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第14話:思い

   14:思い


 帰途の、疲労で意識が朦朧(もうろう)とする中にあっても、眼に焼き付いた表情が繰り返し瞼に浮かんでは、同じ疑問がたゆたう様に心の内で揺れ動き続けた。


――あれは、どういう意味だったんだろう……?


 ラスターが意識を取り戻し目覚めると、程なくしてナジャが戻って来てカラの肩に上った。

 カラの失態の所為(せい)で穴に落ち、腰を(したた)かに打ったと文句を言いながら、例の如く熱い鼻息を頬に吹きかけるナジャに、負けじと言い返そうとした時だった。


「何故、ここに――……」


 思わず口をついて出た、誰かに聞かせるためではない言葉だとすぐに分かった。

 それだけに、むしろ(かえ)って耳に入り、カラの視線をラスターの顔へと誘った。 見開かれたラスターの青の瞳に、カラの眼は引き付けられた。

 驚き。 そして、困惑。

 表情をほとんど変えることのないラスターの顔に、そのふたつの感情がありありと表れていた。 視線はカラの肩――ナジャに注がれている。

 ナジャは、ラスターの視線に気付くと、小さくしししと笑った後に、わざとらしく大欠伸をしてそっぽを向いた。 カラが何かあるのかと尋ねても、ナジャは「さてな」と言うだけで何も答えなかった。

 友人の、常にない表情の変化にナハも気付いたのか、頭を掻きながら硬直した白い顔を注視していたが、敢えて何かを質問することはしなかった。 それはエフィルディードも同じ様子だった。

 誰も言葉を発しない沈黙の間は、実はほんのわずかだったのかもしれない。 だがその時は、沈黙の時間が永遠に続くかのようにカラには感じられた。

 重苦しい雰囲気に耐えられなくなり、カラが言葉を発しようとすると、それより早くナハが地下からの引き上げを提案し、身体の辛そうなラスターに肩を貸し、カラはフィルに支えられながら地上へ向け歩きだした。

 イリスの旅籠(はたご)に帰り着くと、ラスターは再び気を失うように倒れ、ナハ達がその介抱をしている間に、カラもいつの間にか眠りに落ちてしまっていた。

 眼を覚ますと、カラはきちんと夜着に着替えて寝台に寝かされていた。 足元には、ナジャが仰向けになって気持ちよさそうに寝ている。

 秋の深まった、しんと静かに冷える空気に小さく身ぶるいをして、かけてあった毛布を引き寄せた。

 日なたの匂いのする柔らかな毛布を握る手に、窓から入る朝陽が当たっている。 乳白色の柔らかな光を受ける手の横には、青味がかった灰色の影が生まれている。 色硝子の様に透けていた身体は、確かな陰影を生みだし、その先に在る景色を透かし見ることは出来ない。

 カラは自分の手を光にかざしてしみじみ見ると、寝台の上に落ちる影の動きを眼で丁寧に追った。 手を動かすと影も同じように動く。 その当たり前のことが自分にも起きるようになり、欲しくて堪らなかった新しい玩具を手に入れたかのように、カラは様々な形の影を夢中になって作った。

 繰り返し他愛のない影絵遊びをしている内に、ふと、心にかかる事を思い出した。


「……なまえ――……」


 自分の《名》。

 憂鬱な記憶に間違いは無く、やはり自力では愛称すらも思い出すことは出来なかった。 うなだれながらペンダントを探り出し、側面をなぞってようやく、自分が〝カラ〟だということを思い出した。

 どういうことなのか解らない。

 身体に起きた顕著な変化から、《影》は確かに取り戻したのだと思われた。

 だが、おそらく《名》を取り戻してはいない。 取り戻しているのであれば、ペンダントをなぞらなくとも思い出せるはずだから。

 何がどうなっているのか分らなかったが、影が生じる様になったからといって、無邪気に浮かれていてはいけないのだと思った。

 つい先程までの湧き上がる様な喜びが、冷や水を浴びせられた様に急速に冷えて無くなっていく。


「なんだ、あんた眼が覚めてたの?」


 何の前触れもなく、扉が大きく開かれると、水差しを手にしたアルフィナが軽い足取りで入って来た。

 水差しを卓子の上に置くと、アルはすたすたと寝台の横へ歩み寄り、カラの額に手を当てた。


「熱は下がってるわね。 起き上がってるってことは大丈夫なんだろうけど、どう? どこか痛いとか気分悪かったりはしない? お腹は減ってる? あんた丸一日以上寝てたのよ。 動けないなら朝食ここに運ぶけど、動けるなら皆と食堂で食べた方がいいわよね?」


 はきはきと言葉を並べたてるアルの髪は、いつの間にか黒に戻っている。

 初めて会った時と同じく、黒の長い髪を左右でみつ編みにして揺らし動く姿は、すっかり元気を取り戻しているようだった。

 何も言わずアルを見ていたカラの顔を、アルは少し不機嫌に見た。


「ちょっと、なんとか言いなさいよ。 それともなに、声が出せないほど具合が悪いの?」


 怒っているのか心配しているのかわからない口調で不満を述べると、アルは黒の力強い瞳でカラの金の瞳をじっと見つめた。 悪いことをしたわけでもないのに、カラは気圧され、胸元に引き寄せた手元に視線を落としもじもじとした。


「ううん、大丈夫。 みんなと一緒に食べる、よ……」


 言いながら、上目遣いにアルの顔を見ると、アルはとっておきのような綺麗な笑顔をしていた。


「そう。 じゃあ、そうイリスに伝えてくるわ。 着替えはそこに置いてるから、着替えたら食堂に来て」


 言いながらアルは扉へ向かい、入って来た時と同じくはずむような軽やかな調子で廊下へ出た。

 扉を閉め切ろうとした時、アルは一瞬動きを止め、じっとカラへ視線を向けた。 なにごとかと思い、かといって何か言うと言い負かされそうな気がして、カラも無言でアルを見返すと、アルが少し頬を染めて「おかえり」と、小さな声で言って扉を勢いよく閉めた。

 扉の閉まる音に起こされたのか、ナジャが不機嫌そうな寝ぼけ顔でカラを睨み、硬い尾をばたばたと動かして足を叩いたが、カラはいっこうに痛みを感じはしなかった。

 帰って来たんだ。 約束通り、皆で。

 つい先程落ち込んだ気持ちは、また振り戻されるように、くすぐったい喜びへと変わった。 自分でも驚くくらい、ころころと入れ替わる感情がおかしかった。

 用意されていた服は暖かくて、鼻を近付けるとやはり日なたの匂いがした。 その匂いを吸い込むと、気持ちもほわりと暖かになる。


『まったく、いつまでたってもとろくさい餓鬼だな、早く着替えて動かんか。 お前の為に浪費した体力が戻らんで、ワシは腹が減っておるんだ。 そら、ぐずぐず待たせるな』


 不機嫌そうに寝台の上で文句を言うナジャの言葉にむっとしつつも、カラは慌てて着替えると、当然の様に肩によじ登ったナジャを連れて食堂へと向かった。

 食堂へ入ると、男三人が席に着いていた。

 やはり寝起きなのか、ナハはぼさぼさの髪を無造作に束ね欠伸を噛み殺していた。 残り二人は知らない顔だった。 そして、予想はしていたが、やはりラスターの姿はなかった。


「へえ、本当に金の瞳をしてんだ。 俺、初めて見た、本物のオスティルの瞳ってやつ」


 赤毛の、カラより三、四歳年上と思われる少年が、椅子の背に全体重をかけて、反り返る様にもたれながら、髪と同じ赤茶の眼をくりくりさせてカラの姿を見ていた。

 よくよく見れば、この少年には見覚えがある気がする。 表情の大きい人懐こい顔をカラも思わずじっと見返し、どこで会ったかを思い出そうとしていると、あっさりアルの口から答えを聞くことになった。


「エイリナ、あんた椅子を壊す気? もうちょっと行儀よく座りなさいよ」


「いいだろ。 だってこの方が楽なんだからさ。 一昨日、真夜中にあんなに頑張ってやったんだから、少しくらい大目に見ろよな」


「それはもう充分にお礼言ったでしょう? あの後からうちに居続けてることにも文句言ってないんだから、十分大目に見てるわよ」


 パンを盛った籠を食卓の上に置きながら、アルはエイリナを横眼で睨み、厨房に戻ろうとする際に、入り口に立っていたカラの存在に気付いた。


「なに突っ立ってんのよ。 あんたの席はここよ、さっさと座って。 ナジャの分は窓の横に置いてるから食べてていいわよ」


 ナハの隣の椅子を引き出して示すと、アルは急ぎ足で厨房へ入っていった。 アルの言葉を聞くと、ナジャはするりとカラの肩から降り、さっさと自分の食事の場に向かった。

 カラの席の隣に、こちらはまったく見覚えのない、蜂蜜色の髪と澄んだ水色の瞳をした青年が座っている。 こちらの青年も、エイリナと同じくカラをじっと見ていたが、カラと視線があうと、はにかむようににこりと笑った。 人好きのする柔らかな笑顔につられ、カラも思わず笑顔になる。


「はじめまして。 僕、イシュア=ワイウォルといいます。 皆さんにはシュアと呼んで頂いてます。 色々あって、いまこちらでお世話になっているんです」


 椅子から立ち上がり、カラの前までやってきて丁寧に挨拶をしたシュアは、右手をカラへ向かい差し出した。 一瞬何をすればいいのかわからなかったが、カラも慌てて右手を出してシュアの手を握り返し、左手でペンダントを探り当て、カラという名を名乗った。

 少しだけ目尻の下がった眼でカラの顔を改めて見ると、シュアは嬉しそうにおっとりと微笑んだ。


「カラ君の瞳は、とても綺麗ですね。 明るい月の、優しい金色です。 僕、オスティルの瞳というものを知らなかったんです。 でも君の瞳を見て、知りました。 本当に綺麗です。 その瞳は、ご両親からの素敵な贈り物ですね」


 シュアの言葉は、なぜだかするりとカラの中に入って来て、身体の内をゆっくりと温めていく。 広がっていく温もりが、瞳から零れ出る涙となって流れ落ちた。 自分でも驚くほど、ぽろぽろと次々に零れ落ちて気恥かしさを覚えたが、止めようにも止まらない。

 突然涙を流し出したカラに、シュアは慌て、前屈みになって自分が何か悪いことを言ったのならば申し訳ないと謝罪を口にした。


「違うよ、オレ、多分すごく嬉しくて、それで勝手に涙が出てるだけなんだ」


 袖で眼と鼻をこすると、カラはシュアになるだけ元気に笑ってみせた。

 少し気遣わしげな表情を残したものの、シュアもそれ以上は何も言わず、カラを促して一緒に席まで戻り着席をした。 そこへアルとイリスが、湯気の立ち上るスープ鍋と彩りの良い生野菜とゆで卵の和え物を運んで来た。

 配膳が終わり、二人が席に着いた時、エフィルディードが静かに入室してきた。


「フィル、ラスターの様子はどう? 眼を覚ました?」


「いえ、まだ寝ておられます」


 席から乗り出すように訊いたアルへ視線を向けると、フィルはゆったりとした調子で答えた。


「ラスター、ひょっとして帰って来て倒れてから、ずっと寝たまま……なの?」


 暗い顔で尋ねたカラに、フィルは柔らかに微笑むと、肩に乗せていたキラルフィーズを降ろして席に着いた。


「アラスター殿には、今は休息が何より必要なのです。 お二人とも、どうぞあまりご心配なさいませんように」


「さあさ、冷めないうちにいただきましょう」


 イリスの言葉で、食事は始まった。

 焼きたての温かなパンは、外皮はさっくりと香ばしく、内側はふんわりと柔らかで、口に入れると、ほのかな甘味とほんの少しの塩味が口の中に広がる。 豆を裏ごし牛乳でのばした綺麗な緑色のスープは、口当たりが柔らかな上に塩気と豆の甘味が絶妙で、飢えた口と腹を喜ばせた。 あまりに美味しくて、ついついパンとスープだけをがつがつと食べていたら、横から手が伸びて来て、空になったスープ碗を取り上げた。


「あんたね、食事はゆっくり落ち着いて食べるもんよ。 そんな食べ方じゃ味も分かんないでしょう!」


 怒る様に言いながら、アルは自分の前に置いていた鍋からスープをよそい、碗をカラの前に無造作に置いた。


「ご、ごめん」


 怒られたことにしゅんとなったカラに、イリスがくすくすと笑って助け船を出した。


「カラは、美味しかったから急いで食べてしまったのよね。 アルも良かったわね。 いつもより早起きして、丹念に作った甲斐があったでしょう?」


 イリスの言葉に、アルは一瞬反論しようとしたが、すぐに口をつぐんで、黙々と食事を続けた。

 一連のやり取りを聞いて、首を傾げたエイリナが、空になったスープ碗をアルの眼の前に突き出して、自分にもお代りを要求すると、アルは無言で奪い取る様に碗を受け取り、突き返すようにエイリナの前に置いた。

 不機嫌なアルの態度に更に首を傾げると、エイリナはパンを頬張りながら眉間に皺を寄せた。


「なんかさ、アル、俺とその金眼の小僧に対しての態度違わないか? 将来の嫁につれなくされて、俺ちょっと傷付いたんだけど。 なんか俺、差別されてる気がする」


「差別してんじゃないわよ、区別してんのよ。 妄想が止まらないあんたに下手に優しくしたら、更に迷惑な勘違いが増すのは眼に見えてるもの」


 つんと言い返すアルに、エイリナは食事を続けながら、反論を続ける。


「まぁた、そういう憎まれ口を言うんだから、お前って仕方ねぇよなぁ。 一昨日の晩、俺に助けを求めた時の素直さを思い出せよ。 俺の耳と美声が必要だって言った時のアルの顔は、本当に最高に可愛かったぜ」


「あの時手助けを求めたことは事実だけど、自分に素直に、あんたには距離を置いた態度を取ってるのよ。 あんたの能力には素直に敬意を示すし協力してくれたことにはいくらでも感謝はするけど、あんたに媚びる気はまったくないから」


「なにカリカリしてんだよ? あ、ひょっとしてお前まだ体調悪くて精神不安定とか? よし、なら俺が腹一杯になる前に歌ってやるよ。 とっておきの元気になる歌だぞ」


 食べかけのパンを食卓の上に置くと、エイリナはすっくと立ち上がり、大音声で歌い始めた。

 その声は、エイリナの外見や内面とはまったく違っていた。 優しく柔らかく、中性的で繊細な美しく澄んだ声。 聴いている内に身体がふっと軽くなり、何故だか気持ちが明るくなる。 夢を見ているような心地になる不思議な響きの歌声は、あの夜、地下でカラに力を与えてくれた歌声に似ている。


「この声、あの時の歌声に似てる……」


 ぼそりと呟くように言ったカラに、相変わらず寝むたそうなナハが、顔を近付け小声で話し始めた。


「地下でカラが聴いたのはエイリナの歌声だよ。 彼の歌声はとても特別でね。 聴いた者を癒し力を与える。 アルがね、エイリナに頼み込んであの晩地下に向かって歌って貰ったんだよ。 カラや私達の手助けになる様に、慎重に考え抜いた頃合いと歌を届ける位置を見計らってね。 アルは地下へ行けなかっただろう? その代わりといった訳ではないだろうけど、何かせずにはいられなかったんだろうね。 エイリナはエイリナで、アルに頼み事をされたら、その内容が何であれ喜んでしまう、まあ、素直な奴だからね」


 色々な意味で、思いもしなかったナハの言葉に眼を丸くすると、カラはエイリナとアルの顔に視線を向けた。 エイリナは見られていることに気付かず、アルに注意されても自分の調子で歌い続け、カラの視線に気付いたアルは、何を見ているのかと、不機嫌な視線を返しただけだった。

 首を竦めるように視線を自分の手元に戻すと、カラは一瞬考えて、俯いた。


「……エイリナの歌、ラスターには聴こえなかったのかな? だって、ラスターは元気にならなかったよ。 まだ眼が覚めないなんて、ラスター、本当に大丈夫なのかな……?」


 沈んだ声でぼそぼそと言ったカラの背を、ナハは軽く叩いて、にっこりと笑って見せた。


「薬の効き目は人それぞれ違うものだからね。 ラスターが目覚めないのは、アルが目覚めなかったのと同じで、寝ることで体力を回復しようとしているからだよ。 ――とは言っても、まあ心配なものは心配だろうから、食事が終わったら見舞ってみるといい。 想像であれこれ思い悩むよりは、行動に移した方が解決が早い場合もある。 思う存分あいつの寝顔を観察できる、いい機会かもだよ?」


 のんびりと笑いながら、ナハはくしゃりとカラの頭を撫でた。 ナハの手は気持ちが良い。 温かかったりひんやりとしていたり、その時々に求める心地よさで、いつもカラに力を分けてくれる。 きっとラスターも同じ安心感を、ナハに抱いているのだろうと思った。


 食後、皆がそれぞれに散ると、カラはナハの助言に従い、ラスターの見舞いに行くことにした。 ナジャは部屋に戻って寝ると言って、いつも通りカラに部屋まで運ばせ、早々に寝台の上で寝息をたて始めた。

 ラスターの部屋はカラの部屋の隣だった。

 自室を出て、一瞬の躊躇の後、扉を三回叩いた。 内側からはやはり返答がなかったので、必要な分だけ扉を静かに開けると、滑り込むように入り、音をさせないように閉めた。

 室内はそれなりに暖房が効いてほんのりと暖かかったが、しんと静まり返っているせいか、どことない肌寒さを感じさせる。

 そっとラスターの寝台の横まで行くと、瞼を閉じたままの顔に視線を落とした。

 元から色白の、血色が良いという肌色ではなかったが、その顔色は、やはりとても青ざめて見える。 長い金の睫毛も眉毛も、僅かにも動くことは無く、胸部が規則的に上下していなければ、生きているのかそうでないのかも判らない。

 そろりと手を伸ばし、ラスターの頬に触れてみた。 

 カラの手よりやや低い印象ではあるが、確かな体温を感じてほっと胸を撫で下ろすと、壁際に置いてあった椅子を持ってきて、腰を下ろし、ただひたすらにラスターを見続けた。

 ナハの言葉ではないが、寝ているラスターをこんなにしっかりと見るのは初めてだった。 旅の間も、キソスに着いてからも、ラスターはカラが寝てから眠り、カラが目覚める前に起きて活動を始めている。 それに何も疑問を感じることはなかったが、半年以上も共に旅をしていて、寝顔を一度も見たことが無いというのは、不思議なことなのかもしれない。


「……オレが、頼りないから、寝てられなかったのかな……?」


 否定的な思いばかりが頭に浮かぶ。 いけないと思い、カラは頭を振って、丸まった背中を真っ直ぐに伸ばした。

 見慣れた騎士の服とは違う、襟元のややゆったりとした服を着ているせいで、首筋から胸元にかけての肌がのぞき見える。

 普段は、内服で覆われ見えることの無かったそこには、腕や指先にあるのと同じ赤色の紋様――刺青が彫られている。 地下で見た時のような光は帯びていないまでも、その紋様は、どこか近寄り難いラスターの雰囲気を具象化したような、取りつき難い印象を見る者に与える。 美しいのだけれど、他を寄せ付けない頑なさが漂う。 それはまるで呪いのようだと感じられてならない。

 ひょっとして、この刺青は全身にあるのかと思い、襟元から、服の内側を覗き込もうとすると、背後から襟首を掴み引っぱられた。


『昼の日中から子供が夜這もどきの行動をとるとは、あまり褒められた行為ではないな』


 慌てて立ち上がり振り返ると、シリンがカラの真後ろに立っていた。 濃い青の瞳は、言葉とは裏腹に愉快そうに笑っている。


「し、シリンさん」


『〝さん〟は要らん、私のことは呼び捨てにしろ』


 言いながら、シリンはカラの姿をじっくりと見、地下でした様に、突然カラの両頬を摘んで引っぱった。


『良かったな、《影》なりと取り戻せて』


 シリンの言葉に素直に喜べず、カラは曖昧に頷いた後、離された頬をさすりながら再びラスターの顔に視線を戻した。


「シリンさ……は心配じゃないの? 連れのラスターが眠ったまま起きないのに。 シリン達はラスターを護る為に一緒にいるんだよね? なのに、護る相手がこんなふうになって――オレのせいでラスターがおかしくなっちゃったのに、オレのこと怒ってないの?」


 最後の方は、消えるような小声で言ったカラの後頭部を、シリンは軽くはたいた。


『カラ、お前、存外心配性だな。 こいつはたまにこういうことがある。 こうなることも解った上で、こいつが望んでしていることだ。 確かに我等はこいつを護る為に共にあるが、行動の全てを禁じることは出来ない。 お前の為の行動の結果病臥したとしても、我等がお前を責めるのは筋違いだ。 時が来れば目覚める、気に病むな』


 仰ぎ見る様に、カラはシリンの顔を見上げた。 不安に揺らぐ視線を受け、シリンは苦笑気味にひとつ息を吐いた。


『――そんなに、ラスターが心配か?』


 即座に首を縦に振ったカラを見て、しばし考えた後、シリンはラスターの額の上に手をかざした。


『もう少し寝かせておいてやりたいところだが、確認したいこともあるからな』


 呟くように言うと、シリンはカラには意味のわからない(ことば)をゆっくりと口にした。 ラスターの額に紋様のような白い光が浮かび、少しすると雪が融ける様に消えた。

 ゆっくりと、瞼は開かれた。

 一度瞬きをすると、ラスターは自力で上半身を起こした。 僅かの間、何かを考えるように俯いた後、寝台の横に立っているカラへ視線を向けた。


「――ラスターっ!」


 カラは思わず寝台に飛び乗って、ラスターの身体にしがみついた。 何を言ってよいか分からなくて、ただ嬉しくて、そして悔しくて、しがみついたまま大声を上げて泣いた。

 ラスターは、しがみ付かれた時こそ僅かに驚きの反応を示したが、特に言葉をかけることもなく、カラの気の済むようにさせた。

 ひとしきり泣くと、カラは今さらながら気恥かしくなって、顔を俯けたままラスターから離れ、鼻を啜りながら自分の感情が落ち着くのを待った。


「君が何故泣くのか、私にはわからない」


 いつものラスターとは違い、呟くような言葉だった。 顔を上げて見ると、ラスターは真っ直ぐにカラの顔を見ていた。

 ラスターの静かな動かぬ表情に、カラは無性に腹が立ってしまい、止まりかけた涙が再びぽろぽろと零れ始めた。


「なんでって、心配だったからに決まってるじゃないかっ! ガーランを探しに行ったまま戻って来なかった時からずっと心配だったんだからっ。 地下でやっと会えて《宝》を取り戻せたと思ったら、ラスター倒れちゃうし起きないし……オレのせいで、ラスターが死んじゃったらどうしようって、怖かったんだからっ。 だから、だから――……」


 零れ続ける涙を袖で拭い、カラは深く俯いて黙り込んだ。 これ以上何かを話そうとすると、また大声を上げて泣いてしまいそうで、それはもう嫌だった。

 拭っても拭っても、ぽろりぽろりと零れる涙を持て余し始めた頃、ラスターがカラの頬へ手を伸ばして来た。 カラの頬の涙に触れ、そっと拭うと、涙の滴の付いた掌をじっと見た。


「――私には、いまの君のような感情が……うまく理解できない。 君の言葉を聞いてもなお、その涙が何の為に流れるのか、真にはわからない」


 表情は、いつも通りの淡々としたものだったが、声や言葉から、ラスターが戸惑いを感じているように感じられて、カラの涙は好奇心に押され引いていった。


「……ラスターは、泣いたことないの? 悲しいとか、悔しいとか、あと嬉しいとか、泣きたい気持ちになったこと、ないの?」


 真っ直ぐに見詰めるカラの瞳から、ラスターが珍しく視線を逸らした。


「――ない」


「一回もないの?」


「ナハによく言われる。 私は感情の起伏が乏しい故に、自身の(まこと)の感情だけでなく、他人の感情にも鈍感なのだと。 泣きたいと思ったことは、もしやあったのかも知れない。 だが、涙を流したことは一度もない」


 言い切ったラスターの横顔は、何を考えているのか分らないというより、心がそこにはないような、どこか虚ろな様子に感じられる。

 ラスターの過去について触れたナハの言葉を思い出した。 ラスターは、孤立を強いられる環境にずっと置かれていたとナハは言っていた。 孤立、とはどんな状況だったのだろう。 両親やきょうだい、友人といった人々はいなかったのだろうか? カラと同じように――……。


「あのね、ラスター……」

『もう十分であろう?』


 氷の様に冷たい声が、カラの言葉を遮った。

 声の発せられた方へと視線を向けると、サーラムを最前に、ラスターを護る精霊達が揃っていた。

 一番奥に居る、青味を帯びた黒髪に、シュアと同じ淡い水色の瞳をした男が、穏やかな笑みをカラに向けた。


『そなたに直接会うのは初めてだな。 私は〈水〉のイ―ディという』


 言いながら近寄って来たイ―ディは、カラの瞳を見詰めながら、そっと両手でカラの頬を包み、さらに身体をなぞる様にゆっくりと触れていった。


『いまは何もせぬ。 力を抜いて、楽にしていい』


 シリンと初めて会った時と同じく、恐怖は感じないが、身体の自由はきかなくなった。 為されるがままに大人しくしていると、少ししてイーディは手を離し、柔らかな笑顔を見せた後、背後の精霊達に視線を向けた。


『〈器〉の内の流れに淀みは無い。 この者は既に健康体だ。 耐えられるだろう』


『――ならば、おいカラ、ここへ来い』


 シリンに呼ばれ、一瞬戸惑いラスターの顔を見た。 意外な事に、ラスターの顔にも僅かな緊張が見て取れた。 何も言わないが、おそらくこの状況は、あまり好ましいものではないのだと感じた。

 それでも行かざるを得ない気がして、カラはのろのろと動いて、精霊達の中に入った。

 カラが不安げに見上げると、シリンは胸元から小さな光珠を出し、カラの前に差し出した。


『これを、生き返らせてみろ』


 シリンの言葉と共に、光珠がひと抱えはある大きさに膨張し、光が消えると床の上には、頭部と胴体が分かれたガーランの死体が置き去りにされていた。 美しい黄金の毛並みは色褪せてごわつき、左の翼は失われ、額の第三眼も潰れて無くなっている。 カラの知る、気位の高い凜とした姿からはかけ離れた、無残に哀れな姿だった。

 思いもかけなかった姿での再会に、呆然と言葉を失くしていると、横からティダが寄って来て、カラの肩にそっと触れた。


『カラ、驚いただろうが、やってみてはくれんかね? お前さんの得意の治す力で、この有翼獣を元の姿に戻してやってはくれないかね?』


「で、でもっ、オレ、怪我が治る様にしたことはあるけど、こんな……こんな死んじゃったのを生き返らせたことなんてないよ。 頭と身体が離れちゃってるのに、できないよ、そんなこと」


 頭が混乱し、膝が小刻みに震えている。 そんなカラの様子を見て、シリンが手を伸ばし頬を引っぱった。


『否定は、やってみてからだ。 傷を治すことと大きくは変わらぬ、あまり構えることはない。 この離れた首が繋がり、鼓動がし、温かな血が通い、呼吸をし、瞳を開き、手足を動かす――お前が覚えている、有翼獣の生きた姿を頭に浮かべ、その姿に戻る様に念じるだけだ。 やり方はもちろん、お前のやり易い自由な方法でいい』


「シリン、やはり――……」


 ラスターが言葉を挟もうとすると、サーラムが手を上げて言葉を制した。


『これは必要な過程と、そなたも理解しているはずだ』


 およそ感情と言うものを排除した、硬く冷たい声でサーラムが言うと、ラスターはしばし沈黙し、寝台から降りてカラの横へ来て膝を着いた。


「――カラ。 試みて、貰えないだろうか?」


 思いもよらぬ言葉に、弾かれるようにラスターの顔へ視線を移した。 ラスターは感情の読めない、元通りの顔をしていた。

 理解できない指示だが、この状況を変えるには、それ、をするしかないのだと察した。

 動揺は収まらなかったが、カラは深く息を吐き出すと、意を決してガーランの身体に触れた。

 予想と異なり、その身体は未だ微かに温かく、硬直していない。 落命して間もないのか、死臭もしない。

 カラは、再び息を長く吐くと、ガーランの頭と胴が繋がる様に丁寧に置き直し、その傷の上に両手を重ねて置き、額を着け眼を閉じた。

 瞼の内側に、翼を広げのびやかに動くガーランの姿を思い浮かべた。 曖昧な輪郭を正確に描き出す様に、嘴の端から尾の先まで、詳細に再現し魂を宿すように思い浮かべ、その姿形を確固としたものに描き終えると、ふうっと長い息を傷口に吹きかけ、「生き返れ」と、心の内で強く念じた。

 額に熱を感じ、瞼の内のガーランの姿が白く輝き始めると、現実のガーランの身体も白い光を帯び、その光はみるみる眩しい輝きに変わり、終いには周囲をも鮮白に染めていった。


 ラスターに肩を抱かれ起こされるまでの間、カラは意識を失っていた。 朦朧とする意識の中、額に熱を感じ無意識に手を当てた。 額とは正反対に、氷の様に冷えた手が意識を引き戻していく。 自分が、先程まで何をしていたかを思い出し、肩を支えてくれているラスターの顔を見上げた。


「ガーラン、ガーランは?」


 ラスターは何も言わず、カラの身体を離すと、視線をカラの先の床に落とした。

 カラも慌てて視線を前方へ移した。

 黄金の、美しい毛並みの獣が、眠りから覚めたようにゆっくりと身体を起こし、立ち上がろうとしていた。 一対の大きな翼をひとつ羽ばたかせ、立ち上がると気持ち良さげに大きく伸びをして首をひとつ振った。 額の第三眼は、双眸に負けぬ艶やかな光を宿している。


「――ガーラン、生き返ってる」


 喜びよりも、驚きが頭の大部分を占めた。

 つい先程まで、頭と胴が完全に離れていた。 左の翼は失われ、第三眼も確かに潰れてしまっていた。 だが、いま眼に映る有翼獣の姿は、ラスターの肩で誇らしげに翼を広げていた時の姿そのままだ。

 ガーランは主人であるラスターに気付くと、駆けながら翼を羽ばたかせ、飛び付く様に肩に乗り、額を幾度も主人にすりよせた。 その懐かしい姿を見て、間違いなくガーランは生き返ったのだと思えた。

 しかし、みるからに喜んでいるガーランとは対照的に、ラスターの顔は強張って見える。

 自他とも認める様に、表情が決して豊かではないラスターだが、ガーランにだけは柔らかな顔を見せていた。 それなのに、甦ったガーランがいくら甘えても、硬い表情を崩さないのはおかしい。

 その違和感は、不安を呼ぶ。


「ラスター、どうかし……」


 背後から突然口を塞がれ、右腕を捻り上げられながら強制的に立ち上がらせられた。 掴まれた腕が、火で(あぶ)られてでもいるかのように熱く痛む。 吸い込む空気も、まるで熱湯を呑み込むかのように熱い。 身体を捩り逃れようとしたが、身体が思うように動かせない。


炎帝(サーラム)、その手を離せ」


 ラスターの、聞いたこともない強い語気の言葉が耳に入った。


『出来ぬ。 かつてのそなたの予言が真となったのだ。 必然の措置を取るまで』


――ラスターの、予言……?


 息苦しさと痛みで、意識が遠のきそうだった。 自由に動かせる左手で、何かできないかともがいてみたが、状況は僅かにも変わることはなかった。

 何がどうなっているのか分らない。

 何を、話しているのかも解らない。

 ただ、この状況を招く理由は、自分にあるということだけは判った。


 怖い。


 自分の何が、こういう状況を招いているのかが分からず、何を考えればいいのかすら分らない。


『まあまあ、炎帝(サーラム)よ。 現在(いま)のその子に、何が出来るでないことは、お前さんもようく解っておるだろう? さあ、子供をそんなに苦しませてはいかんよ、離しておやりな』


 ティダの、穏やかでゆっくりとした声が、流れ込む様にカラの耳に入った。 その言葉が響いて少しすると、口を塞ぐ手がまず離され、その後少しして右腕も自由になった。 

 べっとりした冷や汗が流れている。 肩で息をしながら掴まれていた右腕を見ると、焼けるような痛みを感じた部分に変化は何も無く、痛みも今は全くなくなっている。

 がくりと膝が崩れ、床に(うずくま)るように座り込んだ。 恐怖が波の様に押し寄せ、身体ががたがたと震えだした。 怖くて顔を上げることが出来ない。 氷のような〈火〉の精霊が、冷淡な青白の瞳でカラを見据えていると思っただけで、身体が委縮していく。

 背に、ふっと手を添えられた。

 視線を少しだけ上へ向けると、ラスターがサーラムとカラの間に入ってくれている。 それだけのことではあるが、カラは安堵を覚え、上半身をようやく起こすことが出来た。

 盗み見る様に周囲へ眼を向けると、精霊達はやはりカラとラスターに視線を注いでいる。


『我等の目的は同じであるはず。 新たなエランなど、不要』


 サーラムの言葉は、刃の様に鋭かった。

 (とき)が進むことを止めたように、場は、凍えた静寂に包まれた。


挿絵(By みてみん)

ここまでお付き合いくださり、本当にありがとうございました。

話は第五章『双眸の空の青』に続きます。

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