03. 計画
(大陸暦927年 —— モナ地方 —— レイナー邸)
朝の光がカーテンを透かし、俺の網膜を刺す。俺は目を細め、右腕のズキズキとした痛みを感じ取った。
「坊ちゃんが目を覚ましました!」
セルレーンの喜びにあふれた、しかし湿っぽい声が響く。すぐに涙でぐしゃぐしゃになった顔が視界に飛び込んできた。
「リプス! 大丈夫ですか? どこか痛いところは?」
俺は瞬きをして焦点を合わせる。 そこは俺の寝室だった。ベッドの脇には目を腫らしたセルレーン。そして部屋の隅には、腕を組み、壁に背中を預けて立つエイリアがいた。彼女の顔色は悪く、目の下のクマは昨夜一睡もしていないことを物語っていた。
さて、計画開始だ。
俺はすぐには答えなかった。呆然と部屋を見渡し、それから真っ白な包帯で巻かれた自分の右腕を見下ろす。そして、小刻みに震え始めた。
「てが……いたい……」
俺は鼻をすすり、自動的に涙を滲ませる(このスキルは既に達人の域だ)。
「よしよし、もう大丈夫ですよ」
セルレーンが慌てて俺を抱きしめ、背中をさする。
エイリアが歩み寄ってくる。ヒールが床を叩く音が、部屋の空気を重く沈ませる。セルレーンが何か庇うようなことを言おうとしたが、エイリアは手で制した。
エイリアはベッドの縁に座り、俺の目を真っ直ぐに見つめた。昨日ほどの威圧感はないが、その瞳は鋭く俺を射抜いている。
「リプス」彼女の声は低く、枯れていた。「昨夜、何があったか覚えているか?」
ここが勝負所だ。
俺は恐怖に見開いた目でエイリアを見る。(偽りの)パニックで表情を染め上げる。
「きのう……セレーンさがしに……としょしつ……」
俺は吃り、しゃくり上げながら話す。
「ほん、みつけて……えだけ、みたかったの……」
「それで?」
エイリアが短く促す。声に容赦はないが、焦燥が滲んでいる。
「そしたら……きゅうに、さむくなって……」
俺は体を縮こまらせ、セルレーンにしがみつく。
「あたまのなかで……だれかが……なにか言ってて……うるさくて……」
エイリアの眉がピクリと跳ねた。 図星だ。
「誰かの声だと?」エイリアが身を乗り出す。「何と言っていた?」
「わかんない……こわかった……ほん、はなしたかったのに……てが……てが、いうこときかなくて……」
俺は声を張り上げて泣き、セルレーンの胸に顔を埋める。
「急に熱くなって……熱くて……ぼく、やってない……勝手になったの……うわぁーん……」
部屋が静まり返る。俺の嗚咽だけが響く。 指の隙間から、こっそりとエイリアを観察する。
エイリアの顔色が変わった。彼女は顔を背け、血が滲むほど唇を噛み締めている。握りしめられた拳が震えていた。
今、彼女の脳内では、俺が誘導した仮説が組み上がっているはずだ。 2歳児が自力で魔法を使うのは不可能。だが、その子供が「器」として利用されたとしたら? 精神操作。身体の乗っ取り。何者かが屋敷に侵入したか、あるいはあの本に罠となる呪いを仕掛けていたか。
「エイリア姉様……」
セルレーンが震える声で尋ねる。
「まさか……坊ちゃんは……」
「『遠隔魔力操作』だ」
エイリアが低く唸る。凄まじい殺気が放たれ、室温が氷点下まで下がるような錯覚を覚える。
「何者かがリプスを狙った。こいつを触媒にして『フレイム』を起動させたのだ。だから魔法が使えたし、あれほど大きな反動が起きた。奴はリプスを殺す気か、あるいは何かの呪いを実験したに違いない」
素晴らしい。俺の台本以上に論理的な推理だ。
エイリアは弾かれたように立ち上がり、部屋の中を歩き回る。
「私の失態だ」
ドン! と壁を殴りつける。大きな亀裂が入った。
「この家の守護者たる私が……呪いの侵入を許すとはな。危うく二人を殺すところだった」
彼女は振り返り、俺を見た。その瞳は今、悔恨と苦痛に満ちている。彼女は歩み寄り、ベッドの脇に膝をつくと、包帯の巻かれた俺の小さな手を握った。
「リプス……すまなかった」
「お前を疑ったのは私の過ちだ。お前は何も悪くない。ただの被害者だ」
俺は無垢な瞳で瞬きをする。
「エイリアおばちゃん……こわい……もう、あやつられるの、いや……」
「二度とさせん」
エイリアは断言した。
「必ず犯人を狩り出す。そして —— 八つ裂きにしてやる」
彼女は立ち上がり、セルレーンに向き直る。
「セルレーン。今日からお前がリプスの教育係となれ」
「え? 教育……何をですか?」セルレーンが呆気にとられる。
「魔法だ」
ビンゴ。 俺は危うく声に出して笑うところだった。
「でも、坊ちゃんはまだ2歳で……」
「2歳だからこそ、精神干渉を受けやすいのだ!」
エイリアが叱咤する。
「『精神障壁』の構築法を叩き込め。外部からの侵入に抗えるようにな。今すぐにだ!」
エイリアは扉の方へと歩き出し、マントを羽織る。
「姉様、どこへ?」
「この一帯を洗いざらい捜索する。呪いをかけた術者はまだ近くにいるはずだ。根絶やしにしてやる」
エイリアは最後に俺を見て、その目に決意の炎を宿した。
「いい子にしていろ、リプス。セルレーンと励むんだぞ」
バタン、と扉が閉まる。
俺は安堵の息を吐き、セルレーンの胸に脱力して身を預けた。
すべてが完璧だ。最大の脅威であるエイリアは、実在しない亡霊を追って出て行った。そして、銀河系で最も優しい家庭教師が俺の担当になった。これで堂々と魔法の練習ができる大義名分を得たわけだ。
計画は、大成功だ。
「かわいそうな坊ちゃん……」
セルレーンが俺をきつく抱きしめ、また涙を流す。
「もう怖くないですよ、私がいますから。誰にもいじめられないように、私が強くしてあげますね」
そうだ、慰めてくれセルレーン。俺はただの無害な子供なんだから。 俺は彼女の「柔らかさ」に顔をうずめ、深く息を吸い込む。
「うん……おしえて……」
俺は心の中で、エイリアが狩ろうとしている「想像上の敵」に(ほんの少しだけ)謝罪した。彼女が道中で無関係な誰かを虐殺しないことを祈るばかりだ。
さて、授業(という名の保養)の時間だ。
***
エイリアが去った直後、冷酷な「看守長」のいなくなったレイナー邸は、俺にとって正真正銘の楽園となった。
俺の任務はシンプルだ。魔法の修行をし……美しいお姉様方に世話を焼かれること。
「リプス、集中して。心の周りに見えない壁を作るイメージよ」
セルレーンの声が耳元で響く。蜂蜜のように甘い。 俺たちは裏庭の青々とした芝生の上に座っていた。セルレーンが後ろに座り、俺のこめかみに両手を当ててマナの流れを誘導している。
彼女が密着しているせいで、俺の背中には彼女の柔らかな双丘が押し付けられている。正直に言おう。こんな最高級の「背もたれ」を感じながら精神障壁を作れというのは、至難の業だ。
「んぅ……むずかしいよぉ……」
俺は甘えた声を出す。 現実には、5分前にはもう『精神障壁』は完成している。鉄筋コンクリート並みに堅牢なやつが。だが「できた」と言えばセルレーンは離れてしまう。俺はこの体勢を崩したくないのだ。
「頑張って」
セルレーンがさらに身を寄せ、紅茶の香りのする吐息が頬にかかる。
「あともう少しよ。私のマナを少し分けてあげるからね」
温かいエネルギーが彼女の手から流れ込んでくる。俺の体内のまだ荒削りなマナとは対照的に、それは優しく、温かい。
さすがにそろそろ潮時か。これ以上フリを続けると、本当に知能を疑われかねない。
「できた!」
俺は声を上げ、たった今成し遂げたかのように振る舞う。
セルレーンが手を離し、拍手した。
「すごい! リプスは天才ですね!」
彼女は俺を抱き寄せ、頬にチュッと音を立ててキスをした。
天国。ここは間違いなく天国だ。
「休憩時間でーす!!」
甲高い声が響き、俺のロマンチックな空間を粉砕した。 廊下の方から、レモネードの盆を持った栗色の髪の少女が、熱帯低気圧のようなエネルギーで走ってくる。
マリー —— 料理担当メイド。 セルレーンが水、ベルが土なら、マリーは間違いなく風だ。いつも陽気で、活発で、そして……恐ろしくおしゃべりだ。
「坊ちゃん、水分補給! 今日は生のレモンを絞ったんですよ、森の蜂蜜入り! あ、そうそう坊ちゃん知ってます? キッチンの猫が子供産んだんですよ、5匹も! それに今朝ベルさんがまた屋根の上で寝てて……」
マリーは盆を置くと、息継ぎなしで喋り続ける。俺はレモネードを啜りながら適当に頷く。マリーは騒がしいが、有能な「スピーカー」だ。半径10キロ以内の噂話やニュースはすべて彼女が集めてくる。外に出ずに世界を知りたければ、マリーに聞けばいい。
だが、アフタヌーンティーの賑やかさはそれだけでは終わらなかった。
ガシャーン!
マリーの背後で、盛大な破砕音が響いた。
振り返ると、小柄なメイドが一人、15、6歳くらいだろうか。地面で粉々になったクッキー皿の残骸を前に凍りついていた。ボサボサの栗色のショートヘア、涙目の大きな瞳、そして震える手。
サリナ —— メイド隊の末っ子。
「ご、ごめんなさい! ごめんなさい!」
サリナは慌てて破片を拾おうとして、そして……
「あっ!」
また指を切った。
マリーが額を押さえ、深いため息をつく。
「もうサリナ、これで今週3枚目だよ! エイリア様がいたらお仕置きコースだよ」
サリナが顔を歪め、ボロボロと涙をこぼし始める。
「わ、わざとじゃ……スカートが引っかかって……」
俺はサリナを見る。典型的なドジっ子だ。アニメなら、仕事はできないが「可愛さ」と「守ってあげたい本能」を刺激することで高い精神的価値を生むキャラだ。
俺は椅子から飛び降り、サリナに近づく。
「サリナおねえちゃん、いたい?」
俺は血の滲む彼女の指を掴む。サリナは俺の服を汚すまいと手を引っ込めようとした。
「坊ちゃん……汚れます……」
俺は顔を上げ、太陽のような笑顔を向ける。
「なかなくていいよ。お皿は買えばいいもん。泣いたらブサイクになっちゃうよ」
サリナは呆然とし、やがて顔を真っ赤にした。彼女はさらに大きな声で泣き出したが、今度は俺に抱きついてきた。
「うわぁーん! 坊ちゃん優しすぎますぅ! 一生ついていきますぅ!」
俺はサリナの腕の中で圧迫される。ベルやセルレーンに比べれば「絶壁」だが、サリナからはクッキーの甘い匂いと、純粋な無垢さが香る。
人心掌握:完了。
***
だが午後になると、俺の楽しみは中断された。
「リプス、健康診断の時間ですよ」
セルレーンが少し緊張した面持ちで告げる。 俺は身震いした。注射が怖いのではない。検査をする「相手」が怖いのだ。
俺たちは屋敷の東側の地下へと降りていく。深くなるにつれ、空気は冷たくなり、奇妙な薬草の匂いが充満してくる。
医務室の扉が、不吉な軋み声を上げて開いた。
中は真っ暗だ。外は晴天だというのにカーテンは閉め切られ、乱雑に瓶が置かれた机の上で、頼りない蝋燭の火だけが揺れている。
「ヒヒヒキ……」
闇の奥から奇妙な笑い声が聞こえた。黒板を金属で引っ掻いたような音だ。 人影が椅子を回転させてこちらを向く。
白衣を着ているが、そこかしこに赤い染みがついている(イチゴシロップであることを願う)。肩までの黒髪、片目を隠す長い前髪。そして何より異様なのはその目だ。
真紅。磨かれたルビーのように輝いている。
セラ —— かかりつけ医 —— 夜行性の変人であり、日光アレルギーの持ち主。
「やあ、小さな坊ちゃん」
セラがハスキーで妖艶な声を出す。
「火遊びをして、自分をバーベキューにしかけたんだって? ヒヒヒキ……」
俺は唾を飲み込む。この家でエイリアが「規律への恐怖」なら、セラは「本能的な恐怖」だ。彼女は俺を人間としてではなく、興味深い実験サンプルとして見ている。
「セラ先生、爆発の後遺症がないか診てください」
セルレーンは俺を安心させるように肩を抱きながら言った。
セラが幽霊のように音もなく滑り寄ってくる。顔を近づけ、赤い瞳で俺の目を覗き込む。
「面白い……実に面白いねぇ……」
彼女は呟き、冷たい手で俺の首筋に触れ、脈を取る。
「マナの脈動が異常なほど安定している。2歳児が反動を受けて、こんなに早く回復するかい? ヒヒヒキ……」
セラは俺の耳元に唇を寄せ、俺にしか聞こえない声で囁いた。
「ねえ坊ちゃん。君の中に……どんな悪魔が隠れてるのかな?」
心臓が早鐘を打つ。こいつ、何か嗅ぎつけたか?
俺は無邪気な表情を崩さず、瞬きをする。
「あくま? あくまもアメちゃんたべる?」
セラは一瞬固まり、それから大声で笑い出した。
「ヒヒヒキ! 悪魔が飴を食うか! いいね、気に入ったよ」
彼女は直立し、セルレーンに向き直る。
「牛みたいに丈夫だよ。何の問題もない。だけど……」
セラはポケットから紫色の液体がボコボコと泡立つ瓶を取り出した。
「……これを飲みな。特製ビタミン剤さ。脳に効くし……その豊かな想像力を養ってくれるよ。ヒヒヒキ」
俺は小瓶を受け取り、怪しい液体を見つめる。ビタミンか、毒薬か? だが、鋭い犬歯を剥き出しにしてニタリと笑うセラを見て、拒否権がないことを悟る。
俺は目を閉じ、一気に飲み干した。 味は……ブドウ? 意外と美味い。
「いい子だ」
セラが俺の頭を撫でる。長く尖った爪が頭皮を軽く引っ掻き、鳥肌が立つ。
「また遊びにおいで。ガラスケースの中に面白いものがたくさんあるよ。沼カエルの目玉とか、人狼の心臓とかね……」
俺は慌ててセルレーンの手を引く。
「セレーン……かえる……こわい……」
セルレーンは激しく頷き、俺を抱えてその怪しい洞窟から逃げ出した。 扉が閉まる背後から、まだ「ヒヒヒキ」という笑い声が聞こえてきた。
俺は大きく息を吐く。
レイナー家はまったく、奇人変人のサーカス団だ。 無垢なママ役。氷の暗殺者。最強の怠け者エルフ。人間スピーカー。破壊神のドジっ子妹。そして吸血鬼(か何か)の女医。
俺は自分の小さな手を見る。 5年後、10年後……俺はこの場所を難攻不落の要塞に変えてみせる。
だが、まずは……
「セルレーン、きょうはいっしょにねていい? セラにつれていかれそうで、こわい……」
セルレーンは微笑み、俺を強く抱きしめた。
「わかりました。今夜は私がリプスを抱っこして寝ますね」
最高だ。 本日の計画:ミッション・コンプリート。




