第3話:光ある庭
3:光ある庭
小鳥のさえずりで目が覚めた。
昼に近いらしく、窓から差し込む光は少ないが、それでも室内は十分に明るい。
仲間と鳴き交わしながら飛び回る小鳥の影が、時に窓を過る。
楽しげな声に誘われ、まだ痛みの残る身体を寝台から下ろし、窓へ向かい、開ける。
外気は思った以上に冷たい。 だが、窓から見える中庭の緑は暖かな光にくるまれ、うとうとと昼寝をしているようだった。
コツコツと、控え目なノックの後、ゆっくりと扉の開く音がする。 一晩かけて煮込まれた野菜の甘さとパンの香ばしい香りがふんわりと漂ってくる。
「カラ、起きていたのね。 窓を開けているの? あまり身体を冷やさないようにね」
のろりと視線を向けると、ショールを羽織ったイリスミルトが、少し大きめの盆を手に入ってきた。
盆を小卓に置くと、イリスは迷うことなく窓辺にいるカラの横へ歩み寄り、そっと額に触れた。
「熱はすっかり下がったようね。 どこか痛むところはない?」
カラはただ横に首を振った。 目の不自由なイリスには、言葉に出さなければ伝わらないと思ったが、声を出してまで答える気にはならなかった。
口を開かないカラの目線まで腰を落とすと、イリスはカラの右手を両手で包んだ。
「カラ、アルが目を覚ますには、もう少し時間がかかると思うの。 けれど、お薬が効いて熱もほとんど下がったから安心して。 心配をしてくれて、ありがとう」
イリスの言葉に、カラは俯いた。
ナハがカラとアルを地下から連れ出して、三回目の朝を迎えている。
地下での疲労が原因か、旅籠に戻った途端、カラもアルも高熱を出した。
ナハの処方する薬の効果か、カラは、傷の痛みは多少残っていたが、翌日には起きて食事を取ることもできたが、アルは、外傷はすっかり治っているというのに、深く眠ったまま目を覚まさない。
昨日、カラはイリスに付き添われアルを見舞った。
地下での記憶に間違いはなく、アルの長い髪は白銀色だった。
青白い顔と淡く輝く白銀の髪が、アルを作り物の人形のように見せる。
何度も呼びかけた。 けれど、アルが眼を開くことはなかった。
規則的な息をしているので、生きているには違いない。 それでも、地下で血に染まり横たわっていたアルの姿が瞼に甦ると、どうしようもない不安に襲われる。
ナハもイリスも心配はないと言うが、医学や薬学の知識がないカラは、アルが目を覚まし元気な声を聞かせてくれない限り、安心などできない。
「お腹、減ったでしょう? 冷めないうちに食べましょう。 わたくしも一緒にいいかしら?」
カラは再び首を横に振った。
「――いらない。 お腹なんて、減ってない……」
握られた右手を離してもらおうと、カラは左手でイリスの手を押さえ引っ張ったが、逆に、イリスの手がカラの両手を捕まえた。
「カラ。 ご飯を食べたら、またアルに声を聞かせてくれるかしら? そうね、〝アルの寝ぼすけ〟くらい、言ってもらっていいかもしれない。 あの子、すぐむきになるでしょう? お薬よりも、あなたの言葉の方が効き目があると思うの。 アイルーナも、同じようなことを言ったのでしょう?」
おっとりとしたイリスの言葉に、カラは顔を上げ、灰緑色の瞳をみつめた。
「――アルの、お母さん?」
「そうよ。 けれど、お腹が減ったままの涙声ではだめね。 そんな声を聞かせたら、後でアルに意地悪を言われるわよ?」
イリスに促され、カラは鼻をすすりながら、湯気の上がる皿の並ぶ小卓へと向かった。
どこから現れたのか、小卓の下ではナジャが不機嫌そうに尻尾で床を叩き、食事の催促をし続けていた。
* *
「やあ、カラにナジャ」
戸外に面した通路をぼんやり歩いていたカラへ、ナハが声をかけた。
「今日の陽は、弱すぎず強すぎずで気持ちがいい。 室内ばかりにいても身体に良くないから、ここへ来て日向ぼっこでもしないかね? ついでに、私の話し相手になってもらえると嬉しいのだけど、どうだい?」
中庭の数か所に置かれた長椅子のひとつにナハはゆったりと腰かけ、煙管をくわえ手招きをしている。
午後になり陽はずいぶん西に傾いていたが、庭の中は少し黄色がかった光に満ちている。
光に満ちた庭へ出ることに、カラは躊躇いを感じた。 じりと後ずさる。
――なんで――……?
室内の灯明よりも強い陽光が、怖い。
イリスの旅籠に戻ってから、カラは一度も外へ出ていない。
体調が優れなかったのだから当然ではあるが、それも二日程度のこと。
《影》を奪われてからの時間が経つにつれ、陽光の下にいることが「辛い」と感じることは増えていた。
理由は解らないが、身体に負担がかかっているのだと漠然と感じていた。
だがこんなにはっきりと、恐怖、を感じることはなかった。
光の中に入ると想像しただけで皮膚に痛みを感じ、眩暈すら覚える。
何故こんな感覚になるのか、カラ自身理解できない。 理由の分からない怖れが身体を縛り、カラの足をすくませる。
『これしきの陽光にひるむなぞ、ワシもとんだ腰ぬけ小僧と契約したものよ。 石牢に閉じ込められた間に耄碌したかの。 光が怖いんなら、ほれ、さっさと部屋へ戻れ。 ワシは陽に焙られるより、寝台で毛布にくるまって気持ちよく昼寝したい』
当然顔でカラの肩に乗っていたナジャが、大欠伸のついでにわざとらしく熱い鼻息を顔に吹き付けた。
火の粉が混じっていないだけ加減はしているのだろうが、鼻息のかかった頬はひりひりと痛む。
「誰が怖いなんて言ったんだよ。 布団の上で寝たきゃ自分の足で戻ればいいだろ、ナジャ、太り過ぎなんだから」
冷えた手で頬をさすりつつ睨むと、ナジャは硬い尾でカラの後頭部を打ち、見た目にそぐわぬするりとした動作で下りた。
『樹液を絞りきった、棒きれの如き小僧が何を言おうと虚しいだけよ。 陽光を浴びて枝葉を茂らせる木々の若芽の方が、お前よりよほど喰いでがあるというもんだ』
額の、第三の眼でカラの姿を捉えたナジャは、「ししし」といつもの笑いをすると、くるりと向きを変えのしのし歩いていった。
打たれた後頭部をさすりながら、横目でずんぐりとした後ろ姿を見送ったカラは、視線を中庭へ戻した。
視線の先ではナハが空を見上げ、くわえた煙管を上に下に玩ぶように動かしている。
カラは両拳を握り、少しぎこちなく足を踏み出した。
顔に光を受けた瞬間視界が白くなり、ぐらりと、強い眩暈に襲われる。
暖かいはずの陽光が、カラの身体を冷たくし、手足を重たくさせる。
全身にチリチリとした痛みを感じ、身体が縮こまっていく。
込み上げる吐き気で、呼吸が浅くなる――。
「カラ。 手を、私の腕に乗せられるかい」
両肩にふわりと温もりが広がる。
いつの間に来たのか、ナハがカラの前に膝をつき、地下で出逢った時と同じように支えてくれていた。
カラは重たい手を持ち上げ、なんとかナハの腕に乗せた。
「そうだ。 そのまま瞳は閉じて、深く息を吐いてごらん。 今度はゆっくり吸って――。 そう、ではもう一度ゆっくり吐いて――」
ナハの言葉に従い、数回深呼吸を繰り返すうち、身体の痛みは軽くなり、手足を自由に動かせるようになった。
ナハはカラが長椅子に座るまで、カラの肩からずっと手を離さなかった。
「どうだい? まだ気分は悪いかい?」
煙管をくわえなおしたナハは、土色の瞳でカラの顔を覗きこむ。
「――ううん……大丈夫。 すごく楽になった……です」
カラの頭をくしゃりと撫で、ナハは「それはよかった」と笑った。
のんびりした笑顔につられホッと息を吐きだすと、身体は嘘のように楽になっていた。
ふと顔を上げると、ナハの肩にいる白鼠が、緋色の瞳で覗き込むようにカラを見ていた。
視線を合わせると、ツンと顔を背けナハの陰に隠れた。 白鼠の一連の動きを見て、ナハは頭を掻きながら、申し訳なさそうに笑った。
「ナハさん。 あ、あの、色々ありがとう――ござい、ます」
「そんなにかしこまらなくていいよ。 気を遣われるとこちらが緊張してしまうからね」
ナハとちゃんとした会話をするのは、これが初めてだった。
思っていた通り、ナハは気さくで話しやすい。
よれよれの緑の外套を着た風貌は、ぼんやりとしていてどこか掴みどころがないのだが、イリスとは違う不思議な安心感を覚えさせる。
知りたいことが、カラにはたくさんあった。
そのひとつであるアルのことは、イリスから、僅かだが聴くことができた。
アルの母親――つまりはイリスミルトの娘であるアイルーナは、〈斎王〉という特別な役割を担う巫子だったという。 八年の勤めを終えた後、キトナ大神殿に仕える騎士であったレセルと夫婦になったが、アルを生んですぐに死んでしまった。 しかし、魂の一部はアルの中に宿り続け、アルをずっと見守っているのだという。 カラが地下で聴いた女性の声は、アイルーナのものだろうとイリスは言った。
また、アルの白銀の髪は母親譲りで、訳あって普段は黒く染めているのだとも教えてくれた。
アルは環境の影響をとても受け易い体質で、カラ達を襲ったセナの禍術や魔物の毒気といったものが、特に酷く疲労させるのだという。 現在のアルは、地下で受けた影響が残っているため、眠ることで体調を整えているのだという。
これらの説明で、理解はしきれないものの、アルのことを少し知ることが出来た。
だが、ガーランとラスターのことについては、何も分らないままだった。
地下から帰った晩、「ラスターとガーランは無事だから安心しなさい」と、イリスはカラに言った。
しかし、どうやってその「無事」を知ったのか、その後の状況はどうなっているのか、具体的なことは今日まで何も訊けないままでいる。
四日前、「ガーランを見つけ助け出す」という共通目的のため、アルと共に旅籠を抜け出したが、結局はガーランを助け出すどころか、周囲に騒ぎの種を撒き、自分達が怪我だけをして戻ることになった。
ナハに支えられながら戻ったカラを、イリスは無言で、ふわりと包み込むように抱きしめた。
きつく抱かれたわけではないが、それまでにはない長い抱擁だった。 それから両手でカラの顔を優しく包み、金の瞳を覗きこむように「お帰りなさい」と、少し隈の出来た眼を細め微笑んだ。 イリスの笑顔とアルの蒼白の顔が重なって、カラは涙が零れて止まらなかった。
この後イリスは発熱したカラ、アル、そして重篤な傷を負ったレセルの看病に追われた。
カラは一人早々に快復したが、他の二人はまだまだ看護が必要な状況だ。
そんな大変な看護の合間に、カラの世話も普段通りしてくれているイリスを、質問などで煩わせたくはなかった。
だから、イリスと同じくらい様々な情報を持っていそうなナハと話せる時間を、カラは心待ちにしていたのだが、いざとなると、何からどう尋ねてよいのかわからない。
「話し相手に」と誘ったナハも口を開く様子はなく、暖かな陽光を楽しむように、顔を空へ向け煙をゆっくり吐き出している。
「――カラ。 この煙は、これからどうなると思う?」
自分の吐き出す煙を眺めながら、ナハはのんびりカラに話しかけた。
煙はゆるゆると上るにつれ四散し、空の青へ溶けていくように見える。
「え? ――あの、えっと、空に、空気の中に溶けて、消えてなくなる……」
「そうだね。 だが、全てが消えてなくなる――というわけではなくて、見えない状となって存在し続けている、という見方もあるんだよ」
カチンと、煙管の先を長椅子の背で打つと、ナハは土色の瞳を再び天へ向け、大きく背伸びをした後頭の後ろで手を組んだ。
「それにしても、今日の陽は実に暖かくて気持ちが良いよなあ。 つい、うとうとしてしまうよ――」
欠伸を噛み殺しながら、ナハはカラへ少し涙目の笑い顔を向ける。 よく見ると、起きぬけなのか括られた髪はぼさぼさでもつれている。
イリスの話では、ナハは毎日早くから出かけているらしく、昨晩も、カラが眠りに着くまで帰って来ていなかった。
「――あの、訊いてもいいですか?」
遠慮気味なカラの問いかけに、ナハは「うん?」と先を促す。
「ナハさんは毎日出かけているって、イリスさんから聞きました。 何か、調べてるの? ガーラン――ラスターの居場所を探している、とか?」
煙管をくわえたまま、ナハは頭を掻いて少し考える素振りを見せた。
「うーん、調べている、というよりは作業をしている、んだな。 地下で君達を襲ったセナを覚えているだろう? 奴と、その仲間の連中がキソスの〈地〉を、性質の悪い呪いで汚してしまったのでね、その呪いを解いてまわっているんだよ、〈地〉の問題を何とかするのは、〈地の長〉の役目だからね。 ああ、〈地の長〉って聞いたことあるかい? 〈精霊使い〉は知っているかな?」
「〈精霊使い〉って、昔語りとかによく出てくる、精霊と言葉を交わしたり精霊の力を使ったりすることが出来る人でしょう? ナハさんは〈精霊使い〉なの?」
ナハは物語でも聞かせるように、〈精霊使い〉、そして〈地の長〉について話した。
語られる、精霊やそれらに纏わる話を聞くうち、カラの金の瞳は従来の輝きを取り戻していく。
「すごい――〈地の長〉って、石や鉄や木や、草とか花とか、大地に関係ある精霊ならみんなと話せて協力させることができるんだね!〈地〉がいろんな精霊の中心にあるなんて、知らなかった! 〈火〉や〈風〉の精霊が英雄と一緒になって魔物を倒す昔語りは聞いたことあったけど、〈地〉も本当はすごいんだね! 地下で一緒だった女の人がナハさんの〝連れ〟? すっごく強そうだった。 ちょっと怖かったけどとっても綺麗だったし。 いまは? いまは何処かに行ってるの?」
『〝怖い〟の一言は余計だよ――』
周囲をキョロキョロ見回していたカラの耳に、聞き覚えのある低音の女の声が響く。
視線を戻すと、ナハの肩に手を置いた女が、切れ長の眼でカラを見下ろしていた。
「――ど、どこから――……?」
褐色の肌に、ぴったりとした白い長衣をまとった肢体を、大きく波打つ豊かな黒髪が縁取っている。
彫りの深い容貌は、アルやイリスとは種の違う美しさで、強烈な緋色の瞳は、カラの瞳と同じく自ら光を放ち輝いている。
『まだわからないのかい? 勘働きの悪い子供だな』
女の緋の瞳とカラの金の瞳が真正面からぶつかる。 さっきまでナハの肩にいた白鼠の瞳を思い出す。
「え……あ、あ――!」
地下での印象より、表情は幾分柔らかな気もするが、柔和なナハとは真反対の印象を受ける。
呆然と見上げているカラに、ナハは思わず苦笑を漏らす。
「改めて紹介するよ。 カラ、彼女はカナル。 こんなこと言っているけど、結構面倒見はいいから、何か困りごとがあったら相談してごらん」
『ナハ、お前、自分の契約精霊を他人に貸し出すつもりかい? 小僧、いつまでも呆けた面しているんじゃないよ、みっともない』
カラは慌てて表情を改め、困惑気味にナハを見上げた。 ナハは頭を掻きながら肩をすくめてみせる。
「彼女、〈地〉の中では気性が激しいことで有名でねえ。 言葉の棘は愛情の裏返しだと思っていいから。 ああ、アラスター殿に少し、似ているのかもしれないな」
何気ないナハの言葉に、カラは引っかかりを覚えた。
「ナハさんはラスターの一番の友達だって、イリスさんが言ってた。 なのになんで、ラスターのことを〝アラスター殿〟なんて呼ぶの? ラスターは、親しい人間は自分を〝ラスター〟って呼ぶって、オレに最初に言ったよ? だから、オレにもそう呼んでいいって」
カラの素朴な質問に、ナハは一瞬驚きの表情を見せ、それからすぐに破顔した。
「これは癖だな。 公の立場上、アラスター殿――ラスターは、〈精霊使い〉よりとても高い身分にあってね。 公式の場で親しげに呼ぶと、生き字引のようなお年寄り方に怒られるから、普段から意識的にそう呼んでいたら染み付いてしまってねえ。 もちろん、二人で話す時は私も呼び捨てだよ」
「あの――ラスターって、どういう人なの? ただの騎士じゃなくて、聖騎士っていう身分だってアルが言ってた。 それって特別で偉い人なの? オレ、半年くらいずっと一緒にいるのに、ラスターがどんな人で、何を考えているのか、全然、わかんなくって――……」
腰に差していたオスティルの短剣に手を添え、カラは視線を落とした。 ナハは言葉を挿むことなく、煙管をくわえたまま視線をカラの横顔に向けている。
「オ―レンでオレを助けてくれた時、ラスター、鍛冶屋にすごい大金を渡したみたいだった。 オレに渡してくれてるオスティルの短剣。 これ、ものすごい価値があるって鍛冶屋が、アルも言ってた。 これを持てるのは選ばれた人間だけだって。 よくわかんないけど、すごい大切なものだと思うんだ。 それをなんで、オレなんかにくれたのかな?」
いったん話し始めると、それまで抱えていた思いが噴き出す。
「ラスターはオレに、字は教えてはくれるけど、ほかは本当に、なんにも教えてくれないんだ。 話しかけてくれるのも、必要がある時だけで……。 ナハさんは友達ならわかる? ラスターはなんで、〈闇森の主〉を追いかけてるの? どうしてオレを旅に誘ってくれたんだと思う? オレが《ふたつの宝》を奪われたからって、ラスターには関係ないんだから、知らんぷりしても良かったと思うんだ。 でも、一緒に行こうって言ってくれたんだ」
話している内に、顔が熱くなってくる。
頭の中で色々な思いが渦を巻いて、鼻がツンと痛くなる。 膝の上で拳をギュッと握りしめた。
「なのに……一緒に旅をしてるのにどうして――どうしてなんにも教えてくれないのかな? 今度のガーランのことだって――。 オレが子供だからかな? ラスターは〝騎士〟だから、〝務め〟だから、〈闇森の主〉に襲われたオレの面倒をみてるだけなのかな? ラスターは、本当は一人で動いた方が楽だと思うんだ。 オレ、こんな身体になって、人の目を気にしながらじゃないと動けないし、そうじゃなくても、この瞳のことで、化物扱いされること多いから……。 だから、本当はさ、本当はラスター、オレのこと――……」
裡にあった疑問や不満のほとんどを吐き出したが、最後のひとつを言葉にすることが出来ず、カラはナハの顔をすがるように見上げた。
大きな金の瞳で見上げるカラの肩を軽く叩くと、ナハは煙管の灰を落とし、外套の内ポケットにしまった。
「〝騎士の務め〟だから君を同行しているわけではない、と、断言はできるけど――悩むだろう? 彼、周囲に語らずに物事を進めるから。 友人だから擁護するわけではないけれど、語らないのは彼なりの理由があるからだよ。 彼の良い部分も悪い部分も、付き合っていくうちにわかることだから、私の印象をいま、君に詳しく話すのは止めておくけれど、そうだな、あえて助言するとしたら――ラスターは感情表現が苦手なんだよ、とても。 滅多に、表情を変えないだろう?」
即座に首を縦に振ったカラを見て、ナハはクスクス笑った後、ふっと表情を改めた。
「ラスターは自分で、自分がどんな感情を持っているのか、分かっていない場合があると私は感じている。 彼は、孤立を強いられる環境にずっと、置かれていたようだからね」
さらりとラスターの生い立ちの一部を語ったナハは、いつもの笑顔とは違う曖昧な表情をしていた。 更に質問しようとすると、ナハは片手を上げ、カラの言葉を止めた。
「後は君が、ラスターと向かい合って話が出来るようになったら、直接訊いてみるといい。 彼が君に話しても良いと思えば、きっと話してくれる」
怒られたわけでもないのに、しょんぼりとなったカラの頭を、ナハはくしゃりと撫でた。
「急ぐことはないよ。 そうだな、他に私が教えてあげられることは――ラスターが物を買う以外で金を渡す場合は、渡す相手を軽蔑していることが多いかな。 あと、彼は関心のない相手には声もかけない。 存在がないかのように、完全に無視をするからね。 そんな彼が誰かに字を教えるなんて、ちょっとこれまでには考えられない行動だ。 カラ、君はすごい存在なのかもだよ?」
ナハの言葉に、カラはくすぐったさを感じた。 そういえば、文字を教わっている話を聞いたアルも、かなり意外そうな反応をしていた。 なんとなく、照れ笑いが出てしまう。
『――ったく、単純な小僧だ』
言いながら、カナルはカラの襟元に覗いていた紐を取り、下がっていたペンダントを引き出す。
カナルの有無を言わせぬ迫力に、カラは抵抗も出来ず、なされるがまま、大人しくしていた。
『〈カラ〉の意味は確か――〝息吹〟だったな』
ペンダント側面の彫りをなぞりながら、カナルは意味あり気に、カラの金の瞳を真正面から覗きこんだ。
緋色の、強い眼差しに射竦められたように、カラの身体は動かなくなる。 じわりじわりと、押さえつけるような圧力を全身に感じる。
〈闇森の主〉に対するような恐怖を感じるわけではないが、それと変わらない大きな力をカナルも持っているのだと思った。
『――忠告だ。 魔物や精霊の眼を、長く見るんじゃあない。 眼が合ったら逸らせ。 力あるこれらの存在は、視線だけで他を操ることが出来る。 ただの人間には、命取りになる』
指先でカラの額を小突いた。 するとそれまでの硬直が嘘のように解け、身体は硬直の前より軽く感じる。
不思議そうに自分の身体を見回しているカラに、カナルはふっと笑って見せた。 その表情は少し悪戯気であったが、親しみも込められている様に感じた。 何より、笑うカナルはとてつもなく艶やかで美しかった。
『――あたしの忠告が、解っていないようだねぇ? それとも――一人前に、あたしに見惚れておいでかい?』
呆けたように見上げていたカラの鼻先に再び顔を寄せると、カナルはより艶やかな笑みを浮かべ、カラの鼻を指で弾いた。
「ご、ご、ごめんなさいっ」
ジンジンと痛む鼻先を押さえ、カラは顔を真っ赤にして視線を膝に落とした。
「カナル、苛めはいけないよ。 君に見据えられた後は、誰だって怯えて動けなくなる」
『――はん。 まあすれていない分、あいつよりは可愛げがあるか。 小僧――カラ。 奪われた《名》を取り戻すまで、このペンダントは片時も離すんじゃない。 そのオスティルもだ。 このふたつは、今のお前を魔物共から遠ざける護りであり、お前を他と結び付ける絆となる。 だが、まずは自分で自分を護る術を覚えろ。 それらの護りは一時しのぎにすぎん。 お前の黄色い太った蜥蜴も、何処まで当てにできるかわからんのだからな』
ナジャのことを言っているのはすぐに分かった。 どうやら、カナルはナジャに好い印象を抱いていないらしい。
「危うく忘れるところだったよ、カラ。 これを君に渡さなければだった」
ナハはおもむろに、外套の内側から細長い棒を取り出し、カラの手に握らせた。
オスティルの短剣と同じくらいの長さの、両端が銀色の金属で覆われた暗赤色の棒で、赤色部分の表面には、金色の文様が幾つも刻まれている。 その柄は、オスティルの短剣の刀身に刻まれている神聖文字に似ていた。
「――ぼう?」
「〝棍〟という武器の一種でね。 これは君用にあつらえた特別製だ。 昨晩、ようやく届いてね」
「武器? こんな短い棒――棍が?」
ナハはにっこり笑うと、棍の上に手をかざし、カラには解らない詞をつぶやいた。
棍の表面の模様が薄い光を帯び、見る間にカラの背丈ほどの長さに伸びた。
棍の変化に、カラは瞳をまん丸にした。
「呪いの詞を覚えれば、ある程度自在に長さを変えられる。 この棍は、君のペンダントと同じユーグという木から出来ていて、樹齢の高いものは鉄より堅く非常に強い生命力を宿すと云われる。 武器として使いこなすにはそれなりの訓練が必要だけど、いざとなれば杖代わりにもなるし、短剣より長い分、先手が打ちやすいから牽制効果が増す。 その短剣と一緒に持っておくといいよ」
長く伸びた棍の程よい重みが、掌から腕、そして肩から全身へと伝わる。
少しひんやりとした感触は、夢などではなかった。
「――本当に、オレのもの?」
「武器なんて持たずに済むのが一番なんだけど、君の場合は持っている方がいいからね」
自分のものだという棍に、カラはうっとりと見入った。
気のせいか、カラが撫でると、応えるように表面の金文字が淡い光を持つ。
『撫でてたって腕は上がらない。 その得物は間合いを詰められたら長さの意味が薄れる。 使いこなさなきゃただの棒っきれだってことを忘れるんじゃないよ』
「はいっ! でもあの――ありがとう!!」
「礼は、私ではなくラスターに言うんだね。 彼がティルナに依頼して作らせたものだから。 精霊王殿の長が自ら、その柄の神聖文字を刻んでくれたそうだから、持っているだけでオスティルにひけを取らない護りになる」
「ラスターが? でも、精霊王殿の長って、誰……ですか?」
喜びと驚きが半々、といった表情でカラはナハを見つめた。 ナハは頭を掻きながら「そうか」と呟いた後、「ユリエール=ラウル=ティルナスという、聖都ティルナの王様のことだよ」と、親しい友人でも紹介するように言った。
「ユリエール」という人物は知らないが、「聖都ティルナの王」という響きにカラは覚えがあった。
記憶に違いがなければ、「ティルナ王」はこの大陸で最も貴いといわれる人物で、カラの大好きな英雄の一人もティルナの王になった人だ。
なぜそんな人物の名が出て来るのか、カラにはまったく解らなかった。