「一晩くらい役に立て」と夫に売られかけたので、九年間支えた侯爵家を捨てます
「一晩くらい、夫の役に立て」
九年連れ添った夫は、私の顔も見ずにそう言った。
借金の利息を帳消しにしてもらうために、今夜、ほかの男の寝室へ行け――と。
ほんの数時間前まで、私はこの人を、心から誇らしく思っていたのに。
◆
「奥様、大変です! 今夜、王弟殿下がお越しになります!」
家令が、封を切ったばかりの手紙を握りしめて飛びこんできた。
晩餐会まで、あと三時間。しかも、お付きの方がもう一人ご一緒だという。
(三日かけて決めた席順が、全部やり直しだわ……)
心の中でだけ嘆いて、私は顔を上げた。
「わかりました。すぐ厨房に――」
「奥様、お肉が二人分足りません!」
言い終わる前に、料理長のほうが青い顔で駆けこんできた。
「薄く切って、きのこと温野菜を添えたらどうかしら。十六人分にできそう?」
料理長は宙をにらんで、指を折った。
「……いけます。ソースも、それに合うものに変えましょう」
「お願いね。殿下のお皿だけは、軽い味つけに。先月の王宮のお食事会で、胃の調子がよくないとこぼしていらしたから」
料理長が厨房へ駆け戻ると、今度は家令と席順表をのぞきこむ。
今夜は、北の隣国との貿易を増やすための話し合いの席だ。まとめ役は、外交局の副長官を務める夫、フレデリック。明日の会議がうまくいけば、次の長官に選ばれるだろうと噂されている。
「殿下の右隣は、ノルヴァン辺境伯にしましょう。左隣は旦那様に」
北の国境を守るダリウス・ノルヴァン辺境伯が首を縦に振らなければ、この話は一歩も進まない。殿下と、じかに言葉を交わせる席にしておきたかった。
「席を移っていただく伯爵のお隣には、狩りのお好きな方を」
(あの方は、獲物の話さえできれば、どこの席でもご機嫌だもの)
卓の花は、背の低いものに替えてもらった。お客様同士の顔が、卓の端からでもよく見えるように。
「アリアーヌ。殿下がいらっしゃるなら、楽師を増やそうか」
夫が補佐官を連れて入ってきた。きれいに撫でつけた金髪に、濃紺の上着がよく似合っている。
「殿下はにぎやかなお席が苦手でいらっしゃいますから、お迎えのときだけにしようかと」
「そうか。では、そのあたりは任せる」
任せる。
たったそれだけの一言が、私はうれしかった。
「昨年、北の街道を直すのにかかった費用を出してくれ。辺境伯は、今の道では荷馬車を捌けないと言うはずだ。先に数字を見せる」
補佐官に書類を指さしながら、夫は次々と指示を飛ばしていく。その横顔を、部屋の隅から眺めるのが好きだった。
結婚して九年。子どもには恵まれず、夫が私の寝室へ来なくなってから、もう三年になる。
それでも私たちは、それぞれの得意なことで、この家を支えてきた。
よい相棒なのだと、信じていた。
◆
「北を通る荷馬車を、来年には倍にできるか?」
晩餐が半ばまで進んだころ、王弟殿下がそう切り出した。給仕を見守っていた私も、思わず卓のほうへ目を向ける。
「今のままでは、お受けできません」
答えたのは、ノルヴァン辺境伯だった。
夫より頭ひとつ背が高く、肩幅も広い。短い黒髪が額に少しかかり、黒い礼服の胸では、北部の勲章だけが光っていた。
「国境ではすでに、荷馬車が長い列を作っています。道を広げなければ、待たされる時間が延びるだけです」
「では来年は、まず三割というのはいかがでしょう」
夫がすかさず書類を差し出した。
「その一年で、道と倉庫を広げます。費用は、国境で集める税の一部から」
辺境伯は数字を目で追い、ゆっくりと頷いた。
「その案なら、北部も手を貸せます。費用と工事の期限まで、書面にしていただけるなら」
「明日の会議で、必ず」
夫が請け合うと、辺境伯は懐から地図を取り出した。広げる場所を探して、その目が卓の上をさまよう。
(あ。お皿の上に広げるおつもりだわ)
私はすぐさま、次の料理を運ぼうとしていた給仕を止めた。給仕長には、花瓶を脇へ移すよう目で合図を送る。
空いた場所に地図が広がり、殿下も身を乗り出して、北の街道を指でたどり始めた。
「最初の工事費でしたら、私どもの銀行からお貸しできますよ」
指輪だらけの手を上げたのは、メルシエ伯爵だった。白髪を短く刈りこんだ、小柄な方だ。夫とは最近、よく会っているらしい。
(なるほど。そのために、今夜お招きしたのね)
夫が頷くと、伯爵はなぜか私のほうを見た。
目が合ったので、会釈をする。
その視線が、私の顔からゆっくりと、胸元へ下りていった。
伯爵は、笑っていた。
私はさりげなく胸元に手を添え、別のお客様のほうへ体を向けた。
晩餐が終わり、談話室へ移るお客様をご案内していると、辺境伯が私の前で足を止めた。
「先ほどは、ありがとうございました」
「お食事は、お口に合いましたか」
「ええ、とても。それに、地図を広げる場所まで空けていただいて」
(あら。気づいていらしたのね)
「お皿の上に広げられては、料理長が泣いてしまいますもの」
「……話に夢中になると、ついやってしまうんです。領地の家令にも、何度叱られたことか」
(この大きな方が、家令に叱られて小さくなっているの……?)
思わず口元がゆるむと、黒髪の下の琥珀色の目も、少しだけ細くなった。
「今夜は助かりました。夫人が、話の流れを見ていてくださったのでしょう」
そんなふうに言われたのは、初めてだった。
返事をしようとした、そのとき。
「妻は、花と料理を選んだだけですよ」
いつの間にか、夫が隣に立っていた。私の肩に手を置き、辺境伯へ書類を差し出しながら笑っている。
「難しい話は分からない女ですから。それより閣下、明日の案を――」
「その前に、夫人へお礼を」
辺境伯は書類を受け取りはしたものの、目を落とさなかった。
「おかげで、落ち着いて話ができました。ありがとうございました」
肩に置かれた夫の指が、ぐっと食いこむ。少し、痛い。
(あなたにも、あんなふうに言ってほしかった)
けれど、そのたった一言のために、夫を呼び止めることはできなかった。
◆
日付が変わるころ、私は夫の書斎へ呼ばれた。
「メルシエ伯爵の客室へ行ってもらいたい」
食卓で向けられた目つきを思い出して、返事が遅れた。
「私は伯爵から、金貨三万枚を借りているんだ」
「三万枚……?」
侯爵領が一年で得る収入よりも多い。家の帳簿で、そんな借金は一度も見たことがない。
「私の名で借りた。長官になるには、付き合いにも金がかかる」
外国のお酒も、新しい馬車も、仕事に必要なのだと言われてきた。領地の収入は変わらないのに、夫の付き合いにかかるお金は増える一方だった。
だから、客間の模様替えは見送った。自分のドレスは仕立て直して着た。家令と帳簿をにらんで、今月もどうにか払えたと息をついたのは、ほんの数日前だ。
(その裏で、こんな借金まで……?)
「お前が今夜、伯爵と過ごせば、たまった利息は帳消しにするそうだ。長官になれば、伯爵は私の後ろ盾になる。お前にとっても、悪い話ではないだろう」
言葉の意味が、すぐには頭に入ってこなかった。夫の顔をじっと見つめると、夫は、そんな顔をするなとでも言いたげに、ため息をついた。
「私を……売るのですか」
「その言い方はよせ。家のためだ」
晩餐の席で、二人が頷き合っていたのを思い出す。
伯爵はあのときから、私を待っていたのだ。
「嫌です。行きません」
夫が机を回りこみ、私の横に立った。
「一晩くらい、夫の役に立て」
夫は、こちらを見もしなかった。私は、その袖をつかんだ。
「私は九年間、一度も役に立っていなかったのですか」
「今は、そういう話をしているんじゃない」
「では、どういうお話なら聞いてくださるの?」
夫は私の手を振り払い、眉を寄せた。
「長官になれば、お前も今よりいい暮らしができる。何が不満なんだ」
本当に、分からないのだ。私が、こんなに嫌だと言っているのに。
「……もし、伯爵の子を身ごもったら?」
「九年もできなかったのに、一晩でできるものか」
息が止まった。
子どものことで、一度も私を責めなかった人だ。優しい人だと、ずっと思っていた。
(違ったのね。口に出さなかっただけで――ずっと、私のせいだと思っていたのね)
「もういい。行くぞ」
腕をつかまれ、扉のほうへ引きずられる。私はとっさに、机の縁にしがみついた。
「離して! 嫌だと言っているでしょう!」
次の瞬間、頬を打たれた。
机に腰をぶつけ、口の中に血の味が広がる。
夫も、自分の手を見ていた。けれど、謝りはしなかった。
「お前が、聞き分けのないことを言うからだ」
初めて二人で開いた晩餐会のあとには、残ったお菓子を半分に割って、大きいほうを私にくれた人だった。
私はまだ、あのころの夫と話しているつもりだったのだ。
扉が叩かれた。
「旦那様。殿下が、談話室でお呼びです」
夫が舌打ちする。今しかない、と思った。
「……顔を、冷やしてまいります。このままでは、人前に出られませんので」
「見送りを済ませたら、迎えに行く。支度をして、部屋で待っていろ」
私は頷き、顔を伏せたまま書斎を出た。
支度なら、する。
――あなたが思っているのとは、別の支度を。
◆
「奥様、そのお顔は……!」
寝室で鏡台の奥から革袋を取り出していると、侍女のベルタが息をのんだ。私が嫁ぐ前から世話をしてくれている人だ。
「伯爵の寝室へ行けと言われたの。断ったら、こうなったわ」
ベルタは無言で扉を閉めた。鍵まで、かちりとかける。
「今夜のうちに、ここを出ます。白鹿亭に泊まって、明日、実家へ帰るわ」
「では、先にお部屋を押さえさせましょう」
ベルタは小間使いに短く言いつけると、衣装棚から旅行鞄を引っぱり出した。迷いのない手つきだった。
「……あなたも、来てくれるの?」
「こちらへ嫁いだのは奥様で、私ではございませんからね」
あまりにきっぱり言うものだから、少し笑ってしまった。
(こんなときでも、笑えるのね、私)
玄関に馬車を回す順番は、もともと私が決めている。殿下の馬車、辺境伯の馬車――その次に私の馬車を並ばせるよう、ベルタに厩舎へ伝えてもらった。殿下の前でなら、あの人も私を力ずくで連れ戻せないはずだ。
旅用の服に着替える。鏡の中の栗色の髪は乱れて、頬には夫の指の跡がくっきり残っていた。指が震えて外套のボタンがうまく留まらず、ベルタが黙って、ひとつずつ留めてくれた。
『実家へ帰ります。今後のお話は、リュゼル伯爵家を通してください』
書き置きを残して、革袋を鞄にしまう。鏡台の端には、今夜のお客様へ明朝送るつもりだった、書きかけの礼状があった。
少しだけ迷ってから、私はそれを置いていった。
玄関の階段の下では、王弟殿下がご自分の馬車へ向かうところだった。
「アリアーヌ。どこへ行く」
見送りに立っていた夫が、私の外套に目を留めて近づいてきた。
「実家へ帰ります」
「馬鹿なことを言うな。伯爵には、私から話しておいてやる。戻れ」
夫の声は、まだ穏やかだった。使用人たちの耳があるからだろう。
「何を、お話しくださるのですか」
「……少し遅れる、と」
答えずに脇をすり抜けようとすると、腕をつかまれた。書斎でつかまれたのと同じ場所に、指が食いこむ。
「痛っ……離してください!」
その手が、不意に外れた。
辺境伯が夫の手首を押さえ、私の腕から引きはがしていた。
「おやめください。痛がっておられます」
「……夫婦の話です。口を挟まないでいただきたい」
夫がもう一度手を伸ばすより早く、辺境伯が私たちの間に体を入れた。大きな背中に、夫の姿がすっかり隠れる。駆け寄ってきたベルタが、私の背中を支えてくれた。
「何事だ」
王弟殿下が、馬車の前から引き返してきた。夫はすぐさま姿勢を正す。
「お騒がせして申し訳ございません。妻が疲れて、少々取り乱しておりまして」
「戻りません」
夫が言い終わる前に、口が動いていた。
殿下の薄い灰色の目が、私の腫れた頬で止まる。とっさに手で隠そうとして――途中で、やめた。
(隠したら、全部、ただの夫婦喧嘩で終わってしまう)
「……メルシエ伯爵の寝室へ行け、と言われました。そうすれば、夫の借金の利息を消してくださるのだと」
「アリアーヌ! 何を言い出す!」
「侯爵。夫人に話をさせろ」
殿下の一言で、夫が口をつぐむ。
口を動かすたびに、頬がずきずきと痛んだ。人前でこんなことを話して、あとで何を言われるだろう。
――でも、ここで黙れば、あの客室へ連れていかれるだけだ。
「断ったら、打たれました。ですから私は、この家を出ていきます」
「お送りしましょう」
辺境伯が、迷いなく言った。
「どちらまで?」
「白鹿亭です。馬車は、あちらに――」
「その馬車を戻せ! 妻を乗せるな!」
夫の声に、御者は手綱を握ったまま目を伏せてしまった。
(……そうよね。あの人に雇われているんだもの)
「では、私の馬車をお使いください」
「閣下、お待ちください。妻のことで、閣下にご迷惑をおかけするわけには――」
「迷惑ではありません。私が、お送りすると申し出ました」
辺境伯は、夫を見据えたまま続けた。
「ご自分の奥方を、借金のかたに差し出そうとした。断られれば、手を上げた。――見て見ぬふりなど、できるわけがない」
夫は口を開きかけ、何も言えずに唇を引き結んだ。
殿下が、夫のほうへ体を向けた。
「侯爵は残れ。今の話を、詳しく聞きたい」
「つ、妻が話を取り違えているのです。伯爵には、ご挨拶をするようにと申しただけで――」
「その挨拶と、借金の利息に、何の関係がある?」
夫が、黙った。
馬車の前で、辺境伯が手を差し出した。私はその大きな手を取って、踏み台に足をかけた。
「アリアーヌ! 明日の朝には戻れ。礼状も、まだ書いていないだろう!」
(……この期に及んで、気にするのは礼状なのね)
振り返って、私はいつものように答えた。
「寝室の鏡台に、書きかけがございます」
それから、続けた。
「続きは、あなたが書いてください。――私は、戻りません」
ベルタが隣に乗りこむ。辺境伯は扉を閉めると、ご自分は御者の隣へ上がった。
屋敷の灯りが見えなくなったところで、膝が震えだした。ベルタの手が、私の手をそっと包む。
「帰れますよ、奥様」
頷いたら、涙がこぼれた。
窓の外では、辺境伯が御者に曲がり角を確かめる声がしていた。低くて、落ち着いた声だった。
◆
「助けてくださって、ありがとうございました。閣下がいらっしゃらなければ、あの家を出られなかったと思います」
白鹿亭の帳場の前で頭を下げると、頬がずきりと痛んだ。
「朝になったら、実家へ帰ります。父に話して、それから……離縁の、ことも」
離縁。口にしたのは、初めてだった。声が震えて、続きが出てこない。
辺境伯は、急かさなかった。しばらく待ってから、低い声で言った。
「お父上からお尋ねがあれば、私も今夜のことをお話しします。何かあれば、いつでも」
夫が何を言い張ろうと、あの玄関で起きたことを見ていた人がいる。喉につかえていたものが、少しだけ下りていった。
「ありがとうございます。本当に、お世話になりました」
今度は、顔を上げたまま言えた。
辺境伯は支配人と短く言葉を交わすと、馬車に乗って帰っていった。
その馬車が角を曲がって、見えなくなってから。
(……あ。私、閣下にお茶の一杯もお出ししていないわ)
「ベルタ、どうしましょう。あんなにお世話になったのに、おもてなしも何も――」
「奥様。今夜くらいは、女主人のお仕事をお休みくださいませ」
ぴしゃりと言われて、私は口を閉じた。
その夜は、何度も目が覚めた。思い出すのは、夫が優しかったころの顔ばかりだった。
九年、一緒に暮らしたのだ。たった一晩で、何もかも嫌いにはなれなかった。
翌朝、侯爵家から手紙が届いた。
『伯爵が、返済を待たないと言い出した。お前が戻れば、まだ話はつけられる。殿下にも、ただの夫婦喧嘩だったと説明しろ』
最後まで読んでも、謝罪の言葉はどこにもなかった。私は手紙をたたんで、鞄にしまった。両親にも、これを見てもらおう。
宿の玄関へ出ると、旅の馬車のそばに騎士が二人立っていた。
「ノルヴァン辺境伯の命により、護衛に参りました。ご実家まで、お供いたします」
「閣下が……?」
ベルタと、思わず顔を見合わせた。
ゆうべから、宿の扉が開くたびに振り返っていた。夫の使いが、来たのではないかと。
辺境伯は、帰り道のことまで考えてくださっていたのだ。
街を抜けるまで、私は振り返りそうになるたびに前を行く騎士の背中を見て、息をついた。
◆
実家に着くと、母が玄関まで出てきていた。
「お帰りなさい」
「お母様、私……」
「ええ。まずは、中へ入りましょう」
肩に手を置かれた途端、たまらなくなって抱きついた。
後ろでは、ベルタが父に事情を話している。いつもは声の大きな父が、髭の下で口を引き結んだまま、一言も挟まずに聞いていた。
聞き終えた父は、黙って壁の剣に手を伸ばし――母に、無言で取り上げられていた。
(……お母様、取り上げ慣れていらっしゃる)
離縁の話し合いは、実家の代理人にすべて任せた。
そのあいだに王宮では、夫とメルシエ伯爵のお金のやり取りが調べられた。
北の街道の工事費を、どこの銀行から借りるか。それを決めるのは夫の役目だった。その夫が、伯爵の銀行に、返しきれないほどの借金をしていたのだ。
晩餐の席で伯爵が「私どもの銀行からお貸しできますよ」と申し出て、夫が頷いたのも――最初から、二人で決めていたことだった。
夫は北の貿易の担当から外され、次の長官には別の方が選ばれた。伯爵の銀行も国の事業から締め出され、夫の手元には、返すあてのなくなった金貨三万枚の借金だけが残ったという。
その知らせを読んだ父は、しばらく黙りこんだあと、執事を呼んだ。
「今夜は、いちばんいいワインを開けてくれ」
(今度は、お母様も止めないのね)
三人でグラスを合わせたその夜、私は久しぶりに、朝まで一度も目を覚まさなかった。
夏の終わりに、ようやく離縁が成立した。
◆
秋になって、母の友人から食事会の支度を頼まれた。
お客様の話を聞いて、席と料理を考える。久しぶりの仕事に、ペンを走らせる手が止まらなかった。
(九年間ただでしていたことに、お金をいただけるなんて)
噂を聞いた方々からも依頼が届くようになり、冬には、ベルタと実家の王都屋敷へ移った。
そんなある日。届いた手紙の束の中に、ダリウス・ノルヴァンという名前を見つけた。
妹のリゼット様が、この春、王都の社交界に出る。その初めての茶会を、私に任せたい――そう書いてあった。
約束の日、辺境伯は分厚い書類の束を抱えて現れた。
「お元気そうで、何よりです」
「はい。あの節は、本当にありがとうございました。帰り道の護衛まで」
「無事に着かれたと知って、ほっとしました」
そう言って、辺境伯は少し笑った。
宿まで送ってくださったときも、こうして笑ってくださっていたのかもしれない。あのときの私には、それに気づく余裕もなかったけれど。
「ベルネ子爵夫人から伺いました。お嬢さんの婚約祝い、見事だったそうですね。それで、妹のことをお願いしたくて」
最初に仕事を頼んでくださった、母の友人だ。
差し出された書類に、目を通す。
使える部屋、予算、日取り。どれも驚くほどきちんと書いてある。
――招待客の名簿を見るまでは。
「……妹君は、十九歳でいらっしゃいましたよね?」
「はい。ですから、妹が困ったとき頼れる方々をと思いまして」
侯爵、伯爵、将軍夫人。並んでいるのは、どなたも私の母より年上の方ばかりだった。
(これは……お茶会というより、後見人の顔合わせだわ)
「少し、変えてもよろしいでしょうか。妹君と同じ年ごろの方も、お招きしたいので」
辺境伯は名簿に目を落とし、それから、私の顔を見た。
「……少しで、済みますか」
こらえきれずに、吹き出してしまった。
次の打ち合わせには、リゼット様もいらしてくださった。兄君と同じ黒髪をきっちり編みこんだ、物静かな令嬢だ。
新しく考えた招待客について説明していると、リゼット様の目が、机の端の紙に留まった。
「そちらも、候補の方々ですか?」
「こちらは……最初に、お兄様が選ばれた方々です」
古い名簿を手渡すと、リゼット様は最後の一人まで読み終えてから、ゆっくりと兄を見た。
「兄は私に、何のお話をさせるつもりだったのでしょう」
「すまない。人選が、少々――」
「少々?」
返事に詰まった辺境伯が、助けを求めるように私を見る。
(こちらを見られましても……)
私は笑いをこらえながら、新しい名簿を二人の間へそっと戻した。
それから春の茶会まで、何度も顔を合わせた。
打ち合わせが終わっても、辺境伯がすぐにお帰りになることは少なかった。リゼット様の好きな旅の本から北部の話になると、気づけば私のほうが質問攻めにしている。
「冬は、凍った湖の上を通るのですか?」
「ええ。そりで渡れば、岸をぐるりと回るより、ずっと早いんです」
「……私なら、遠回りのほうがいいです」
本音がこぼれると、辺境伯が声を立てて笑った。初めて聞く、大きな笑い声だった。
つられて笑いながらお茶に手を伸ばし、すっかり冷めていることに、そこでようやく気づく。
(いつから、話しこんでいたのかしら)
ベルタに淹れ直しを頼むと、彼女はなぜか、やけに意味ありげな顔で頷いた。
茶会の日、リゼット様は同じ年ごろの令嬢たちに囲まれて、旅の本の話に夢中になっていた。お帰りの際には、今度一緒に書店へ行く約束まで取りつけていたらしい。
「ありがとうございました。あんなに楽しそうに話す妹を見たのは、久しぶりです」
最後のお客様をお見送りしたあと、辺境伯が私のそばへ来た。
これで、打ち合わせはおしまいだ。毎回抱えてきてくださった分厚い書類も、今日はもうない。
何か言いたくて、けれど、用件が何も思いつかなかった。「またお困りのことがあれば」と言うのも変だ。困らずにいてくださるほうが、いいに決まっているのだから。
「アリアーヌ殿」
辺境伯も、すぐには続けなかった。いつもよりきちんと結んだ襟元に、一度だけ手をやる。
「来週……私と、お茶を飲んでいただけませんか」
(お茶……)
私が黙りこんだのを、どう受け取ったのだろう。辺境伯が、はっとしたように半歩前へ出た。
「あの、妹のことで相談があるわけではないのです」
早口だった。殿下の前でも、夫の前でも、少しも慌てなかった人なのに。
「あなたと、また話がしたいので」
言い終えてから、耳のふちがじわじわと赤くなっていく。ご本人は、気づいていないらしい。
頷こうとしたのに、頬がゆるんでしまって、どうにも元に戻らない。
「来週の、木曜日でしたら……ぜひ。私も、もっとお話ししたかったので」
辺境伯が、息を吐くように笑った。
「私だけでなくて、よかった」
帰りの馬車で、私はベルタに尋ねた。
「この間頼んだ水色のドレス、木曜日に間に合うかしら」
「ええ、三日後には届くと伺っております。……それで、木曜日はどちらへ?」
「お茶に……誘われたの」
口にしただけで、また頬がゆるんでしまう。私は慌てて、窓のほうを向いた。
窓ガラスに映ったベルタが、声を立てずに笑っていた。
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