第1話:縁
1:縁
金目の物を頂いたら、大抵、さっさとその場を離れるのが常だった。
神官達の居住棟には、大した物は置かれていないが、神を祀る祭殿には、庶民には縁もないような、数え切れぬ金銀が眠っている。
日々の糧の多くを、盗みにより得る者にとって、神殿は宝の山のようだ。
だが、流浪の生活を強いられている貧者であっても、少なからぬ者が神を畏れ、罪を得ることを怖れていた。 それ故に、神殿に近付くことを倦厭する者も多かったが、私にとって、それは無意味な存在だった。
むしろ、十四の私は、それらを憎み、蔑んでいた。
祭殿は、厳重に護られているようで、いったん中へ入りこめば、広い空間を易々と動くことが出来た。
身長は伸びていたが、その頃の身体は肉付きのない、まだ柔軟な子供のものだったので、万が一何者かと行きあわせても、狭い通路や隙間に逃れることも、隠れ潜むことも容易だった。
この祭殿は、下っ端の衛士はいても、騎士を雇ってはいない。
間抜けな神官共は、私が幾度盗みに入り、奴等にとっての神聖な品々をいくら持ち出そうとも、一向に気付く様子はなかった。 無論、こちらも一度で気付かれるようなヘマはしない。
危険も伴うが、幾度かに分け持ち出したほうが、より多くの品を持ち出せた。
一度に扱う品は、少ない方が管理もし易く捌き易かった。
第一の目的は金だ。 しかし、それ以上に、取り澄ました神官共の知らぬ間に奴らの宝を奪い、それに気付かぬ奴等の間抜けさを嘲笑う愉快が、私の足を神殿へ向かわせた。
あれは、五度目に忍び込んだ夜だった。
進入経路は三通りあったが、その夜はいつもと違う道を探そうと試みた。 神殿の奴等がいつか気付いた時、こんなにも自分達が間抜けだった、ということを、報せてやりたい気持ちがあった。
最も神聖である祭殿に、神官共が陰で「鼠」と呼ぶ盗人が、幾本もの抜け道をつくり、多くの宝を盗み出したと知った時、奴等はどんな表情を見せるだろう? 多くの宝が失われていると知った後、鈍い頭を寄せ集め、元より蒼白な顔を、更に蒼ざめさせるのだろうかと、私は盗みを重ねる度、ひとり笑った。
しかし、全ては未熟な子供の驕りだった。
神殿の奴等は、既に祭殿から多くの品々が消えていることを知り、密かに警備を厚くしていた。 衛士の数を増やすだけではなく、腕が立つばかりの無頼の剣士ではなく、罪人への制裁権を持つ正騎士を雇い、盗みに入った輩を、確実に処する体制を整えていた。
私は騎士の剣に腕を斬られ、追い込まれた。
走り逃げる私を、騎士はゆったりとした歩みで、確実に追ってきた。
足には自信があった。 振り返り見た時に、騎士との距離はかなり離れたことを知っていた。 にも関わらず、大柄な黒衣の騎士は、すぐにも私の背後に現れ、鋭く研ぎ澄ました剣で、心臓に一突き、止めを刺すのではないかという恐怖が、私の鼓動を速めた。
遠くに、衛士達が叫び走り回る足音が聞こえる。 その先に、あの騎士の、不気味なほどにゆったりとした靴音が、聞こえるような気がした。
斬られた腕からはとめどなく血が流れていた。 その傷を縛るためにも、いったん足を止め、身を隠せる場所が必要だった。
私は光のない闇の中を、壁に手を沿わせながら、慎重に、だが必死に進んだ。
どこをどのように歩いたのか。 無我夢中で進むうちに、私は祭殿のある棟とは違う、別棟の廻廊に迷い込んだようだった。
普段は使用されていない地下廻廊なのか、空気は淀み、酷くかびた臭いに満ちていた。
照明の備えは、燭台どころか、明り取りの窓すらない。
僅かな漏光もない通路は、上下左右も分からなくなるほどの、静寂と闇に飲み込まれていた。
闇のあまりの濃さに、私の歩みは自然遅くなった。
呼吸一つすることも躊躇われるような、重い空間。 そこにいるだけで、酷い疲れを感じた。
「――こちらです」
突然、私の手首を掴む者があった。
反射的に私はその手を払い身を退いたが、相手はこの闇に慣れているのか、すぐに私の手を掴みなおし、私を行かせまいと引っ張った。
「お願いします。 信じて――ついて来て下さい」
私を掴む手は、微光もない闇に白く浮かんで見えた。
私が抵抗しないことを知ると、手の主は、私の手を改めて握り、闇に沈む通路を、迷いのない足取りで進んだ。
案内人は黒い布で全身を覆い隠しているらしく、私の手を握る手先以外、姿を知ることは出来ない。
幾重にも折れる、迷路のような通路をどれ程か進んだ頃、案内人が足を止め、正面の壁を探り始めた。 小さな白い手の探る上方に、周囲の闇と僅かに色が違う黒が見えた気がした。
手を伸ばすと、額のような枠状の物に手が触れた。 恐らくは、大型の絵が飾ってあるに違いなかった。
案内人が、額の下部をしきりに触っているので私も触れてみると、それまでとはやや感触の違う壁があることに気付いた。 軽く叩くと、そこは隠し扉らしく、奥に空間があることが分かった。
案内人は、壁の上下部分を一回ずつ押し、その後に中央を三ヵ所、静かに押した。
音もなく、扉は開いた。
案内人は、手の動きで先に室内へ入るよう促した。
一瞬の躊躇の後、私は足を入れた。
瞬間、室内の光に目が眩む。
大した照明が有るわけではなかった。 だが、長い間闇の中にあったため、強くもないその光が、私の眼には眩しかった。
私に続き室内に入った案内人は、扉を閉め、再び何かしらの仕掛けを施したようだった。
やはり、全身を墨色の外套で覆っていた。
目深に被ったフードのため、顔は未だ見えなかったが、通路で発した声と華奢な白い手から、それが女だということは明白だった。
二本の蝋燭の、仄かな黄色い灯りが壁面の燭台で揺らめいていた。
広い室内の床には、草木の図柄を織り込んだ、毛足の長い暖かな赤色の絨毯が敷かれ、壁面にも、象牙色の毛織のタペストリーが、壁面を埋めるように掛けられていたが、装飾的な調度は一切なかった。
暖かな光の揺らめく室の右奥には、紗の衝立を隔て、小さな寝所が設えてあり、衝立より少し手前には、小卓と二脚の椅子が置かれていた。
案内人は、静かに寝台の傍らへ歩んだ。
私は扉に近い場所に立ったまま、案内人の動きを見ていた。
どちらも何も言わず、静寂が空間を支配していた。 ただ時折、灯の揺らめきが周囲の影を僅かに動かした。
案内人は、寝台横の棚から小さな箱と水盤を手に取ると小卓の傍へ行き、それらをそっと置いた。
「――その装束が、あんたの制服か?」
案内人が顔を上げ、私に声をかけようとした瞬間、こちらから言葉を投げつけた。
私の声の不信は、黒い鎧のような外套を着ているためと思ったのか、案内人はゆっくりとフードを下ろし、黒装束を脱いだ。
「このような姿のまま、失礼をいたしました。 闇の中では、私の姿は目立つものですから……」
墨色の外套の下から現れたものは、全てが銀細工のように白く輝いていた。
肌も、その身を覆う長衣も髪も、全てが淡い光を帯びた銀白色。 唯一瞳だけが、淡く儚げな緑をしていた。
脱いだ装束を女は丁寧に畳むと、手近な椅子の背に掛け、改めて私に視線を戻し、微笑んだ。 女が僅かに動く度、腰よりも長く伸びた髪がしなやかに流れ動いた。
女には、見覚えがあった。
以前盗みに入った時、祭壇で祈りを捧げていた。
白銀の長い髪が印象的だった。
女が祈りを捧げている神の像に、とても似ていると思った。 だがその姿に、石像のような冷たさを感じはしなかった。
一心に祈っていたためか、像の陰に隠れている私の存在には気付かず、祈りを終え像に向かい微笑むと、月のない戸外へと出て行った。
その姿が、何故か目に焼き付いていた。
侵入者を自ら招き入れた女は、何も言わず、じっと私を見ていた。
私は女の次の動きを待った。 どう動くのがよいか、女を脅し、逃れるまでの安全を得ることが出来るか、判断に迷っていた。
張りつめた沈黙を破るように、突如、背後で鈴の音が三回響き、壁を隔てた先から、くぐもった声が呼びかけた。
「鏡の巫子様、アイルーナ様。 件の賊が闇に紛れ逃げておるそうにございます。 賊めは手傷を負っているとのことですが、こちらに変わりはございませぬか? 御身に、変わりはございませぬか?」
衛士ではないようだったが、声は壮年の男のものだった。
女は、声の方へ振り返ることはせず、私に微笑すると、涼やかな声で無事を伝え、「沈思の行」をするため、明けまでは何者も近付かないで欲しいと言い添えた。
男の気配が消えると、女はいま一度、私の様子を確かめるように見、数歩、私に歩み寄った。
私は僅かに身構えたが、それ以上に動くことが出来ず、女が近付くのを許した。
「ここへは何人も、私の許しなく入ることは出来ません。 どうか、御安心下さいませ」
私の目を見ながらそう告げると、女は私の腕に視線を落とした。
「――怪我を、しています。 手当てを、させて下さいませんか?」
女の細く長い指が、私の腕に触れた。
裂けた皮膚から流れる血に、女の白い指が染まるのを見て、私はとっさに腕を払った。
女は少し驚いた顔をしたが、少し困ったように微笑み、再び私の腕に手を添え、椅子に腰掛けるよう促した。
逆らおうとしたが、女は私の顔を正面から見上げ、「お願いします」と短く言った。
淡い緑の瞳が、真実私を気遣っていることは分かった。 その眼差しに、私は逆らえなかった。
私が大人しく座ると、女は子供のように嬉しそうに微笑み、治療を始めた。
「――あんた、巫子だろう。 ティルナの〈精霊王殿〉に行くっていう。 八年に一度選ばれる巫子の長、〈斎王〉になるっていうのは、あんただろう? 〈精霊王〉の言葉を、直接聞くことが許される、たった一人の人間なんだってな。 神の言葉を大陸各地に伝える、とても重要な役目だから、五都市の長よりも偉くて、〈神〉と同じように敬われるんだと町の噂で聞いた。 自分達の町からそんなお偉い巫子様が出たって、近隣の町の人間まで集って、キソスの町はちょっとしたお祭り騒ぎだ。 お陰で、余所者の俺でも入り込み易かったし、昼も夜も市が立って、物が捌き易い」
長い睫毛の下で、女の瞳が動いた。
間近で見る女の顔は、思い込んでいた印象より幼かった。 落ち着いた言葉遣いや所作から、私より幾つか上であろうとは思われたが、まだ少女のあどけなさがあった。
「そうですか。 町が、そんな賑わいになっているなんて知りませんでした。 お祭りなんて、楽しそう。 ――ただ、私が偉いというのは、誤りです。 敬うなど――。 私は、誰とも変わらぬ人間です。 ただ、〈精霊王殿〉の〈斎王〉、という役に選ばれたにすぎません」
女は手際よく傷口を洗い薬を置くと、裂いた布を巻いた。 その間、私は何の痛みを感じることもなかった。
「ティルナに行ったら、あんたは人でなくなるんだってな。 その〈斎王〉とかいう、神の使いになったら、年中、神とだけ話しておかなければならないんだろう? あんた、神がいるなんて、本当に信じているのか? 神を、親とか兄弟とか、本気でそんな風に思っているのか? そんなもののために自分を縛り付け、自分で自分の行動を選べないなんて、意思がない人形と同じだな」
私は女の顔を、皮肉な笑みで見下ろした。 女は真っ直ぐ私の目を見返し、「どうでしょう」と、曖昧な微笑で応えた。
「綺麗な、黒の瞳ですね。 髪も同じ色。 とても深い、夜の色。 星の美しい、澄んだ夜空の色です」
女はいったん言葉を切り、私の顔を改めて見つめた。 一瞬の躊躇いの後、ゆっくりと言葉の続きを口にした。
「――〝アドラ〟という国を、御存知ですか?」
女が口にした国の名に、私は身を固くした。
「現在はもうない国、だろう?」
女の顔を睨み、吐き捨てるように言った。
〈アドラ王国〉
九年前まで、西南スアンタ高地に在った国。
私の父が治めていた小さな国。 旧い火の神を信仰する、人口千人にも満たない、辺境の小民族国家だった。
アドラの大地は赤く乾き、農耕や牧畜には適さない厳しい環境だった。 だが、実直で勤勉な民と、地下からの豊富な恵みが、アドラを、周辺都市に負けぬ豊かな国としていた。
私の源である地。 そして、墓標の地。
その地から、私は一人、逃げた。
「あなたの面立ちは、その国の方に似ておられます。
かなり以前のことですが、私は、彼の国を訪れる機会を頂きました。 その折、国王陛下に謁見を賜りました。 ア―ゼイル=ホーン王は、大変素晴らしい方でした。 少し、厳しい姿をされていましたけれど、笑いながらお話をされる王は、とても親しげで、若輩の巫子に過ぎぬ私にも、王侯へと変わらぬ扱いをして下さいました。 鷹揚な方で、心遣いの細やかな方でもあられました。 ご家族のお話もして下さいました。 とても大切になされていることが、言葉の端々から伝わりました。 特に、一番末のお子様の事が可愛くて仕方ないと、笑っておられて。 国の人々は、異教の私に、最初こそ少し人見知りをされましたが、とても素朴で打ち解けるととても優しい、親しき人々でした。 彼の地を訪れられたことは、私の忘れがたい思い出――宝なのです」
父のことを語る女に、私は衝撃を受けた。
国政の場には、長兄以外の同席は許されていなかった。
私は、王位の第三継承者であったが、まだ幼かった故に、国の政について聞かされることは少なかった。 それでも、多少の事は次兄や母から聞かされていた。
他国の代表が訪れ、酒席を設けることは珍しいことではなかった。 だが、こんな若い女が、親しげに父と歓談したなんて、とても信じられなかった。
記憶の中の父は、アドラ王としての威厳に満ちた、厳しい表情しか残っていない。
厳格だが、出自の別なく何者にも公平であった父を、私達兄弟は誇りに思っていた。
いつも眉間に皺を刻み、閣僚に支持を下している父の顔を見たことはあっても、笑う父など、私は知らない。
私の知らぬ父を語る女の言葉に、私は苛立ちを覚えた。
女は腕の治療を終えると、卓子に置かれていた水差しから杯に水を注ぎ、私に手渡した。
「――でも、滅んだろう」
苛立ちは、声に露わになっていただろう。
これ以上話してはいけない、と心の一方が言った。 だが、私のもう一方の心は、今まで誰に言うこともなく、胸の奥底に沈めていた言葉全てを、この女にぶちまけてしまえと言った。
あの光景を、私は決して忘れはしない。
〈聖神聖教〉の信者に扇動された西都の軍に侵攻され、王族はもちろん、民までも、アドラの血を引く者はことごとく殺された。
親交の深かった異国の商人に、幼かった私だけを託し、密かに逃がした母と次兄の顔を、私の目は現在もなお、はっきりと見ることができる。
母は、私を最後に強く抱きしめ、ひとつの言葉を送ると、振り返ることなく、次兄の後を追うように炎上する王宮へと戻っていった。
駆け行く商人の馬上で見た、炎の朱と血の赤に染まったアドラの市中。
通りでは、私よりも年端の行かぬ子供が、額から血を流し、母を求め泣いていた。 そのひとつ横の路地では、衣を剥がれた女が、言葉にならぬ叫びを上げながら、兵士らしき男に抵抗を試みていたが、しばらくすると、その声は絶叫に変わった。 炎が町を飲み込み、乾いた無機質な音の中に、数え切れぬ絶叫と慟哭が絡むように混ざり、アドラを離れようとする私の耳に追いすがってきた。
商人は私に、目を閉じ耳を塞ぐように言ったが、私の目も耳も、それらを既に深く刻み付けていた。
〈聖神聖教〉の信者と、奴等に組みした西都の異神排斥論の強硬派は、エランという、奴等にとって唯一の神を讃え、旧い火の神を崇めるアドラの如き信仰を悪とし、その教えの源となる、アドラの地を灰燼に帰した。
正しき、自分達の神エランの教えを、辺境の貧しき地の民に伝え、大都市の民と同じように、エランの加護が得られるようにするのだと、奴等は喧伝していたという。
この侵略は、実際は西都がアドラの豊富な地下資源を欲し、〈聖教〉の奴等を利用して行ったのだとか、アドラの中にいた不満分子が〈聖教〉に救いを求め、ありもしない事件をでっち上げたのだとか、様々な噂話が飛び交った。
ティルナをはじめとする大神殿は、〈聖神聖教〉と西都の強硬派の行いを、厳として非難する宣言を大陸各地に向け発表し、兵の動きを止められなかった西都に、真相の究明を求めた。
五大神殿揃っての厳しい姿勢に、西都は即刻、〈聖神聖教〉信者の入京を禁止すると宣言し、アドラ侵攻に加担した者達は、造反者として極刑に処し、戦闘部隊の一部を解散させた。
西都において処断が行われると時を同じに、各大神殿を中心に、逃げ延びたアドラの民を救済する動きが大陸中に広がり、生き残った僅かなアドラの民と、支援のためアドラに移り住んだ多数の異国の民との手で、アドラは復興の道を歩み始めた。
そして、新たな〈アドラ共和国〉が誕生した。
アドラを攻めたのは、〈聖神聖教〉と西都の一部の人間であり、大神殿ではない。 ましてや、この女の与り知らぬことだと、頭では理解している。
だが、大神殿は〈聖神聖教〉と同じ神を柱とする、私には、仇に等しい存在。
そして何より、この女は誰よりもあのエランという神に近い存在となる者――。
動揺と興奮で、私の呼吸は浅くなり、目に映る小柄な女が、神殿の神像と同じ、無機質な物に見え始めた。
女は、変わらぬ静けさで私を見ていた。
むしろ、それまで以上に私が話すことを、一言も聞き漏らすまいとする真剣さがあった。
表情は私以上に張りつめ、責められた者のように、瞳には怯えた翳りがさしていた。
「〝アドラ〟という国は、現在もあります。 けれど、かつての、かの王が治められたアドラとは、まるで違うと、耳にしています」
女の言葉に、私の抑えは弾けた。
自分でも意外なことに、笑いが漏れた。
「――あんた、俺なんかといて、怖ろしいと思わないのか? 俺が子供だから、そんなに落ち着いていられるのか――」
私は、椅子を蹴り倒すように立ち上がると、杯を床に叩き付け、女の横面を、ありったけの力で殴った。
殴られた勢いで、女は椅子ごと床に倒れたが、厚い絨毯が、その衝撃と音を吸収した。
女は予想より早く、上体を起こそうとしたが、私はそれよりなお速く、女に馬乗りになり再び顔を殴りつけると、左手で両手首を押さえ、その身を覆う衣を力任せに裂いた。
女の肌は、白く蒼ざめていた。
首にかけられていた銀細工の鎖の先に、女の瞳と同じ淡い緑の貴石が光を湛えていた。 それを引きちぎり投げ捨てると、女の身体からは一切の色が消えた。
身体を縁取るように流れる白銀の髪が、灯火の光を映し、流水のように輝いていた。
憎しみに駆られた子供の目にも、女の姿は清らかで、美しかった。
「――あんたはこんなこと、されたことないだろう? 巫子というのは、祈りを捧げる神とやらに、その全てを捧げていると聞いたことがある。 一生を独り身で送るんだってな」
女は言葉なく、ただ私の顔を見ていた。
怯えるでもない、蒼白い静かな表情が、私の怒りを更に激しいものにした。
この女を、滅茶苦茶に壊してやりたい。
誰よりも、奴等の神に近いこの女を、惨めに、汚してやろう。 そんな思いが私を支配した。
それは、故郷を奪われた私の正当な権利であり、報復なのだと。
女の肌は、見た色のままに冷たく、しかし、その冷たさに反し、確かな鼓動は私のもの以上に速かった。
だが、鼓動とは裏腹の、あまりの無抵抗に違和感を覚え、私は女の顔を覗き見た。
淡い緑の瞳には、光が宿り揺らめいていた。
天井よりも遥か先を見るような眼で、無言のまま、涙を流していた。
その涙に、私は僅かだが痛みを感じた。
「――怖ろしいなら、あんたの信じる神とやらに祈ったらどうだ? 俺を遠ざけたければ、さっきの男を、呼べばいい」
女は瞬きもせず、震える唇から擦れそうな声を出した。
「――……やはり、アドラの方、ですね」
「――だとしたら、どうする? 俺を、あの騎士に引き渡すか? エラン神に下らなかった、辺境の民族の生き残りだと、見せしめに殺すか?」
女はゆっくりと視線を動かすと、私の眼を真っ直ぐに見た。 瞳に留まっていた涙は、光ながら零れた。
「大神殿は、〈聖神聖教〉を自分達とは異なる存在としているらしいが、所詮、根は同じだ。 自分達の神と教えを唯一とし、他を見下しているんだろう? あんたも俺を、侮っていたんだろう? 神殿に盗みに入りしくじった、何も出来ぬ子供と、自分が助けてやらねば命を落すだけの、哀れな小盗人の子供と同情し、だから、匿った――」
女は僅かに手を動かし、手首を押さえる私の手に、そっと自分の手を沿わせた。
その時始めて、震えているのは女ではなく、自分であることに気付かされた。 怖れているのは女ではなく、私自身であったのだと。
私は虫を払うように、女の手を振り払うと、上体を起こし、高い位置から女を見下ろした。
「怖ろしいのは、あなたではありません。 怖ろしいのは――何も知らずにいた、私自身。 あなたのどうしようもない怒りが、悲しみが、こうしていても、苦しいほどに感じられる。 けれど……」
女は目を伏せると、自由になった両手で顔を覆い、詰まりながら言葉を続けた。
「私には、あなたにかけられる言葉が、なにひとつ、思い浮かばない……のです」
声もなく涙を流す女を見ているうち、私は、自分のしようとしていた行為に躊躇いを感じ始めた。
小さな躊躇いは、自己への嫌悪感と、空虚な失望へと替わっていった。 私は女に、もうそれ以上何をする気にもならなかった。
女の上から身体を起こすと、すぐ横の床に、私は膝を抱えるように座った。
女も、しばらくして起き上がると、裂かれた衣の端を寄せ、私の斜め前に座った。
「――アドラは、〈聖神聖教〉と、西都の軍団兵に攻められた。 その一ヶ月前、アドラを訪れていた〈聖教〉の司祭が不審死をした。 その死はあまりに不自然で、〈聖教〉は即座に、アドラの陰謀だと決めつけ、西都と手を組み、アドラの人口の三倍以上の兵を送り込み、王宮を制圧し、王族を皆殺しにし、町を焼いた。
西都は、軍の一部の造反者が暴走したのだと説明したらしいが、〈聖教〉を助けた国に違いない。 そんな西都や――〈聖教〉の奴らが、いま、あの地を――」
下唇を噛んだ際に切れたのか、口の中にじわりと血の味が広がった。
いったん話し始めると、言葉は、頭の中で組み立て終わらないうちに零れ出し、もはや止めることは出来なかった。
「あんたが言ったように、〝アドラ〟という名の国はあるだろうさ。 だが、国名が同じだとしても、あの国はもう、俺の知るアドラではないんだ。 アドラの大地はあっても――そこにアドラの民はいない。 〈聖教〉の奴等が、ひとつの国をこの地上から消した。 お前達と同じ、エランを神とする、奴等が――」
女はじっと、私の言葉に耳を傾けていた。 私が言葉を途切らせても、次の言葉を待つように、ただ、私の顔を見ていた。
「――アドラの王は、アドラの神を信じる者は、最後まで闘った。 だが神は、国が滅びるのを見ていただけだ。 女達の祈りも、子供が救いを求める声も、神とやらは見も聞きもしなかった。 アドラ王を、無辜の民をも、見殺しにした。 ――神なんて、何も助けにはならない。 いくら信じたって、それは生きる上では、実際には何の救いにもならない……」
私の絞り出すような言葉に、女は僅かに俯いた。 私は私で、自分の言葉に虚しさを感じ、頭を振った。
「――違う。 神なんて元々、関係ないんだ。 事実、アドラは旧い国だったんだ。 ずっと、勧告の使者は来ていたんだ。 〈聖教〉を受け入れろと、周辺国の王までもが、説得をしに来ていた――前兆はあったんだ。 だけど王は、アドラの教えに従い、受け入れることを拒み、殺された。 きっと、奴らの言うように、愚かだったんだ。 自分達の伝統に固執し、民までも巻き込んで――。 国が滅んだら、死んでしまったら、何にも――……」
私の横には、私が打ち捨てた杯が転がっていた。 杯から零れた水が、絨毯の赤をより深い色に変えていた。 その水染みは、大地を染める血の赤のように映った。
鈍い光を返す銀の杯を拾うと、女は立ち上がり、そっと小卓の上に置いた。 続いて私の手を取ると、立ち上がらせ、起こした椅子に腰掛けさせた。
女は私の前に膝を付くと、私の顔を見上げた。 瞳からは未だ涙が零れていた。
「……何故、泣く? あんたが、したことじゃないだろう。 それとも俺が、あんたの神を責めたから、泣くのか?」
女は僅かに首を振ると、長い沈黙の後、それまで以上にか細い声を出した。
「――鏡、なのです。 私は、夜空の月と同じです。 私の前にある、あなたの心の光を映して、返しているだけなのです」
女は胸の前で手を組み合わせ、私から視線を逸らした。 その姿は、言葉を探し逡巡しているようだった。
「――けれど、この涙は私のものでもあります。 私は、アドラが攻められていることを知っても、何も出来なかった。 かの王が、民人が命を落としたことを知っても、弔いに行くことも、花を手向けることも出来なかった。 壁に囲われたこの地で、ただ祈るしか――。 私は無力で、何も出来ぬ、小さい存在であることを、思い知らされました。 ――もとより、私に何ができたとは思えませんが、〝もしかしたら〟の可能性を思い、涙にくれて……」
自分の気持ちを抑えるように、女は言葉を切り、視線を床に落とした。
「何者がしたことであれ、どのような経緯であれ、アドラに行われた、起きた事実は変えようのないものです。 私は、確かに直接に関わりはないかもしれません。 しかし、関わっていないことであれ、あなたの言葉を避けることはできません。 私は知らなくてはいけない。 ――現実に、体験することは出来ません。 けれど、私なりにあなた方の怒りを、憎しみを、悲しみを、察することは出来ます。 今だけであれ、私を責める事であなたの気が晴れるのであれば、気の済むように、いくらでも私を責めて下さい。 ですが――」
再び言葉を切ると、彼女は真っ直ぐ私の目を見た。 その瞳は、それまでにない決然とした意思を感じさせる、強い光を宿していた。
「ですが――あなたの国の王を、あなたの民族の心を、否定するようなことは、なさらないで下さい。 あなた自身を傷付けるようなことを、しないで下さい」
言葉を終えると、彼女は隠すことなく涙を流し続けた。 瞳には、彼女を見下ろす私の姿が、揺らめきながらもはっきりと映っていた。
パタと、膝に何かが落ちた。 続けて数回、同じものが膝を打った。 滴だった。
それが、自分の目から落ちていると気付くのに、少しの時間を要した。
私も泣いていた。
どうしてよいか分からず、椅子から立ち上がり彼女に背を向け俯いた。
涙を止める術を、私は知らなかった。
しばらくの間、彼女は私の様子を見守っていたが、私の脇に歩み寄ると、「触れても、よいですか?」と、躊躇いがちの許可を求めた。
私は何も答えなかった。
彼女は、一方の手で私の手を取ると、いま一方の手で頬に触れ、そっと、私の頭を自分の肩に寄せた。
並び立つと、私の方が頭半分は高かった。
彼女の肩は、触れただけで壊れそうなほど華奢だった。
頭を預けた私を、彼女は少しぎこちない仕草で、包み込むように抱いた。
細く、頼りなげな彼女の腕の温もりは、母に抱かれた遠い日を思い起こさせた。
家族と過ごした、安らぎに満ちた幸福の日々と、別離の日。 その双方が、私の中でひとつに溶け合い、溢れ出るようだった。
ほんの僅か前に触れた彼女の肌は、冷たく、凍えたものに感じられたが、今触れる手も頬も、柔らかな温もりに満ち、その温もりが、私自身が気付かずにいた胸中のしこりを、ゆっくりと融かしていくようだった。
私は、彼女の肩に顔を埋め、泣いた。
彼女もまた、私の頭を抱くようにして、涙を流していた。
どれくらいの間、私達はそうしていただろう。