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第4話:四属の王

   4:四属の王



 時間の感覚はない。


 昼夜の別などはなく、常に薄明るくあり、仄暗くもある。

 どれほど歩もうと、いつまでも果てなど見えない、ゆるゆると膨張し続けているような模糊(もこ)とした空間。

 影を作り出すほどの光はなく、空気は僅かにも動くことはない。


 何もない。


 目に映るものはない。

 乳白の、(もや)のようなものが視界に満ちているが、これも本当に〝在る〟ものなのかを知りたくても、触れ、感じることは出来ない。


 聞こえるものもない。

 手を打ち合わせ、音を発してみたところで、たちまちに靄が音をその(うち)に取り込み、消しさる。

 そして瞬く間に、取り付く島もない冷厳な静寂が、その空間を再び支配する。


 それがかつて、ラスターが知り得ることのできた世界の全てだった――。              



『――思い出すかい?』


 西の〈風の王〉であるシリンは、僅かに笑みを浮かべラスターの横顔を覗きこんだ。

 これといった反応を返さないラスターの表情を見つめながら、シリンは緩やかに右手を上げる。

 冷たく沈んだ空気が、すうっと流れ始める。

 闇が視界を覆い、腐れた血肉と焚いた薬香草の香りの、ねっとりと混ざり合った猛烈な異臭が、空気をどろりと濁ったものにしている。 時折、何処かで滴が落ち、床に当り散る微かな音が耳に入る。

 黒い、死の臭いに満ちた空間。

 あの白く、何の匂いすらなかった終わりない空間とは明らかに違う。

 だが、間逆にも違う条件にも関わらず、シリンの指摘どおり、ラスターはこの空間にかつて己がいた空間を重ね見ていた。


『サーラム。 この場の(きよ)めは、〈火〉が行うが手っ取り早いと思うのだが、どうかね?』


 ラスターの背後で、青白い光を纏い立っている北の〈火の王〉炎帝へ、シリンはにこやかな言葉をかけた。

 答えはなかったが、一寸の後、ラスターを中心とした円状に青白の炎の波が現れた。

 炎が放つ白光に照らしだされ、室内の状況が鮮明になる。

 八面の壁に、燃え尽きた燈芯草の黒焦げた残りくずが見える。

 室の中央には、磨き上げられた夜黒石の巨大な水槽が据えられている。

 内側には、黒と見紛う深い赤の液体が満ちている。

 息吸うことも躊躇(ためら)わせる腐臭の源が、この液体であることは間違いない。

 水槽からやや離れた床面に広がる赤黒い染みへ、ラスターはちらと視線を動かした。

 染みに張り付くように、黄金の羽毛が幾つか残されていたが、目にした直後、青白の炎に呑み込まれ、黒影となり消えていった。


「――シリン。 この地下の時間の流れは、地上と如何ほど差があると思われるか?」


『そうだな。 この地下の半日が、地上の四・五日といったところだろう。 術のかけ方に(むら)がある。 場所によって若干、流れが異なるようだな』 


 キソスの地下は、〈聖神聖教(シン=エルナイ)〉により幾重にも呪術で護りをかけられている。

 呪術のかけられた空間は、術外の空間とは異なる時間の流れとなることがある。 かけられた術が高等であればある程、術内の時間の流れは遅く、ゆっくりとしたものになると云われる。 こういった現象は、力の強い魔物が棲む場所でも起こるのだという。


『カナル達が術の半分以上を壊していったようだから、現在はもう少し速くなってはいるな。 だが、まだ影響は残っている。 地下に居るうちに捉えるか、もしくは、同時に外へ出るかせねば、面倒の幅も広がるな』


 まだ炎に包まれていない水槽の傍らまで歩み寄ると、ラスターは縁に手を置いた。

 赤黒い水面をしばし見つめると、縁を握るように指先に力を込めた。

 ラスターの手に刻まれた刺青が白い光を帯びた瞬間、ジュンッという音と共に水槽は消える。

 後には、青白の炎柱が揺れ踊る。


「ウルディ・チエン・ジエン・シャオリ」


 揺れる炎を瞳に映しながら、ラスターは南の〈水の王〉の《名》を口にした。


『――私の《名》を口にするとは、珍しい』


 声と共に、中空に淡い光が滲みだす。

 円かった光は、すうっと上下に伸びると、青みを帯びた黒髪の男の(かたち)になった。

 おっとりとした笑みで、ラスターへ視線を落とす淡い水色の瞳は水鏡のようだ。


『ユーシィス・ディアナ。 何を求める?』


「イーディ。 この地の水は、如何か?」


 イーディと呼ばれた〈水の王〉は、瞳を閉じ、手のひらを地にかざすようにゆっくり動かすと、ゆるりと瞼を開き吐息した。


『この地下の水――地底湖の濁りは、好ましくない。 キソスの他の場所において、水にこれほどの穢れは感じられなかった。 〈東〉の〈水の王〉が、人間共の術をよく防ぎ浄めてはいるが、東は広い。 および切らぬところがあるようだ。 〈東〉はまだ若く、手足となる〈水の者〉の力も、まだ十分とは言い難い。 万全にはゆかぬ』


「では貴方に、この地下の水を任せたい」


 イーディの瞳を真っ直ぐに捉え、ラスターは言った。

 その言葉を受け、イーディは一瞬の沈黙の後、ひき結んでいた口元をふっと緩めた。


『四属を束ねるそなた、の命だ。 〈南〉の私が断りなく動いたところで、〈東〉も何も言うまい。 よかろう。 地下の水は私が浄めよう』


『おぅや、イーディがラスターのために動くなんて、どれくらいぶりかね?』


 宙に身体を横たえたシリンが、茶化すように問いかけると、イーディは曖昧な頬笑みを浮かべ、左腕を水平にし、手首を軽くひねるように動かした。 手のひらの上には、卵ほどの水玉がくるくると回転しながら淡い光を放っている。


『君や炎帝(サーラム)が動けば、大抵は事足りているだろう? だが――』


 緩慢な動きで、イーディは手のひらの水玉を天へ押し上げるように放った。

 放たれた水玉は、宙に横たわるシリンの横を矢の如き速度で昇り、直後、天井から大雨が降ってきた。

 炎と水がぶつかり、多量の蒸気が室内に満ちたが、なおも激しく降る雨に圧され、蒸気も、炎帝の青白の炎も弱く、小さくなっていく。


『私とて、ユーシィス・ディアナを護るため共に在るのだ。 要請があれば、否やはなく動くさ。 〈水〉には〈水〉の役割がある。 そのための労を、惜しむ気はないよ』


 眼を細め笑いかけるイーディに、シリンは肩を(すく)め微笑み返した。

 視線を、シリンから炎帝サーラムへ移したイーディは、変わらぬ微笑で、青白に輝くサーラムの顔を見つめた。

 しばし視線を交わした後、サーラムは姿を消した。 その姿が消えるとともに、周囲を照らしていた炎の光も失われた。 光が消えると間もなく、イーディの姿も薄れ、闇へ溶けるように消えていった。


『お愛想でもいいから、軽い挨拶を交わすくらいできないものかね? まあ、慣れ合わないところが奴等らしいのだけど』


 苦笑交じりに言うと、シリンはふぅっと細い息を手のひらにかけた。 すると、小さな光珠が掌上に現れた。 シリンはそれを放り投げるように宙へ放した。

 ラスターはわずかに顎を引くと、光の先に広がる闇へ視線を向けた。

 ほぼ降り止んだ雨に濡れたラスターの髪が、新たな光に照らされ鈍い黄金に輝く。

 炎と風、そして水に流され薄れていた腐臭が、空間に再び漂い始めている。

 目を凝らし見ると、光珠の照らす外、ラスター達からやや離れた石壁や床から死魔獣がズルズルと湧き出し、遠巻きに、しかし確実に、ラスターを取り囲み始めていた。 


『なんだ。 普通の人間ならば、足元が見えず怪我でもしたら気の毒だと思い光を出してやったが、意味はなかったな』


「――そうでも、ないですよ」


 まだ若い男の声が響いた。


「大精霊が作り出す、貴い光で迎えられるなんて、なんたる光栄でしょう――」


 頭を下げ、落ち着かな気に頭を振り、身体を揺らしウロウロする死魔獣の後方に、蜂蜜色の髪をした青年が立っていた。 淡い水色の瞳が、光を捕らえきらきらと輝いている。


「数時間前までは、僕も暗闇で目が見えたんですが、〈器〉が変わったら見えなくなって。 だから、光があるのは非常に有り難いんですよ。 おかげで、労せずしてあなた方の顔を見ることが出来た」


 青年に視線を定めると、ラスターは顔にかかる前髪をかき上げた。


「――操骸師(そうがいし)か」


「そう、呼ばれますね。 ふふ、始めまして」


 人懐こい、どこか幼さを感じさせる笑顔を青年は見せた。


「〝有翼獣を伴う騎士〟。 ――ごく一部の術者の間では、噂されていたんですよ、貴方の特徴。 先にあの有翼獣は見ていましたけど、よもやキソスへいらしていたとは思いもしなくて。 だって、獣騎士なんて、多くは無いにしろ他にもいるし、曖昧な特徴以外、年齢も性別も容姿も、実に様々に言われていましたからね。 そも、貴方の様な方が、単身で大陸をうろついているなんて、誰が思います? 本来なら、精霊王殿の奥殿の更に深い場所に閉じ込め、厳重に護られていてもいい秘宝のような存在だ。 先程オリ=オナ殿に聞かされるまで、この地下にいるあなたの存在に、まるで気付きもしなかった。 僕としたことが、不覚をとりましたよ。 ――アラスター=リージェス=シン=エラノール。 この世で最も貴いとされる、精霊王シ―ラの〈聖血の器(エラノール)〉」


 ラスターとシリンが自分に注目していることに満足を覚えているのか、青年は頬を僅かに紅く染め、ずっと笑顔を絶やさない。


「神〈エラン〉が地上を去る際、自らの代わりに残したとされる、(エラン)に最も近い存在。 伝えのままだとしたら、生命を自在に生みだした〈エラン〉の分身と言ってもいい。 新たな神として、大神殿の主として崇められていてもおかしくないよ。 ――欲しがるわけだよね。 貴方という存在は、〈聖教(エルナイ)〉が求めているもの、そのものだもの」


 ラスターとの距離は置いたまま、左方向へゆっくりと移動する青年は、大袈裟に手振りを加え、一人愉しそうに語り続ける。 語る青年の歩みに合わせ、死魔獣達もゆっくりと移動しながら、こちらはラスターとの距離を僅かずつ狭めている。


「だけど、不思議ですよね。 〈エラン〉は五人はいたっていうのだから、伝えの通りなら、〈聖血の器〉も最低同じ数、居てもいいと言うことになるのに、どの大神殿にもその存在を明らかにする遺物も伝承も、何一つ残っていないなんて。 唯一例外に、曖昧ながらも存在が語られているのは、アラスター=リージェス、貴方だけだ。 だけどその貴方も、何処にいるのか所在が知れないというじゃない? 実際の貴方を知っているのは、恐らくティルナ王と、精霊王殿に仕える上級の神官、巫子のごく一部といった、限られた者達だけでしょう? そんなだから現在では、神殿関係者ですらも、〈聖血の器〉の存在を疑問視するとか、耳にしたこともないという輩までいると聞くけれど、僕は信じていましたよ。 ずっと、ずっと、必ずいるってね」


 幾度となく、ふふと嬉しそうに笑うと、青年は一番傍にいた二つ頭を持つ狼の首元を撫でながら、ぱたと歩みを止めた。 立ち止まり、改めてラスターへ視線を向けると、頭から足先まで、品定めでもするようじっくりと見た。


「ずっと、貴方に会いたいと思っていたんですよ。 いや、僕だけじゃないな。 大陸中の人間、そう、生ある存在なら何でも、貴方の存在を知れば、貴方を求めるといってもいい。 僕は嬉しいですよ! 今、それが実現しているんだから。 ああ、わかります? 僕のこの気持ち!」


 青年は、明らかに頬を上気させて飛び跳ね、喜びを全身で現している。 少し波打った蜂蜜色の金髪が、青年が飛び跳ねる度に揺れ、微妙な光を生む。


『無邪気ぶって見せているがお前、人間としてはそれなりにいい年だろう? いまのそれは、何体目の〈器〉だ? 替えたばかりだろう? 〈器〉の主は眠っているだけで、まだ死んではおらぬようだが?』


 ラスターの頭上で横たわり、頬杖をついて眺めていたシリンが、やや呆れ気味の顔で問いを投げつけた。

 シリンの言葉に、青年は飛び跳ねるのを止めくすりと笑った。


「――嫌だなぁ。 精霊の貴方から見たら、百を幾らか超えたって、まだまだ若造でしょう? 正確な年齢なんか、とうに忘れちゃいましたけど、僕はまだ若いんですよ? せっかく、心からの喜びを味わっている時に、水を差すようなこと、言わないで下さいよ」


 ラスター達へ向けていた水色の瞳が、ふいに濁った。 それが合図のように、死魔獣はいっせいにラスターめがけ床を蹴る。


「貴方は、〈風の王〉? 肌が切り裂けてしまいそうなほど、ビリビリした酷い痛みを感じる。 つい先程、〈地の王〉にやられた時もそうだったんですけど、そうやって、ただ居るだけでこの場を支配してしまう強大な圧力を感じる。 僕が捕まえて仮魂にする小精霊とはまったく比べ物にならない、本当に、巨大な力だ」


 視線を合わさぬようにしつつも、青年はシリンを確認するように見、それから視線をラスターだけに定めた。


「アラスター=リージェス。 貴方には精霊の〈王〉が従っていると、以前、片言の人語を話す精霊から曖昧に聞いてはいたんだけど、〈風の王〉を従えておいでだったんだね? でも、他で聞いた貴方に付いての伝えでは、〝青白い焔を操る〟とあった。 おまけに、この地下でも青白い炎を見たと言う兵の言葉もあるし、ここにも、大きな〈火〉の痕跡がある。 〝青白の炎〟といえば、〈北〉の〈火の王〉である炎帝の焔だ。 ねえ、貴方は本当に炎帝を従えているの? もしそうだとしたら、なんて素晴らしいんだろう! 四属の中でもっとも扱いにくい〈火〉の、しかも最強と(うた)われる炎帝を従えるなんて、考えただけで鳥肌が立ってしまうよ! なんて、なんて凄い! なんて羨ましいんだろう!!」


『よく、喋るやつだな――』


 シリンは頬杖を付いたまま、一人興奮している青年を指差し、ふっと軽く息を吹いた。

 すると、青年の横にいた双頭の狼の身体が、頭の付け根を境にスウッと左右に裂け、光を散らしながら、ドサリと地に崩れた。

 剣を抜いたラスターも、シリンと同時に動き始めていた。

 天井は高く広さもそこそこあったので、剣を振い動くことに不自由はなかった。

 四方から攻めてくる死魔獣を、シリンが起こす風に乗るように、上下左右、自在に流れ動き、かわし、間を詰めては死魔獣の首を次々と斬り落としていく。

 死魔獣が倒れる度、その身体から淡い光が離れ闇へ溶けていった。

 次々と死魔獣を切り裂き倒していく二人の姿に、青年はしばし呆然とし、そして唐突に、それまでにない大声で笑い始めた。

 笑うだけ笑うと、青年は大きなため息を吐き壁にもたれかかった。


「ああ、やはり桁が違いすぎる。 残っている中では、結構強いのを揃えて来たつもりだったけど、比較にならないな。 ――それに、この身体、僕には相性が悪い。 死体じゃないから馴染み難いし、妙に疲れてしまう。 せめて、あの少年の身体が手に入っていたら、もう少し自由に動けたかもしれないのにな」


 力を使い果たしたのか、肩で息をしている青年の胸座(むなぐら)をラスターは無造作に掴み壁に押さえ込んだ。 青年は少しの抵抗も見せず、半分閉じかけた瞳でラスターの青の瞳を見た。


「――ねえ、知っています? 金の瞳の少年。 黒髪だけれど、あれは正真正銘の〈オスティルの瞳〉。 〈エラン〉か、それに近い古の民しか持たないといわれる神の瞳。 あの少年は、古の民の血を非常に濃く受け継いでいる。 僕の見立て違いでなければ、〈聖血の器(エラノール)〉である貴方と変わらない程に、濃い血を、ね。 ねえ、貴方。 あの少年を、貴方は知っているのではない?」


 自分を押さえつけるラスターの腕に手をかけ、青年は薄く笑いながら、自分の言葉に対する反応を待った。 しかし、いくら待ってもなんの言葉も反応も返ってはこない。

 青年は瞳を閉じ、肩をゆすり笑い出した。


「無回答ですか。 でも、僕は貴方とあの少年に同じものを感じるんですよ。 長年、闇の中にいるとね、光に対して憧憬の様なものを抱くんです。 闇に慣れた存在には、強い光は、眼や肌を突き刺し破るような痛みを与えますからね、非常におぞましいものなんですが、どうしてか、懐かしくもあるんですよ。 実に複雑な感情。 それを遠ざけたくもあり、手にしたくもある。 何としても手に入れ、飽くことなく眺め、至宝の玉の如く、優しく包み込むように撫ぜ、磨きをかけ、じわりじわりと抱きしめる手に腕に力を込め――きっと最後には、見る影もないほど滅茶苦茶に引き裂き、壊してしまいたくなる――。 貴方へもあの少年へも、そういった、同じ様な感情を覚えるんですよ」


 やはり反応の無いラスターの顔を見て、青年はにたりと笑う。


「ああ、でもあの子は半分〈喰われ人〉になっているから、僕と同じ闇の住人になる可能性が高いかな? 今、思い当たったんだけど、貴方が追い続けているウルド――〈御方〉が南方で喰い損ねた人間って、ひょっとしてあの少年じゃないのかな? 貴方は、その現場にいたんじゃない?」


 青年は一回深く息を吐き出すと、ラスターの瞳の奥を覗くように見た。


「知っているんでしょう? 〈聖神聖教(シン=エルナイ)〉が〈新しき主〉となるものを造ろうとしていること。 僕は、それ、が、無事誕生出来るよう手助けをするためだけに雇われたようなものだからね、〈聖教〉の深い事情ってものはあまり知らない。 おまけに、僕はまだ直接〈御方〉に会ってないから、確かなことは判らないけれど、恐らくあの少年は、〈器〉候補の娘以上に、〈御方〉の〈器〉に相応しいと僕には思えた。 しっかりとは視られなかったし、まだ磨かれてもいないから断言はできないけど、あの少年は見た目のままのひ弱な子供じゃない。 今の時点では、本人が〝自分〟を、知っている様子はなかったけど――化けるよ、きっと。 ねえ、あの少年はいったい何? いったい、どんなもの、なのかな?」


 ラスターは青年を、やや持ち上げるようにして壁から離すと、一呼吸の後、叩きつける勢いで再び壁に押さえつけた。

 強かに背を打ちつけられた青年は、瞬間、呼吸が出来なくなり顔を赤らめ苦しみの表情を見せたが、少しすると、引きつるような短い呼吸と咳の様なものを繰り返した。 苦しむ青年の様子を目にしても、ラスターは腕の力を緩めず押さえ続けたが、それ以上締めつけることもしなかった。


『生殺しは、あまり良い趣味じゃないぞ?』


 ラスターの肩に手を添え青年の様子を見ていたシリンは、青年の前髪を掴み顔を上げさせた。


『この人間の子は、〈水〉と縁があるようだな。 十七くらいにはなるだろうに、随分と穢れが少ない。 上手く育てれば、いい〈水の守〉になっただろうがな』


 どうでもいいといった口調のシリンの言葉に反応し、ようやく呼吸が整い始めた青年は、くくっと短い笑いを漏らす。


「過去形ですか? 僕が乗っ取っているだけで、〈風の王〉、貴方が言われた通りこの青年はまだ、死んでないんですよ? 僕が他に移れば、この青年はこの青年の一生を生きる望みがまだあるのに。 生きているのに消そうっていうんですか? 酷いなあ。 ――ああ、でもアラスター=リージェス。 貴方は先程どんな方法でだか知りませんが、キサ殿を殺したんですよね? 地下から彼女の気配が突然消えたのは貴方のせいでしょう? オナ殿が、キサ殿は消える直前貴方と対峙していたのだと、逃れ戻った者から聞いた、と」


 水色の目を細め、青年は挑発するように嗤うと、口の中で短い(ことば)を唱えた。

 石を掻く爪の音が聞こえた。

 床を蹴る硬い音がしたかと思うや、黄金の獣がラスターの腕に喰らいつこうとした。

 獣の顔には鷲の様な嘴があり、背には、片方を欠いているが翼がある。

 寸でで、喰いつこうとする嘴をかわしたラスターは後ろへ跳び退ると、納めていた剣を再び抜いた。

 自由になった青年は、すかさず死魔獣達の間に自分の身を滑り込ませると、胸元を押さえながら歪んだ暗い笑みを浮かべた。


「久しぶりの対面でしょう? 貴方の聖獣、グリフィス。 色々な獣を見てきたけれど、こんな完璧な聖獣は始めて見た。 せっかくの姿をオナ殿がこんなにしちゃったけれど、それでも、綺麗だよねえ」


 額の第三眼と左の翼を失ったガーランの身体は、巨大な山犬程の大きさに膨れ上がっていた。

 涎を垂らしながら、落ち付かな気に右へ左へと身体を揺らし、明るい緑の双眸は開かれてはいるが、薄い膜を張ったように精彩がなく、どこを見ているのか焦点は曖昧だった。

 それ故か、目の前にいるのが己の主人だとまったく察していないようだった。

 頭を低く下げ、残った右の翼を開き、喉の奥から長い低い唸り声を発し続けている。


「本物の聖獣って強いよね。 相当量の血を絞り取られたっていうのに、まだ死なないんだよ。 キサ殿が、これにはまだ使い道があるって言うから、今まで殺さず生かされていたんだけど、そのキサ殿が貴方に殺されちゃったみたいだからね、僕の自由にしていいって、さっき譲り受けたんだ」


 新しい玩具をもらった子供のように、青年は無邪気な笑顔を見せる。


「殺してから死獣として操ろうかと思ったけど、どうせなら、貴方と感動の対面をさせてやろうと思ったんだけど――無理みたいだったね? でも、目覚めた後大変だったんだよ。 相当弱っているはずなのにこんなに巨大化して、手近にいる人間に襲いかかってさ。 何人か死んじゃったよ、喰いちぎられ、爪に切り裂かれたり――でね」


 胸の前で手を軽く組むと、青年は瞳を伏せ、死者を(いた)(ことば)をさらりと流すように言った。


「でもさ、強めの薬と術をかけてなんとか、ここまで僕の言うとおり動くようになった。 だけど、まだ十分じゃあないんだ。 ほら、今だって貴方に飛びかかるのを躊躇っている。 僕は貴方を〝殺せ〟って命じているのに。 ねえ、この有翼獣、貴方には従順なんでしょう? どうやったら思うように動くかな? やっぱり、死んでから仮魂を入れるのが一番、かな?」


 僅かに頬を上気させている、一見おっとりと優しげな青年の姿と、唸りを上げ続けるガーランを見比べたシリンは、げんなりとした表情になっていた。


『かろうじて、死んではおらぬが、このままでは同じことだな』


 ラスターは無言のまま、剣先をガーランへ向けた。

 剣先の動きに挑発されたように、ガーランは喚き鳴きたてると、首から肩の毛を逆立て、床を蹴った。 

 黒く太い爪がラスターの肉を裂こうと伸びてきたが、ラスターは半身を捻りかわすと、手首を返し、斬り上げる第一刀でガーランの胸元から首を深く斬り裂き、続けざま下ろす第二刀でその首を斬り落とした。

 切り口から血がどっと噴き出しラスターの半身を紅に染めた。

 頭を落とされ、どっと石床に落ちた胴体は、ビクビクと痙攣(けいれん)を繰り返していたが、次第にその動きは小さくなっていく。 その間にシリンは、青年を取り囲んでいた死魔獣を風で切り裂いた。

 動かぬものになっていくガーランには目もくれず、ラスターは、一連の光景を凝視していた青年へすっと剣先を向ける。

 剣先の鈍い輝きに視線を止めた青年は、銀の刃にぬるりと付く紅い血を見て、場違いに愉快そうな笑顔を浮かべた。


「僕も、他人から〝残酷だ〟とか〝人でなし〟とかよく言われるんだけど、貴方も、言われるんじゃない? キサ殿と貴方とは、どんな因縁があったかは知らないから消してしまったことも別に驚きはしないけれど、この有翼獣は、ちょっと意外だったな。 もう少し躊躇(ためら)うかと思ったのに、こんなにあっさりと殺しちゃうんだ。 獣騎士にとって、聖獣は自分の大切な半身だっていわれるのに。 随分長い間、一緒にいたんでしょう?」


 青年の問いに、ラスターは僅かに冷めた笑みを見せた。


「――ふふ。 もしかしたら貴方とは、気が合うのかもしれないな。 だけど今、ここで楽しくおしゃべりをする時間はないんだ。 僕の役割は十分果たしたし、まだ、死にたくはないからね」


 青年が右腕を水平に上げると、床から山犬や大蜥蜴、牛頭猪体といった、虚ろな赤眼の死魔獣が新たに数頭現れた。 それらと入れ替わるように、青年の姿は背後の闇に溶け込み、身体と闇の堺が曖昧にぼやけていく。


『どう、するんだ?』


 新たに現れた死魔獣を切り裂いたシリンが、髪を緩やかになびかせながら、少し面白くなさそうに訊ねた。

 その言葉に答えることはせず、ラスターは腰にあった短剣を抜くと、闇に溶けかけた青年へ迷いなく投げた。 闇を裂き飛んだ銀刃は、青年の左肩に突き立った。

 短い呻きを上げ床に肩膝をついた青年の姿は、ぼんやりと透けることない、確かな肉体を持っていた。


(きず)のついた〈器〉は、置いて行くがいい」


 短剣を投げたラスターの右手からは、陽炎のような白炎が立ち上っている。

 鮮血に肩を染め、身体を屈めていた青年の口からは荒い息に交じり笑いが漏れている。


「酷い……ことするなあ。 傷を負えば、私も、この青年も、痛いんだよ? ――でも、僕を行かせるんだ? ああ、使えるものは使うだけ、ってことかな? ――ふふ、いいよ。 貴方のことはちゃんと伝えるし、この〈器〉も捨てて行くよ。 これは僕には、使い難いだけだからね……」


 がくりと、青年の身体が崩れると共に、青年の傍で、シリンに片足を斬り落とされ倒れていた一角の獣がのそりと起き上がり、眼に陰鬱な赤の光を灯した。

 何かを語るように低く数回唸った後、一角の獣は闇へ溶けるように消えていった。


『ここで、あの操骸師を殺したところで何も変わりはせぬが、お前の養い子に無駄な、よからぬ影響が残るぞ』


 言いながら、シリンは地に転がっているガーランの屍骸に視線を移した。


『これはまだ、間に合うのじゃないか?』


 ガーランの胴体に手をかざし、シリンは横目でラスターを見た。 ラスターは床に倒れている青年から短剣を抜き取り、創口に自分の血を一滴垂らすと、布をあてがい縛った。


『やれやれ――』


 シリンは軽く肩をすくめると、両手を合わせ、ふっと息をかけ広げた。

 広げられた手のひらの上には、幼児の頭ほどの淡黄の光の球体が浮かんでいた。

 地の上に転がる有翼獣の上に、シリンはそっと球を落とした。 光球はガーランに触れるとふわっと広がり、バラバラになった頭部と胴体を抱え込むように包み込みこむと、くるくると回転しながら、手のひらに収まるほどの大きさに収縮していった。

 小さくなった光球を手のひらに載せると、シリンは再びふっと息をかけ胸元へ仕舞った。


「――何を?」


 青年の手当てを済ませたラスターは立ち上がり、宙で伸びをしているシリンを、やや険しい目付きで見上げた。


『気にするな。 そういうお前こそ、何をしている? その青年はどうするつもりかね? あの場面で、お前が消さなかったことも驚きだったが、取り憑いた操骸師を追い出し、わざわざ丁寧に傷の手当てまでするなんぞ、いったい、どういう風の吹き回しだい?』


 シリンの問いには答えず、ラスターは左腕の甲を押さえ、〈東〉の〈地の王〉ティ・ディ・ダ―ンの《名》を唱えた。


『〈東〉の御老体――』


 シリンは軽く居住まいを正し、ラスターも心持ち姿勢を改めた。

 《名》を口にした一呼吸後、ラスターの全身が薄い光を放ち、地下の空気が震えるように振動を始めた。 地のあちらこちらから淡い光が沸き出し、こびり付くように残っていた地の淀みが瞬く間に散らされ消えていく。


『――わしを、表に呼びだすとは珍しいのう、アラスター。 どうしたね? 何か、困りごとがあったのかね?』


 小さな、幼児ほどの背丈の老人がラスターの眼の前にふわりと姿を現した。

 長い眉毛に隠れ瞳は見えないが、その身を包む空気は暖かく、長く伸びた白髭や頭髪が、言葉を発する度にふわふわと揺れる。

 好好爺(こうこうや)といった風体の老精霊は、ラスターへ接する時、祖父が孫へ接する様に穏やかに、問いかけるように言葉をかける。


「お呼び立てして申し訳ございません。 ティダ。 貴方への願いがございます」


 東の〈地の王〉であるティダは、このキソスを含めた東の〈地〉の精霊の長である。

 現在、ティダは〈地〉の〈四王〉の代表として、ラスターを護る〈護楯〉になり、その身の内に宿り常に行動を共にしている。

 ティダは、北の〈火の王〉炎帝サーラムや西の〈風の王〉シリンのように、ラスターを目に見える形で護ることはしないが、他の四属の〈王〉よりも強く、ラスターの身体――〈器〉を護っていた。

 ティダは、全精霊の中でもっとも古くから存在し、〈火〉〈水〉〈風〉〈地〉の属性を超え、全ての精霊から畏敬される大精霊である。 何者へ対しても態度を変えないシリンでさえ、ティダに対しては多少改まった態度で接する。

 ラスターにしても、ティダには特別の敬意と信頼を寄せているため、自然、他の〈四王〉に接する時より言動が丁寧になる。

 軽く頭を下げた後、天青の瞳を真っ直ぐに向けてきたラスターへ、ティダは軽く頷いてみせると、「言ってごらんな」と、柔らかに促した。

 眉に隠れたティダの目を見ながら、ラスターは口を開いた。

 南の〈水の王〉イーディに依頼したように、ティダへも、今さらと思えるキソスの地の浄化をラスターは願ったのである。

 その願いを聴き、ティダはしばし沈黙した


『わしがそなたから離れれば、そなたの身体の護りは弱くなる。 それは承知だね?』


 〈地〉は護りの力が強い。

 殊に、ティダ程の大精霊の護りとなると、僅かの隙もなくなってくる。

 目には見えない、被膜のような〈地〉の護りに包まれた庇護される者は、その身が秘め持つ力を、被膜の内に閉じ込められているため、魔物や古の精霊といった〈闇に棲むもの〉に存在を覚られ難くなる。 被膜は、庇護する者の存在を隠すだけでなく、万一、近付く邪な存在があったとしても、それらを跳ね返し砕く力もあるとされる。

 護られる身としては、非常に心強い。

 しかし、意図的に魔物等を引き寄せたい場合、その強い護りが妨げともなる。


 ウルドは、ラスターに四属の〈王〉が随行し、その血肉を護っていることを経験で知っている。

 当然、不用意に近付けば、己の身に危険が及ぶことを覚っている。

 故にウルドは、ラスターの執拗な追跡を、紙一重であれ逃れ、接近することを避け続けている。


 だが、今のウルドは、多少の危険を冒してでも、新しい〈器〉へ移ることを望んでいる。

 魔物と言えど、長い歳月の内にその〈器〉である肉体は老い、衰えていく。

 ウルドの〈器〉は、既に衰え始めていた。

 〈器〉の衰えは、魔力と呼ばれる力にも僅かずつ影響を与える。

 その力が弱り消え果てる前に、新たな〈器〉へ、己を丸ごと移植しなければ、いずれはただの生物と同じように、死ぬ。

 それを避けるため、ウルドはオ―レンで、新しい〈器〉となるカラを見つけ、選んだ。

 そして、移植の術を行っていた最中を、ラスターに急襲された。

 大きな力――術を行使する時、術者(魔物)は、術を施す対象へ意識の大半を集中させる。

 術の規模が大きければ大きい程、長い時間の、高い集中が必要となり、術とは関わりない周囲への注意が薄くなってしまう。 そこに、僅かな隙が生まれる。 己に近付くものの察知に遅れが生じる。

 ラスターはその隙を利用した。

 ウルドは両腕を切り落とされ、多量の血と力を失い、一時は半死に近い状態へまで追い込まれた。

 力の強い魔物は、蜥蜴が切れた尻尾を再生するように、欠落した己の身体を再生させる能力にも優れているが、衰えの兆しが見えていたウルドには、もう、かつてのような強い再生力はなかった。

 このまま新しい〈器〉へ移れなければ、遠くない将来、現在のウルドの〈器〉は腐り、動けぬようになり、最終的には死を迎える。

 〈三魂〉を持ち、いつかは生まれ変わるとされる人間などと違い、一度死ねば、魔物に次の生はない。

 じわじわと迫りつつある死を前にしたウルドは、目の前に餌を吊るせば、涎を垂らし喰らい付きたいほど焦っているはずだ。

 ウルドが人間を憎しみに近いほどに嫌い、必要のない限り、自身からの接触を避けていることをラスターは知っている。

 そのウルドが、人間の集団である〈聖神聖教〉内に身を潜め、その手を借りてまで新しい〈器〉を得ようとしていることで、その焦りの程は読み取れる。

 〈聖教〉は、ウルドの新たな〈器〉としてアルフィナを選んだ。

 ただし、アルフィナの身体が真にウルドの〈器〉に相応しいかは、移ってみなければわからない。 

 現時点で、何よりも確実なのはラスターの身体を奪うこと。 もしくは、〈聖血の器〉の能力として語り伝えられている力を用い、全く新しいウルドの〈器〉を、ラスターに造らせることである。

 ウルドは、己の持つ力を何一つ失わず移すことができる〈器〉を求めている。

 そして、ラスターには、その期待に応えるだけの能力が、多様な意味で備わっている。 いずれの手段を選ぶにしても、ウルドも〈聖教〉も、一も二もなくラスターを〈器〉候補として選ぶだろう。

 だがその実現のためには、ラスターの協力ないしは死が必要となる。

 そして、そのためにはどれ程の時間がかかるかも、それなりには承知しているだろう。

 しかしここで、ウルド自身選んだ〈器〉であるカラが現れたと知れば、ウルドは〈聖血の器(ラスター)〉のことなど忘れ、何が何でもカラを捕らえに動く。 多少の無理をしてでも、オ―レンで喰い残したカラの《名》と《影》を喰らい尽くし、完全な〈器〉として完成させようとするだろう。


 ティダは、眠ってでもいるかのように俯き、しばらくこくりこくりと上半身を揺らしていたが、最後に一回大きく船を漕ぐと、ゆっくりと顔を上げ、ラスターの顔へ髭もじゃの顔を向けた。


『――何者にもその血肉を渡さぬこと。 これがわしら四属の務め。 四属は、アラスター・ユーシィス・ディアナ=リージェス=シン=エラノール、そなたを護る。 そなたは、如何なる存在にも決して与せず、その身、何処に在りても、ひたすら〈聖血の器(エラノール)〉として、精霊王シ―ラの〈聖血〉を護る〈器〉として、存在し続ける――。 全ての条件を受け入れ、四属と盟約を交わし、儀礼を通過したことで、そなたはそなたの意思を持ったまま、精霊王殿――ティルナから出ることを許された。 これらの経緯、忘れてはいないね』


「忘れはいたしませぬ」


 簡潔に、淀みなく言うラスターの頭へ手を伸ばすと、ティダは子供を褒めるように、金の頭髪を数回撫でた。


『その〈器〉と〈聖血〉を護るに影響があると判じられた場合、わしらはそなたを封じ、ティルナへ連れ戻すこととなる。 これも、解っているね』


「この〈器〉も〈血〉も、我がものでないことを承知した上での、願いでございます」


 ティダは僅かに身体を下げ、ラスターの瞳を真正面から覗き込んだ。 その意志の固いことを知ると、更に数回頭を撫でた。


『アラスター。 そなたに負わされたもの、忘れさせてやりたいが、出来ぬ爺を赦しておくれな。 だが、此度の願いは聞いてあげよう。 西の〈風の王〉シリン。 そなたさんも、聞いたね?』


 ラスターの少し後方に立っていたシリンは、濃青の瞳を細め無言で頷いた。


『そなたの騎士としての技量もなかなかのものだろうが、くれぐれも、無茶はするんじゃあないよ。 まあ、シリンとサーラムが共におれば、万が一も、大傷を負うことはなかろうがの』


 この言葉に、シリンはにっこりと微笑み、宙に身体を浮かせるや、ラスターの肩に手を回し顎を置いた。


『その点は保証が出来ますよ、御老体。 私もだけれど、炎帝とこの者は、相性が良すぎるくらいに息がぴったりですからね。 いざとなればイーディも傍観はしないでしょうから、こっちは、まあご安心下さいな』


 シリンの言葉に、髭を揺らしながら頷いたティダは、ふわりと地へ下りると、ちょこちょことした歩みで、ラスターが傷の手当てをした青年の傍へ寄った。


『ではわしは浄め方々、この人間の子でも手土産に、イリスミルトといったかな? あの者の旅籠へ行くとするかな。 〈南〉のカナルが、わしの代わりにあらかた浄めてくれたようだから、礼を述べんとな。 〈南〉の憎まれ口を直接聴くのも、久方ぶりに楽しかろうて』


 ティダの言葉に、シリンは素直に笑ったが、ラスターは曖昧な表情のままだった。


『〈南〉の相方は、そなたの友であったな。 何か、伝えることがあったら言ってごらんな。 手伝いに来てもらいたいのなら、そう伝えよう。 〈南〉は喧嘩好きだからね、相方の襟首掴んで加勢に来るだろうよ。 希望があれば、言ってごらんな』


 意識のない青年の肩傷あたりを摩りながら、ティダはラスターの青白い顔を見上げた。


「いえ」


 ラスターの短い答えに「ふむ」とだけ言うと、ティダと青年の身体は、瞬きする間もなく消えた。 

 ティダが現れた僅かの間に、地下の淀んだ気は、驚くほど清浄な澄んだものへと変化していた。


『これでいけばキソスの〈地〉の汚れは、間もなく失せるだろうよ。 カナルの下準備も大きいだろうが、さすが〈東〉の御老体。 あんな小さくしわ枯れたようでも、違うね』


 凝った身体を思い切り伸ばすように、シリンは握った手を天へうんと伸ばした。


『――しかし、〈東〉の御老体に人間の子を運ばせるとは、凄いことさせるなあ。 こんなことをティダ殿にさせられるのは、シ―ラとお前くらいだろうよ』


 血の付いた短剣を衣の裾で拭っているラスターを見下ろし、シリンはくすくすと笑った。


『それにしてもお前、本当に可愛げがないね』


 一人で愉快がっているシリンへ、ラスターは視線だけを向けた。


『旅籠へ行けばあの子供、がいるよな?  ま、面倒見の良い御老体のことだ。 言わずもがなだろうがね』


 シリンの言葉を無視すると、ラスターは短剣で指先に傷をつけ、滲みでた血を額に付けた。


「リーディル・エアル・シルフィディル・フォリン。 〈聖血〉の香が地下中――キソスの隅々まで届くよう、風を」


 ラスターの横顔を見、シリンはにやりと笑った。


『承知した――』


 空気が大きく緩やかな渦を巻き、内から、湧きあがるような風が生まれる。



  挿絵(By みてみん)

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