05. 歩みを緩めて
(大陸暦928年 —— モナ地方 —— レイナー邸)
早朝。レイナー邸の分厚いガラス窓には、まだ霧が張り付いていた。
空が淡い灰色に白み始めた頃、俺は目を覚ました。寝間着は寝汗でぐっしょりと背中に張り付いている。
また、あの悪夢だ。 折れた腕の残像と、名も無き魔女の絶叫。それらがこの半年間、しつこい寄生虫のように俺の眠りを蝕み続けている。
俺は大きく息を吐き、頭の中の最悪な映像を追い払いながら、大きすぎるベッドから滑り降りた。
眠れないなら、働けばいい。それが俺の新しいルールだ。 肉体労働こそが、今の俺にとって良心の法廷から逃れる最良の手段なのだ。
着替えを済ませ、静まり返った廊下へ出る。裸足の裏に伝わる木の冷たさが、ぼんやりした頭を覚醒させてくれる。
厨房へと忍び込む。予想通り、マリーはもう起きていた。焼きたてのパンと濃厚なキノコのクリームスープの香りが漂い、早朝の陰鬱さを追い払っている。
「おやおや、小さな同僚さんは早起きだね?」
巨大な寸胴鍋をかき混ぜていたマリーが、振り返ってウィンクした。
「マリーおねえちゃん、おはよ」
俺はいつもの踏み台によじ登り、テーブルの上で待機していたインゲン豆の山を手に取る。
「ぼく、これやる」
「坊ちゃんは本当にいい子ですねぇ。ベルさんも坊ちゃんの爪の垢を煎じて飲めば、少しはマシになるのに」
マリーは溜息をつきつつ、熱々のスープをよそって俺の横に置いた。
「まずは腹ごしらえだよ、小さな働き者さん」
俺は豆のスジを取りながらスープを啜る。クリーミーなコクが喉を通り、胃の緊張を和らげてくれる。
この半年、毎日が同じことの繰り返しだ。俺はこの屋敷を運営する歯車の一つになりきった。床を拭き、洗濯物を畳み、野菜の下処理をする。 最初は誰もが慌てて止めたが、俺の粘り強さ(あるいは強情さ)に根負けし、今ではそれが日常となった。
「今日の腕の調子はどう?」
マリーが何気なく尋ね、俺の右腕に視線を走らせる。
俺は一瞬動きを止める。
「だいじょうぶ。ちょっとシビれるだけ」
嘘だ。痺れるどころではない。骨髄の奥で鈍痛が疼いている。 図書室での爆発の後遺症は消えていない。それはマナ回路(魔力循環系)に「傷跡」を残した。激しい動きや感情の高ぶりがあるたび、痛みは俺の傲慢さと罪を思い出させるかのように鋭く突き刺さる。
「なら無理は禁物だよ。またセルレーン姉さんに『児童労働搾取だ』って怒られちゃう」とマリーが笑う。
俺は微笑み返したが、心は重かった。セルレーン……今頃、彼女は訓練の準備をしているだろう。
***
豆の処理を終え、調理台をピカピカに拭き上げた後、俺はマリーに挨拶をして裏庭へと向かった。
昼の日差しが古いオークの葉陰を通り抜け、芝生の上で光の斑点となって踊っている。 セルレーンはそこで待っていた。
彼女はマットの上に座り、奇妙なほど静謐で美しい佇まいを見せていた。風が彼女の薄紫の髪を優しく撫でている。その姿を見るだけで、不思議と心が凪いでいく。
「10分の遅刻ですよ」
セルレーンは目を閉じたまま、穏やかな声で言った。
「マリーおねえちゃんのパンが、いいにおいだったから」
俺は言い訳をしつつ、トコトコと駆け寄って彼女の向かいに座る。
セルレーンが目を開け、慈愛に満ちた、しかし厳格な眼差しを向ける。
「また早起きして雑用をしてたんでしょう? 目の下にクマができてますよ」
「……ねむれなかったの」俺はうつむいて白状する。
セルレーンは溜息をついた。それ以上は聞いてこない。 この半年で、彼女は俺が何から逃げようとしているのか —— その背後にある残酷な真実は知らないまでも —— 察するだけの繊細さを持っていた。彼女は単に、俺が事故のトラウマに苦しんでいると思っているのだろう。
「わかりました。今日は新しい訓練を試しましょう。手を出して」
俺は右腕を差し出す。セルレーンがそれを握り、柔らかい指先で肘の周りのツボを優しく押す。
「痛みますか?」
「ちょっとだけ」
「よろしい。今日は、詰まっている場所に無理やりマナを通すのはやめましょう。代わりに、『圧縮』します」
「あっしゅく?」俺は驚く。
「ええ」
セルレーンは説明しながら、見本を見せるように彼女自身の冷涼なマナを俺の腕に流し込んだ。
「回路が損傷して狭くなっているんです。そこに大きな奔流を通そうとすれば、当然痛みが生じます。ですから、マナを極限まで小さく、滑らかに圧縮して、その狭い隙間を通すんです。針の穴に糸を通すようにね」
前世の物理的思考からすれば理にかなっている。圧力上昇、断面積縮小だ。
俺は目を閉じ、深く息を吸う。体内に散らばるエネルギーを丹田にかき集め、ゆっくりと肩へと導く。
圧縮しろ。もっと小さく。 マナを荒れ狂う川ではなく、細く鋭利な釣り糸だとイメージする。
肩まではスムーズに通った。そして肘 —— 「傷跡」のある場所へ。
いつものように岩壁に頭をぶつけるのではなく、今回は「糸」のようなマナを操作し、損傷した組織のわずかな隙間を探りながら進ませる。
額に汗が滲む。これは力任せに押し通すよりも遥かに精神力を消耗する作業だ。 頭がガンガンし、神経が弦のように張り詰める。
「ゆっくり……焦らないで……」
セルレーンの声が耳元で響き、俺の理性を繋ぎ止める。
少し進んだ。半分まで来た。
だが、残りを押し通そうとしたその瞬間、上腕二頭筋が突然痙攣を起こした。
「あぐっ!」
集中が途切れた。圧縮されていた高密度のマナ塊が制御を失う。それは手先へ向かわず、経絡を滑り落ちて下半身へ —— 出口を求めて直行した。
そして、最も近い排出口は……尻だった。
ドォン!!
鈍い爆発音と共に、尻の下から強烈な推進力が発生した。
俺の体はマットから弾き飛ばされ、1メートルほど宙を舞い、空中で不本意な宙返りを決めた後、頭から隣のバラの茂みに突っ込んだ。
「リプス!!」
セルレーンの悲鳴。彼女は慌てて俺の足を掴み、茂みから引きずり出した。
俺は芝生の上に大の字になり、髪は枯れ葉まみれ、顔は恥辱で真っ赤、そして尻は誰かに蹴り上げられたようにジンジンと痛む。
「ぼ、ぼく……だいじょうぶ……」
俺はよろよろと起き上がる。今すぐ穴を掘って埋まりたい。 精神年齢30歳の男が、自称魔法の天才が、あろうことか自らを「尻ジェット」で打ち上げるとは。
セルレーンは俺の惨めな姿を見て、心配で顔を引きつらせていたが、やがて呆然とし、最後には……
「ぷっ……」
口元を押さえ、肩を震わせた。
「あはは……あはははっ!」
彼女は爆笑した。屈託のない、澄み切った笑い声だ。 涙が出るほど笑い転げ、芝生に座り込む。
「リプス……あなた……月まで飛んでいくつもりだったんですか? あははは!」
腹を抱えて笑うセルレーンを見て、俺の中の恥ずかしさが不思議と霧散していった。 この半年、屋敷の空気はずっと重苦しく、セルレーンも常に心配そうな目で俺を見ていた。彼女がこんなふうに心から笑ったのは、本当に久しぶりだ。
俺は頭をかき、ぎこちなく笑い返した。
「アクセル……ふみすぎちゃった……」
ひとしきり笑った後、セルレーンは涙を拭い、俺を引き寄せて髪についた枯れ葉を取ってくれた。
「よしよし、小さな宇宙飛行士さん。失敗はつきものです。でも少なくとも、マナを圧縮することには成功しましたね。次は……排出口さえ間違えなければ完璧ですよ」
彼女に抱きしめられ、ラベンダーの香りに包まれる。
「自分を追い詰めすぎないで、リプス。あなたはまだ3歳なんですから。過ちを正す時間は、一生分あるんです」
過ちを正す時間は、一生分ある? 彼女の何気ない言葉が、俺の心の傷に触れた。
俺は彼女の胸に頭を預け、安定した心音に耳を傾ける。腕の痛みは引き、代わりに新たな決意が芽生え始めていた。
「うん……」俺は小さく答えた。
その日の午後、訓練は中止になった。セルレーンは俺を連れて庭を散歩し、彼女が育てているハーブについて教えてくれた。
太陽が遠くの山並みに沈み、空を茜色に染めていく。
俺は夕焼けを見つめ、右手を強く握りしめた。まだ微かに震え、痛みもあるが、内なる奔流が徐々に従順になりつつあるのを感じる。
時間を巻き戻してあの女性を救うことはできない。あの日、自分の保身のために嘘をついた卑怯な自分を消し去ることもできない。
だが、ここからやり直すことはできる。 ゆっくりと。一歩ずつ。 傷ついた狭い隙間に、慎重にマナを通すように。
俺は生きる。もっと強くなる。 二度とあんなふうに、卑怯な選択をしなくて済むように。




