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第10話:交錯

   10:交錯


 息することも躊躇われる猛烈な臭いが、男達の頭上から降りて来る。 臭いの源は、肩に担いでいる石桶を満たす液体。 それともその中に身を浸す、神官達が〈御子〉と呼ぶ存在自体が発するものか。


「ここに下ろせ」


 先に立って歩いていた丸眼鏡をかけた男が、一段高くなった部屋の中心を指して言った。

 石桶を担ぐ八人の大柄な男達は、液体を零さぬ様に細心の注意を払いながら下ろし、深い息を吐いた。 運んだ男達と入れ替わる様に、恐らくは神官見習いであろう若者が四人、水桶を四方から囲むように立った。

 石桶を設置し終えたのを確認すると、眼鏡の男は、ゆったりとした足取りで入室してきた白髯の大男に視線を移し、胸の前で手を重ね頭を下げる礼をとった。


「ダ―シュール、変わりは無いか?」


 低く響く声で白髯の男――オリ=オナは問うた。 ダ―シュールと呼ばれた眼鏡男は、更に深く頭を下げると、背を伸ばしオリ=オナの顔を見た。


「それが、お運びする前は盛んに声を出しておられたのですが、先程からぴたりと何も仰られなくなりました」


 言いながら、ダ―シュールは石桶の黒赤色の液面に視線を移す。 オリ=オナもまた、壁面の篝火に照らされぬらりと光る液体に眼をやった。 液面は沈黙し、ゆらとも揺れない。


「お姿を液の中に隠されて出て来られぬのです。 お休みなのでしょうか?」


 ダ―シュールの言葉には答えず、オリ=オナは水桶のすぐ脇に立つと、不透明な液体の中を見透かすかのように眼を僅かに細め、胸に垂れる豊かな白髯を右手で梳いた。


「そなた、御子をお出しせよ」


 水桶の一番傍近くに立っていたひ弱そうな青年に命じた。 青年は明らかに狼狽した様子でダ―シュールの顔を見たが、ダ―シュールは何も言わず、むしろ睨みつけるように青年を見据えた。

 青年は幾度か口を開きかけたが、結局何も言わず、諦めたように水桶に向かった。

 深く吸い込むと、気管が焼けるかのような痛みを与える強烈な臭いが侵入してくる。 眼も沁みる。 正直、傍に立っていることすら忌避したい。 青年は眼を瞑り、呼吸を止めると、意を決し勢いよく液体の中に両手を突っ込んだ。 瞬間、焼ける様な激しい熱を腕に感じ、何も掴まぬまま液体から腕を抜き出すと、今まさに火炙りにされているかのような激しさで喚き始めた。 液体に浸かった腕は、皮膚がどろりと溶け赤く(ただ)れた肉から離れ垂れ下っている。 己の腕の惨状を眼にした若者は、痛みと恐怖で更に混乱し、言葉にならぬ言葉を叫び床に(うずくま)った。 叫び続ける若者の傍に立ったダ―シュールは、腰に帯びていた剣を抜くと、青年の背中に垂直に突き立てた。 青年の叫びは止まり、床には血溜まりが広がった。


「お前が御子様をお出しせよ」


 ダ―シュールは、剣に付いた血を振い落とすと、いま一人の青年に命じた。


 沈んでいた水槽の主の頭が現れると、オリ=オナはその顔を覗き込み沈黙した。

 そもそも、常から呼吸をしているのかどうかも分からない御子は、まさに深く眠ってでもいるかの様に眼を閉じ俯いたまま動かない。


「オナ様。 御子様はまさか――」


 ダ―シュールは眉間に皺を刻みオリ=オナの顔を見た。 オリ=オナもまた僅かに眉を寄せしばし考えると、入り口近くに立つ四十がらみの男に視線を移した。


「セナといったな。 操骸師(そうがいし)のそなたはどう見る」


 血色の悪い細面の顎を骨ばった手で撫でながら、セナはにたりと笑うと、ひょこひょこと癖のある歩調で水桶近くまで寄り、御子の顔を首を深く傾げ覗き込んだ。


「ああ、これは――……」



     ***



 半身は、斬り倒した死魔獣の血に濡れている。 白の衣は、半ば以上がどす黒い赤に染め上げられていた。

 カナルが教えた地下の見取り図は頭の中にある。 そして、シリンの風が運ぶ血肉の腐った異臭が、ウルドの居場所へとラスターを導く。 進む程に濃くなる、ねっとりとした四肢にまとわりつく空気が軽い陶酔を与える。

 その淀みがいっそ心地よかった。


『まもなくだ』


 宙に静止したシリンが、前方を指差し告げた。 視線の先の闇の中心には、巨大な岩壁があるのみである。 傍に立つと、岩は遥か上方の闇に溶けるように屹立している。 軽く触れ、瞳を閉じると、岩が縦横に巨大なだけではなく、厚みも相当なものだと感じ取れた。


「――炎帝(サーラム)


 ラスターの発声と共に、青白の炎蛇が大きくうねりながら岩壁を這い上った。 瞬く間に視界一面が弾ける様な白に染まる。 火焔が撒き上がる轟音と岩の軋む不穏な音が、静寂に沈んでいた地下を一変させた。

 見る間に、凍える黒褐色だった岩肌は灼熱の緋色に変わり、どろり、と一角から(とろ)けはじめる。 岩の変化を見極めると、ラスターは壁に向かい右手をすっと上げた。


「シリン」


 シリンはにっと笑むと、ラスターの肩に手を置いて、視線を同じ方向へ向けた。


『気付いておるだろうが、この岩壁の先には人間が相当数いる。 巻き添えにせぬつもりならば、加減しろよ』


 シリンが肩から手を離すのとラスターの手先に生じた旋風(つむじ)が溶けた岩壁に襲いかかるのが同時。 蕩けた岩壁の真中に抉った様な大穴が開き、その創口には、滴る血の様に溶けた岩が流れている。

 開いた穴の向こうから、無数のどよめきが聞こえる。 熱く蒸された、人外の力が溢れる地下空間から逃げ出さぬ、統率の取れた集団であることは明白だった。

 足元はまだ溶けた岩の熱で蒸気が上がっていたが、ラスターは構わず開いた穴へ向かう。

 穴の中央に身を置いた時だった。


「射よ!」


 空気を震わす野太い男の号令が響いた。

 弾かれた弦の震える音と放たれた矢の空気を裂く音が重なり、ラスター目掛け押し寄せた。

 シリンの髪が大きく(なび)く。

 数十の矢は、ラスターに届くことなく一斉にぴたりと飛行を止めると、バラバラと雨粒の様に地に落ちた。 間髪いれず数本の槍が唸りを上げ迫ったが、ラスターは足を引き身体を捻って次々にかわすと、最後の一本は柄を掴み動きを止めた。

 穴を抜けた先は、壁どころか床、おそらくは天井も青黒色の夜黒石で仕上げられた巨大な空間になっており、そこに五十名程の剣士と思しき男達が整然と控えている。 四方の壁には、松明が燃されているらしく、それまでの空間とは比較にならない程明るい。


「――何用か?」


 熱風に髪を揺らしながらラスターが問うと、最前列に居た白頭の老剣士が進み出て僅かに頭を下げ、ラスターの顔に視線を定めた。


「貴殿の返答次第で、用向きは変わりまする」


「時間稼ぎならば、付き合わぬ」


「付き合って頂きます。 貴殿の――〈聖血の器(エラノール)〉の力を我らが為にお使い下さると確信が得られるまで、貴殿を御子に近付けるわけにはいかない」


『〝御子〟とは、〈ウルド〉のことか? 言葉で飾り立てた所で、あれは神などには成り得ぬというに、酔狂極まりないな』


 呆れ顔でぼやいたシリンが、剣士達との間に風壁を作ろうと手を緩やかに動かした。

 ザンっ、と、天から白刃が急襲した。 咄嗟に刃をかわしたラスターとシリンの間に空間が生じ、その生じた狭間に降りた人影は地に足が着くか着かないかの瞬きの間に態勢を変え、低い姿勢からシリンの足元を狙い襲いかかる。

 シリンへの攻撃に視線を奪われた刹那、別の刃がラスターを襲う。 剣士たちの中から飛び出た影は、寸分違わぬ正確さでラスターの頸部を狙い銀刃を薙いだが、ラスターは手にしていた槍の石突きで剣を弾き飛ばし退けた。 襲撃者は、続け様に繰り出された槍先をひらりとかわすと、羽毛のような軽やかさで後方に降り立った。

 白頭の老剣士の前に立った襲撃者の横に、やはりシリンに打ち返された最初の襲撃者がふわりと降り立つ。


「シロエ、この男、強いよ」


「クロエ、あの精霊も強いわ」


 見詰め合いながら言葉を交わす二人の髪は白銀。 年の頃は十代後半といったところか。

 シロエと呼ばれた者は左の、クロエは右の瞳が金色に輝いている。 いま一方の瞳は燃える赤。 その面立ちは男女の違いはあれどよく似ている。


『――(いにしえ)(たみ)と〈闇に棲むもの〉の混血、か。 これはまた見事な混ざりようだ』


 感心する様なシリンの言葉に、シロエとクロエは嫌悪感丸出しの表情を見せた。


「古の民? あんな名ばかりの出来そこない共と一緒にしないで欲しいな」


「本来、〈古の民〉とは〈エラン〉の一族をさした言葉。 いま言う十二氏族をさすようになったのは、エランが地上を去ったずっと後になってからのことよ」


 二人は互いの瞳を見詰めながら、吐き捨てる様な調子で言った。


「シロエ様、クロエ様、この者の身体にはなるべく傷を付けぬようにとの命にございますれば――」


「黙れハイゼル、老いぼれは引っ込んでろ」


 ハイゼルと呼ばれた老剣士の言葉を遮る様にクロエが怒鳴ると、まだ年若い剣士がハイゼルの前に飛び出すように進み出た。


「黙るのはあんたの方だ! 我らへの命はその騎士を生きたまま――」


 言い終わらぬ内に、若者の眉間に銀刀が突き立った。 丸太が倒れる様に大柄な若者の身体は地に音をたて転がった。 そのすぐ脇に弾む様な軽い足取りで歩み寄ったシロエは、死体の胸部を踏みつけながら額に突き立った短剣を抜き、さも可笑しそうに乾いた笑い声を上げた。


「〈器〉にするのに、それの命なんか必要ないでしょう? 必要ないものなんか消しちゃえばいいのよ。 邪魔なものは消す、こんな簡単な事が解らないなんて頭悪いんじゃないの?」


 抜き取った短刀にぬるりと付着している赤を倒れた若者の衣で拭い取ると、シロエは満足そうに刀身を松明の灯りに翳し、その刃に欠けが無いことを確認する。

 若者の遺体から銀髪の暗殺者達に視線を移したハイゼルは、気を取り直すように拳を握り一歩前へ踏み出した。


「あなた方は我等の援護を命じられたはず。 御自身の役割を思い出して頂きたい」


「役割? はっ、まだるっこしいんだよ、お前等のやり方は。 こいつは俺達が狩ってやるよ。 お前等は俺達の邪魔にならないようせいぜい隅で小さくなってな」


 嘲る様にハイゼル達を一瞥したクロエは、手にしていた短刀の刃を舐めながら、上目遣いにラスター達を見た。

 左の赤の瞳が()きのようにちらちらと輝く。


「お前らと違って、俺達は神に選ばれてんだよ。 この金の瞳と白銀の髪、数百年生きてもすり減ることの無い命――。 お前らなんかとは一緒にはならないんだよ。 もっともこいつは、オナの話では俺達以上に神に近いらしいが関係ない。 所詮、仮初の〈器〉だ」


「でも困ったわ、クロエ。 この男、中身がまるで見えない。 〈先見(さきみ)〉ができないわ」


「だろうね。 さっきから俺と眼を合わせてるってのに、こいつ、ぜんぜん暗示にかからないからな。 〈過見(すぎみ)〉もできないよ」


 困惑気味の顔で語りかけるシロエに、クロエは頬を摺りよせ、幾つかの言葉をシロエの耳に囁きかけ笑った。 その間も、油断のない眼はラスター達から視線を外さない。 クロエの言葉を聞いたシロエは、クロエの瞳を覗き込みくすくすと笑うと、ハイゼルの脇へ行き、耳元で何事かを告げると、ひらりと身を翻してクロエの傍らに戻った。

 クロエは右手を横へすっとを上げ「出てこいよ」と暗い笑みをひらめかせた。

 ズズ、と鈍い地鳴りのような音と共に床から数体の〈幽鬼〉が現れた。 一様に、闇よりも黒く長い髪を触手の様に揺らめかせ、顔の真ん中でひとつ輝く白目ばかりの瞳を、じっとラスターとシリンへ向けている。 頬まで裂けた口からは鋸歯状の歯がのぞく。


「お前等に精霊はやるよ。 喰っちまいな」


 耳に障る哄笑が、幽鬼の群れから洪水の様に溢れ出す。 その笑いに、シリンはあからさまなため息を吐いた。


「クロエ、こいつらで大丈夫かしら? この精霊はこれまで見て来たどれよりも強そうだわ。 とても大きな力を持ってる。 肌が焼ける様に痛いのはこの精霊の力の所為よ、きっと。 それともその男の所為かしら?」


「だったら尚更早く消さなけりゃ、だよな。 大丈夫だよ、シロエ。 こいつらだけで足りなきゃ、もっと呼び出せばいいだけの話だから――」


 クロエの言葉が終わらぬ内に、二人の姿が消える。 瞬く間もなく、足元と頭上から研ぎ澄まされた刃が襲う。 キィン、と、金属のぶつかり合う高い音が響く。 ラスターの長剣の切先が弧を描いていた。

 ラスターが攻撃を受けると同時に、シリンを取り囲むように幽鬼が集まっていた。


『――まったく、うようよと鬱陶しい』


 シリンの淡い金の髪がゆらりと波打ちだすと、間もなく、周囲に緩やかな風の壁が生じた。


『おい後ろの人間共、巻き添えになりたくなくば今すぐこの場から()ね。 さもなくば命の保障はせんぞ』


 シリンの言葉に、剣士達の間に囁く様なざわめきが広がったが、逃げ去ろうとする者は無かった。 

 風壁は、空間全体の空気を揺り動かしていく。 壁面の松明が風に煽られ、炎は大きく揺らいだ後、引き伸ばされる様にして消えた。 空間は強風が吹き荒ぶばかりの真の闇となり、只人の剣士達の間に明らかなざわめきが起きた。

 上下左右から伸びて来る幽鬼の触腕をするするとかわしながら、シリンは風刀で、己を襲う幽鬼とラスターを襲う暗殺者達へ同時に攻撃を加えた。

 突風に身体を流されそうになり、クロエとシロエの態勢が瞬間崩れたが、曲芸師の様に宙でくるりと姿勢を変えると、二人は風の影響の少ない場所に素早く移動した。

 なおも執拗に追ってくる風に、クロエは忌々しげに舌打ちをすると、再び「出てこいっ」と叫んだ。 その声に呼応するように、周囲の空間から二十を超える幽鬼が滲み出した。 先に呼び出されていた幽鬼と共に一斉にシリンに襲いかかる。 折り重なるように押し迫る幽鬼の真中に文字通り風穴を開けたが、ぐにゃりぐにゃりと形を変え甦る幽鬼は、止まることなくシリンを求め触腕を伸ばし追いすがる様に迫ってくる。


『おいラスター、私はまずこいつらの始末を付ける。 炎帝(サーラム)もいることだから問題ないな?』


 クロエとシロエの攻撃を再び受けているラスターは、剣を一閃して一旦二人を遠ざけると、「問題ない」と短く答え、再び襲ってきた対の刃をかわした。

 クロエとシロエもまた、ラスターの剣を紙一重でかわしながら、舞う様に攻撃を続ける。

 刃の交わる音が、間断なく黒い空間に響く。


「どうしたよ、お前防戦の一方じゃねえか。 やりがいねぇな」


「仕方ないわクロエ、私達二人揃っての攻撃をかわすだけでも褒めてあげなきゃなんだから」


 縦横に動く激しい攻撃を続けているにも関わらず、二人の息は上がっていない。 その表情には余裕が滲み出ている。 一人が上から撃ちかかれば、いま一人は腹や脚へ鋭く斬り込む。 攻撃は同時に、または刹那の差をもって繰り返される。 これほど呼吸の合った動きをとれるのは、余程の意思の疎通があってのことであろう。 生半な者であれば、最初の数合で確実に致命傷を負っている。

 幾度目かの同時攻撃をしかけた後、ぱっと二人が飛び退りラスターから距離を取った。

 瞬間。

 幾重もの弦鳴りが空気を揺らし、矢の空を切る音がひとまとまりの凶器となりラスターへ迫った。 逃れる先は――地を強く蹴り、宙へ跳ぶ。 直後、一群の矢がラスターの立っていた場を獰猛に駆け抜けて行った。

 高く跳んだだけ生じた隙に、すかさずクロエが鋭い一撃を見舞う。 身を捻り直撃を避けたものの、僅かに切先のかすったこめかみから血が一筋流れる。 地に降り立つ間際にはシロエの短刀が一閃したが、こちらは衣の裾を裂いただけで傷を負わせることは無かった。 


『何を考えている、何故炎帝の力を抑え込んでいるんだっ』


 数体の幽鬼を風輪で縛ったシリンの髪が強い風に巻き上げられ天へと伸びる。 その風の流れに呼び起こされるように、ドン、と青白に輝く火焔の柱が二本、クロエとシロエを呑み込むようにそそり立った。


『望みは叶わぬと、申したであろう――』


 ぽぅと、白銀に輝く長身の男の姿が浮かびあがる。 燃え盛る炎と同じ底光りする青白の瞳は、他の何も映さずただラスターだけを見ていた。 淡い青銀の長い髪がさざめく水面のように揺れ動いている。

 ラスターの瞳もまた、揺らめく炎の光を照り返し鮮烈な青に輝いている。 炎帝を見据えながら、こめかみの血を拭った。


「余裕かましてんじゃねぇよ!」


 炎柱の先からクロエが飛び出しラスターの首を狙った。  だが、その動きは炎帝の炎蛇によって阻まれる。 炎蛇は巨大なとぐろを巻いて、ラスターを他から隔絶する。 クロエは弾かれるように後方へ跳び退り、片膝をついて短刀を逆手に構え直した。


「クロエ、これは炎帝だわ」


 同じく炎柱から逃れていたとみえるシロエが、クロエの傍らに駆け寄る。 その表情はクロエと違い青ざめ、明らかに怖れを抱いているようであった。


「炎帝――北の〈火の王〉か。 なんでそんなのがこいつと一緒にいる?」


「わからない。 だけど――怖いわ。 クロエ、この精霊はダメ、近付いちゃだめよ、大きすぎる相手よ」


「そんなのやってみなけりゃ、わからないさ――」


 クロエの言葉と共に、四方から十数の幽鬼が湧き出し、それまでシリンを襲い残っていたものと共に、炎帝を包み込む膜の様に襲いかかる。 黒い幽鬼の身体に炎帝の姿は瞬く間に隠れたが、一拍の後、中心から(ほとばし)り出た閃光が地下空間を鮮白に染め、その光に溶けるように、幽鬼は一体残らず消滅した。 後には、巨大な二匹の炎蛇が波打ち蠢いている。

 幽鬼が消されたことを見取ると、クロエとシロエはすかさず後方へ退避しようとしたが、足を踏み出すより早く天を衝く炎壁に取り囲まれ、二人は一つ所に縫い止められた。 その様を見た剣士達の間にそれまでにない大きなざわめきが起き、それは瞬く間に抑えようの無い動揺へと変わった。

 一人の者が悲鳴を上げて駆けだすと、後の者達も堰を切ったように我先にと出口へ殺到し、罵声と怒声の合間に呻き声が混じる大混乱が起きた。

 ラスターを護るものより幾分小型の炎蛇を二匹侍らせた炎帝が、宙に身体を置き、冷厳な眼差しでクロエとシロエを見下ろした。

 シロエはクロエに必死にしがみつき、一見しただけで判る程がたがたと身体を震わせながら、怯えた眼差しを〈火〉の精霊に向けている。

 猛烈な熱気で息が出来ないのか、二人は苦悶の表情を浮かべ、終には互いを支え合いながら床へ倒れ込んだ。 すると間もなく炎壁も炎蛇も根元から霧が晴れる様に消え、周囲には僅かな炎の残滓だけが残った。

 炎帝の右手がすっと動く。 その手許に生じたふたつの光珠が指を僅かに動かすと火矢に変じ、クロエの右肩とシロエの左脚を貫いた。 肉の焼ける異臭と(つんざ)く絶叫が場を満たした。


『――第一の炎を避けたは、褒めてやろう』


 無感動な声を発した後、再び炎帝の右手がゆるりと動く。 

 その動きに合わせる様に、ラスターが二人と炎帝の間に立った。


『――何の、つもりか?』


 まっ直ぐに炎帝の瞳を見ながら、ラスターは右手の刺青に左手を添えた。


「この者達をいま消すことは、許さない」


『――用があるのは、片方だけだろう?』


 いつの間にか傍らに立っていたシリンをちらと見ると、ラスターは再び炎帝に視線を定めた。


『それはそなたの命、か?』


 炎帝の問いに答えようと口を開きかけた時、隠し持っていた針状の暗器を手にクロエが突進してきたが、半身を捻りかわしたラスターは、逆にクロエの右手を掴み捻り上げ荒々しく地面に押さえ込んだ。 鈍い音と共に肩関節がはずされ、クロエは再び大きな叫びを上げる。


「やめてっ、クロエに酷いことをしないでっ」


 相方の絶叫に呼応するように、シロエも叫んだ。 半ば焼けた左脚をかばいながら、這うようにクロエの傍に寄ろうとしたが、伸ばした手を炎帝の火矢が貫く。 声にならない声を張り上げ、シロエは黒く焼け焦げた右手を抱え込むように身体を縮めた。


「シロエっ!」


 押さえつけられたままの姿勢で、クロエは肩の痛みも忘れたかのように激しくもがいたが、ラスターの縛めからは逃れられず、途切れがちに悪態を吐くのが精一杯だった。

 ラスターがクロエの髪を掴み顔を上げさせると、シリンは膝をついてクロエの瞳を覗きこんだ。

 真向からシリンの眼と対することになったクロエは、ぴたりと逆らうことも喚くことも止め、ぐったりと力なく為されるがままになった。


『――こいつら、真に三百年は生きているようだ。 母親が人間だったようだな。 (オスティル)の瞳はしていないようだが、どうやら西域の古の民の裔のようだ。 母親の《名》はエレンヴェル=フィーンシェール=ローゼル。 こいつの《名》はクルセ=レイン=フェイべル。 そっちの《名》はシルヴァ=ネイト=フェイベル。 双子の姉弟だ』


 シリンの濃青の瞳は底から光を放ち、クロエの更に奥深くへ潜る。 クロエの焦点の合わない虚ろな眼が瞬間見開かれ、びくりと痙攣を起こす。 そんな様子を見ていたシロエが、痛みと恐怖に顔を歪ませながら請うように身体を折り曲げた。


「やめてっ、お願い、やめて、やめて。 クロエを……私達を苛めないで――」


 シロエの訴えは耳に入らないかのように、シリンは()続ける。


『父親の記憶は全くないな。 幼少の頃の記憶は滅茶苦茶だ。 物扱いだな、これは。 ――血を交えたのは、ごく最近の様だ』


 シリンは瞳をラスターに向けると、何も言わずクロエに視線を落し続ける顔を覗き込んだ。 シリンの眼差しに気付くと、ラスターも視線を僅かに上げ、シリンの瞳を見た。


『――後は、お前がやった方がいいだろう?』


 シリンの言葉には答えず、クロエに視線を戻すと、ラスターは一拍置いてゆっくりと口を開いた。


「――いい加減、出て来るがいい」


 静寂が場を満たす刻がどれ程か続いた後、隙間から空気の漏れ出る様な微音が、膠着した状況に変化をもたらした。

 囁く様な僅かな音は、次第に存在を主張するようにはっきりした声に、終には高笑いに変わった。 身体を揺らし笑うクロエの髪を掴んだまま、ラスターは無言でただ見詰めていた。

 笑い飽きたのか、くっくと最後に短く笑った後、クロエは深く息を吐き、吸った。


『――お前は、私が嫌いだからな』


 クロエの口から漏れ出たのは、それまでの声よりも幾分低い青年の声。 状況にそぐわない落ち着きが、声音にも口調にも現れている。


「クロエ、クロエ、ああ、気が付いたのね。 ねえお願い、もうクロエを自由にしてやって、お願いよ」


 混乱し半泣きになっている片割れの声など耳に入らないかのように、クロエは沈黙し、そして再びくっくと笑いだした。


『――ラスター!』


 シリンが叫ぶと血飛沫が散るのが同時。

 先程までとは比較にならない強力で、クロエは己を押え込むラスターを撥ね退け、自由に動かせる左手を鷹爪の様に使いラスターの腕を裂いた。 

 拘束から逃れ、ラスター達の影響の届かぬ場まで素早く飛び退ると、クロエは指先に付いた血を旨そうに舐めた。 金と赤の瞳の輝きが増す。


『――比べ物にならぬな。 この血に及ぶものなど、他に存在し得るはずもない』


 ラスターは傷を負った右腕の傷に左手を沿わせるように動かす。 左手が沿うと、傷は僅かな痕もなく消えた。 その様子を上目遣いに見ていたクロエは、にたりと嗤うと、関節を外され、炎矢の貫いた黒く生々しい傷痕がある右肩に左手を置いた。


『痛み――というのは、なかなか不思議な効用がある。 生、を感じる。 とても生々しい、生きているが故の苦だ。 傷が疼けば疼くほど、確かな鼓動を感じる。 ――だが、長く感じていたいものではない』


 言い終えるや、クロエは右肩を揺する様に大きく回した。 鈍い音が上がった後、クロエは確かめる様に右腕を上げ、回し、その動作を確認すると、手を天に翳し見入った。 火矢の傷痕は、いつの間にか消えている。


『腕が有るというのは良いな。 私の腕はお前が斬り落とし、お前の聖獣が喰らった』


 淡々と語る声とは相反し、眼は脈打つようにぎらついた色彩を帯びていく。


「クロエ、クロエ、どうしたの、何を言ってるの? 声、声がおかしいわよ、どうしたの、どこか調子が悪いの?」


 弟の傍になんとか行き着いたシロエは、戸惑いながらもクロエの手を握り、問いかけるように呼びかけた。

 自分の手を握り語りかける姉に、クロエは無感動な表情を向け、そして輝く金に気付く。

 シロエの髪を掴み、引き倒すように(ひざまず)かせると、クロエはその左眼にずぶりと指を突き立てた。 引き裂く様な悲鳴をシロエは上げた。 だがその声もクロエには響かず、眼球を抉り出すと突き飛ばすようにシロエを放り出した。

 血塗れの眼球をひと舐めすると、クロエは指を開いて地面に落とし、爪先で踏み潰し躙った。


「――相変わらず、その色がお嫌いか」


 爪先に落としていた視線をラスターに向けると、クロエは腕を組み薄く笑ってみせた。


『――こうして言葉を交わすのは、いったいいつ以来か?』


邂逅(かいこう)する為にここに来たのではない」


『だろうな。 だが少しくらいは付き合ってもよかろう? 私が私、であることは、この先何時あるか分からぬ。 私、であるこの束の間くらい、想い出に浸ることをさせてもらいたいものだ』


「貴方は、貴方であった時から正気と狂気を往き来していた。 私の記憶の貴方はそれが全てで、語る様な想い出などない」


『そう、そうかも知れない。 だがお前はその私と話をしたいが為、わざわざ虜囚を装ってまでこの地下へ乗り込んだのであろう? 直近の私を知る者を視れば、秀でた〈先見〉の出来るお前ならば、私、が現れるかを間接的に知ることが出来た。 オリ=オナとかいう人間を介して視たのであろう? 奴から、今この時の私の状態を知り、行動に出た。 そして正にその通りになった。 ――その行動力を敬し答えてやろう。 問うがいい』


 探る様な瞳で自分を見ているクロエを、ラスターもまたじっと見詰めた。 シリンと炎帝は、ラスターの後方で控える様に押し黙ったまま成り行きを見ている。


「――分かつことは、出来ないのか」


 クロエはそれまで口の端に上らせていた笑みを消すと、ふっと息を吐き、胸に手を当てた。


『〈過去〉〈現在〉〈未来〉――この〈三魂(さんこん)〉が揃ってはじめて生命は生命たり得る。 三者は不可分。 それは死を()ってしても分かつことは出来ぬ。 お前もとうに知っているはず、それらを分かつということは、存在を永劫に無にすると同じということを』


 深く息を吐き出すと、クロエは静かに言葉を続けた。


『三魂は、〈器〉の内で深く結び付き、根を複雑に絡ませるようにはっている。 この根が解けるのは〈器〉の死を迎えた時だけ。 だが死でさえ、〈現在〉と〈未来〉の魂の結びつきは断てない。 その結びつきを断つということは、〈魂〉の死を意味する。 魂の死とは、即ち無に帰すということ。 無に帰した魂は、二度と甦らない。 正に、無、となる』


 言葉の終わりは、呟くように漏れ出た。


『もっとも、そうなることを望んで、お前達は我等に〈無明(ウルド)〉という蔑称を付けたのであろうがな』


 再び笑んでみせると、クロエ――〈ウルド〉の瞳は底光りする輝きを増した。 


『友、を無にすることに躊躇いを感じるか?』


 表情を変えず、何も答えないラスターの顔に視線を固定したまま、ウルドは肩を揺らし始めた。 くっくと漏れ出した声が次第に明確な笑声に変化していくと共に、身体の揺れも大きくなった。


『笑い話だな。 こんな滑稽な話があるか? 我等を創り出したのは、誰あろうアラスター、お前だというのに。 お前が我等を我等にした。  よもや、忘れたわけではあるまいな』


「――忘れなどせぬ」


『そうかそうか、忘れておらぬか、ならば良い、ならば、そなたはそなたの罪を(あがな)いたいであろう? ならば私がその機会を与えてやろう』


 声に変わりは無い。 だが口調が変わっていた。 落ち着きを保っているかのように装っているが、揺らぐように、単語により発声に強弱がある。 息遣いが乱れ、荒くなっていく。


『簡単なことダ。 人間共が言う様にお前の身体ヲ寄越せなどとはイワヌ。 ただ、私ノ新しい〈器〉を造って欲シイダけダ。 お前ならば出来る。 イヤ、お前にしか出来ぬ事ダ。 私の力を余すことなく納め得る〈器〉さえ得らレレバ、私は誰も近付カヌ〈闇を抱く地〉深くに隠れ、二度と〈光アル世界〉二現レヌ。 お前達ノ望ム結末ト大差アルマイ? ドウだ、ドウダ? サモナクバ、ソノ血ヲ、〈器〉ヲヨコセ、身体ガ焼ケル様二痛イ、イタイ、ヨコセ、早クヨコセェエェエ』


『時間切れのようだぞ』


 髪を揺らしながら、シリンが囁くように言った。 炎帝の青白の炎が、花が咲き乱れるように宙に無数に灯った。

 納めていた剣をゆるりと抜くと、ラスターは切先をウルドに向けた。


「私は贖罪などしない」


挿絵(By みてみん)

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