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第13話:奪還

   13:奪還


 薄い、眼には見えない膜にでも突っ込んだような不可思議な感触が全身を包んだ。

 僅かな息苦しさもあったが、構わず足を前へと進めると、カラの身体は転がり込むように目的地である集会堂に入ることが出来た。

 入った瞬間、周囲が爆ぜるように白く鮮烈に輝き、薄暗い闇に慣れた眼を鋭く貫き痛めつけた。 突き刺すような痛みは少しの間で去ったが、眼が状況に慣れるには更に数拍の時間を要した。

 まだ軽い痛みは残っていたが、カラは意を決して眼を大きく開き、目的地と言われた場の状況を把握しようとした。

 熱せられた風がゆるく吹き続けている。 根拠はないが、先程感じた膜の正体は、この吹き続ける風が作る壁だったのではないかと思った。

 身体に絡みつき離れていく、眼には見えない風の流れを追うように視線を巡らすと、自然、眼は空間の中央へと誘われる。

 青白い、煌々(こうこう)と燃え上がる炎の花が咲き乱れていた。

 とても地下とは思えない、天井の高い広々とした空間の、ちょうど中央を大きく取り囲む柵のように炎花の帯が広がっていた。 揺らめき輝く炎の花は天の星々の様で、見ようによっては天河が地上に降りてきて円を描いているかのようだった。

 その花々の隙間から覗き見える内側で、二人の人物が距離を置いて向き合っている。

 両者はじっと睨みあったまま動かないかと思うと、突然、舞いでも舞うかのように縦横に動いては剣を激しく交える。 その時に生じる振動と音が、先刻来この地下を揺らし騒がせていたものの正体なのだと理解した。 最初にカラの眼を痛めつけた閃光も、彼等の剣の交差が生み出す副産物のひとつだった。

 短剣を構えた一人は全身黒の、どのような動きも妨げない身体に密着した細みの衣を身に(まと)い、長剣を手にするいま一人は、恐らく元は純白だったであろう衣の大部分が不安を覚えさせる赤黒に染まっている。

 一切の穢れを寄せ付けぬような白の衣に、やはり清浄を想起させる青の腰帯、それらを護るような堅実な黒茶の革手袋と長靴を端然と着こなしていた姿からはかけ離れた様だが、戦っている一人は見紛うことなくラスターだった。

 カナルは、ラスターの戦っている相手が〈闇森の主〉だといった。 〈(うつわ)〉が変わっているが、間違いなくカラの《ふたつの宝》を奪った魔物の長なのだと。

 だが、カラの瞳に映る〈闇森の主〉であるという男は、まだ青年と呼ばれる年齢に達してそう間の無い、身体の線は細く、顔立ちも(いささ)かの険呑な雰囲気を取り除けば幼さすらも残っていそうな若者だった。 動く度に流れ動く白銀の髪からは、むしろ邪悪なものは感じられない。

 本当にこれが、カラから《名》と《影》を奪った、あの枯れ木のように萎んでいた魔物なのだろうか。

 戸惑いつつ、その姿を詳細に観察しているとあることに気が付いた。

 左右色違いの瞳の、右がカラの瞳と同じ金の色をしている。 自ら光を発するように輝いているということは、この〈器〉になっている青年もおそらくはオスティルの瞳の持ち主なのだ。


『ようやく来たか』


 頭上から、すうっと新鮮な風が吹き下りて来ると同時に男の声が降って来た。 下りて来た風に上向かせられるように顔を上方へ向けると、長い薄金の髪を宙に広げた男がカラの顔を見下ろしていた。 頬杖をつき、横たわる様に宙に浮いている男の濃い青の瞳を見ていると、その内へ吸い込まれ落ちるような錯覚を覚えた。

 はっとして視線を外し頭を振った。


『ほう? 精霊と長く眼を合わせることが危険ということは知っていたか。 さしずめカナルにでも言われたか?』


 明朗な表情と口調のお陰で、これといった近寄り難さを感じることはなかったが、この男――精霊は、カナルやティダのようにとても大きな力を持っていると直感した。 恐怖を感じるわけではないのに肌が粟立ち、押さえつけられるような圧迫感を全身に感じる。 おそらくは、ティダとカナルが言っていたラスターを護る精霊の何れかなのだろう。


「あ、あの、あん……あなたがラスターの〝連れ〟の〈風〉の精霊……です、か?」


 おそるおそる訊くカラの顔をしばらく無言で見た後、精霊はにやりと笑った。


『いかにも。 だが、なぜ私が〈風〉の精霊だと思った? 〈火〉や〈水〉の可能性もあるだろう?』


「風。 風が言葉と一緒に下りて来た、し、あんたの周りに、風が生きものみたいに動いている、感じがする……から……」


 一語一語を怖々と口にしたカラの前に、〈風〉の精霊はふうわりと下り立つと、長身の背を少し屈めカラの顔を改めて覗き見るように見た。


『まあ、最低限の観察力と判断力はあるようだな。 私はシリンという。 お前のことは知っているから名乗りは無用だ。 あそこに立っている青銀の髪のやつが〈火〉のサーラム』


 シリンが軽く指差した先に、シリンよりも更に長身であろう男がラスターの戦いを無表情に見ていた。 〈火〉の精霊ということだが、彫像のような横顔から感じる気はとてつもなく冷たく、傍に寄ると肌が斬り裂かれそうな、冷厳な印象を滲ませていた。


『〈地〉のティダに聞いているやもしれぬが、我等はラスターの身を護るためやつと共にある存在。 お前とは関わりの無い存在。 故に我等がお前を助けることはない』


 突き放すように発せられた言葉に、カラは一瞬気圧された後に小さく頷いた。 すると、シリンは屈めていた背を伸ばし、悪戯気な笑顔をして見せた。


『直接には、な』


 言わんとすることが分からず困惑顔をしていると、シリンはおもむろに右手をカラの額にかざした。 淡い金の髪が、さざめくように揺れた。


『お前、ティダからの護りを得ているな。 まああの爺様は面倒見がいいから、こんなチビの難儀を棄て置くことはすまいがな』


 おそらく他意の無い言葉にむっとして睨みあげると、シリンはくっくと愉しげに笑ってカラの額をひとつはたいた。


『ああ、お前は〝チビ〟なことが劣等感につながっているのだったな。 まあいいから動くな。 私からも護りをひとつやろう』


 言いながら、シリンは再びぴたりとカラの額に手をかざすと、低く呟くような早口で、カラの耳には馴染み無い響きの(ことば)を唱えた。 ティダから同様の行為を受けた時とは違う、身体の内を涼風が吹き抜けるような軽やかな心地がした。


『〈地〉の護りは(からだ)を強くし、〈風〉の護りは身を軽くし気の流れに敏くなる。 これらの加護はお前を僅かずつだが危険から遠ざけるだろう。 精霊の〈王〉からふたつもの護りを得ているんだ、お前の運も捨てたものではない。 あとはお前自身の問題だが、やる気は、十分にあるんだろう?』


 躊躇うことなく頷くカラに、シリンは満足げに笑みを返すと、するりと視線をカラの肩へと移した。


『ところでこの奇妙な太った蜥蜴はなんだ? 第三眼があるということはお前と契約をしたのか? どこで拾ったかは知らぬが、信用できるものか?』


 カラに訊ねているのかナジャ自身に訊いているのか判らない言葉だったが、シリンの顔を正面から見上げてカラは大きく頷いた。


「ナジャは最初はオ―レンの闇森で会って、そのあとこの地下の岩牢でもう一回会ったんだ。 オレと契約してここまでもずっと助けてくれたんだ。 だからきっと信用できるよ、多分」


『〝きっと〟と〝多分〟は余計だ、この恩知らずの餓鬼め』


 ナジャが不満げに言葉を挿み尻尾でカラの背中を叩く様子を見て、シリンはわずかに眼を(みは)った後、何事かを含む様な興味深げな笑いをこぼした。 シリンのそれまでより一層愉快そうな視線に気付き、カラが不思議そうに見上げると、シリンは笑顔を残したまま視線を中央へと向けた。


『使えるものならばいい。 さて。 では今からお前を決戦場に送るが、まずはその外套を脱げ。 立ち回るのにそんなものは動き辛いだけで邪魔だ』


 なるほどと思い、カラは素直に外套を脱ぎ捨てた。 ナジャが改めて肩に落ち着くと、カラの足元に小さな旋風(つむじ)が起こった。 それはカラの足に絡みつくように緩やかに大きくなってゆくと、少しもしないうちにカラの身体を地から浮き上がらせる大きな風の渦に成長した。

 何が起こっているか分からず瞬きを数回すると、その僅かの間に、自分の背丈よりも遥かに高い位置に身体が浮き上がっている。


「え、え、ええっ、ど、どうなって――……」


 身体の平衡が取れず、宙で溺れるようにもがいていると、シリンが慣れた様子で身体を浮かせ寄って来、襟首を摘んでカラの身体の安定を助けた。

 カラの肩に必死にしがみついていたナジャが、硬い尾で背中を強く数回叩いたが、カラにはその訴えに構っている余裕はなかった。


『頭頂部から足裏まで、一本の芯が通っているように意識してみろ。 (はがね)ではない、柔軟でいて容易には折れぬ柳の枝の様な芯だ。 それを通すことが出来たら、次に足裏に地を感じ、常と同様に地の上に立っている己を思い浮かべてみるがいい。 己の内に在る、己の知る、地に足を着けている感触を思い出し、その感覚を維持したまま風の上に立つんだ』


 言いながら、シリンはカラの頭の上を軽く叩き、次に足裏を爪先で軽く刺激した。

 言うは易いことだが、実際には宙に浮いた状態で地に足を着けている己を思い起こすことは容易ではなかった。 背筋を伸ばすことに集中することで安定するかにみえて、シリンが手を離すと転ぶように平衡を失う。


『まったく、この程度のこともこなせんのか。 つい先程まで地に立っておったくせに、その感覚も思い出せぬとはなあ。 ならばいっそ四つん這いの赤子のような姿勢ならばできるのではないか? チビのお前にはぴったりな格好だろう?』


「思いだせるよっ。 四つん這いなんかしなくたって立つくらい簡単だよっ」


 ナジャの嫌味に反射的に言い返すと、程良く腹と背筋に力が入り、ぐらついていた腰が定まった。 完全な安定には程遠かったが、宙で姿勢を保つコツを得たカラを見て、シリンはくっくと愉快そうに笑った。


『お前達、なかなかどうしてよい組み合わせだな。 面白い、気に入った』


 言いながらカラの左手を持ちあげると、シリンは瞳を閉じて先程よりもやや長い(ことば)を口にし、最後にふうっと息を吹きかけた。


『棍でも剣でも如何ともし難いと感じた時には、この左手を使うがいい。 西の〈風の王〉たる私の力を幾許(いくばく)か分け与えた。 カラ、お前は生来〈風〉の性質が備わっている。 上手く使いこなすことが出来れば、状況打開の一助にはなろう』


 シリンの言葉に驚き、思わず正面から濃青の瞳を見上げた。 ラスターの瞳とは違う深い青は、カラの内に靄のように揺らめき満ちている、明確な言葉にはならない感情を静める穏やかな色をしていた。


『だが、間違ってもウルドに勝てるとは思うな。 お前の目的はあくまで《ふたつの宝》の奪還であって、ウルドを倒すことではない』 


「でも倒さないでどうやって《宝》を取り返すの? 〈主〉が自分から返してくれるわけないし……」


 真剣に考え込むカラの両頬を、シリンは長い指でつまみ引っぱった。 困惑するカラの顔を見てにやりと笑うと、頬を大きな手で包み、カラの視線を己の眼に固定させた。


『お前はとにかく奴の気を散らすことに専念することだ。 奴の眼を出来るだけ長くラスターから逸らさせろ。 その間にラスターが場を整える。 《宝》の取り戻し方は場が整い次第、頃合いを見てラスターがお前を導く。 ウルドを追い詰めることに熱中し過ぎて我を失うなよ。 あと、あの青い炎には決して触れるな。 あれはウルドほどの魔物でも灰にする炎だ』


 シリンが手を離すと同時に、舞い上がるように身体が風に運ばれた。 眼には見えない風の布に包まれ、身体が羽毛のように軽やかに宙を滑っていくかのようだった。

 決戦の場の真上に到達すると、ぴたりと移動は止まった。

 頭の中でシリンの声が響いた。 いつ下りるかはカラが決めろと言う。 今すぐでも数拍後でも、カラが良いと思った瞬間に下ろすと告げられ、カラは束の間戸惑い、じっと地上の二人を見下ろした。

 ラスターと〈闇森の主〉は、剣を交えたかと思うと離れ、いったん動きを止めると、互いを牽制して動かない状態を交互に繰り返していた。 剣を交える毎に、巻き上がるような風が吹き寄せて来る。 振動が空気を介してカラの身体をも揺さぶる。


「――ナジャ。 地へ下りたらすぐにオレの肩から降りて。 ナジャを肩に乗せたままじゃ〈闇森の主〉とは戦えない。 気を散らすだけでいいとしても、いまのオレのめいっぱいの力でやらないと、きっとダメだと思うんだ。 すごく危ないって状態になったら、力貸して欲しいんだけど、そうなるまで、オレ、やれるだけ自分でやりたいんだ――……」


 硬い表情で、下を見詰めたまま呟くように言うカラの言葉を、ナジャは何も言わずに聞き、言葉で答える代わりに尾で背中をひとつ打った。 カラもそれ以上は何も言わず、ただひとつ小さく笑った。

 ラスターと〈闇森の主〉の幾度目かの交剣が終わり、互いが距離を取り静止状態に移ろうとした。

 カラは口の中で素早く詞を唱え、縮めていた棍を背丈の長さに伸ばすと、真っ直ぐに降下しながら力の限り棍を振り下ろした。 持ち主の昂ぶった感情に触発されたかのように、棍の表面にある神聖文字が金光を放ち、その淡い光は棍全体を滑るように覆った。

 振り下ろされた棍は、敷き詰められていた青黒い床石を砕き、平らだった地面に穴を穿ち地を大きく揺らした。

 目標点を外すことはしなかった。 だが、〈闇森の主〉は棍が完全に振り下ろされる寸でのところで避け、敏捷な身のこなしで後方へ跳び退っていた。

 手に伝わる重く激しい痺れに耐えるように歯を食いしばると、カラはふわりと着地し、ナジャが肩から降りたと同時に棍を横方向へ大きく払った。


「オレの《宝》を、返せぇっ!」


 棍は空を切り〈闇森の主〉を掠ることはしなかったが、カラは休む間なく棍を打ち込み、〈主〉が何らかの態勢を整える隙を与えなかった。

 見た目の身軽さのまま、〈主〉は軽業師のように棍を間際で避け、焦点を絞り難くするかのようにくるくると回転しながら、逆にカラを翻弄する。 根比べのようだと感じたが、カラは粘り強く〈主〉の縦横の動きに喰い下がった。

 逃げ続ける〈闇森の主〉を、ようやく炎花の帯の間際まで追い込んだ。

 次の一手で仕留めることができるかもしれない。 そんな思いが頭の隅を過った時、ひゅっと、左の首筋に鋭く冷たい風の流れを感じ、反射的に身体を右へ逃した。

 左首筋を、何かが僅かに掠めた。

 首を押さえ左方へ視線を向けると、黒い靄が集まったような触手が、ほんのついさっきまで首があった場を突き刺すように貫いていた。 首筋を押さえた手を見ると、刷いたような赤が薄っすらと付着している。 熱く疼く首筋の痛みに急かされるように眼を正面へ向けると、触手はやはり〈闇森の主〉の身体から生えるように伸び出ている。

 するすると吸いこまれるように戻った触手の先を、〈主〉は確かめるように嗅いだ。


『……ナゼ、ナゼイママデ、コノ香ニ気ガ付カナカッタ? コンナニモ、ハッキリ匂イヲ放ッテイルトイウニ、ナゼ……』


 闇森で聞いたものと声はまるで違ったが、地の底から滲み出るような独特な響きが、あの夜、闇森で聞いた〈闇森の主〉の声と似ていると感じた。

 俯けた顔がどのような表情をしているのか分らなかったが、〈闇森の主〉であるという白銀の髪の青年は、ぶつぶつと口の中で同じような言葉を繰り返し呟くと、肩を小刻みに揺らし始めた。


『マア、イイ。 己カラ参リオッタノダカラナ、私ノ、新タナ〈器〉トナルモノガ』


 言いながら顔を上げた青年の、右の金の瞳は枯れたように色褪せ、かわりに左の血のように赤い瞳が、燃え盛る炎のように爛爛(らんらん)と輝いていた。

 その強い瞳に瞬時に射竦(いすく)められた。

 頭の中心が痺れるようにチリチリと痛む。 奥底で、早く動かなければ危険だと、割れんばかりの警鐘が鳴り響いているのに、身体が幾重もの鎖に縛られているかのように微動だに出来ず、呼吸ひとつもままならない。

 身体の芯が凍っていくような恐怖が、器から零れ出る水のように溢れ始めた時、突然左肩がずしりと重くなり、同時に背中に強い衝撃を感じた。 意識がそちらへ引かれ、視線を肩へ向けようとした。

 その単純な動作が縛めを解いた。

 ふっと息が楽に吐けるようになると、強張っていた身体が柔らかに動かせるようになり、気持ちが極僅かだが楽になった。

 肩にはいつの間に上ったのか、ナジャがいつもの如くどっしりと座り、煙の混じった鼻息を吹きながら、明るい緑の隻眼をくるりくるりと動かしていた。


『まったく、あんな大口を叩いたわりにあっさりと縛られおって情けない限りだの。 ほれ、動けるようになったのなら逃げる準備をせい。 来るぞ』


 ナジャの言葉にはっとして顔を上げると、 〈闇森の主〉の身体から生え出た幾本もの触手がこちらへ向かって来ていた。

 カラは怯むように一歩後退し、次の一歩で(かかと)が崩れた石床の破片にひっかかり大きく転んでしまった。 肩に乗っていたナジャは勢いよく放り出され、カラが開けた穴の中へ転がり落ちた。

 急いで態勢を整え身体を起こそうとすると、足首を掴まれ振りまわすように宙にぶら下げられた。 棍はなんとか手放さずに耐えたが、振りまわされた勢いでオスティルの短剣が何処かへ飛んで行ってしまった。

 片足で吊り下げられ、身体を思うように動かせず、視線だけをなんとか足へと向けると、やはり黒の靄のような触手が足首に絡みつきカラを持ち上げていた。 視界の端に入った〈闇森の主〉の身体からは、新たな触手が伸び出し、ゆるゆるとカラへ近付いて来ている。

 早く現在の状況から逃れなければと気持ちばかりが焦った。 右手の棍を振りまわしてみたが、触手に上手く当てることが出来ず空振りを繰り返した。

 頭に血が上る苦しさからも早く逃れたくて、もがくように左手を振りまわした。 届くはずもない触手を掴むかのように腕を伸ばした。

 触手を断ち切りたい、そう願った。

 強烈な願いに応じるかのように、左指の先に風の渦が生じた。 それは瞬く間に旋風になり、意思を持つ矢の如く(はし)り触手を微塵に断ち切った。

 〈闇森の主〉の咆えるような奇声が響き、カラの身体はどさりと地に落ちた。

 落下の衝撃で落としかけた棍を慌てて拾い態勢を整えようとしたが、触手が再びカラの手足を絡め取ろうと迫った。 咄嗟に棍で払い除こうとしたが、触手は棍に絡みつき、カラの手から奪い取ろうと更に幾重にも巻きついた。 黒々とした触手は、棍からカラの腕にじわりと伝わり這って来た。

 触手が肌に触れた途端、先程には感じなかった痺れるような悪寒が背筋を駆け抜け、闇森で《名》と《影》を渡した時に経験した、何かを身体の中から引きずり抜かれるような、ざらついた吐き気を伴う不快感と眩暈に襲われた。

 意識を奪われてはいけない、と腹に力を入れ声を張り上げた。 呼応するように、棍の神聖文字が再び強い金光を放った。

 カラの身体を包みこんだ眩い光は、触手を溶かすように消し去ると、朦朧(もうろう)としかけたカラの意識を明瞭なものにして消えていった。

 ほっと思わず息を吐きかけると、頭上から吹き下りて来る冷風をうなじに感じ、弾かれるように振り仰ぐと、白銀の短剣が疾風のように襲って来た。

 なんとか棍で短剣を弾き返したものの、〈闇森の主〉は身軽に飛び退り崩された態勢を整えると、低い位置からカラの間合いに入り、棍を膝で蹴り上げ手放させると、間髪入れず(すく)い上げるように顎下を掴みカラの身体を高く持ち上げた。 細みの身体からは想像できない強い力で喉笛を掴まれ、精一杯の力でその手を引き剥がそうとしても、ぴくりとも動かすことは出来ない。

 思うように呼吸が出来ず、カラはもがき暴れたが、暴れれば暴れるほど〈主〉の手は更に強く喉を圧迫し、次第にカラの意識は遠のき始めた。


「〝クルセ=レイン=フェイべル。 欠けざる汝の《名》をもって、その身を我が(ことば)の従順なる(しもべ)とせん〟」


 黒闇に射す一筋の光の様な、凜とした声が薄れ沈みゆく意識を引き戻した。

 声が手を離すよう命じると、カラの首を締めつける力が次第に緩み、少しするとカラの身体は地に落とされた。

 その場に(うずくま)り咳き込んでいると、有無を言わさず脇から抱え起こされ、〈闇森の主〉から離れた場所まで移動させられた。


「遅くなってすまない、カラ」


 耳元で、ようやく聞き取れる程の囁きが聞こえた。 咳を抑え込み顔を上げると、正面を静かに見据えるラスターの横顔があった。

 変わらない横顔を眼にした瞬間、様々な思いが頭の内を暴れかき回し、再会した時には言おうと思っていた言葉の数々を消し去ってしまった。 それでも何か、を言いたくて口を開け閉めしていると、ラスターは視線を〈闇森の主〉に固定したまま、カラの前にオスティルの短剣を差し出した。


「これを。 今から行う〈儀式〉の最中、何があっても決して離してはならない。 《宝》の奪還に必要なものだ」


 短剣を受け取りながら、カラはラスターのむき出しになった腕の、淡く輝く赤の紋様に気付き眼を大きく見開いた。 紋様は、腕どころか指一本一本の先にまで細かに刻まれている。 美しいようでいて、その紋様はまるでラスターを縛める鎖のように感じられた。

 カラの視線に気付いたのか、ラスターはほんの一瞬視線をカラの顔へ向けたが、再び視線を〈主〉へ戻すと、これから行う〈儀式〉の手順と、カラが為すべき事柄を少ない言葉で伝えた。

 カラの為すべきことは、思いのほか簡単で難しいものではなかったが、唱えるよう指示された(ことば)を間違わないか、口にする瞬間を外すことが無いかが不安だった。 不正確でも、唱える時が早過ぎても遅過ぎても、儀式の成否に影響を与えると言われ、否が応でも緊張せざるを得ない。

 オスティルの短剣を握りしめ、俯き気味に押し黙ったカラの肩にラスターの手が置かれた。 カラが表情を窺うように見上げても、ラスターは何も言わずただ正面を見ている。

 しばらく無言でラスターの横顔を見続けた後、カラはふぅっと長く息を吐き出すと、(なら)うように〈闇森の主〉へ視線を向けた。

 〈主〉は、顔を俯け腕をだらりと両脇に落としている。


「やれるよ、オレ」


 ラスターへか、それとも自身に言い聞かせているのか自分でも判らなかった。 だが口に出したことで、気持ちがすとんと収まる所へ収まった気がした。

 カラの決然とした様子に、ラスターはやはり何も言いはしなかったが、ごく僅かに表情を緩めた。 微笑む様なその表情に眼を丸くしていると、ラスターは「では、始める」といつもの顔に戻り、自分の右の第二指の先に剣で傷を付けた。 盛り上がるように滲み出た血液で、ラスターはカラの額に何かしらの紋様を描いたようだった。


「〝この(しるし)をもって(むすび)となし、結ばれし印の内を、すなわち我が意を映す箱庭とせん〟」


 ラスターの詞に応える様に、周囲を取り囲む炎花の帯が光を失っていき、入れ替わりに八か所から光の柱が天を衝くようにそそり立った。

 八本の光柱が放つ光が、その内側に在る者達に複雑な影を生み出していく。 その強い光を浴びても、やはりカラに従う影は無かった。

 身体を突き刺すように射す光が苦痛を与えるのか、〈闇森の主〉は狂ったような叫び声を上げ、身体を()じる様に悶えたが、手足が言うことをきかないのか、胴体は揺れても、その場から一歩も動くことは出来ない様子だった。

 奇声を上げる〈主〉の様子を呆然と見ていると、ラスターが背中を軽く押した。 はっと我に返り、カラは少し覚束ない様子で中央へ歩み出ると、短剣で指先に軽く傷をつけ、滲みだした血を切先の両面に塗りつけた。

 カラが大きく息を吐き正面を見据えると、ラスターが朗々と続きの詞を口にし始めた。

 ラスターの口から詞が紡ぎ出される毎に、光柱は移動し、終には八本が、〈闇森の主〉の背後からのみ光を注ぐ位置に集まった。

 光柱が生み出す光が、〈主〉に濃く長い影を生み、その影は中央に立つカラの足元まで伸び来ていた。

 影が己の下に来たことを確認したカラは、影をその場に縫い留めるように、オスティルの短剣を地に突き立てた。


「〝光の欠片たる〈黄輝石(オスティル)〉の(あるじ)が命じる。 光により生まれ従う黒きものは、光の主たる我が声を聴け〟」


 教えられた最初の詞を口にすると、オスティルが蛍の様な淡い金色の光を帯び、その光が刀身を伝い地へもさあっと広がった。 黒いはずの影が銀色の光を帯びる、不思議な光景が生まれた。

 影に生じた変化は、影の主たる〈闇森の主〉の身体まで及び、〈主〉の身体も淡い光に包まれた。 その変化を見取って、カラは大きく息を吐き、吸い込んだ。


「〝地に身を置きし黒く気高き《影》よ、黄輝石が運びし香を聞け。 この芳しき香は汝に刻まれし記憶に語りかける。 主たる存在の(もと)へ帰らんと。 《影》無き存在は存在と言えず、主なき《影》は《影》に非ず。 そは光に溶け己を忘るる陽炎であり、闇に溶け個を失いし《無》なり。 《無》にならず《影》となるべき黒きものよ、懐かしき香を辿り、汝が在るべき下へ帰るがよし〟」


 詰め込むように覚えた詞を、カラは放出するように唱えた。 間違えずに言えたのか、まったく自信は無かった。

 しばしの静寂。

 なんの変化も起こらない(とき)が過ぎていくと、カラは己が何かしらの間違いを犯したのではないかと、腹の底が冷える思いに襲われた。

 心配が焦りに変じ始めた時、ゆらり、と〈闇森の主〉から伸びる影が揺れた。 まるで陸に上げられた魚が跳ねるように、繰り返し跳ね揺れ、揺れは次第に大きく速くなっていく。 ひときわ大きく跳ねると、〈主〉の影は二つに分かれ、その内の一方が滑る様にカラの足下に集まり渦を巻いた。

 オスティルの短剣を刺した場で、渦を巻き続ける黒い影の動きが緩やかになって来たことを見取ると、カラはゆっくりとオスティルの短剣を地から抜き取り、いま一度指先に傷を付け、影の上に一滴血を垂らした。

 弾かれるように影が踊り、次の瞬間、カラの足裏から何かが身体の内に流れ込んで来る圧力を感じた。

 突き上げられるように激しい勢いで流れ込んできたモノが大人しくなると、カラはふっと気が遠くなり床にぺたりと座り込んで俯いた。 身体が重く、頭も、中身がドロドロに溶けてしまったかのように何も考えられない。

 〈闇森の主〉を照らしていた光柱はいつの間にかすっかり消え、集会堂の中は真の闇に呑まれていた。 薄い光を纏っていた精霊達の姿も無くなっている。

 真黒の闇の中に、すうっと涼風が吹いたかと思うと、その風に乗る様に美しい歌声が聴こえて来た。

 とても遠い、微かな声だったが、それは柔らかく澄んだ春の陽に似た優しい旋律で、耳からだけでなく肌からも沁み込み、身体の内に温もりを満たしていく。 歌声を全身で感じている内に、次第に眼に力が戻り、頭を上げ周囲を見回す気力が生まれた。

 視線を巡らしていると、ふと、地に伏せている白いものに眼が吸い寄せられた。

 次第に明瞭になっていく意識と共に、それが何であるかを認識した。


「ラスター!」


 地に崩れるように、ラスターが横たわっていた。 慌てて駆け寄り半身を起こすと、ラスターは瞼を閉じ、完全に意識を失っているようだった。 元より白い顔が、血の気を失った様に青ざめている。

 脳裡に、血塗れで倒れていたアルの姿が甦る。


「ラスター、ラスターっ、どうしたの? どこかを怪我したの? ねえ、どうしたの、起きて、起きてよっ」


 急くように全身を見たものの、衣が破れている箇所は多数あったが、傷を負っている様子は無かった。 傷があるならば、ナジャに教わったように治すことが出来ると思ったが、その必要はないようだった。 息はしているし、心臓も動いている。 ただ意識がないだけなのだ。

 この様な状況で、自分が何を出来るのかわからず、カラは半泣きになりながらラスターの頭を抱えるように包み込んだ。

 ふわりと、胸元で柔らかな光が生じた。

 目元を擦りながら確かめると、アルに渡されていた映月石(ユーシュ)が、以前にも見た銀色の柔らかな光を放っていた。

 カラは、華奢な銀の鎖を自分の首から外すと、ラスターの首に着けた。 貴石(いし)は変わらぬ柔らかな光を湛えている。 その貴石にそっと手を重ねると、カラは額をつけた。


「ラスター、ラスター、聴こえる? オレの声聴こえたら、応えて――……」


 アルの魂を探した時のように、カラはラスターの名を心の中で呼び続けた。

 少しすると、ラスターの身体が身動きする気配を感じ顔を上げたが、眼を開ける兆しは見えない。 再び額を擦り付ける様に押し当て、更に強く呼びかけた。

 どれくらいそうしていたのかわからなくなった頃、背後から光が差し込み、周囲が仄明るくなった。 頭をゆっくりと上げ振り返ると、少し霞んだ眼に見たことのない黒衣の女が映った。


「……だ、れ?」


 ぼやける頭で、やっとその一言を口にした。


「私はエフィルディード=ラオと申します。 あなたは、カラ殿ですね?」


 深い、落ち着いた声で、女は確かめるように呼び掛けた。 瞬間、誰の名を呼ばれたのかわからず、無意識にペンダントを引きずり出して側面をなぞり、カラが自分の名だと思いだした。

 ついさっき、自分は〈闇森の主〉から《ふたつの宝》を奪い返したのではなかったのかと、頭の芯が痺れるような衝撃が走った。

 女は頭上に浮いていた光珠を手元に寄せカラへ近付けると、じっとカラの姿を見て微笑んだ。


「《影》を取り戻され、祝着でございます」


 半分しか耳に入らなかった女の言葉だが、ふっと女の顔を見上げた後、カラは自分の背後に視線を向けた。 そこには、光珠の光によって生じた黒々とした影が確かにあった。

 眼を何回もこすり、何度も見た。 それから、自分の手や身体をじっくりと見回した。


「影が……ある。 オレ、影があるし身体が透けてない」


 少し上気して言うカラの視線まで腰を落としたエフィルディードは、カラの身体を見て再び柔らかに笑んだ。


「大きな怪我もされていないご様子。 安心いたしました」


 優しげに声を掛けるエフィルディードの顔に視線を戻すと、カラは首を傾げた。


「えっと、エ、エフィ……えっと、あの、なんでオレのこと知ってるの? もしかしてラスターの知り合い?」


「私のことはフィルとお呼び下さい。 はい、あなたの仰る通り、私はアラスター殿の旧知の者です」


 言いながら、エフィルディードはカラの横に横たわったままのラスターに視線を向けた。

 カラも、瞳が閉じられたままの顔に視線を戻し、しゅんと萎れるように背を丸めた。


「ラスター、起きないんだ。 怪我もしてないし息もしてるのに、いくら名前を呼んでも眼を開けないんだ。 少し前までは動いて、すごい術みたいなの使ってたんだよ。 だけど終わったら倒れてて……。 どうしてかな? 身体の中で怪我してるのかな?」


 言葉を口にしている内に不安が増大し、恐怖が頭の中を占めてしまいそうになる。


「大丈夫だよ。 ラスターは疲れ過ぎて寝ているだけだ」


 フィルの後方の薄闇から、のっそりとナハが現れた。 カナルは鼠の姿に戻りナハの肩に座っている。 ナハとフィルは旧知なのか、互いに視線を合わせて目礼をした。


「ナハさんっ、大丈夫だったの?」


 喜びと驚きでいっぱいになったカラの肩を軽く叩くと、ナハはラスターの横に跪き、脈を取り呼吸と心拍の様子を確認した。


「ナハ。 アラスター殿は本当に大丈夫なのですか? 穢れの強い地に、長く居過ぎたのではないでしょうか?」


 エフィルディードが尋ねると、ナハは「そんなやわな奴じゃないだろう?」と笑いながら、懐から取り出した小瓶の液体をラスターの口へ流し込んだ。


「ラスター、聴こえるんだろう? あまり周囲に心配をかけるもんじゃあないぞ」


 ナハがいつもと変わらぬ調子で声をかけると、一拍の間の後、ラスターの瞼が僅かに痙攣し、ゆっくりと開かれた。


 天青の瞳が、ゆるりとカラ達へ向けられた。


挿絵(By みてみん)

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