第11話:向き合う時
11:向き合う時
地下道は不気味な程に静まり返っていた。
時折、滴の床石を打つ音が囁きの様に耳に届いたが、その他は無音と言ってよかった。 むしろ、無音が生み出す音無き音に耳をじわじわと圧迫されている感覚に陥る。
小さな光珠の先導で、ナハとカナルに挟まれるようにしてカラは道を黙々と進んだ。 緊張はしていないつもりでいるが、軽く握った拳の内にじんわりと汗が滲んでいる。 心臓が鼓膜のすぐ内側に在るかのように、ドクドクと煩い程の音をたてている。
――生臭い。
進む程に、空気に織り交ぜられた臭いが酷くなっていく。
こんな臭いを過去にも嗅いだ事がある。 臭いが引き出した遠い記憶の映像が薄ぼんやりとだが瞼に甦る。 これは腐敗していく臭いだ。 野晒の死体に蠅がたかり蛆が湧き形が崩れていく、そんな過程で発せられる死の臭い。
あれはいつ見た光景だったろう。
尼僧様とはぐれ彷徨った戦場でだったか、それとも、奴隷商人の商品として売られた盗賊のねぐらで、かどわかして来た人質がなぶりものにされた揚句に殺され、死体をカラの寝床に放り込まれた時か、それとも――……。
ふっと意識が遠のく。 視界が黒へ変わる。
後ろから肩を掴まれ強く揺さぶられた。 同時に後頭部を硬いナジャの尻尾が打った。 俯きかけていた頭をはっと上げると、カラは頭を擦りながら慌てて振り返った。
カナルの輝く緋色の瞳がカラを見据えていた。
『負の感情に引きずられるんじゃあないよ』
『記憶に喰われてワシを巻き添えにする気か?』
カナルとナジャの言葉の意味が解らずおろおろとしているカラの左肩に、ナハの手が置かれた。
「カラ。 いま君は嫌なことを思い出してはいなかったかい? 過去の、忘れていた記憶が甦り、その記憶の中に引きずり戻されそうになってはいなかったかい?」
カラの視線にまで腰を落としたナハの瞳を見返しながら、カラは先程までの自分の心の変化を思い返し、頷いた。
「この臭い、ずっと前に同じようなの嗅いだ事があって……オレ……思い出してた。 全部じゃないけど、忘れてたすごい昔のこと……いつだったかわかんないけど、すごく怖くて、毎日そこから逃げ出したくて……」
言いながら、次第に俯いていくカラの両腕にしっかり手を添えたナハは、カラにオスティルの短剣を手に持つ様に言った。
オスティルはいつになく強い光で明滅を繰り返している。
「オスティルは、所有者の心にとても敏感でね、カラの心が揺らめいて弱ると不安になって合図を送るんだよ。 心配をして〝しっかりしろ〟と言っているのか、〝自分が助けるから心配するな〟と言っているのか、どちらでもないかもしれないけれどね。 カラ、心が不安で満たされそうになった時はオスティルを握ってごらん」
ナハの言葉に促され、カラはオスティルをそっと握った。 以前にも感じた、心地よいほんのりとした温かさが掌から全身へと伝わっていく。 胸の真ん中でもやもやと大きくなっていっていた灰色の塊が、雪玉が融ける様に小さくなり無くなっていく。 ほうっと、大きく息を吐いた。
「……オスティルって、すごいや」
顔を上げたカラが照れながら笑うと、ナハはカラの頭を一回くしゃりと撫で、腰を伸ばした。
「カラ。 もしまた嫌な記憶に引きずられそうになったら迷わずオスティルを握って気持ちを引き戻すんだ。 この先、今のように負の感情に呑まれてしまうと、〈ウルド〉の思う壺になってしまう。 負の感情は闇への通路を開く。 通路が開かれると、魔物は僅かな隙間であってもそこに付け込んで侵入して来る。 自ら危険を招き入れてしまうことになるんだよ。 感情に引きずられない様にすることは簡単なことじゃないかもしれないが、オスティルが手助けをしてくれる。 やれるね?」
口調は穏やかであったが、ナハの言葉はカラの気持ちを引き締めさせる力を持っていた。
些か緊張した顔付きでカラがこくりと頷くと、ナハはいつもの柔和な笑顔でもう一度カラの頭をくしゃりと撫でた。
「さて、少し先を急ごうか。 その時、に間に合わないと、カラの目的は達成できないからね」
言いながら、ナハは先程までよりやや速めの歩調で歩き始めた。 進めば進むほど、道は幾本にも枝分かれし、己が来た道も進むべき道も分からなくなる迷路のような造りなのだが、ナハは迷いの無い足取りで道を選び進んでいく。 更にしばらく進むと、所々に燈芯草の仄かな黄橙色の火が灯される通路に入った。 そこへ入ると、ナハは光珠を掌に呼び戻し消した。
「ナハさんはどうして道を知ってるの? こんなわけがわかんない道だらけだったのに、どうして迷わないで前に進めるの? 行き先は何処なの?」
好奇心が抑えられないといった調子でカラが尋ねると、ナハはははっと笑った。
「行き先はさっき入り口で眠らせた男が口にした〝学舎の地下礼拝所〟の辺りだよ。 キソスの地下はほぼ端から端まで地下道で繋がっていてね。 道に迷わないのは簡単なことだよ。 少し前に、捕まえた奴からキソスの地下の仕組みを聞いていた上に、この間様子を見に出かけた時に半分くらいは下見をしておいたからね。 何より、〈地〉の精霊が教えてくれるんだよ、この道は人間がよく通るとか、この道の先は行き止まりだとか。 〈地の長〉ってなかなか便利だろう?」
顔は前を向いたままだが、ナハの声はのんびりとどこか状況を楽しんでいる様である。 今のこの状況でなければ、カラはもっとナハに話をせがんだところだが、ぐっと我慢でもする様に拳をきゅっと握ると、視線をナハの更に先にある薄闇へと向けた。
視線を向けた途端、カラの金の瞳は薄暗い闇の先に動くものを捉えた。
「ナハさん、人がこっちに来てる。 すごくたくさん――十二人、こっちに来るよ。 剣を持ってるよ」
「流石だね。 カラの瞳にはもうそんな細かい事まで見えているんだ。 私にはっきり判るのは音くらいだ。 隠れる場もないから、ご挨拶するしかないねぇ」
ナハは歩調を緩め、止めると、小声でカラにフードを被り棍を手にとっておくようにと促した。
遠かった人影は、迷うこと無い足取りと速さでカラ達のいる場に向かって来た。 先頭は壮年の、一見しただけで剣士と判る鋭い眼光の恰幅のよい男だった。
「きさまら、なぜこの地下にいる?」
威圧する様な口調で剣士の男が問うと、その背後から、まだいくらか少年の調子を残した青年の声が跳び込むように割入った。
「スフィドさん、この男ですっ! この男が旧宝物庫から忍びこもうとしていた男です。 自分のことを〈地の長〉と名乗っていた男です!」
青年の叫びに周囲の男達はざわめき、正体を言い立てられたナハも眼を瞠って青年の顔を見た。
「あれ、君、確か……トラン君、と言ったっけ? ひょっとして君、シュア君とはぐれて聖教に戻ったのかい?」
「慣れ慣れしく話しかけるんじゃねぇよ、薄汚い術師め」
ナハの口にした名に、カラは瞳を大きく見開いた。 この声、間違いなかった。
「な、なんでトランがこんなとこに……」
思わず零れた言葉が、一堂の注目を集めた。
「この青年の事を知っているのかい?」
ナハの僅かに驚きを含んだ言葉に、カラは動揺をそのままに映し出した瞳で見上げ、そして再びトランの顔に視線を戻した。 浅黒く日焼けした顔の左右の頬には、恐らくガーランの爪痕であろう引き攣った痕が、薄っすらとだが間違いなく残っている。
トランは、カラの様子を値踏みでもする様にじっくり見た後、関心のない退屈そうな表情を見せた。
「お前、あの小僧を知っているのか?」
スフィドと呼ばれた剣士がトランに問うと、トランはきっぱりと否定し、カラを威嚇するように見据えた。 そのぎらついた眼を見て、トランはカラの事を覚えていない事に気が付いた。 少なくとも声を聞いたくらいでは思い出さないのだ。 ここ最近、イリスやナハの様に、いくら時間が経ってもカラの存在を忘れない人々に囲まれていたので忘れかけていたが、やはり、《名》を半ば以上失ったカラの事を記憶することは、ごく普通の人間には無理なのだということを再認識させられる。 特に驚く事ではなかったが、胃の辺りがずんと重くなる気持ち悪さを覚えた。
「お前、俺の名を知っている風だが俺はお前みたいなチビに知りあいはいないんだよ。 お前いったい誰だ?」
「なんだよ相変わらず偉そうにっ。 トランはオ―レンの鍛冶屋はどうしたんだよ、フォーリンに取り入ってムコヨウシってのになるって仲間にいっつも話してたじゃないか。 なに、修行が耐えられなくなって逃げ出して来たとか?」
背の低いことを言われ腹が立った悔しさを、カラはせいぜいの嫌味に込めて言い返した。
トランはキソスに来る以前、オ―レンに居た頃の自分の経歴や内内にしか語っていなかった事柄を語る少年の言葉に眼を剥き、しばし呆然とした後、怒りで耳まで赤くなった。
「てめぇ、ぎゃーぎゃーと適当な事言いやがって、顔を見せろっ」
「嫌だよ、お前なんかに見せるもんかっ」
勢い込んで叫んだ瞬間、フードがするりと滑り落ちカラの顔が露わになった。 慌てて被り直したものの、明らかな失敗だった。
『相変わらず自分からぼろを出すが得手な餓鬼だ』
ナジャがわざとらしく火の粉の混じった鼻息を吐きかけたが、事実でしかなかったのでカラは言い返すことが出来なかった。
スフィドの右後ろに立っていた年嵩の剣士が、カラの姿をしばし見詰め、ふと思い出した様に口を開いた。
「ひょっとして、この子供のことじゃないのか? 見つけたら連れて来いって上の奴等が言っていた〝金の眼〟の餓鬼ってのは」
「ああ、そういえばそんなことを言っていたな、〝金の光る眼〟とかなんとか……」
スフィドもまた思い出す様に腕を組むと、一拍の後、カラに視線を戻し探る様に爪先から頭までを見た。
「小僧、もう一度そのフードを下ろして顔を見せろ」
恫喝に近い腹に響く声で命じたが、カラが従わないと判断すると、スフィドはトランに確認と連行を命じた。 新参者で一番の下っ端の自分に命令が下ったのが嬉しかったのか、トランははきはきと返事をし、大股でカラに近付き手を伸ばした。
「人の連れに勝手に手を出すのは感心した行いじゃあないな」
ナハは伸ばされたトランの手首を掴み捻り上げると、カナルにカラの安全を頼んだ。
捻られた腕を背後に回され動きを封じられると、トランは顔を真っ赤にし悪態を吐いた。 ナハの行動に怒声を発した残りの剣士達が、それぞれに自分の得物を手にし身構えていた。
「きさま何者だ? 〈地の長〉ならば、今ここに精霊を連れているのか?」
「信じる信じないはお前さん達の自由だが、精霊なら、ほれ、さっきから後ろに控えている美人がそうだよ」
ナハの言葉に促されその背後へ視線を向けたスフィド達は、瞬間、カナルを凝視し、次の間には明らかな動揺を声に出す者もいた。
動揺するスフィド達の様子を楽しむように、カナルは緋色の瞳を明るく輝かせると、紅唇を緩やかに反らせ艶やかに笑んだ。
通常、精霊とは波長の合う者にしか見えないとされる。 見えた所で、比較的よく語られる精霊の頭身は小型なものが多い。 人間と変わらぬ背丈をし、見る者個人の能力に関わりなく可視可能な姿を持つ精霊は、常ならざる巨大な力を持つ存在であると一般的には理解されている。
言葉を失った様にカナルを見ていたスフィドは、気を取り直したように表情を改めると、先程よりも更に険しい目付きでナハを見た。
「きさまら、どこからどうやってここまで辿り着いた? 地下には我等の他にも見廻りをしている組が多くいたはずだ。 それらの奴等に遭わずにここまで来られるはずがない」
「それが来られたんだ。 恐らくお前さんが知っている以上に、私達には道に詳しい案内人が付いていてね。 抜け道は幾らでもあるもんだよ」
ナハの言葉に、剣士達の間に疑心を含んだざわめきが起きた。
凄むスフィドと対照的に、あくまでも自然体のナハの様子が剣士達の気持ちを逆撫でするのか、男達は一様に眼をぎらつかせ、今にも跳び出して襲いかかりかねない鼻息の荒い者もいる。
剣士達の溢れ出る様な殺気を一身に浴びて、ナハは僅かに嘆息すると、トランに視線を落とし、掴んでいた腕を更に捻った。 悪態を吐き続けていたトランは短い呻きを上げ束の間沈黙する。
「トラン君。 君、この手を離したらまた私の連れを襲うつもりかね?」
「あ、当たり前だっ。 わかったらさっさと離しやがれっ」
「こんな連中の仲間からは抜けて、かつて就いていた職に従事して日々を送ろうとは思わないのかい? 君にはそちらの方がふさわしいのではないかと思うのだがね」
ナハの言葉にトランはかっと眼を見開くと、激しくもがき、首を大きくひねって片目でナハを睨んだ。
「ふざけるなっ、お前に指図される覚えなんかねえっ」
ふむ、と短く唸ると、ナハはトランをスフィド達の方に突き飛ばす様にして離した。
あっさりと解放されたことにトラン自身はもちろん、スフィド達も驚きの表情を見せた。
『腹に一発入れて転がしておけばよかろうに』
背後からカナルが不満げに声を上げると、ナハは頭を掻きながら手にした剣をぶらぶらと左右に揺らした。
「これから乱闘になるだろうってのに、邪魔なものが最初から足元に転がっていたらやり難いからね」
ナハが弄ぶ様に手にしている剣を見て、トランは眼を見開いた。 慌てて自分の腰に下げていた剣を確認する。 そこには鞘だけが虚しくぶら下がっていた。
「き、きさまっ、オレの剣を盗んだな!」
「盗んだなんて人聞きが悪いな。 借りているだけだよ。 終わったら君に返すから、貸しておいてもらうよ」
更に一二回左右にぶらぶらさせると、くるりと一回転させて剣を構えた。 ナハの動きにつられる様に、剣士達も改めて構えを直した。
「この状況で話し合いと言うのは無理だろうな。 こちらも引き返すわけにはいかないし、ましてや捕まるわけにはいかないからな」
「オ、オレもやるっ、オレのことだもん、オレ、隠れてばっかりなんて嫌だっ!」
ナハはちらりとカラを見ると、くすっと笑って視線を正面に戻した。
「そう言うと思ったよ。 危ないと思ったら、彼女を盾にして安全な所まで逃げるといいよ。 彼女はちょっとやそっとじゃ傷一つ負わないから」
『たいそうな言われようだね。 お前が隠れに来ても助けてはやらんぞ、いいな』
突き放す様なカナルの言葉を笑いながら受け取ると、ナハは大股に一歩を踏み出しスフィド達までの距離を一気に縮め、極めて低い位置で剣を一閃した。 一呼吸の後、五人の剣士が悲鳴を上げ地に倒れた。 見ると、倒れた剣士達の膝下がざっくりと斬られ血が流れていた。
先頭に居たはずのスフィドは、咄嗟に後方に跳び退りナハの剣を避けていた。 予測外のナハの先手にスフィドは唇を噛み無言でナハを睨んでいる。
「避けられたか。 お前さん、割と勘いいな。 今の一本でもう少し人数を減らしたかったんだけど、まあこんなものかな」
普段のナハからは想像できない素早い身のこなしと剣捌きに、カラは眼を丸くした。
「ナ――……すごいっ、剣使えるんだ! 本当は強かったんだね!!」
カラの素直な称賛に、ナハは半ば苦笑で応えると、肩に刃を担ぐように乗せ腰に手を当てた。
「この手は一度使ったら、同じ争いの場ではそうそう通用しなくなるからね。 この後が本当の実力を問われる場面になるな。 それより、準備はいいね。 ああ、もうフードは下ろしていいよ。 視界不良では戦い難いだろう? 激しく動けばどの道ばれるだろうからね」
ナハの言葉に、カラは一瞬眼を丸くすると、素直にフードを下ろしスフィド達を見た。 カラの輝く金の瞳と薄っすらと透けた顔を見た剣士達は、一様に驚きと不安と嫌悪を寄り合わせた暗い眼に変わる。 カラにとっては見慣れた視線。 結局、何処に行こうとこのような眼差しには遭遇するのだと改めて思わされた。
『小僧、死なぬ程度に護ってはやるが、あたしは争いに参加しない、見守るだけだ。 お前が先程言った様に、これはお前自身の問題だ、自力でなんとかしておみせ。 せいぜいその肥えた蜥蜴を有効活用することだな』
背後から投げられたカナルの言葉に、カラは束の間驚いてみせると、表情を引き締め頷いた。 ナジャは不満そうに火の粉の混じった鼻息を大きく吹き出したが、特に言葉にすることはなかった。
ナハとスフィド達の睨み合いが膠着化するかと思われた矢先、四人の剣士が同時にナハに襲いかかると、トランと残り二人の比較的若い剣士が、ナハ達が剣を交える脇を抜けてカラに突進してきた。 トランは短剣を、残りの二人は長剣を手にカラを囲み剣を繰り出して来たが、その動きはイリスの旅籠の地下で立ち合ったレセルの動きよりも遥かに遅く間隙が多くあったので、複数人相手ではあったが避けるのはとても楽な事に感じた。 ただし、なかなか相手に打撃を与えるには至らず、焦りも感じる。
『お前、さっきのあの男の動きを見ていなかったとみえるな』
肩で見物を決め込んでいるナジャが呆れ声で言う。 小馬鹿にするような言い様にむっとした次の瞬間、カラは三人の敵の位置を確認するとぱっと身体を縮め蹲る様に座り込んだ。
カラの突然の奇行に三人は唖然とし、互いに顔を見合わせると揃ってカラのすぐ脇に集まって来た。
一人がカラの首根っこに手を伸ばしかけた。
カラは鋭く詞を口にし棍を伸ばすと、地を攫うようにぐんと横に大きく払った。 不意の攻撃に足元を掬われた三人は、瞬間身体を宙に浮かせ、腰から落ちる様に転んだ。 そこを逃さず一人はカラが拳で、もう一人はナジャが腹の上にどっかと飛び乗ることで意識を失わせた。 いま一人、トランはカラが一人を沈めている間に起き上がり、離れた場所に退き身構えていた。
拳を入れた剣士が意識を失っていることを確認すると、カラは立ち上がり棍を構えた。
トランはカラと相対すると、憎悪に近い眼差しでカラを睨みつけた。
「てめぇの瞳はまるで獣だな。 薄暗い中で光ってやがる。 暗闇で眼が光るなんざ獣か魔物かのどっちかだ。 おい化物、お前の親はどんな獣だったんだ?」
嘲る様に言い放たれたトランの言葉に、頭の芯がちりっとしびれる様に痛んだ。 束の間頭の中が真っ白になり、次の瞬間には逆巻く様な激流が胸の中に生じた。
「だまれぇえぇっ!」
叫びながら、カラは棍を大きく振りかぶりトランに打ちかかった。 その激しさにたじろいだトランが、さっと後ろに退くと同時に打ち下ろされた棍が地に当たり岩が砕け散り、抉った様な穴がぼっかりと開いた。 先程まで立っていた場の無残な変化にトランは青ざめ逃げ腰になったが、カラは態勢を整える間もなく滅茶苦茶にトランに打ちかかり、次々と地面や壁面に穴を穿っていく。
「謝れ、あやまれっ、あやまれぇっ。 オレの親は獣なんかじゃないっ、父さんも母さんもオレも人間だっ」
叫びながら棍を振りまわしていると、突然何かに引っかかった様に棍が動かなくなった。 突然動きを止められたことに怒りを覚え振り返ると、カナルが振り上げていた棍の端を押さえカラの顔を見下ろしていた。 加減をしていないカラの全力をしても、棍はびくとも動かない。
「離せよ、邪魔をするなっ!」
噛みつく様な勢いで怒鳴り、棍をなんとか自由に動かそうともがいたが、どんなに力んだところで状況は変わらなかった。
カナルはしばらく無言でカラの顔を見た後、空いた右手でカラの鼻を弾いた。 思わず棍から手を離し涙目になりながら鼻を押さえた。 途端、頭に上っていた血がさぁっと引いた。
『ちっとは眼が覚めたかい? お前、全てを滅茶苦茶に壊してしまうつもりかい? お前の手合わせの相手はとうに気を失っちまってるよ』
カナルが棍を使って示した先に、トランが手足を投げ出し仰向けで転がっている。 周囲には大小様々の瓦礫がごろごろと転がっていた。 頭に血が上りめくら滅法に動いていたカラは、自分のしたことを詳細には覚えていなかった。 周囲は、トランが言った様に、まるで〝化物〟が暴れた後の様に処々が崩壊し荒れ果てている。 トランをぶちのめしたい気持ちはあった。 オ―レンにいた時から気に喰わない、嫌な奴でしかなかった。 けれど、命を奪おうとまでは考えたことは無かった。 思ってはいないつもりでいた。 だが、この状況を見て果たして自分の本心はどこに在るのか、とてつもない不安に駆られた。 カナルが止めなければ、自分は間違いなくトランを殺していた。 キソスまでの旅の途中の、己を護る為にはずみで殺してしまった男とは違う。 率先的に死を与えていたのかもしれない。 そう思うと怖ろしかった。
「これ……オレがやったの?」
手をぎゅっと握りしめながら、カラは擦れそうな小声を絞り出した。 つい先程、ナハに負の感情に流されないようにと言われたばかりなのに、今度は怒りに身を任せてしまった。 同じことを繰り返す自分に嫌悪感が募る。
カナルはひとつため息を吐くと、棍をカラに返し顔にかかった髪を背に流した。
『お前――カラ。 お前は感情に流され易い。 子供故もあるだろうが、お前の気質がそうなのだ。 感情の爆発は力にもなるが利用もされ易い。 操り易いのだ、そういった性質を持つ者は』
カナルの言わんとする事を把握しかねてカラが困惑の眼差しを向けると、カナルはナハがする様にカラの頭に手を置き、やや荒っぽい調子でくしゃくしゃと撫で始めた。
『すぐに感情を制御しろなどとは言わん。 大人だって出来ん奴は死ぬまで出来んのだから、子供のお前が慌てることはない。 だが知るんだ、己の傾向を。 知って、己が進むべき時と立ち止まるべき時を見極める術を学べ。 ――あと、これはいますぐにでも直すべきことだが、敵と向き合った時には敵の状態を最後まできっちりと見ろ。 お前、あのトランとかいう小僧が気を失うのを見ていなかっただろう? 余程場数を踏んで先の見当が付けられるようになるまでは、視覚からの情報を疎かにするな』
『その〈地〉の女の言うとおりだな。 見える眼を持っていても、見ていないではただの飾りよ。 要らぬ眼なら、ワシが喰った方が腹の足しになるだけ余程役に立つというものだ』
するりと肩に上って来たナジャが、さも当然といった調子で口をはさみ、カラの背中を硬い尻尾で一打ちした。 いつもならナジャのこういった言葉や態度に腹を立てる所だが、今は何故かそういう言動がカラの心を落ち着かせた。
「やあ、これは大活躍だな」
背後からナハののんびりした声がかかった。
気を失ったスフィドを引きずって来たナハは、カラとカナルの前に大男を放り出すと、カラに眠り薬の入った小瓶を渡し、トラン達三人の口の中に一滴ずつ流し込んで来るように言った。
作業を終えナハの横に戻ると、カラはナハが左の二の腕に傷を負っていることに気が付いた。 よくよく見れば、細かな傷を何箇所か負っている。
「ナハさん血が出てる! 手当てしなくっちゃ――」
慌てて傷口に手を伸ばそうとするカラの頭にぽんと手を乗せると、ナハは問題ないことを見せる様に左腕を上げ下げして見せた。
「大丈夫だよ、これ位の傷を負うのは初めてではないし、これしきで済んだのは運が良かったんだよ。 あの剣士達、そこそこには腕が立つみたいだったからね。 さてカナル、ご助力願えるかい?」
無理矢理話を打ち切ると、ナハは転がしていたスフィドを後ろ手に縛り、起こして気付けをおこなった。
眼を覚ました直後は朦朧としている様子だったが、意識が明瞭になるとスフィドは眼を剥き抗おうとした。 そこへすかさずカナルが顎に手を伸ばし、無理矢理顔を上向かせ己の緋色の瞳と視線を合わせた。 スフィドは痺れた様に瞬間痙攣し、四肢の自由を奪われた様に硬直し抵抗を見せなくなる。
「お、俺をどうするつもりだ」
絞り出すように声を出したスフィドから手を外すと、ナハは自分の顎を撫でながら考える様に一声唸った。
「お前さんはそれなりに情報を持っていそうだから協力願おうかと思ってね。 なに簡単な事だ。 私達の〝眼〟となってもらうだけのことだ」
「……誰がきさまらに協力などするか。 俺から、情報が取れると思うな。 殺せ。 その方がいっそすっきりする」
カナルの視線に縛られたままながら、スフィドは気力で声を出した。
「へえ? 忠誠心なんて無関係の金で雇われただけの集団と思っていたが、さにあらずなんだな。 もっとも、お前さんが自主的に協力してくれるとは思っていないさ。 操らせてもらうんだよ。 一番確実で信用がおける」
***
やや遅い夕飯が終わり、長い夜を如何に過ごそうかと、アルフィナは落ち着かな気に部屋の中を行ったり来たりしていた。
カラ達は今頃もう地下に入ったのだろうか。 ラスターには無事に会うことができたのか。 地下には破落戸や魔物の類が多く隠れ潜んでいると伝え聞いている。 ナハやカナルはともかく、あの頼りなげな少年が捕らわれず目的を果たすことが出来るのか、考えれば考えるほど心許なくて、歩きまわる足取りがよりせわしなくなってしまう。
「ああ、もう。 こんなに落ち着かない気分になるくらいなら、無理矢理にでも付いてけばよかった!」
歩き回ったところで状況は変わらないと思い、足を投げ出すように寝台の上に腰を下ろしそのまま横たわった。
「地下にはあいつもいるんだわ。 馬鹿なやつが――……」
左右に編み垂らしたお下げの片方をつまみ顔の前に持っていく。 母親譲りの白銀の髪は生来の色だ。 自分で言うのは自惚れているようだが、美しい色だとは思う。 けれど、何故か己の心には馴染まない。 嫌いなのではない。 ただ、もっと好きな色があるだけだ。
「――母さん……」
お下げを胸の上に置いて瞳を閉じ、心の中に呼びかける様に呟いた。 カラはアルを助ける時に母に会い、声を聞いたのだとイリスから聞いた。 アル自身も、幼い頃の夢の中でならば会って声を聞いたことはある。 自分を優しく抱き上げ、子守唄を歌ってくれた。 だが、望んだ時に母が姿を現し声を聞かせてくれたことは一度もない。 長じるにつれ、夢に現れてくれなくなった。
最近では、母に関することは全てただの夢想で、アルの母に会いたいと思う気持ちが姿や声を作り出していたのではないかと思ってしまうことがあった。 しかし、母はやはり自分の内にあり、幼い頃と変わらず見守ってくれているのだと知って、胸が溢れそうになった。
「母さん。 あたし、どうしたらいいと思う?」
もう一度問いかけると、扉を打つ音が二回響いた。 「開いてるわ」と答えながら身体を起こすと、イリスミルトが音を立てることなく入って来た。
「アル、遅くにごめんなさい。 けれど急ぐの。 体調はどうかしら? 呪いをかけて、耐えられるかしら?」
アルの長いお下げに手を伸ばしながら、イリスは少し気遣わしげな声で尋ねた。
髪を急ぎ黒に戻す必要性が生じたのだと、直感で察した。
「あたしはいつでも大丈夫よ。 誰、あたしが会わなきゃいけないのは。 神殿の関係者?」
編んでいた髪を梳きながら口早に尋ねると、イリスは言葉なく頷いた。
幼いころから幾度となく、キトナ大神殿の高位の神官が訪ねて来てはアルを神殿に預ける様にとイリスに勧めていた。 巫子の資質に優れる子供を広く集め、育てることを大神殿は望んでいるのだと言うが、アルへの期待はただの巫子になることではない。 〈鏡の巫子〉と称された母アイルーナの後を継ぐ〈斎王〉となるべく育てたいのだ。 所管する地域から〈斎王〉を輩出することは、神殿のこの上もない誉なのだと、噂話好きのエイリナが言っていた。 浮ついた話が好きな道楽者の坊っちゃんだが、意外にも勘は鈍くない。 天性の鋭さで、理屈でなく本能で本質を見抜くことがあるエイリナが「くだらない」と呆れる様にいっていた言葉に、アルも内心で肯首していた。 なんて俗物的な虚栄心なのだろうと、腹を立てていた時期もある。
「終わったわ。 気分はどう?」
閉じていた瞳をゆっくり開けると、己の髪が黒に変じていることを確認した。 月の無い澄んだ夜空の様な懐かしい色だ。
「平気よ。 イリスこそ疲れたんじゃない? 無理しないでよ、イリスが倒れでもしたらそっちの方が大事よ」
手際良く髪を編むと、アルは寝台から飛び降りるように立ちあがり一つ背伸びをした。
一階の客間に行くと、二人の人物が部屋の中央に落ち着かない素振りで立っていた。 神官の白長衣を着た中年の男と、そのお付きである年若い青年で、これまでにも幾度となく訪ねて来ていた者達だ。
イリスに続きアルフィナが入って来たのを見ると、中年の神官が駆け寄る様な勢いでアルの傍らに寄って来た。
「おお、アルフィナ、体調が悪いと聞き及び、夜分に申し訳ないとは思ったが見舞いに伺ったのだが、起きていて大丈夫なのかね? どこか具合の悪いところがあるのだろう? 熱は? 治療はちゃんと受けているのかね? 薬は? 大神殿に来て治療を受けた方がよいのではないかね?」
一人で次々と喋りたてる男に、アルは心中うんざりとしながら、極めて礼儀正しい笑顔で応えた。
「ケツィア様。 どういう噂を聞かれたのか知りませんが、私は元気です。 なにか病気を患っているように見えますか?」
にっこりと微笑み、くるりと一回転して見せると、アルはイリスの傍らに寄りそった。
「たとえ病にかかっても、私には祖母がいます。 ケツィア様も祖母の薬草の知識の豊富さはご存知でしょう? ご心配頂き嬉しく思いますけど、私は大丈夫です。 それより、こんな夜遅くに外出されていては、夜半の祈りに差し障りは出ませんか? お急ぎにならないと」
「し、しかしだな……」
取り付く島なく話を進め終えようとするアルの調子にたじろぎつつ、ケツィアはしどろもどろで言葉を口から出した。
「大神殿としては、そなたの身に何かあっては、そう、心配なのだよ。 そなたは大切な信徒で――……」
「御心配は無用ですわ」
イリスが、穏やかな声ながらぴしゃりと言うと、ケツィアは更にたじろぎ、無意味な声を口にした後、腹をくくった様にイリスの顔を見た。
「しかしだな、イリスミルト殿。 アルフィナは特別な娘だ。 あなたもそれは承知しておられるであろう? 必要としているのは、なにもキトナ大神殿ではない。 このレーゲスタ大陸全土の信徒が待っておるのだ、新しき〈斎王〉となる者を。 その役目を担える者は、そうそうはおらぬということをお解りのはずだ。 その候補者である娘を、このような街中に置いておくのは問題だとは思われぬか? 大神殿で護り、教育を与え、務めを果たさせる方がアルフィナの為になるとは思われぬか? 事実、あなたの娘のアイルーナ殿は、神殿を去ったが為に命を落としたではないですか?」
自分の言葉の正しさに酔う様に語るケツィアに、アルは吐き気を感じ拳を握りしめた。 この男は、何かと言えば、母の死が神殿を離れた為だと言いたがる。
「〝為になる〟かどうかは、あなた方が決めることではありますまい」
突然、背後から女性の声が飛び込んだ。 声のした入口へ視線を移すと、黒衣に身を包んだ騎士と思われる女が立っていた。
「フィル、お着きになったのね」
イリスミルトが声をかけると、フィルと呼ばれた女はアルフィナに軽く目礼をして室内に入って来た。
「勝手に入り申し訳ありません、イリスミルト。 お取り込みのようですが、私も同席しても宜しいですか?」
イリスが承諾すると、神官の男達が慌てる様に顔を見合わせた。
「イリスミルト殿、部外者には遠慮願いたいのだが……」
ケツィアが躊躇いがちな声で言うと、フィルは静かに視線を神官達に注いだ。
「部外者、に聞かれると不味い話をされているのですか? あなた方はキトナ大神殿の神官とお見受けいたしますが、このような時間に押しかけて、何を、この二人に説き伏せようとされているのです? 余程の火急の用件ですか? さもなくば、このような時間の訪問は些か常識を疑います」
静かな調子で語るフィルの言葉に、ケツィアは耳まで顔を赤くして言葉を失うと、代わりに若い神官が前に進み出て口を開いた。
「そういうあなたはどうなのですか? お見かけしたことのないお顔ですが、このような時間にこちらを訪ねているのは同じではありませぬか? 何も知らぬ部外者は口を挟まないで貰いたい」
神官の言葉を受けて、イリスミルトが進み出てフィルの前に立った。
「こちらはわたくしの古い友人で、わたくし達の事は全てを知っておられます。 そして、この家の主はわたくし。 わたくしの友人の発言に、あなた方が、とやかく言うことは許しません。 ――キトナ大神殿のお志は有難く思いますが、答えは、どれ程通い説かれようと変わりません。 これは保護者であるわたくしの希望であり、アルフィナ本人の意思です。 アルフィナの様子もご確認出来ましたでしょう? どうぞお帰り下さい。 今すぐに出れば、夜半の祈りには充分間に合いましょう」
有無を言わさぬイリスの言葉に、神官達は言葉を呑み込んだまま、顔を曇らせ玄関へと送られた。
神官を送りにイリスが部屋を出ると、アルはフィルと二人きりになった。 イリスの友人に騎士は多いが、この女騎士に会うのは初めてだった。
すらりと背の高い黒髪の理知的な顔立ちで、年の頃は二十歳代半ばといったところだろうか。 外套から衣服、長靴まで黒に統一されており、衣服の上からも判るしなやかな身体つきはとても敏捷そうだ。
イリスは戻ってくると、アルの肩に手を置きフィルと向き合わせた。
「フィル。 アルフィナです」
フィルもまた改めて目礼すると、まっすぐにアルの瞳を見詰めた。 柔らかな明るい緑の瞳は、全体の印象そのままの知性を感じさせる落ち着いた色だ。
「このような時間に申し訳ございません。 アルフィナ殿、はじめまして。 私はエフィルディード=ラオと申す、ティルナ大神殿に仕える騎士です」
言いながら、腰に下げていた剣の鞘に象嵌された〈方円の騎士団〉の徽章である〈八芒日月〉を見せた。
「ティルナ大神殿って、精霊王殿のことよね? そこの騎士ってことは、ラスターの同僚ってこと? えーっと、エフィルディードさん?」
「私のことはフィルとお呼び下さって構いませぬ。 アラスター殿は私の剣の師であり、共に任務を遂行する僚友です」
生真面目に答えるフィルの顔をしばらく見詰めた後、アルは自分からフィルのすぐそばまで歩み寄って、改めてその緑の瞳を見上げた。
「ティルナの王家には、〝生命の緑〟の瞳を持つ人が多いと聞いたことがあるわ。 たぶん、フィルさんのような明るい緑。 フィルさんはひょっとして、ティルナ王家の血筋に繋がる人で、古の民なの?」
アルの、質問というよりも確認に近い聞き方に興味を覚えたのか、フィルはアルフィナの黒の瞳を探る様に見詰め返した。
「何故、その様に思われたのです?」
「瞳の色でまず思ったのだけど、発音が北方の、というより聖都の神殿に仕える神官が使う言葉にとても似ていると思ったの。 そんな言葉を使うのは、余程長く神殿に仕えているか、ティルナの王宮に住まう人々位だって、幼馴染の楽師の息子が言っていたのよ。 フィルさんは精霊王殿に仕えている騎士だから、単純に神殿関係者だからという理由は否定できないけれど、ただの騎士だったらそんな紋様のある耳環を身に着ける事は出来ないはずだわ。 小さくてよく見えないけれどその紋様、ティルナ王家の両翼渡月紋でしょう? あとは勘」
淀むことなく言い終えると、アルフィナはフィルの反応を待つ様に笑顔で見上げ続けた。 フィルは耳環を片側はずすとアルの眼の前に差し出し、その紋様を確認させた。
「観察が優れておられる。 はい。 私はティルナ王家の血筋に繋がる古の民です。 とはいえ、直系ではありませぬ故、せいぜいが長い時間を生きていることくらいがその証というものでしょう」
静かに語り微笑むフィルの顔に、アルは驚きの表情を向けた。
「長いって、どれくらいを生きているの?」
「百では数え切れぬ程です」
フィルの答えに、アルの黒の瞳は揺れた。
「じゃあ、それじゃあ母を――アイルーナを知っているの?」
「はい。 立場が異なり頻繁にお会いすることはできませんでしたが、あなたの母上は私の大切な友人です」
言いながら、フィルはそれまでの形式的な笑顔とは違う、自然に生まれた柔らかな笑顔を見せた。
母を友人と語る人に、アルはどのような顔で向かい合えば良いか分からず戸惑ってしまったが、視線をフィルから外すことは出来なかった。 中性的な雰囲気を纏ってはいるものの、微笑むと女性らしさが滲み出る。 今のフィルの眼差しは、イリスや、恐らくは母と同じ慈しみといった類の愛情を含んでいる。
「安心いたしました。 怪我を負われ伏せっておられたと聞き及んでおりましたので」
「聞き及ぶ――って、いったい誰からあたしのことを聞いていたっていうの? その話しぶりって、イリスから聞いたってわけじゃないでしょう?」
瞬間的に警戒に変わったアルフィナの様子に微笑で応えると、フィルは右手を僅かに浮かせ、「キラル」と短い言葉を発し掌を上に向けた。 すると床から湧き出すように黒い猫が現れ、伸ばされた腕を伝ってフィルの肩に上り座った。 雲ひとつない夏の青空の様な双眸と、額の間にはいまひとつ、月の様な金の眼がアルの様子を窺っている。 額の第三眼は、この猫が魔物でないのであれば、聖獣で、フィルと契約を結んでいるという証である。
「私の契約聖獣で〈影渡り猫〉のキラルフィーズと申します。 実は以前から時折、このキラルを通して貴女のことを見護っておりました」
「以前から見護っていたって――どういうこと? あたしをずっと見張ってたってことなの?」
僅かの怒りを含んだアルの言葉にフィルはすぐには答えず、再び形式的な職務の表情で、キラルの喉をひと撫でするとアルの顔を改めてじっと見詰めた。
「見張っていた。 ええ、そうとも言えます。 ――アルフィナ殿。 私は本日、貴女をお迎えに上がったのです。 イリスミルトにはご理解頂いています。 貴女にはしばらくの間ご避難頂きたいのです」
突然の話題に、アルは眼を瞬かせ口をぽかんと開けた。
「お迎えって、いったい何処へ迎えるって言うの? だって、フィルさんは精霊王殿に仕える騎士でしょう? そんな人がどうして子供のあたしなんかに用があるっていうの? 避難ってどういう意味なの? わけが分からない」
「困惑されるのはごもっともですが、どうぞお聞き入れください。 これは精霊王殿の長の命です。 貴女を精霊王殿までお連れするよう私に命じられたのは、ティルナ王陛下です」
思いもよらぬ人物の名に、アルは言葉を失くした。