死んじゃうんだと思うの」

 なんだか、虚を衝かれたような気分だった。

 はるみは力強い眼差しを一瞬で笑顔に変えると、さっと立ち上がり、

「さあ、帰ろうか」

 と、ゴンに言った。



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― 新着の感想 ―
[良い点] 『民俗学』にて検索をして作者様の作品に出会いました。大変面白く読ませて頂きました。 「お天道さんが私にくれたんだ」この台詞が特に凄いと思いました。普通人に気づかれることのない「はるみ」に対…
[良い点] 幽霊を通して「生きる」ということを描いている、という設定・構成にまず惹きつけられました。 そして、はるみの無邪気な少女としての人物造形によって与えられる、作品全体の神秘的な雰囲気によって、…
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