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短編

「一晩くらい役に立て」と夫に売られかけたので、九年間支えた侯爵家を捨てます

作者: 岸根しき
掲載日:2026/09/25



「一晩くらい、夫の役に立て」


 九年連れ添った夫は、私の顔も見ずにそう言った。


 借金の利息を帳消しにしてもらうために、今夜、ほかの男の寝室へ行け――と。



 ほんの数時間前まで、私はこの人を、心から誇らしく思っていたのに。





◆





「奥様、大変です! 今夜、王弟殿下がお越しになります!」


 家令が、封を切ったばかりの手紙を握りしめて飛びこんできた。


 晩餐会まで、あと三時間。しかも、お付きの方がもう一人ご一緒だという。


(三日かけて決めた席順が、全部やり直しだわ……)


 心の中でだけ嘆いて、私は顔を上げた。


「わかりました。すぐ厨房に――」


「奥様、お肉が二人分足りません!」


 言い終わる前に、料理長のほうが青い顔で駆けこんできた。


「薄く切って、きのこと温野菜を添えたらどうかしら。十六人分にできそう?」


 料理長は宙をにらんで、指を折った。


「……いけます。ソースも、それに合うものに変えましょう」


「お願いね。殿下のお皿だけは、軽い味つけに。先月の王宮のお食事会で、胃の調子がよくないとこぼしていらしたから」


 料理長が厨房へ駆け戻ると、今度は家令と席順表をのぞきこむ。


 今夜は、北の隣国との貿易を増やすための話し合いの席だ。まとめ役は、外交局の副長官を務める夫、フレデリック。明日の会議がうまくいけば、次の長官に選ばれるだろうと噂されている。


「殿下の右隣は、ノルヴァン辺境伯にしましょう。左隣は旦那様に」


 北の国境を守るダリウス・ノルヴァン辺境伯が首を縦に振らなければ、この話は一歩も進まない。殿下と、じかに言葉を交わせる席にしておきたかった。


「席を移っていただく伯爵のお隣には、狩りのお好きな方を」


(あの方は、獲物の話さえできれば、どこの席でもご機嫌だもの)


 卓の花は、背の低いものに替えてもらった。お客様同士の顔が、卓の端からでもよく見えるように。


「アリアーヌ。殿下がいらっしゃるなら、楽師を増やそうか」


 夫が補佐官を連れて入ってきた。きれいに撫でつけた金髪に、濃紺の上着がよく似合っている。


「殿下はにぎやかなお席が苦手でいらっしゃいますから、お迎えのときだけにしようかと」


「そうか。では、そのあたりは任せる」


 任せる。


 たったそれだけの一言が、私はうれしかった。


「昨年、北の街道を直すのにかかった費用を出してくれ。辺境伯は、今の道では荷馬車を捌けないと言うはずだ。先に数字を見せる」


 補佐官に書類を指さしながら、夫は次々と指示を飛ばしていく。その横顔を、部屋の隅から眺めるのが好きだった。


 結婚して九年。子どもには恵まれず、夫が私の寝室へ来なくなってから、もう三年になる。


 それでも私たちは、それぞれの得意なことで、この家を支えてきた。


 よい相棒なのだと、信じていた。





◆





「北を通る荷馬車を、来年には倍にできるか?」


 晩餐が半ばまで進んだころ、王弟殿下がそう切り出した。給仕を見守っていた私も、思わず卓のほうへ目を向ける。


「今のままでは、お受けできません」


 答えたのは、ノルヴァン辺境伯だった。


 夫より頭ひとつ背が高く、肩幅も広い。短い黒髪が額に少しかかり、黒い礼服の胸では、北部の勲章だけが光っていた。


「国境ではすでに、荷馬車が長い列を作っています。道を広げなければ、待たされる時間が延びるだけです」


「では来年は、まず三割というのはいかがでしょう」


 夫がすかさず書類を差し出した。


「その一年で、道と倉庫を広げます。費用は、国境で集める税の一部から」


 辺境伯は数字を目で追い、ゆっくりと頷いた。


「その案なら、北部も手を貸せます。費用と工事の期限まで、書面にしていただけるなら」


「明日の会議で、必ず」


 夫が請け合うと、辺境伯は懐から地図を取り出した。広げる場所を探して、その目が卓の上をさまよう。


(あ。お皿の上に広げるおつもりだわ)


 私はすぐさま、次の料理を運ぼうとしていた給仕を止めた。給仕長には、花瓶を脇へ移すよう目で合図を送る。


 空いた場所に地図が広がり、殿下も身を乗り出して、北の街道を指でたどり始めた。


「最初の工事費でしたら、私どもの銀行からお貸しできますよ」


 指輪だらけの手を上げたのは、メルシエ伯爵だった。白髪を短く刈りこんだ、小柄な方だ。夫とは最近、よく会っているらしい。


(なるほど。そのために、今夜お招きしたのね)


 夫が頷くと、伯爵はなぜか私のほうを見た。


 目が合ったので、会釈をする。


 その視線が、私の顔からゆっくりと、胸元へ下りていった。



 伯爵は、笑っていた。



 私はさりげなく胸元に手を添え、別のお客様のほうへ体を向けた。


 晩餐が終わり、談話室へ移るお客様をご案内していると、辺境伯が私の前で足を止めた。


「先ほどは、ありがとうございました」


「お食事は、お口に合いましたか」


「ええ、とても。それに、地図を広げる場所まで空けていただいて」


(あら。気づいていらしたのね)


「お皿の上に広げられては、料理長が泣いてしまいますもの」


「……話に夢中になると、ついやってしまうんです。領地の家令にも、何度叱られたことか」


(この大きな方が、家令に叱られて小さくなっているの……?)


 思わず口元がゆるむと、黒髪の下の琥珀色の目も、少しだけ細くなった。


「今夜は助かりました。夫人が、話の流れを見ていてくださったのでしょう」


 そんなふうに言われたのは、初めてだった。


 返事をしようとした、そのとき。


「妻は、花と料理を選んだだけですよ」


 いつの間にか、夫が隣に立っていた。私の肩に手を置き、辺境伯へ書類を差し出しながら笑っている。


「難しい話は分からない女ですから。それより閣下、明日の案を――」


「その前に、夫人へお礼を」


 辺境伯は書類を受け取りはしたものの、目を落とさなかった。


「おかげで、落ち着いて話ができました。ありがとうございました」


 肩に置かれた夫の指が、ぐっと食いこむ。少し、痛い。


(あなたにも、あんなふうに言ってほしかった)


 けれど、そのたった一言のために、夫を呼び止めることはできなかった。





◆





 日付が変わるころ、私は夫の書斎へ呼ばれた。


「メルシエ伯爵の客室へ行ってもらいたい」


 食卓で向けられた目つきを思い出して、返事が遅れた。


「私は伯爵から、金貨三万枚を借りているんだ」


「三万枚……?」


 侯爵領が一年で得る収入よりも多い。家の帳簿で、そんな借金は一度も見たことがない。


「私の名で借りた。長官になるには、付き合いにも金がかかる」


 外国のお酒も、新しい馬車も、仕事に必要なのだと言われてきた。領地の収入は変わらないのに、夫の付き合いにかかるお金は増える一方だった。


 だから、客間の模様替えは見送った。自分のドレスは仕立て直して着た。家令と帳簿をにらんで、今月もどうにか払えたと息をついたのは、ほんの数日前だ。


(その裏で、こんな借金まで……?)


「お前が今夜、伯爵と過ごせば、たまった利息は帳消しにするそうだ。長官になれば、伯爵は私の後ろ盾になる。お前にとっても、悪い話ではないだろう」


 言葉の意味が、すぐには頭に入ってこなかった。夫の顔をじっと見つめると、夫は、そんな顔をするなとでも言いたげに、ため息をついた。


「私を……売るのですか」


「その言い方はよせ。家のためだ」


 晩餐の席で、二人が頷き合っていたのを思い出す。


 伯爵はあのときから、私を待っていたのだ。


「嫌です。行きません」


 夫が机を回りこみ、私の横に立った。



「一晩くらい、夫の役に立て」



 夫は、こちらを見もしなかった。私は、その袖をつかんだ。


「私は九年間、一度も役に立っていなかったのですか」


「今は、そういう話をしているんじゃない」


「では、どういうお話なら聞いてくださるの?」


 夫は私の手を振り払い、眉を寄せた。


「長官になれば、お前も今よりいい暮らしができる。何が不満なんだ」


 本当に、分からないのだ。私が、こんなに嫌だと言っているのに。


「……もし、伯爵の子を身ごもったら?」


「九年もできなかったのに、一晩でできるものか」


 息が止まった。


 子どものことで、一度も私を責めなかった人だ。優しい人だと、ずっと思っていた。


(違ったのね。口に出さなかっただけで――ずっと、私のせいだと思っていたのね)


「もういい。行くぞ」


 腕をつかまれ、扉のほうへ引きずられる。私はとっさに、机の縁にしがみついた。


「離して! 嫌だと言っているでしょう!」



 次の瞬間、頬を打たれた。



 机に腰をぶつけ、口の中に血の味が広がる。


 夫も、自分の手を見ていた。けれど、謝りはしなかった。


「お前が、聞き分けのないことを言うからだ」


 初めて二人で開いた晩餐会のあとには、残ったお菓子を半分に割って、大きいほうを私にくれた人だった。


 私はまだ、あのころの夫と話しているつもりだったのだ。


 扉が叩かれた。


「旦那様。殿下が、談話室でお呼びです」


 夫が舌打ちする。今しかない、と思った。


「……顔を、冷やしてまいります。このままでは、人前に出られませんので」


「見送りを済ませたら、迎えに行く。支度をして、部屋で待っていろ」


 私は頷き、顔を伏せたまま書斎を出た。


 支度なら、する。



 ――あなたが思っているのとは、別の支度を。





◆





「奥様、そのお顔は……!」


 寝室で鏡台の奥から革袋を取り出していると、侍女のベルタが息をのんだ。私が嫁ぐ前から世話をしてくれている人だ。


「伯爵の寝室へ行けと言われたの。断ったら、こうなったわ」


 ベルタは無言で扉を閉めた。鍵まで、かちりとかける。


「今夜のうちに、ここを出ます。白鹿亭に泊まって、明日、実家へ帰るわ」


「では、先にお部屋を押さえさせましょう」


 ベルタは小間使いに短く言いつけると、衣装棚から旅行鞄を引っぱり出した。迷いのない手つきだった。


「……あなたも、来てくれるの?」


「こちらへ嫁いだのは奥様で、私ではございませんからね」


 あまりにきっぱり言うものだから、少し笑ってしまった。


(こんなときでも、笑えるのね、私)


 玄関に馬車を回す順番は、もともと私が決めている。殿下の馬車、辺境伯の馬車――その次に私の馬車を並ばせるよう、ベルタに厩舎へ伝えてもらった。殿下の前でなら、あの人も私を力ずくで連れ戻せないはずだ。


 旅用の服に着替える。鏡の中の栗色の髪は乱れて、頬には夫の指の跡がくっきり残っていた。指が震えて外套のボタンがうまく留まらず、ベルタが黙って、ひとつずつ留めてくれた。


『実家へ帰ります。今後のお話は、リュゼル伯爵家を通してください』


 書き置きを残して、革袋を鞄にしまう。鏡台の端には、今夜のお客様へ明朝送るつもりだった、書きかけの礼状があった。


 少しだけ迷ってから、私はそれを置いていった。


 玄関の階段の下では、王弟殿下がご自分の馬車へ向かうところだった。


「アリアーヌ。どこへ行く」


 見送りに立っていた夫が、私の外套に目を留めて近づいてきた。


「実家へ帰ります」


「馬鹿なことを言うな。伯爵には、私から話しておいてやる。戻れ」


 夫の声は、まだ穏やかだった。使用人たちの耳があるからだろう。


「何を、お話しくださるのですか」


「……少し遅れる、と」


 答えずに脇をすり抜けようとすると、腕をつかまれた。書斎でつかまれたのと同じ場所に、指が食いこむ。


「痛っ……離してください!」


 その手が、不意に外れた。


 辺境伯が夫の手首を押さえ、私の腕から引きはがしていた。


「おやめください。痛がっておられます」


「……夫婦の話です。口を挟まないでいただきたい」


 夫がもう一度手を伸ばすより早く、辺境伯が私たちの間に体を入れた。大きな背中に、夫の姿がすっかり隠れる。駆け寄ってきたベルタが、私の背中を支えてくれた。


「何事だ」


 王弟殿下が、馬車の前から引き返してきた。夫はすぐさま姿勢を正す。


「お騒がせして申し訳ございません。妻が疲れて、少々取り乱しておりまして」


「戻りません」


 夫が言い終わる前に、口が動いていた。


 殿下の薄い灰色の目が、私の腫れた頬で止まる。とっさに手で隠そうとして――途中で、やめた。


(隠したら、全部、ただの夫婦喧嘩で終わってしまう)


「……メルシエ伯爵の寝室へ行け、と言われました。そうすれば、夫の借金の利息を消してくださるのだと」


「アリアーヌ! 何を言い出す!」


「侯爵。夫人に話をさせろ」


 殿下の一言で、夫が口をつぐむ。


 口を動かすたびに、頬がずきずきと痛んだ。人前でこんなことを話して、あとで何を言われるだろう。


 ――でも、ここで黙れば、あの客室へ連れていかれるだけだ。


「断ったら、打たれました。ですから私は、この家を出ていきます」


「お送りしましょう」


 辺境伯が、迷いなく言った。


「どちらまで?」


「白鹿亭です。馬車は、あちらに――」


「その馬車を戻せ! 妻を乗せるな!」


 夫の声に、御者は手綱を握ったまま目を伏せてしまった。


(……そうよね。あの人に雇われているんだもの)


「では、私の馬車をお使いください」


「閣下、お待ちください。妻のことで、閣下にご迷惑をおかけするわけには――」


「迷惑ではありません。私が、お送りすると申し出ました」


 辺境伯は、夫を見据えたまま続けた。


「ご自分の奥方を、借金のかたに差し出そうとした。断られれば、手を上げた。――見て見ぬふりなど、できるわけがない」


 夫は口を開きかけ、何も言えずに唇を引き結んだ。


 殿下が、夫のほうへ体を向けた。


「侯爵は残れ。今の話を、詳しく聞きたい」


「つ、妻が話を取り違えているのです。伯爵には、ご挨拶をするようにと申しただけで――」


「その挨拶と、借金の利息に、何の関係がある?」


 夫が、黙った。


 馬車の前で、辺境伯が手を差し出した。私はその大きな手を取って、踏み台に足をかけた。


「アリアーヌ! 明日の朝には戻れ。礼状も、まだ書いていないだろう!」


(……この期に及んで、気にするのは礼状なのね)


 振り返って、私はいつものように答えた。


「寝室の鏡台に、書きかけがございます」


 それから、続けた。



「続きは、あなたが書いてください。――私は、戻りません」



 ベルタが隣に乗りこむ。辺境伯は扉を閉めると、ご自分は御者の隣へ上がった。


 屋敷の灯りが見えなくなったところで、膝が震えだした。ベルタの手が、私の手をそっと包む。


「帰れますよ、奥様」


 頷いたら、涙がこぼれた。


 窓の外では、辺境伯が御者に曲がり角を確かめる声がしていた。低くて、落ち着いた声だった。





◆





「助けてくださって、ありがとうございました。閣下がいらっしゃらなければ、あの家を出られなかったと思います」


 白鹿亭の帳場の前で頭を下げると、頬がずきりと痛んだ。


「朝になったら、実家へ帰ります。父に話して、それから……離縁の、ことも」


 離縁。口にしたのは、初めてだった。声が震えて、続きが出てこない。


 辺境伯は、急かさなかった。しばらく待ってから、低い声で言った。


「お父上からお尋ねがあれば、私も今夜のことをお話しします。何かあれば、いつでも」


 夫が何を言い張ろうと、あの玄関で起きたことを見ていた人がいる。喉につかえていたものが、少しだけ下りていった。


「ありがとうございます。本当に、お世話になりました」


 今度は、顔を上げたまま言えた。


 辺境伯は支配人と短く言葉を交わすと、馬車に乗って帰っていった。


 その馬車が角を曲がって、見えなくなってから。


(……あ。私、閣下にお茶の一杯もお出ししていないわ)


「ベルタ、どうしましょう。あんなにお世話になったのに、おもてなしも何も――」


「奥様。今夜くらいは、女主人のお仕事をお休みくださいませ」


 ぴしゃりと言われて、私は口を閉じた。


 その夜は、何度も目が覚めた。思い出すのは、夫が優しかったころの顔ばかりだった。


 九年、一緒に暮らしたのだ。たった一晩で、何もかも嫌いにはなれなかった。


 翌朝、侯爵家から手紙が届いた。


『伯爵が、返済を待たないと言い出した。お前が戻れば、まだ話はつけられる。殿下にも、ただの夫婦喧嘩だったと説明しろ』


 最後まで読んでも、謝罪の言葉はどこにもなかった。私は手紙をたたんで、鞄にしまった。両親にも、これを見てもらおう。


 宿の玄関へ出ると、旅の馬車のそばに騎士が二人立っていた。


「ノルヴァン辺境伯の命により、護衛に参りました。ご実家まで、お供いたします」


「閣下が……?」


 ベルタと、思わず顔を見合わせた。


 ゆうべから、宿の扉が開くたびに振り返っていた。夫の使いが、来たのではないかと。


 辺境伯は、帰り道のことまで考えてくださっていたのだ。


 街を抜けるまで、私は振り返りそうになるたびに前を行く騎士の背中を見て、息をついた。





◆





 実家に着くと、母が玄関まで出てきていた。


「お帰りなさい」


「お母様、私……」


「ええ。まずは、中へ入りましょう」


 肩に手を置かれた途端、たまらなくなって抱きついた。


 後ろでは、ベルタが父に事情を話している。いつもは声の大きな父が、髭の下で口を引き結んだまま、一言も挟まずに聞いていた。


 聞き終えた父は、黙って壁の剣に手を伸ばし――母に、無言で取り上げられていた。


(……お母様、取り上げ慣れていらっしゃる)


 離縁の話し合いは、実家の代理人にすべて任せた。


 そのあいだに王宮では、夫とメルシエ伯爵のお金のやり取りが調べられた。


 北の街道の工事費を、どこの銀行から借りるか。それを決めるのは夫の役目だった。その夫が、伯爵の銀行に、返しきれないほどの借金をしていたのだ。


 晩餐の席で伯爵が「私どもの銀行からお貸しできますよ」と申し出て、夫が頷いたのも――最初から、二人で決めていたことだった。


 夫は北の貿易の担当から外され、次の長官には別の方が選ばれた。伯爵の銀行も国の事業から締め出され、夫の手元には、返すあてのなくなった金貨三万枚の借金だけが残ったという。


 その知らせを読んだ父は、しばらく黙りこんだあと、執事を呼んだ。


「今夜は、いちばんいいワインを開けてくれ」


(今度は、お母様も止めないのね)


 三人でグラスを合わせたその夜、私は久しぶりに、朝まで一度も目を覚まさなかった。


 夏の終わりに、ようやく離縁が成立した。





◆





 秋になって、母の友人から食事会の支度を頼まれた。


 お客様の話を聞いて、席と料理を考える。久しぶりの仕事に、ペンを走らせる手が止まらなかった。


(九年間ただでしていたことに、お金をいただけるなんて)


 噂を聞いた方々からも依頼が届くようになり、冬には、ベルタと実家の王都屋敷へ移った。


 そんなある日。届いた手紙の束の中に、ダリウス・ノルヴァンという名前を見つけた。


 妹のリゼット様が、この春、王都の社交界に出る。その初めての茶会を、私に任せたい――そう書いてあった。


 約束の日、辺境伯は分厚い書類の束を抱えて現れた。


「お元気そうで、何よりです」


「はい。あの節は、本当にありがとうございました。帰り道の護衛まで」


「無事に着かれたと知って、ほっとしました」


 そう言って、辺境伯は少し笑った。


 宿まで送ってくださったときも、こうして笑ってくださっていたのかもしれない。あのときの私には、それに気づく余裕もなかったけれど。


「ベルネ子爵夫人から伺いました。お嬢さんの婚約祝い、見事だったそうですね。それで、妹のことをお願いしたくて」


 最初に仕事を頼んでくださった、母の友人だ。


 差し出された書類に、目を通す。


 使える部屋、予算、日取り。どれも驚くほどきちんと書いてある。


 ――招待客の名簿を見るまでは。


「……妹君は、十九歳でいらっしゃいましたよね?」


「はい。ですから、妹が困ったとき頼れる方々をと思いまして」


 侯爵、伯爵、将軍夫人。並んでいるのは、どなたも私の母より年上の方ばかりだった。


(これは……お茶会というより、後見人の顔合わせだわ)


「少し、変えてもよろしいでしょうか。妹君と同じ年ごろの方も、お招きしたいので」


 辺境伯は名簿に目を落とし、それから、私の顔を見た。



「……少しで、済みますか」



 こらえきれずに、吹き出してしまった。


 次の打ち合わせには、リゼット様もいらしてくださった。兄君と同じ黒髪をきっちり編みこんだ、物静かな令嬢だ。


 新しく考えた招待客について説明していると、リゼット様の目が、机の端の紙に留まった。


「そちらも、候補の方々ですか?」


「こちらは……最初に、お兄様が選ばれた方々です」


 古い名簿を手渡すと、リゼット様は最後の一人まで読み終えてから、ゆっくりと兄を見た。


「兄は私に、何のお話をさせるつもりだったのでしょう」


「すまない。人選が、少々――」


「少々?」


 返事に詰まった辺境伯が、助けを求めるように私を見る。


(こちらを見られましても……)


 私は笑いをこらえながら、新しい名簿を二人の間へそっと戻した。


 それから春の茶会まで、何度も顔を合わせた。


 打ち合わせが終わっても、辺境伯がすぐにお帰りになることは少なかった。リゼット様の好きな旅の本から北部の話になると、気づけば私のほうが質問攻めにしている。


「冬は、凍った湖の上を通るのですか?」


「ええ。そりで渡れば、岸をぐるりと回るより、ずっと早いんです」


「……私なら、遠回りのほうがいいです」


 本音がこぼれると、辺境伯が声を立てて笑った。初めて聞く、大きな笑い声だった。


 つられて笑いながらお茶に手を伸ばし、すっかり冷めていることに、そこでようやく気づく。


(いつから、話しこんでいたのかしら)


 ベルタに淹れ直しを頼むと、彼女はなぜか、やけに意味ありげな顔で頷いた。


 茶会の日、リゼット様は同じ年ごろの令嬢たちに囲まれて、旅の本の話に夢中になっていた。お帰りの際には、今度一緒に書店へ行く約束まで取りつけていたらしい。


「ありがとうございました。あんなに楽しそうに話す妹を見たのは、久しぶりです」


 最後のお客様をお見送りしたあと、辺境伯が私のそばへ来た。


 これで、打ち合わせはおしまいだ。毎回抱えてきてくださった分厚い書類も、今日はもうない。


 何か言いたくて、けれど、用件が何も思いつかなかった。「またお困りのことがあれば」と言うのも変だ。困らずにいてくださるほうが、いいに決まっているのだから。


「アリアーヌ殿」


 辺境伯も、すぐには続けなかった。いつもよりきちんと結んだ襟元に、一度だけ手をやる。



「来週……私と、お茶を飲んでいただけませんか」



(お茶……)


 私が黙りこんだのを、どう受け取ったのだろう。辺境伯が、はっとしたように半歩前へ出た。


「あの、妹のことで相談があるわけではないのです」


 早口だった。殿下の前でも、夫の前でも、少しも慌てなかった人なのに。


「あなたと、また話がしたいので」


 言い終えてから、耳のふちがじわじわと赤くなっていく。ご本人は、気づいていないらしい。


 頷こうとしたのに、頬がゆるんでしまって、どうにも元に戻らない。


「来週の、木曜日でしたら……ぜひ。私も、もっとお話ししたかったので」


 辺境伯が、息を吐くように笑った。



「私だけでなくて、よかった」



 帰りの馬車で、私はベルタに尋ねた。


「この間頼んだ水色のドレス、木曜日に間に合うかしら」


「ええ、三日後には届くと伺っております。……それで、木曜日はどちらへ?」


「お茶に……誘われたの」


 口にしただけで、また頬がゆるんでしまう。私は慌てて、窓のほうを向いた。


 窓ガラスに映ったベルタが、声を立てずに笑っていた。




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