02. 図書館
(927年 - モナ地方 - レイナー邸)
柔らかさ。 それこそが、このクソみたいな世界で唯一意味を持つものだ。
俺は抱かれている女性の胸に、さらに深く頭をうずめる。鼻腔がドライラベンダーと、甘いミルクの香りで満たされる。
絶品だ。
前世なら、美女にこうして抱きしめられるには大金を積まねばならなかっただろう。だが今はどうだ? 軽く「あうー」と鳴くだけで、すべてが手に入る。
「いい子ねリプス、ねんねしましょう……」
セルレーンの歌声はベルベットのように滑らかだ。 紫の髪、水晶のような瞳、そして何より……2歳児の枕として完璧な、その豊かな胸部。
俺は目を閉じ、眠ったふりをしながら脳をフル回転させる。
この世界に来て2年が経った。食って寝て垂れ流すだけの知恵遅れを演じ続ける2年間。大人にとっては拷問だが、生存戦略としては完璧だ。
俺は薄目を開け、下を盗み見る。この角度なら、セルレーンの呼吸に合わせて動く鎖骨が観察できる。
彼女の右手の人差し指にある小さなタコにも気づいた。杖を握るタコか? ペンだこか? 確信は持てない。だがセルレーンはただのメイドではない。足音を立てない移動術、そして俺が隠れようとする瞬間に現れるタイミング……追跡のスキルがあるのは間違いない。
「坊ちゃん、寝ちゃいました?」
別の声がした。マリーだ。まだ青い新人メイド。
「ええ、あの子、午前中ずっと遊んでたから」
セルレーンは囁き、俺のお尻を優しくトントンと叩く。そのリズムは正確で心地よい。 いずれこの家の実権を握ったら、彼女には褒美を与えようと心に決める。
「リプス坊ちゃんは可愛いですけど……でも、2歳になってもあんなにベッタリだし、たまに一人でニヤニヤしてるし。ちょっとアレなんじゃ……」
マリーが言葉を濁す。
知能が低いとでも? 俺は心の中で鼻で笑う。
そう思わせておけばいい。もし俺が1歳で文字を読み、セルレーンの机にあった政治資料をすべて理解しているとバレれば、今頃は王立研究所送りか、悪魔憑き扱いされているだろう。
セルレーンは溜息をつき、俺を少し強く抱きしめた。
「そんなこと言わないで。リプスは特別な子よ。とてもいい子だわ」
そうだ、セルレーン。俺を守れ。俺の偽りの無邪気さは、お前にとっても最強の盾になるんだからな。
セルレーンの心拍が落ち着き、マリーが立ち去ったのを確認して、俺は行動を開始する。今日の計画を実行する時だ。
俺は身じろぎをして目を覚ましたふりをし、大きく丸い瞳 —— S級の殺傷力を持つ武器 —— でセルレーンを見上げる。
「セ……レ、レーン……」
俺はあえて舌足らずに甘える。
「あら? どうしたの。おトイレ?」
俺は首を振り、廊下の突き当たりにある巨大なオークの扉を指差した。
「えほん……みる……」
「図書室? でも今は……」
ここでトドメの一撃だ。瞳をウルウルと湿らせ、下唇を突き出し、彼女の服の裾を小さな手でギュッと握って揺らす。
コンボ技『捨てられた子犬』。 防御貫通ダメージだ。
セルレーンは即座に陥落した。
「わかった、わかったわ。泣かないで。絵を見に行きましょうね」
彼女は俺を抱いて図書室へと向かう。俺は勝利の笑みを隠すために、彼女の肩に顔を埋めた。チョロいもんだ。
図書室は無人だった。古紙と微細な埃の匂いが、どんな香水よりも俺の嗅覚を刺激する。ここは宝の山だ。そして俺は、下見に来た泥棒だ。
セルレーンは俺を大きな木の机の上に座らせると、ドラゴン退治のくだらない絵本を取りに背を向けた。彼女が本棚の影に消えた瞬間、俺は滑り降りる。
2歳の体は貧弱で手足も短いが、重心が低いおかげで足音を消すのは容易い。絵本などいらない。狙いはD区画の棚、3段目。昨日、エイリアが黒革の表紙の本をそこにしまうのを見た。
踏み台を引き寄せ、よじ登り、つま先立ちをする。
届いた。
本を引き抜く。ずしりと重い。表紙には金箔でこう刻まれている。 『マナ流動の原理と熱力学的応用』
おとぎ話じゃない。実戦魔法の教科書だ。 ページをめくる。心臓が高鳴る。見つかる恐怖ではない、興奮だ。数式、エネルギー流動図……「アブラカダブラ」なんて戯言じゃない。それは科学だった。この世界の魔法は物理法則に従い、そこに「マナ」という変数を加えただけのものだ。
「リプス? どこ?」
セルレーンが呼んでいる。 俺は大急ぎで『フレイム(火炎)』の術式を脳に焼き付ける。労宮(ろうきゅう:手のひらの中央)のツボにマナを集中。分子振動を励起。酸素供給。放出。 原理はガスライターと同じだが、燃料は血中のマナだ。
セルレーンが棚の端から顔を出し、慌てた表情を見せた。俺が分厚い本を抱えているのを見て、彼女は安堵の息をつき、駆け寄って俺を抱き上げた。
「もう! びっくりさせないで! そんな重い本、足に落としたらどうするの?」
彼女は俺から本を取り上げ、棚に戻した。
「こんなの退屈よ。勇者ロクシーズの絵本を見ましょう」
俺は素直に頷き、絵本を受け取る。だが脳内では、『フレイム』のマナ回路図がミリ単位で再構築されていた。
実験が必要だ。今すぐに。
「ねんね……」
俺は目をこすり、大あくびをしてみせる。
「眠くなっちゃった? お部屋に戻りましょうか」
「や……ここ……」
俺は床に敷かれた分厚い毛皮のラグを指差す。 セルレーンは仕方ないわね、と微笑んだ。彼女は俺をラグに寝かせ、自分のケープを掛けてくれると、近くの椅子に座って本を読みながら見張りを始めた。
5分後、セルレーンの寝息が聞こえてきた。うたた寝だ。俺のような多動児のベビーシッターは重労働なのだろう。
俺はカッと目を開く。図書室の空気は静止している。
俺は起き上がり、安全のためにセルレーンから10メートルほど距離を取った。そして、小さな右手を掲げる。
さて、理論が実践に通じるか試してみようか。
目を閉じ、内なる奔流を感じる。難しくはない。この2年間、毎晩このエネルギーを「力む」練習をし、従順な蛇のように背骨を走らせることができるようになっていた。
今はただ、実験がしたいだけだ。派手な火球も、爆発もいらない。俺の理論が正しいと証明できればいい。ロウソクの灯火のような、小さな炎。 それだけで十分だ。
練気。その流れを右手のひらに集中させる。熱い。焼けた炭を握っているような感覚。 痛いが、快感だ。
振動。エネルギー流を米粒ほどの極小の一点に圧縮する。熱力学の原理に従えば、圧縮すればするほど摩擦は増大し、温度は上昇する。
起爆。俺は目を見開き、囁いた。
「始原の炎よ 召喚に応じ 猛き燃焼を 万物を焼き尽くせ —— フレイム」
小さな炎など現れなかった。
代わりに、空間を裂くような轟音が響いた。
「ヴンッ!!」
炊飯器ほどの大きさの火球が俺の手から膨れ上がったが、飛んでいくことはなかった。その場で爆発したのだ。 衝撃波が俺を吹き飛ばし、本棚に叩きつけられる。
「ぎゃああああ!」
右腕を焼かれる激痛。炎がカーテンに燃え移り、古い本へと広がる。黒煙がもうもうと立ち昇る。
「リプス!!」
セルレーンの悲鳴。彼女は母熊のような勢いで炎の中を突っ切ってくる。俺は地面で咳き込み、炭のように黒ずんだ右手を見ていた。皮膚が焼けただれ、感覚がない。
天井の梁が燃え、バキリと音を立てて折れ、俺の頭上へと落下してくる。
クソッ。こんなに早くゲームオーバーか?
俺は落ちてくる木材を呆然と見つめる。だが、暗闇は訪れなかった。 人影が飛び込み、俺を覆うように守ったのだ。
ドォン!
燃え盛る梁がセルレーンの背中を直撃した。彼女は崩れ落ちたが、両手をついて俺をその下に守り抜くアーチを作った。肉の焼ける嫌な臭いが鼻を突く。俺のじゃない。
彼女の肉だ。
「セ……セルレーン……」
俺は震える声で呼んだ。2年間で初めて、演技抜きで喉が詰まった。 セルレーンの顔は蒼白で、滝のような脂汗を流している。それでも彼女は無理やり笑った。痛みに歪んだ笑顔で。
「だい……じょうぶ……ゴホッ……私が……いるから……」
彼女が目を閉じる。淡い緑色の光が彼女の手から溢れ、俺を包み込む。治癒魔法だ……俺に? 背中から煙を上げているというのに?
バカだ。こいつは大バカ者だ。
だが突然。
パァン!
図書室の扉が弾け飛んだ。極寒の冷気がなだれ込み、猛り狂う炎を一瞬で鎮火させる。床は瞬時に凍結し、舞っていた火の粉さえも空中で凍りついた。
この屋敷で最も権力を持つ女が到着した。エイリア —— 屋敷の執事長にして、上級氷結魔導師。
彼女が入ってくる。氷の床をヒールの音がカツカツと叩く。彼女は惨状を見回した。半焼した書庫、血だまりに伏したセルレーン、そして焦げた右手を抱えて座り込む俺。
「説明しろ」
たった一言。氷よりも冷たい声。
セルレーンが必死に顔を上げる。
「わ……私の不注意です……ロウソクを倒して……」
「嘘をつくな」
エイリアが遮る。彼女は近づき、身をかがめ、火傷を負った俺の腕を掴んだ。傷を見るのではない、俺の目を直視している。
その目は鋭く、俺の魂まで引き剥がそうとするかのような眼差しだ。
「マナ集中の暴走による火傷。掌を中心とした同心円状の爆痕」
エイリアは検死報告を読むような平坦な声で言った。
「2歳児が『フレイム』を行使しただと?」
彼女は瀕死のセルレーンを見る。
「お前が教えたのか?」
「いいえ……私は……」セルレーンが血を吐く。
「教えていたとしても……リプス、どうやってお前が?」
エイリアが再び俺を見る。 彼女の唇が動き、何かを言いかけた。その目は疑念に満ちている。彼女はさらに問い詰めようとしている。なぜ本を理解できたのか、なぜその思考があるのか。
危険だ。これ以上掘り下げさせてはならない。
即座に、俺は全身の力を抜いた。これまで維持していた「気張り」の電源をすべて落とす。白目をむき、手足をぐにゃりとさせた。
「坊ちゃん!」セルレーンが叫ぶ。
俺は床に倒れ込む。バタリ。
「リプス!」
エイリアの動揺した声。冷徹な疑念は消え去り、甥が気絶するのを見た叔母のパニックだけが残る。
体が抱き上げられるのを感じた。
「クソッ、マナ欠乏症だ! セルレーン、治癒術師を! 急げ!」
俺はエイリアの腕の中で、彼女の肩に頭をもたげた。目は固く閉じているが、脳内では笑っていた。
勝った。
「気絶」してしまえば、それ以上尋問されることはない。そこにあるのは同情と心配だけだ。疑念は愛情で埋め立てられる。
明日目が覚めれば、俺はまた「九死に一生を得た、無邪気で可哀想な2歳児」だ。そしてエイリア? 彼女は意識を取り戻したばかりの幼児を問い詰めたりはしない。 仮に問い詰められたとしても……俺には既に、策がある。




