第8話:選択
8:選択
汗でびしょ濡れになったシャツを着替えると、カラは寝台に腰を下ろした。
イリスから、声がかかるまで睡眠を取るように言われ、自室に戻っていた。 夜もすっかり更けており、じっとしていると夜気が肌をじわじわと締めつける。
身体はくたくたで、すぐにでも眠りに落ちてしまいそうなほど疲れているのに、頭の芯が興奮していて、眠る気になれなかった。
『やれやれ、お前がとんだのろまなもんで、ワシまで寝るのがこんなに遅くなってしもうたわ。 まったく、こんなのろまと一緒に居ったのではこの先が思いやられるわ』
寝台の上で、一足先にながながと寝そべっているナジャが、鼻から火の粉の混じった息を吐き出しながら、ぶつくさと文句を言った。
「のろまのろまって言うなよっ。 ちょっと時間がかかったけど、ちゃんとやりとげてここに戻って来たんだから」
カラはナジャを睨みながら反論を試みた。
『〝ちゃんと〟やりとげたと、あれは言うのかの』
「どんな方法でもいいっていう約束だったんだから、ちゃんと扉の外に出たんだから、〝ちゃんと〟だよ」
カラは脇に置いていた棍とオスティルの短剣を握り、むきになって言い返した。
『まぐれだな。 言うならば、お前の力ではなくその短剣の貴石の力だ』
ナジャの言うことは事実なので、カラは更に反論することが出来なかった。 少しもしない間に、ナジャは眠りに落ちたのか、グーグーと寝息を立て始めた。
カラが少し強く握ると、応えるように短剣のオスティルは光を更に明るいものにする。
――本当に、オレを主人と思ってくれているのかな……?
淡く優しい光を放つ貴石の、滑らかな表面をそっとなでると、カラはことんと寝台の上に横たわり、改めて短剣にしみじみと見入った。
地下の訓練場での光景が思い出される。
立ちはだかるレセルの妨害を突破し、扉を抜け、室外へ出る。 室外へ逃れるための扉は目の前に見えている。 至極、単純な訓練だった。
しかし、そのとてつもなく単純で容易と思えることが、酷く難しいことだと知るにはたいした時間を要しなかった。
仮にも武人として生きて来たレセルに、カラなどが付け入る隙は全くと言ってよい程なかった。 少なくとも、何の訓練も受けたことの無い子供のカラが、力技でレセルを倒して扉へ悠々と向かうことなどは、夢のまた夢。 それどころか、レセルに打ちかかられる度に、その剣を避けることさえ出来ず打たれたことは数えきれるものではない。
打たれた一回一回は、大した痛みを感じるわけでもなかったが、幾度も打たれ投げ飛ばされている内に、僅かずつだが確実に、体力が消耗していくことを感じた。 長引けば長引くほど、カラが扉の先へ抜け出すことは困難になる。 焦りと疲労ばかりが募った。
レセルは、自分だけでなく周囲にも注意を払えとカラに促した。
上がっていた息を整えながら、カラはレセルの周囲の様子も窺った。
剣や棍を一振りするのがやっとの幅の、天井ばかりが高い地下室。 油断をするつもりではないが、この部屋にいるのはカラとレセル、そしてナジャだけだ。 他の何者かが背後から襲ってくるという心配はない。
左右の壁はごつごつとしていて、動き方を誤れば思わぬところで身体を擦りぶつけてしまいそうな、でこぼこと歪な形状をしている。 天井は、どんなに棍を高く振りかぶってもぶつかる心配の無い高さがあるが、見上げるばかりの長身のレセルを相手に、いくら頭上に空間的余裕があったとしても、それがカラにとって役に立てられることとは思えなかった。
向けられていたレセルの剣が、スッと下がった。 ドクンと、鼓動が激しくなる。 棍を握る掌にじわりと汗が滲む。 取り落とさないように、ぎゅっと強く握った。 じっと動かないレセルの不気味さに、じりじりと不安が煽られ、緊張が高まる程に、心臓の音がうるさい程に大きくなる。 落ち着きかけていた呼吸が、次第に速くなっていく。
カラの心の内など容易に察しているであろうレセルは、剣を下ろしたままじっとカラを見据え動かない。 レセルの剣は鞘に納められたままで、抜かれることはない。 なのに、抜き身の剣を突き付けられているかのような、切迫した危険を感じる。 殺されることはない。 無いはずだ。 そう分かっているのに、次の瞬間には、あの大剣で突き殺されているのではないかと戦慄を覚える。
落ち着け、考えろ、落ち着いて考えろ――心の内で、念じるように何度も繰り返した。
ふうと、大きく息を吐き出した。 すると、視界の右端で何かが光を放ったことに気が付いた。 ゆっくりとした呼吸を繰り返すと、それに合わせるように明滅する。 はっと、腰に差していたオスティルの短剣の事を思い出す。
この短剣にはこれまでにも助けられてきた。 あの操骸師は言っっていたではないか。 オスティルは持ち主を選ぶ我儘な石だと。 そしてこの貴石は、カラの望みに応えて来たではないか――。
カラは腰から短剣を抜くと、伸ばしていた棍を、詞を唱え短剣と同じ長さに戻した。 短剣を前に突き出すように、棍と十字になるように構え、再び大きく息を吐き出した。 それら一連のカラの行動を、レセルはやや訝しむ様な面持ちで見ていたが、カラが奇妙な構えで止まったことを見届けると、緩やかに足を一歩前へ踏み出した。
レセルの変化を見たカラは、貴石をレセルに突き付けるように短剣を動かすと、心の内で強く念じた――「光を」と。
次の瞬間、オスティルは破裂するが如き強烈な金光を放った。 薄暗い地下室は光で溢れ、その場にいるもの全てを金白に染めた。 思いもかけぬ突然の閃光に、レセルは目を眩ませ視界を一瞬失った。 強烈な光の影響か、少しよろめいたレセルの左脇を、カラは身をかがめ素早くすり抜けた。 目を眩ませながらも、カラの動きを気配で察したレセルの剣が咄嗟に動いたが、突き出た岩に当りカラの身体を打つことは出来なかった。
レセルを無事にかわしたカラは、全力で扉まで走ると、勢いのまま扉を押し開き、転がるように暗い廊下へと出た。 これにて訓練は終了となった。
ふう、と大きくため息を吐くと、カラは寝返りを打って、手の内に在るオスティルの短剣に見入った。
「お前は、オレを本当に主人だと認めてくれているの?」
掌で包み込むようにしたオスティルは、「そうだ」と答えるように、それまでよりも強い光を灯した。 その光の温かさが、掌を通してカラの心に沁み入り、次第に身体全体をも包んでいく。 まるで懐に抱かれているかのような優しい温もりのあまりの心地よさに、カラは次第にうっとりとなり、僅かもしないうちに眠りに落ちた。
肩を揺すられ眼を覚ました時、窓の外にはすっかり陽光が満ちていた。
「まあまあ、お布団もかけずに寝てしまっていたのね。 風邪をひいてしまうわよ」
寝ぼけ眼をこすると、イリスミルトの少し心配そうな表情が眼に入った。
「――ん、あ……もう朝――……?」
イリスが羽織っていたショールで身体を包んでくれると、ほんのりと温かく、それで始めて自分の身体が冷え切っていたことを知った。 けれど、不思議と寒さは感じない。 手には昨晩寝しなのままに、オスティルの短剣が握られている。
「昨晩は遅くなったからまだ眠たいでしょう?」
「ううん。 ぐっすり眠れたから大丈夫」
「それならば良かったわ。 ナハも帰って来たから皆で朝食を頂きましょう」
ナハの名を聞いて、カラは飛び起きた。
「ナハさん帰って来たの? それじゃぁ――……」
イリスはひとつ頷いてみせると、持ってきた新しい服をカラに渡した。 それまでイリスがあつらえてくれていた服とは違う、暗闇でも目立たない暗褐色の服に、カラは僅かに緊張を覚えた。
顔を洗い着替えを済ませると、イリスと並んで食堂へ入った。 食堂に入ると、正面にアルフィナの少し強張った顔を見つけた。
長い髪を左右で編み垂らした姿は以前と同じなのだが、その色が黒ではなく白銀であることに、カラは未だに馴染めないでいる。
窓から差し込む陽の光に輝く白銀の髪と対照的な漆黒の大きな瞳が、真っ直ぐにカラを捉えている。 もともと力強い眼差しを向けるアルだが、今の眼差しは、見知らぬ人間を品定めする様な、不審めいた厳しさがある。 その強い視線にカラは少なからず戸惑った。
「やあ、カラにナジャ、おはよう」
アルフィナの横に座っていたナハが、のんびりとした調子で声をかけてきた。 その声のお陰で、膠着気味だったカラとアルの視線が解けた。
「お、おはようございます」
カラの席の椅子を引いて、ナハはくすくすと笑った。
「まあまあ、そんな所に立ってないで座って。 アルもそんなに緊張しないで」
「き、緊張なんかしてないわよっ、変なこと言わないで!」
ナハにむきになって喰いつくアルの様子は、以前の調子と同じだった。 その言葉の勢いを耳にして、カラは少し嬉しくなった。
「そうかね? 私には少し肩に力が入っているように見えるけれど。 興味があるのは分かるけれど、そんなに睨んでは、カラが困ってしまうよ」
「きょ、興味なんて無いし、睨んでなんかいないわよ。 ナハはいっつも変に勘ぐるから嫌なのよ」
ぷいと顔を横へ向けてくれたお陰で、カラもようやくほっとして席に着くことが出来た。
カラが席に着くと同時、厨房からアルを呼ぶイリスの声が届いた。 アルは少し乱暴に席を立つと、つんと男二人から顔を背け早足に厨房へ入った。 食堂に入った時から香ばしく香っていたパンが焼き上がったらしく、アルが籠に盛った状態でテーブルへ運んで来た。 続いてスープをイリスが配膳してくれた。 土豆を丁寧に裏ごしして作られた、淡い乳白色のスープから立ち上る香気が食欲を否が応でも誘う。
いざ食事が始まるとなった時、カラは顔ぶれが足りないことに気付いた。
「あれ? レセルさんは? カナルさんとティダさんもいないよ?」
その言葉に、アルは表情を瞬間硬くした。 もともと不機嫌な様子であったものが、更に険しい面持ちになったのを見て、自分は何か不味いことを口にしたのかと焦りを覚える。
カラの心中を察したのか、イリスが何気ない調子でカラの疑問に答えた。
「カナルとティダ様はキソスの地の見回りに出ていらしているの。 レセルは元いた所へ戻ったのよ」
簡潔な言葉が、レセルについて、それ以上話題に挙げない方が良いことを知らせている気がした。 何より、イリスの言葉に傷付いた様に下唇を噛んだアルの様子が、レセルの話題を触れられたくないのだと如実に語っている。
カラの戸惑いを感じたのか、イリスは軽くカラの肩に触れると、明るい声で食事の開始を告げた。
「さあさあ、冷めない内に頂きましょう。 話は食後にゆっくり、ね」
取り留めもない雑談をしながらの食事が終わり、片付けが終わると、皆で居間へ移動した。 イリスはアルフィナに寝室へ戻り休んでいるように言ったが、アルは頑として自分も話に加わると言って聞かなかった。
「さて――」
一同を前にしてまず口を開いたのは、眠た顔のナハだった。
「単刀直入に結果だけ言うと、ラスターは無事だよ。 健康状態も至って良好だ。 ガーランのことは詳しくは分からなかったけれど、お連れの〈風〉の方が、まだ見込みはあると言っておられたよ」
いつもの穏やかな笑顔のまま、気楽に言い放たれたナハの言葉に、一番はっきりとした安堵の表情を見せたのは、やはりカラだった。 アルフィナも負けない位表情を明るいものにしたが、「そんなことは当然よ」と言わんばかりに、強気な、少し自慢気な様子を装っていた。
「ティダ様から既に聞いているかもしれないけれど、ラスターには四属――〈火〉〈水〉〈風〉〈地〉の精霊の〈王〉が付き従っているからね、滅多なことでは傷を負うことも、ましてや生命を脅かされることもないと言える。 ありていに言えば、ラスターはこのレーゲスタ最強の、他者からのあらゆる干渉を跳ね返すだけの力を持っているから安心をしていていいよ」
「あれ、でも、今はティダさんが旅籠に来ているから、一人欠けているんだよね? 〈地〉が一番護りの力は強いって聞いたけれど――そこに問題はないの?」
ナハは頭を掻きながら苦笑を漏らす。
「鋭いね、カラ。 その通り、〈地の王〉が欠けることで、ラスターの防御能力は幾分落ちている。 しかも、奴は今、このキソスに巣食う様になった〈闇に棲むもの〉の注意を全て自分に向けさせるために餌を撒いているから、常より、危険に身を曝す状況にはなっているかな」
「〈闇に棲むもの〉の注意を自分に引き付けるって、ラスターは何をしようとしているの? この二三日大気がざらついて落ち着かないのは、ひょっとしてラスターのせいなの? いったい、何をしたの? ナハは全てを知っているんでしょ?」
席から身を乗り出すようにして、アルフィナはナハに喰ってかかる勢いで詰め寄った。
そのアルフィナをイリスが座り直させると、今度はイリスがナハの言葉を引き継いで続きを語った。
「〈ウルド〉――〈闇森の主〉が、このキソスの地下迷宮で匿われているのよ」
ドクン、と、鼓動がひとつ大きく打った。
〈闇森の主〉。
カラから《ふたつの宝》――《名》と《影》を奪った魔物の長。 それが今、カラがいるキソスの地下に潜んでいるというのか。
「もしかしてラスターは〈闇森の主〉を捕まえたのっ?」
今度はカラが勢い込んで身を乗り出した。 そんなカラの肩を、ナハが軽く叩いて落ち着くように促した。
「残念ながらまだ追走中なんだよ。 ――だが」
言葉を切ると、ナハは内ポケットから煙管を取り出し、弄ぶように口にくわえた。
「ラスターはこのキソスの地下に〈闇森の主〉がいる内に、一定のけりを付けるつもりでいる」
「けりを付けるって――?」
金の瞳を煌めかせながら、カラはナハの顔を食い入るように見上げた。
その眼差しをやんわりとした笑顔で受け止めると、ナハは表情を改めて、椅子を動かしてカラと真正面に向かい合った。
「カラ」
落ち着いた声音ではあるが、いつものナハの柔和な口調とは違っていた。 その変化に、カラも姿勢を正してナハに向かった。
「君が元の君に戻るためには、〈闇森の主〉に奪われた《名》と《影》を取り戻さなければいけない。 それは解っているね?」
こくりとカラは頷いた。 その確かな反応を見て、ナハはゆっくりと言葉を継いだ。
「〈闇森の主〉と接触することは、ラスターなら出来るだろう。 だが、捕らえるとなると話は別だ」
ごくりと、カラは唾を呑み下した。
「〈闇森の主〉の力はとても強大で、捕らえて引き立てることはとても困難を要する」
「捕まえることは出来ない――ってこと?」
「捕らえることは出来るかもしれない。 けれど、カラ、君がいる地上まで連れて来ることはおそらく不可能、ということだよ」
ナハの言葉の意味を理解しかねて、カラは困惑の表情を浮かべた。
「カラ。 君が《名》と《影》を取り戻すには、もう一度、君自身が〈闇森の主〉と対峙しなければいけない。 奪われた者自身が、己の力で奪い返さなければ、この《ふたつの宝》は戻らない」
カラは再びこくんと頷いた。
「首尾よく〈闇森の主〉を捕らえられたとしても、カラ、君自身が地下に赴き、〈闇森の主〉と再び相見えなければならない」
カラはきょとんとした。 そんなことは、ラスターと旅を始めた時から、漠然とだが分かっていることだったから、何故、改めて事細かに説かれるのかが不思議でならない。
「うん。 オレ、〈闇森の主〉から《名》と《影》を取り戻すために旅に出たんだもん。 〈闇森の主〉とまた対決しなきゃいけないことだって覚悟してるよ」
こともなげに、言い淀むことなく応えるカラに、イリスが少し気遣わしげな声で語りかけた。
「そう。 大凡には分かっていたことでしょうけれど、ひとつ重要なことを、カラ、あなたは知らないのよ」
イリスの神妙な口調に、カラは知らず身を硬くした。
「〈ウルド〉はね、《名》と《影》だけではなく、カラ、あなたの身体を――あなたの全てを己のものとすることを望んでいるの。 オ―レンでアラスターに阻まれて完全に得ることの出来なかったあなたという存在の全てを、次に接触した時こそ、必ず己のものにするつもりでいると思われるのよ」
いまいち意味を理解できないまま、カラは鸚鵡返しにイリスの言葉を繰り返し、そして問うた。
「――……えっと、それって、オレの全てを奪い取ることが、〈闇森の主〉の目的ってこと?」
「そうよ」
イリスの一分の迷いも無い言葉に、カラは戸惑いを隠せなかった。
「なんでオレを奪い取ることが必要なの? 〈闇森の主〉は、《名》と《影》さえ渡せばオレの願いをふたつ叶えてくれるって約束はしたけど、そんなことは一言も言わなかった――……」
はたと思い当たった。 初めて会ったあの時、ラスターは《名》と《影》――《ふたつの宝》は即ち《自分自身》なのだと――。 つまりは、何も知らないカラには《名》と《影》だけだと言っておきながら、腹の底にはそんな思惑があったということなのか――。
「でもなんで……〈闇森の主〉はオレなんかを欲しがるの――……」
「あなたを、自分の新しい〈器〉――身体にしようと思っているのよ」
「新しい――〈器〉?」
カラが困惑していると、ナハが力付けでもする様に、ポンポンと背中を少し痛みを感じる程に叩いた。
「その詳細は無事自体が収まってから話すとして、カラ、君はそんな〈闇森の主〉が待ち構える地下へ、足を運ぶ気があるかね?」
それまで考えてもいなかった、自分の思いもよらぬ立場について聞かされ、カラは即答が出来なかった。 そして、即答できない自分に、腹が立った。 ついさっきまでは、迷いもなく地下へ、ラスターの元へ馳せ参じるつもりでいたのに、今は臆病に囚われている。
カラの心情を推し量ったのか、ナハはその場の緊張した空気を解すかのように、大きな伸びと欠伸をして破顔した。
「ラスターの無事が分かったのだから、無理をして今、地下へ行く必要はないんだよ。 確かに行かなければ《名》と《影》を取り戻せないけれど、この旅籠に居る仲間と暮らす分には、その《ふたつの宝》が欠けていても問題は少ない。 君が影に引きずられそうになっても、私やイリスが、引き戻してやれるからね。 無理をして、命を危険に曝しに行く必要はないんだよ」
カラの身を案じ発せられる言葉に、カラの意志は揺らいだ。 そうだ、ここに居る人々の中で暮らす分には、〈闇森の主〉の呪いは大した影響を与えない。 例え《名》と《影》が欠けていても、この旅籠の中で暮らすのであれば、何とでもなるのではないかーー。
「――だけど」
ぼそりと、カラは擦れた声を出した。
俯けていた顔をきっと上げると、カラはナハの顔を真っ直ぐに見上げた。
「オレは元の、誰の目も憚ることの無いオレに戻りたいんだ。 戻りたくて、ラスターに付いてこの旅に出たんだ。 ここで、この旅籠の中に隠れていたら安全かもしれないけれど、そうしたら、オレはオレのこの旅の目的を棄ててしまうことになるよ。 それは、ここまでオレを連れて旅をしてくれたラスターへも顔向けできない事だと思うんだ」
一気に捲し立てたカラの顔は火照ったように紅くなっていた。 そんなことはお構いなしに、カラはガタンと席を立つと、ナハとイリスの顔を見て、落ち着いた声で言った。
「オレ、行くよ。 自分で自分の《名》と《影》を取り戻す。 〈闇森の主〉がオレを狙っているって言うんなら、返り討ちにしてやるよ!」
パンパンとゆっくりとした拍手が室内に響いた。 それまで静かに話を聞いていたアルフィナが、カラに向かい鳴らしたものだった。
「どんな自信があるのか知らないけれど、大した志だと思うわ。 〈ウルド〉相手に、無謀もここまで来るといっそ気持ちがいいわよね」
「無謀かどうかなんて、やってみなきゃ分かんないじゃないかっ」
カラがむきになって言い返すと、アルは皮肉ではない、素直な笑みを浮かべてカラを見つめた。
「その通りだと思うわよ。 やってみなきゃ分かんないことはいくらだってあるわ」
思いもよらないアルの肯定的な言葉に、カラは豆鉄砲でも喰らった様に驚きの表情になった。
「そんなに驚く事? だって、あんたには何よりラスターの援助があるでしょう? 百戦錬磨のラスターが一緒なんだもの、勝算は十分にあるわよ」
なるほど、アルが肯定的に見てくれるのは、ラスターがいるからなのだと分かり多少がっかりしたけれど、それでも後押ししてくれる意見を貰えることは嬉しかった。
カラとアルフィナのやり取りを聞いていたイリスとナハは、頷きあうと、子供達のやり取りに終止符を打たせ、これから、の話に入った。
「地下へは私とカナルもお伴をするよ。 大した力にはなれないが、道案内くらいは出来るからね」
ナハが伸びをしながら、にこやかに言った。