第7話:蠢動
7:蠢動
地下の空気はざわめき立っていた。
精霊が、魔物が、死魔獣が、それぞれにそれぞれの場所で浮足立ち、酔った様によろめきながら匂いの主を探し求めている。 その様はさながら、花の蜜を求め空を飛び回る蜜蜂の様である。
『予測はしていたが、相当な数が集まってくるな』
ラスターの頭上で胡坐をかき、膝に肘をついて周囲を眺めていたシリンが、緊張感の欠いた調子で言った。 ふっと濃青の眼を細めると、僅かに嘆息をしてからくすりと笑う。
『お前の香はまさに媚薬、だな。 〈闇に棲むもの〉だけでなく、光の中に在る精霊達までもを引き寄せている。 見ろ、あの陶然とした様を』
シリンが顎で指し示した陰には、器から溢れ零れる水のように、壁から床から続々と異形のもの達が姿を現している。 あるものは人の姿のようであり、あるものは獣の形であり、またあるものは姿形を持たないボンヤリとした光の塊であった。 精霊と思しき者達はぐるぐるとラスター達の周囲を回りながらじわじわと距離を狭めてくるが、明らかに異形の――〈闇に棲むもの〉の類は、明るみが怖ろしいのか、シリンが作り出した光珠の光のあたる場へ姿を出そうとはしなかった。
小さな人型の精霊が、ラスターの足元に立ち、そっと手をラスターの足へ伸ばした。
ジュンと、水が一気に蒸発する様な音と共に精霊の姿が消えた。 その様を見ていた周囲の異形達が慄きざわめく。
ざわつく中、耳まで口の裂けた大犬が群れの中から躍り出るように飛び出し、ラスターに喰らいつこうとした。 しかし、ラスターが軽く腕を払う仕草をすると、小精霊と同じように、宙で蒸発するように消えた。 続けて二三匹の魔獣が同じ様に飛びかかったが、どれもラスターの身体に触れることもできず消え去った。
精霊や魔獣に恐怖、という感情はない。 だが、いまそれらの中に生まれた動揺は、人間の恐怖に似かよったものであろう。
ここに集ったものは、ラスターの身の内に在る精霊王シ―ラの血――〈聖血〉の香に引き寄せられ集ったもの達。 目的は言うまでもない。 〈聖血〉を欲している。 ほんの一滴のそれを得るだけで、現在の能力をはるかに超える力を得、〈器〉である身体もまた、死を寄せ付けない頑強なものになる。 それが真実か否かは判らない。 ただ、集ったもの達の間ではそう信じられている。
無を有へと――死を生へと転ずる、奇跡をもたらす万能の薬。
平たく言えば、〈聖血〉とはそういうものだと、その存在を知るほとんどの者がその様に認識している。
『お前達如きが〈聖血〉を望むということは消滅を招くだけだ。 やめておくがいいぞ』
シリンは宙から下りると、ラスターの肩に手をかけ、周囲に緩やかな風の動きを生みだした。 風の壁に押し戻されるように、集まったもの達は光の外へと追いやられる。
それまで口を開かずにいたラスターは、ゆっくりと瞳を閉じ深く息を吐き出すと、再びゆるりと瞼を開いた。 開かれた天青の瞳には強い光が宿っている。
「許しなく私に触れるな」
言い終えると、ラスターはゆっくりと歩み出した。 歩む先に集っていたもの達は、波が引くようにラスターに道を開けた。 どの精霊も魔獣も諦めが付かぬのか、落ちつかな気に身体を右に左にと揺らし足踏みをしているが、敢えて手を伸ばし消滅する危険を冒そうとするものはいなかった。
迷いなく歩を進めるラスターの後には、未練を断ち切れぬ精霊や魔獣達がぞろぞろと続いた。
異形のもの達を従えてしばらく歩くと、地下道の壁面は、丁寧に加工された平坦なものから、粗く削っただけの、ごつごつとした岩肌を露出した様に変化していった。 直角に曲がることが多かった道筋が、くねくねと曖昧に湾曲するものに変わった。 路は幾筋にも分岐し、方位を示す磁石でも持っていない限り、自分がどの方角から来て、どの方角を目指しているのか分からなくなる。 己のいる場所を正確に知ることが出来るのは、恐らくはこの地に宿る〈地〉の精霊くらいなものだろう。
迷路のような地下道を、ラスターは少しも迷うことなく進んでいく。
進む先々の闇から、時折魔獣が飛び出しては来たが、どのようなものが現れたところで、ラスターの歩みを止めることは出来なかった。
が、それは突如として止められる。
『待って、いたぞえ』
シリンの光が及ばぬ先の闇から、その声は滲みでるように聞こえてきた。
立ち止まったラスターは、声の主を闇の中に見出した。 シリンも同じくその姿を認め眉をひそめる。
『〈幽鬼〉』
ぞぞ、と闇が動いた。 空気がゆうらりと動いたかと思うと、低い地鳴りのような音が地下の空間を満たし、上がり下がりする音に合わせるように、闇は踊るように形を変えながら、手近にいた魔獣や精霊たちを次々と闇の内に引きずり込んでいく。 音にならない悲鳴が、地下の空気を振動させた。
『〈西〉の〈風の王〉よ。 ぬしが我等を知っていてくれようとは、嬉しいぞえ』
ぞぞぞと再び闇が動き始めた。 渦を巻くようにゆっくりとうねり始めたかと思うと、渦の中心に白光が現れ、その白い光が縦に伸びていくと共に、次第に人の形をとっていった。
シリンは軽く舌打ちをすると、右手を差し出し、風刀でその人型を細切れに斬った。 斬られた人型は瞬間に散ったが、しばらくすると、ぞぞ、ぞぞ、と一点に集まり、再び人型を成していく。 再びシリンが斬り散らしたが、それでも散った欠片は諦めることなく一点に集まる。 斬る、集まるの繰り返しを幾度となく繰り返した後、ラスターがシリンの攻撃を制止するように右手を上げた。 その合図を境に、シリンは攻撃を止めた。
少しすると、散らされた欠片は再集結し、一呼吸の間で完全な人の姿となった。 白かった髪は闇に溶けるような漆黒に変わった。
一見した姿は人間のそれと何ら変わりはなかったが、一点、人間とは全く違う箇所があった。 眼がひとつしかない。 顔面の中央に一つ、しかも瞳孔の無い、白眼だけの大きな眼。 髪の黒さと対照的な真っ白な眼が、真っ直ぐラスターとシリンを見つめている。
『噂に違わず、呆れるほどに打たれ強いな』
〈幽鬼〉と呼ばれたそれは、目を半月状に細め、くくくと笑った。
『ぬしと同じだ。 力ある精霊ならばこれしき、当然であろう?』
幽鬼は、またの名を〈闇の精霊〉という、闇中に棲まう精霊の総称である。
闇から闇へ渡り動き、火水風地何れの属性にも入らない。 精霊でありながら、精霊を喰らい膨張するので、いまひとつの名を〈精霊喰らい〉ともいう。
『お前と一括りにされるのはご免蒙るがな。 しかし、噂に聞いてはいたが、真に〈ウルド〉と行動をともにしているとはな。 いったい何匹、一緒に行動している?』
シリンは濃青の瞳に光を宿しながら問うた。
『闇の数だけ我等はいる。 数を問うなど無意味。 我等は契約した。 〈ウルド〉を害しに集まり来る精霊も聖獣も人間も、皆喰らってよいと。 故に、あれの為になることは、我等の為にもなる』
笑んだとみえて、半月の眼は弓型に反った。 口の端は頬骨のあたりまで裂け上がっている。
『我は長らく小者しか喰っていない。 腹が、減っている』
『それは可哀そうにな。 生憎、私の様な普通の精霊には〝腹が空く〟という感覚が無いもんで、親身に理解はしてやれぬが』
『ぬしは美味そうだ』
幽鬼はシリンをじっくりと眺めた後、ゆっくりと視線をラスターへ移した。
『だが隣のお前。 お前はもっと、美味そうだ。 極上の香りが漂っている』
『こいつは精霊じゃないぞ』
やれやれとため息を吐きながら、シリンはラスターを指差した。
『嘘だ。 こいつはお前より濃厚な匂いがする。 精霊でなくとも精霊と同じ、いやそれ以上に芳しい香りが我に喰われたいと言っている』
眼を新月のように細めた幽鬼に、辟易とした表情のシリンは、スッと手を上げ幽鬼と自分達の間に旋風を起こした。 小さな竜巻のように渦を巻く風はじりじりと幽鬼に迫っていく。
『無駄なことよ』
風に小波立つ水面の影の如く、幽鬼の姿は風に煽られる度にぐにゃりぐにゃりと形を変えながら、くくくと、闇から滲み出す笑いを絶えず漏らし続ける。 風に斬られ煽られる間、幽鬼は少しの動きも見せないが、風を止めると、じわりじわりとにじり寄るようにラスター達の方へ前進してくる。 いくら斬ったところで実体が無いに等しい幽鬼に剣や風は通用しない。 小精霊のように力の弱い精霊であれば、ラスターやシリンの力を以ってすれば簡単に消滅させられたが、様々な精霊や魔獣を喰らい、それらの力を吸収することで力を増している幽鬼を消滅させることは容易なことではない。
『カナルの護りがあるとはいえ、これ以上〈風〉の力を強めたら、この地下道がもつか怪しいよなあ。 まったく、面倒臭い相手だよ』
周囲の壁を見遣りながらシリンがぼやくと、ラスターは右手を上げた。
「――ここは、私だけで十分だ」
その言葉を聞くと、シリンはにやりと笑い、ラスターの肩をポンと一回叩き後方へ離れた。 周囲に吹いていた風が次第に小さくなり、凪いでいく。
ラスターは一歩、幽鬼の方へ踏み出した。
ズズと、足元から闇が触手のように伸び、ラスターの足に絡み付く。 同じく幽鬼の身体から、次々と黒い触手が飛び出してきては、ラスターの腕に身体に絡まり付いた。
『おお、おお、触れれば尚更のこと、そなたの美味さが分る。 何故今まで、この香に気が付かなかったか不思議でならぬぞ』
右腕に絡みついた黒い触手を、ラスターは手首を捻り掴むと、口の端を僅かに上げ、冷めた笑みをひらめかせた。
「我にまつろわぬもの、是皆等しく無なり――」
低く呟かれた詞に、幽鬼は慄きの声を上げ、一気に触手を引き始めた。 しかし、ラスターは掴んだ一本を離さず、掴む右手の上に重ねるように左手を添え、詞の詠唱を続けた。
光に暮らすは白きに染まり
闇に棲まうは黒きを纏う
我、光と闇を一つに束ねる存在
光は我の求めに応えよ
闇は我の言葉に応えよ
我は源にして 冒すべからざる存在
光に染まらず 黒きを纏わぬ
白であらず 黒にならぬ存在
汝、光であれば光に帰り
闇であれば闇に戻るがよし
我の声は汝の心
従わざるものは 皆等しく我に還れ――
淀みないラスターの詞が終わりに近付くと、幽鬼の姿は人型を保てなくなったのか、どろりと溶け崩れ、次第に何とも知れぬ獣の姿に変わっていった。 ラスターは掴んでいた触手を離すと、右掌に光珠を生じさせ、それにふっと息を吹きかけ、床の上に蹲る獣の上へ落とした。 光珠は掌を離れると、蛇の様な線状になり、獣と化した幽鬼を絡め取るように巻き付いた。 グウゥと、呻くような声が獣から漏れ出た。
光珠が獣を縛り終えると同時、背後で拍手が響いた。
「――ここで、何をしている」
ラスターは振り向かず声だけを投げる。
「私も闇の精霊と対峙したことは何度かあるが、こんな大物をあっさりと縛るなんて、流石だなあ」
暗闇には不似合いな、穏やかでどこかのんびりとした声が返ってくる。 それから間もなく、光珠に導かれたナハ=ラスクスが、声の調子のまま、緊張感の無い笑顔でぬっと闇の中から現れた。
「是非とも伝授してもらいたいものだが、これはお前じゃなけりゃ出来ないんだろうな。 うむ、身の丈に合わない術には手を出さないのが無難というものだな」
ラスターの横を通り抜け、縛られた獣の傍に膝を突くと、「犬かね、これは」と、もの珍しげに観察を始めた。 その後頭部を、背後に立っていたカナルが叩く。
『何を暢気に観察なんぞしてるんだい。 お前に緊張感なんてものを求めるのは無理だと知っているが、もうちっと場をわきまえな』
ナハは頭をさすりながら立ちあがると、相方の〈地〉の精霊に苦笑だけを返した。
『相変わらず仲が良いな、カナルとナハは』
宙から下りると、シリンはラスターの肩に右腕を乗せながら、くすくすと笑って闖入者の二人を見た。
「これは〈西〉の〈風の王〉。 ご挨拶を申し上げる。 お変りはございませんようで」
『こんな奴に改まった言葉遣いなんか無用だよ。 シリン、相変わらずにやついた顔付きだね。 そんなで務めは果たせるのかい?』
『久しぶりに会うというのに、〈南〉の〈地の王〉は相変わらず手厳しいねえ。 ま、君に可愛らしい思いやりある言葉をかけられても、背筋が凍るだけだろうから遠慮するけどね』
ナハとカナルの二人が歩いてきた闇には、ラスターに付いて歩いていた異形達が群れなしていたはずだが、現在はひとつの姿も見ることは出来ない。 恐らく、ナハとカナルによって祓われたのであろう。
微笑ましげにカナルとシリンのやり取りを聞いていたナハは、細めていた眼を開くと、無表情に自分を見つめている友人へ改めて笑顔で挨拶をした。
「地上でも、お前の〈血〉の香りを嗅ぎつけたもの達がざわついていた。 これから身辺は賑やかになるぞ」
「そのようなことを言いにわざわざ地下まで来たのか?」
「老体に鞭打ってきた友人に冷たいなあ。 私も好き好んで、こんなモグラの巣みたいな所へ来たわけじゃないよ」
頭を掻きながら苦笑して見せるナハに、ラスターは僅かに表情を改めて向かいあった。
「――上の状況は」
「子供二人は無事だ。 アルフィナの意識が多少混濁しているが、時間と共に戻るだろう。 負った傷は完全に〈治癒〉されていたから問題はない」
「レセル=ホーンは?」
「お前の言った通り、かなりの深手を負ったが、一命は取り留めている。 あくまで私の診た時点での話だが、大丈夫なんじゃないのか? 未来にいる奴をお前が〈視た〉のなら」
ナハの言葉を聞くと、ラスターは「手間をかけた」と短く礼を述べた。 その言葉を聞くと、ナハはくすくすと笑った。 その笑いに、ラスターは怪訝な視線を向ける。
「いや、本当に素直じゃないと思ってね」
「――どういう意味だ?」
「無自覚なら尚更性質が悪いな」
ラスターはただ訝しむ眼をした。 その様子がナハには余計おかしかったのか、更にくっくと声を漏らして笑った。 友人のその不可解な言動に、ラスターは剣で応えた。 抜き身の短剣を、ナハの喉元へ突き付けたのである。 その様子を見て、ナハの相方であるカナルは驚くでもなく、しらりとした表情で成り行きを見ている。 そも、剣を突き付けられたナハ自身が、微塵も怯えたり焦ったりという様子をみせない。
「まあまあ、そう短気を起こすな」
「起こさせるのはお前だ」
手首を軽くひねり、ラスターは剣先を更にナハの喉元近くへ寄せる。
「訊きたいことは素直に口に出して訊け」
ナハは胸の内ポケットから煙管を取り出すと、緩慢な動作でラスターの剣を右方へ押しやった。 しばらく剣を動かさなかったラスターだが、相手に剣の脅しが効かないことは長年の付き合いで知っているので、一呼吸の後、鞘へと納めた。
「何のことだ?」
ナハは煙管を口にくわえ、少し眼を見開き驚いた、といった表情をして見せた。 まじまじと見たラスターの天青の瞳は嘘を吐いているようには見えない。 そもそも、この友人に嘘を吐くという芸当は出来ないのだ。
『具体的に言ってやらんと、こいつには伝わらんぞ』
背後で様子を面白がって見ていたシリンが、苦笑を漏らしながらナハに忠告をした。 ナハもその言葉に賛同するように笑った。
「カラのこと、だよ」
ナハの言葉に、ラスターは大した反応を示さなかったが、ごく僅か、青の瞳の光が揺らいだ。
「元気だよ。 かすり傷程度は負っているが、それもすぐに治るだろう」
「――そうか」
「可愛い子じゃないか。 元気で、くるくる良く表情を変える、好奇心の塊の様な子供らしい子供だ。 お前とはまったく正反対だね」
にこにこと話すナハから視線を外すと、ラスターは進むべき先に在る闇へ視線を移した。
「棍は?」
「ああ、喜んでいたよ。 お前がわざわざ自分の為に作ってくれたと知って」
闇の彼方へ向けていた視線をナハの顔へ戻すと、ラスターはその眼差しを険しいものにした。
「話したって困ることじゃあるまい? 事実だからな」
ナハは両手を頭の後ろで組むと、身体を反らせるように伸びをした。
「悩んでいたぞ、お前が何も話してくれない、って。 お前が子供相手におべんちゃらが言えるとは思っていないが、もう少し愛想よくしてやれよ、長旅の相方なんだから」
「いま、そのようなことを話す必要はあるのか?」
ナハは軽く肩を竦めてみせると「今の必要は、ないな」と笑った。
煙管を下ろすと、ナハは長い息を吐き、笑みを消した顔でラスターの青の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「奴等の目は、ほぼ確実にラスター、お前に集まっている。 だがしかし、カラがこの地下に入れば、あの子自身にも危険は確実に及ぶ。 それでも、あの子の望むように行動させるのか?」
ラスターもまた、澄んだ天青の瞳でナハの土色の瞳を見返していた。
「――《名》と《影》を取り戻したいのなら、危険は避けられない」
「ここで、取り戻せるのか?」
「五分だ」
「――お前の無事を報せ、イリスの旅籠に留まるよう、説得することもできるが?」
「好きにすればいい。 ――ただ」
「〝選択は本人にさせろ〟、だろう?」
のんびりと笑って応えたナハの顔から、ラスターは視線をふっと外すと、再び進むべき闇の先へと視線を戻す。
その様子を見たナハは、頭をくしゃりと掻いて首の凝りを解すように、頭を左右に動かした。
「さあて、それじゃあ私は、状況報告に戻るとするよ。 イリスが――というよりカラが待っているだろうからね。 言っておくが、私にあまり期待するなよ。 私は、こういう争いの場は苦手なのだからな」
くるりと背を向け、挨拶がわりに右手を軽く上げながら、ナハは元来た道を戻り始めた。
歩み始めたナハの後に残ったカナルは、顎に手を添えしばしラスターの表情を見つめていたが、ふっと紅唇を弓型に反らせ、愉快そうな表情をつくった。
『〝すまない〟とでも思っておいでかい? アラスター、お前にもそんな殊勝な心掛けがあったか』
カナルの言葉を受けて、シリンがくすくすと笑った。
『カナル、それを言ってはおしまいだ。 起伏が少ないだけで、こいつにだって人並の感情はあるようだぞ』
『まあ、精霊王となる以前のシ―ラでさえそれらしきものは持っていたのだからな。 人間の世で暮らしているのだ、あれよりお前の方が余程人間臭くなっていても、可笑しくはないだろうさね』
無表情に見返すラスターの額にある血の跡に軽く触れると、カナルは聞きとれない程小さな声で詞を唱え、緋色の瞳を煌めかせながら艶やかに微笑んだ。
『あたしの相方を顎で使うんだ。 それなりの働きをおし。 シリン、あんたもにやけてばかりいないできっちり仕事をおしよ』
『心外だな。 いまだって挺身しているというのに』
シリンの言葉に「ふん」と鼻で笑うと、カナルはナハの後を追うように闇へと消えていった。
『〈緋の王〉からまで護りを与えられるとは、お前、存外人気者だな』
宙に浮き寛いだ姿で軽口を言うシリンを無視し、ラスターは縛った幽鬼に歩み寄った。
何の動物ともつかない獣型に姿の変わっている幽鬼は、グウウグウウと呻きの様な声を漏らすだけで、言葉を喋ることは出来ない様であった。
ラスターはスッと鞘から剣を抜くと、迷いなく幽鬼の身体へ白刃を突き立てた。 そして再び「我にまつろわぬもの、是皆等しく無なり」と詞を唱えた。
突き立てられた刀身がぽぅと白銀の光を帯び、その光は次第に鮮烈な炎へと変じた。 その炎に灼かれるように、身動き一つできない幽鬼は、蒸発するように消えた。
『少しいたぶれば、何らかの情報が得られたんじゃないのか?』
「時間の無駄です」
にべもないラスターの言葉に、シリンは肩を竦めて苦笑した。
『〈先見〉の出来るお前には、こんな忠言は無駄、といったところだろうが、注意は怠らぬことだ。 〈先見〉も万能ではないことを忘れるなよ』
〈先見〉は、未来の出来事が視える。
その視え方は、能力者によって様々で、未来のほんの一瞬をごく稀に視ることが出来る程度の者もいれば、比較的まとまった未来の刻を、視たいと望んだ時に視ることが出来る能力者もいる。 ラスターはその後者である。
だがしかし、どんなに優れた〈先見〉の能力者でも、視た未来がどれくらい先の出来事なのかを正確に知ることはできない。 また、視える未来の映像は千切れ千切れにしか視えないことが大体において普通なので、どれほど優れた〈先見〉であったとしても、過不足の無い、完全な未来を告げることは不可能といってよかった。 視た未来には、欠けている刻がある。 その欠けた刻に、最も知りたい重要な情報が含まれている可能性は否定できない。 同じことが〈過見〉にも当てはまる。 人間は、今生きている時間ですら、正確に把握し損ねることがある。 まして、過去や未来などは尚更のことである。
ラスターは率先して〈先見〉の能力を使うことはしない。 ひとつには〈先見〉は自分自身の未来を視ることは出来ないから、ということもあるが、未来というものに興味がなかった。 自分や、その周辺に在るものがこの先どうなろうと、どうでもよいとどこかでいつも思っている。 そんな姿勢を、ナハに厭世的だと言われたことがある。 そうかもしれない、と思う。 この先どれ程続くとも知れない自分の人生に、無意識のうちに嫌気を感じているのだろうと、自分でも納得した。 そして、それのどこが悪い、と、開き直る自分がいることも感じていた。
精霊王シ―ラの〈聖血〉を護るために存在している自分に、何故意思があるのだろう。 幼い頃よりよく、そんなことを考えた。 〈聖血〉を護るためだけに存在するのであれば、意思など必要はない。 人間の姿をしていることすら意味はないのではないか。 〈聖血〉を奪われたくないのであれば、ただ安全に、外部から奪い取られぬような堅牢な建物に〈聖血〉を納めた容器を保管すればいい。 それなのに、何故創造主は、自分を自分の姿にしたのだろう。
幼い頃は、そんなことばかりを考えて刻が過ぎゆくのをじっと待っていた。
今でも、その疑問に答えを得たわけではない。 ただ、その問いの答えをぼんやりと考えて過ごすだけの自分は、今ここにはいない。
約束をした。
初めて自分を「友」と呼んだ男と。
その友との約束を果たすという目的が、今のラスターを突き動かしている。
『まあ、幽鬼が現れたからには、〈ウルド〉の居所も近いだろう。 臭いも濃くなってきているしな』
地に突き立っていた剣を鞘へ納めると、ラスターは再び歩み始めた。