06. 水風船と白藤
(大陸暦928年 —— モナ地方 —— レイナー邸)
四ヶ月が過ぎた。
俺の体は魔力の流れに完全に適応した。いよいよ、初の実戦魔法を学ぶ時だ。 図書室を二度目のバーベキュー会場にしないため、セルレーンが選んだのは基礎的な水属性魔法『アクア』だった。
「これが一番安全で、火事にもなりませんし、涼しいですからね」
セルレーンが釘を刺すように俺を横目で見ながら言う。「もう火遊びは禁止ですよ」
俺は素直に頷くが、脳内ではせせら笑っていた。安全だって? 甘いなセルレーン。水も十分な圧力で圧縮すればダイヤモンドだって切断できるんだ。物理学の基礎:圧力=力/面積。針の先ほどの極小断面積に大量の水を圧縮し、加速させれば……ドカン。あらゆるものを断ち切る刃の完成だ。
まあいい、急いては事を仕損じる。まずは水を作り出すことからだ。
俺は小さな手を前に突き出す。練気。
セルレーンが教えるような曖昧な「水」のイメージではない。H2Oの分子構造をイメージする。二つの水素、一つの酸素。共有結合。凝縮。手のひらの魔力の温度を下げ、大気中の水分を強制的に結集させる。
透明な水球が現れ、手の上で回転しながら浮かぶ。オレンジほどの大きさで、表面張力が不安定に震えている。
射出。俺は腕を振り、それを投げ放つ。
ボチャッ。
それはたった2メートル飛んで地面に落ち、情けない水風船のように弾け飛んだ。少量の水が芝生を濡らすだけ。
俺はがっくりと項垂れる。失敗だ。加速を忘れていた。水の比重は火より重い。十分な推進力がなければ重力ですぐに落ちてしまう。
だが、セルレーンは目を丸くし、口を「O」の字に開けていた。
「坊ちゃん……」彼女が吃る。「詠唱も……魔法陣の構築もなしで……一発で成功させたんですか?」
彼女は俺を化物を見るような目で見ている。通常、子供が数滴の水を呼び出すだけでも一ヶ月はかかるらしい。
俺は頭をかき、ニパッと笑ってごまかす。「もういっかい! もういっかいやる!」
今度は素早く構造を変える。加速は維持するが、圧縮はやめる。一点突破の切断力ではなく、魔力を薄く広げて包み込み、着弾時の接触面積を増やすのだ。螺旋。少しトルクを加える。ジャイロ効果で弾道は安定するはずだ。
俺はチラリとセルレーンを見る。彼女は3メートルほど先に立っており、完全に無防備だ。 (30歳の魂の)邪な考えが閃く。物理実験には的が必要だ。そしてあの的は……実に柔らかそうだ。
「みてて!」
ヒュンッ!
俺は水球後方の圧縮魔力を解放する。それは弾丸のように空気を切り裂き、一直線に飛翔した。
バシャァッ!
絶対的な精度。水弾はセルレーンの胸の真ん中で弾け飛んだ。
痛みを与えるほどの衝撃ではないが、圧縮されていた水量は一気に解放された。彼女の白黒のメイド服は、首元から腰まで瞬時にずぶ濡れになった。
そしてここで、物理学の「光の屈折」の知識が真価を発揮する。
乾いている時は厚手で慎み深いメイド服の生地。だが水を吸うと屈折率が変わり、半透明になって第二の皮膚のように肌に張り付く。
俺は息を呑む。 中の白いブラウスが豊かな胸の形を露わにし、さらにその奥にある下着の色を浮き彫りにしている。淡いピンク色。レースの縁取り。
おお神よ……まさに極上の逸品。 科学のための犠牲は、完全に報われた。
俺はごくりと唾を飲み込み、脳内スクリーンショットを連写しながら、必死に無邪気な顔を保った。
セルレーンは三秒間フリーズした。濡れそぼった自分の服を見下ろし、それから顔を上げて俺を見た。口元がピクピクと引きつっている。
「坊ちゃん……」
声は甘いが、危険な香りがプンプンする。
「汚い手を使いましたね?」
有無を言わさず、彼女が手を掲げる。俺のものの三倍はある巨大な水球が瞬時に現れた。圧縮も回転もいらない。デカさは正義だ。
やべぇ。火蟻の巣をつついたか。
「水風船大戦です!」セルレーンが叫び、剛速球を投げつけてくる。
「うわあああ!」
俺は(恐怖と快楽の入り混じった)悲鳴を上げ、脱兎のごとく逃げ出した。
こうして、厳粛な授業はカオスなプール遊びへと変貌した。邪な心を持つ2歳半児と、子供の心を持つ大人のメイドが庭を駆け回る。
バシャッ! ビチャッ!
水しぶきが舞う。彼女が当てるたびに俺はケラケラと笑い、俺が当てるたびに(もちろん視覚的利益を最大化できる部位を狙って)万有引力の法則に感謝を捧げた。
互いに疲れ果てる頃には、辺りは鉄砲水が起きた後のように水浸しだった。俺もセルレーンもずぶ濡れのネズミのようになり、地面にへたり込んで肩で息をする。
俺はセルレーンを見る。髪が頬に張り付き、濡れた服が体に密着して、普段はダボッとした制服に隠されている曲線美を浮き彫りにしている。
今世の修行は……これにて十分としよう。
「大変、床が水浸しです。エイリア姉様が戻ったら、二人とも路頭に迷うことになりますよ」
セルレーンが慌てて立ち上がる。俺が雑巾を取りに行こうとすると、彼女が制止した。
「私に任せてください」
セルレーンは深く息を吸い、両手を掲げる。淡い青色の、優しい魔力が部屋全体に広がった。
床の水面が振動する。そして、反重力現象が起きた。一滴、また一滴と、水溜まりが板張りの床から離れ、宙へと浮き上がっていく。何千もの水滴が午後の日差しを反射し、部屋を星空のような小宇宙へと変えた。
俺は呆然と見上げる。綺麗だ。これは物理学じゃない。これは……魔法だ。
セルレーンは微笑み、指揮者のように優雅に指を振る。彼女はすべての汚れた水と石鹸水を頭上で巨大な球体へと集約させた。
「えいっ!」
彼女が腕を振ると、巨大な水球は窓を通り抜け、庭の木々に水をやるべく飛んでいった。鮮やかで、クリーンな処理だ。
だが……。
俺たちは重要な変数を忘れていた。『マーフィーの法則(失敗する可能性のあるものは、失敗する)』だ。
ドボォッ。
庭から湿った鈍い音が響いた。誰かがバケツいっぱいの水を壁にぶちまけたような音だ。
「セルレーーーーン姉さぁぁぁん!!」
マリーの絶叫が雷鳴のように轟き、ロマンチックな余韻を引き裂いた。 セルレーンの顔から血の気が引く。彼女はバルコニーに飛び出し、下を覗き込んだ。
巨大水風船は無事に着弾していた。正確には、マリーの頭と、彼女が午後いっぱいかけて干したシーツの山の上に。
「終わった……」セルレーンが頭を抱えて呻く。「マリーに殺される……」
俺はその横で「犯行現場」を見下ろし、クスクス笑うのを堪えられなかった。
「ぼく、マリーおねえちゃんのしぼるの、てつだってくる!」
俺は階段をペタペタと駆け下りる。背後でセルレーンが必死に謝罪を叫んでいるのを置き去りにして。 走りながら口笛を吹く。今日は最高の日だ。圧縮式アクアを習得し、眼福にあずかり、そして何より……ずぶ濡れのマリーもまた、興味深い光景に違いない。
すまないマリー、だが科学には犠牲が必要なんだ!
***
庭に降りると、そこは混沌の傑作だった。
マリーがびしょ濡れのシーツの山の中に立ち尽くしている。髪はべっとりと張り付き、鼻から顎へと水がしたたり落ちていた。
「もうこの家はおしまいだよ! めちゃくちゃだよ!」
マリーはシャツを絞りながらブツブツ言っている。
「奥様が知ったら、全員クビだよ!」
俺は忍び足で近づく。
「マリーおねえちゃん……」
俺はできる限り反省した顔(内心はワクワクしているが)を作って呼ぶ。
マリーが振り返り、俺を睨みつける。だが、俺もずぶ濡れのネズミ状態で、乾いたタオルを差し出しているのを見て、彼女の怒りはどこかへ霧散したようだ。
「もう、坊ちゃんまでそんなに濡れて……風邪を引いたらどうするんですか」
マリーは溜息をつき、自分が濡れているのも構わずに俺の顔をタオルで拭き始めた。 俺はされるがままになりつつ、ちゃっかりと「被害状況の査定」を行う。
セルレーンが豊満で柔らかいタイプなら、マリーは引き締まった健康美だ。濡れた服が体に張り付き、うっすらと割れた腹筋と、スポーティーな腰のラインを浮かび上がらせている。
ふむ。このテイストも悪くない。レイナー邸はまさにビュッフェ天国だ。
「ぼく、しぼるのてつだう!」と俺は立候補する。
「いいえ、坊ちゃんの小さな手じゃ日が暮れちゃいますよ。草むしりを手伝ってくれるだけで十分です。本当ならあの怠けエルフの仕事なんですけどね!」
マリーが顎で遠くのオークの木を指す。 そちらを見ると、ベルはまだ寝ていた。あろうことか一番高い枝の上で器用にバランスを取り、地上の騒音を完全にシャットアウトしている。
あの太ましいエルフめ、俺がこの家の当主になった暁には、絶対にフル稼働させてやるからな。
俺はしゃがみ込み、草をむしり始めた。我が家の庭は本当に美しい。紫のラベンダー、深紅のつるバラ。だが俺の思考は別のことに向いていた。
「ねえ、マリーおねえちゃん」俺は草をいじりながら何気なく尋ねた。「みんな『奥様』って呼ぶけど、ぼく、ママにあったことない。ぼくのママはだれ?」
マリーがシーツをバサッと振る手が止まった。彼女は俺を見て、それからクスリと笑った。
「おバカさんですね。私たちが呼ぶ『奥様』は、坊ちゃんのお母様じゃないですよ。坊ちゃんのお母様にしては、師匠は年を取り過ぎてます」
俺はポカンとする。「ししょう?」
「ええ。坊ちゃんのお祖母様ですよ」
マリーは声を潜め、奇妙なほど敬虔な表情になった。
「レイナー家の当主にして、私たち全員に魔法と剣術を叩き込んだ師匠です」
「エイリアおばちゃんも?」
「ええ、エイリア様も、あの変人のセラでさえも、あの方の弟子ですよ」
俺は口をあんぐりと開けた。一人の女性が、これだけの化物の集団を従え、育て上げたというのか?
「おばあちゃん……そんなにつよいの?」
「強いなんてもんじゃないですよ」
マリーが俺の隣に座り込み、瞳を誇らしげに輝かせる。
「あの方は『白藤』。十神の一人ですから」
「じゅっ……しん?」
俺は繰り返す。その響きには千金の重みがあった。
「この世界で最強の十人に与えられる称号です。一国の地図を塗り替えるほどの力を持つ者たち。お祖母様はその序列第六位。生ける伝説ですよ」
庭を吹き抜ける風に、俺は身震いした。寒さのせいではない、圧倒されたからだ。2歳で魔法が使える自分を天才だと思っていたが、どうやらこの「怪物」の遺伝子は血筋らしい。俺はとてつもない巨峰の影の下に生きているのだ。
「じゃあ……なんでそんなにつよいひとが、おうちにいないの?」俺は疑問を口にする。「ぼくのこと、きらい?」
「まさか!」マリーが慌てて手を振る。「世界中の誰よりも坊ちゃんを愛してますよ。でも、あの方は戦争に行かなきゃいけないんです。坊ちゃんが生まれた時から、北の連合軍との内戦が激化していて……。西側同盟の仲間と国境を守るために、最前線で指揮を執っているんです」
マリーは慈愛に満ちた目で俺を見た。
「師匠が私たちをここに残したのは、たった一つの仕事のためです。『リプスを守れ』。坊ちゃんは、あの方が命懸けで守ろうとしている宝物なんですよ」
俺は黙り込み、自分の小さな手を見つめた。 権力を持つ祖母が、家を捨て、安息を捨てて戦場へ赴き、最強のメイド軍団を孫の護衛に残した。
不意に、鼻の奥がツンとした。
「マリーおねえちゃん……」
「ん?」
「ぼく、おばあちゃんにはやくかえってきてほしい。あいたい」
マリーは微笑み、俺の頭をくしゃくしゃに撫でた。
「私もです。お祖母様が帰ってきたら、きっと坊ちゃんを窒息するくらい抱きしめるでしょうね」
「さあ、仕事の続きです! 早く終わらせて、アーモンドクッキーを焼きましょう」
「わーい!」俺は食いしん坊な子供のように歓声を上げた。
俺は草むしりを再開したが、心は遥か彼方の北へと飛んでいた。 祖母……『白藤』……十神の一角。
一抹の不安がよぎる。もし彼女に会った時、この無邪気な孫の体に30歳の男の魂が宿っていることを見抜かれたら? 孫の体を乗っ取った怪物だと思われて……消される(デリート)んじゃないか?
俺は身震いし、先ほどの弾け飛んだ水風船を思い出した。
……やはり、「いい子」の演技を完璧にこなすのが最善策だ。今年のアカデミー賞は、間違いなくエクリプス・レイナーがいただく。




