さよならじゃないからね
デート中の彼女がここまで上の空なのは、初めてだった。
土曜の午後、駅前のカフェの窓際。
期間限定って書いてあった苺パフェの苺を、一個ずつスプーンでつぶしながら、私は目の前の恋人をちらちら盗み見ていた。
「奏、聞いてる?」
「……ん。聞いてるよ」
返事はするけど、目はどこか遠くを見ていた。
グラスの水面をぼんやり眺めて、指先で小さくリズムを刻んでいる。
頭の中で何かを数えているみたいな顔。
ピアノのことを考えてるときの顔だなって、すぐ分かった。
小さいころからずっと続けてる、彼女の一番大事なもの。
幼稚園からの幼なじみだから、そういうのはすぐ分かる。
だけど今日は久しぶりのデートなんだから、私の方を見てほしい。
「最近、元気ないよね」
「そうかな」
「そうだよ。レッスンのあと、LINE返すのも遅いし」
「……ごめん」
そこでやっと、奏が私の方を見た。
長いまつげの影が、テーブルに落ちる。
ちゃんと目が合ってるのに、心だけはまだどこか遠くにいるみたいで、不安で胸が押しつぶされそうになった。
「何かあったなら、言ってよ。私じゃ相談相手にならない?」
自分で言いながら、声がどんどん小さくなっていった。
ここで「綾に話しても意味ない」とか言われたらどうしよう。
「言おうと思ってた。……今日こそ言わなきゃって」
奏がストローをいじっていた手を、ぎゅっと握りしめた。
氷がカランと鳴る。
「たぶん、留学することになる」
「……え?」
頭の中のリズムが、一拍ずれたみたいだった。
聞き間違いだと思いたかったのに、奏の目は本気だった。
「ヨーロッパの音楽院。コンクールの先生が推薦してくれて、試験受けて、もし受かったら……向こうで数年、勉強することになる」
「数年って」
突然のことでびっくりはしたけど、何とかそれだけは聞き返せた。
「三年、とか。それくらい」
空調の音だけが、やけに大きく聞こえた。
隣の席の笑い声も、窓の外を走るバスのエンジン音も、一瞬遠のく。
「すごいじゃん」
口が勝手に動いた。
「夢だったんでしょ。小学生の頃から言ってたじゃん。海外でピアノ勉強したいって」
本当は今すぐ泣き叫びたいのに、口から出てくるのはこんな言葉ばっかりだ。
それでも奏の夢だから、反射みたいに背中を押すことしかできない。
多分、嬉しい気持ちもちゃんとある。だけど、その嬉しさと一緒に、喉の奥がひりひりしていた。
「……うん」
「だったら、行かなきゃ」
息を吸い込むみたいに、言葉を吐き出す。
「そんなチャンス、そうそう来ないし。行かない方がおかしいよ」
誰にでも回ってくる話じゃない。もしかしたら一生に一度のチャンスかもしれない。
なのに私は、どうしてこんなに必死で背中を押してるんだろう。
それが正論だって分かってた。
正しいことを言えば、全部守れる気がした。
奏の夢も、未来も、その中にいる私も。
でも、奏の顔は全然嬉しそうじゃなかった。
「綾は、絶対にそう言うと思った」
「え?」
「綾は絶対そう言う。『夢なんだから行きなよ』って」
奏は笑ったけど、その目は少し悲しそうで、それでいて責めるみたいな視線でじっとこっちを見てきた。
「ねえ、本当にそれでいいの?」
「いいに決まってるじゃん。夢なんだよ?」
「じゃあ、綾はいらないってこと?」
「は?何でそこで私が出てくるの?奏が」
心臓のあたりを、素手で殴られたみたいだった。
「綾が背中押してくれてるの分かってるよ。優しいもん。でもさ、それって結局『私は平気だから、行っておいで』ってことじゃん」
何が言いたいの?
奏が言いたいことがわからない。
悲しいことは悲しいけど、私のせいで奏の夢をつぶすなんてできないのに。
これは言わないといけないことだと思った。
「私、卑怯だよね」
「……なんでそうなるの?」
「綾がそばにいるとさ、自分で決めるのが怖くなるの。なんでも綾の一言を待っちゃう。本当は自分で選ばなきゃいけないのに」
言いながら、奏の目に涙がたまっていった。
「本当は『行かないで』って言ってほしいくせに。そんなこと言わないの、知ってるのに。綾は……綾だもん」
「……何それ。私が行かないでって言っても、どうしようもないじゃん。馬鹿じゃないの?」
胸の中に、じわじわ熱が広がる。
なに言ってるの、って心の中で毒づいた。
奏が感情的になってるなら、本当は私が冷静でいなきゃいけないのに。
悩んでるのは私のせいって言いたいわけ?
そう思った瞬間、こっちの感情の方がどんどん暴走していって、自分でももう止められなくなっていた。
声が少しずつ大きくなっていくのが、自分でも分かった。
店員さんがちらっとこっちを見るのが分かったけど、それでももう止まらない。
「素直に『夢追いかけて』って言えば『冷たい』って言われるし、『行かないでほしい』って言ったら今度は重いって言うんでしょ。どっちにしても文句言うじゃん。私が奏の夢を邪魔してるみたいじゃん」
言いながら、自分でも何言ってるのか分かんなくなってきた。
どう言えば正解だったのかなんて、最初から分かってないくせに。
「じゃあ何? 私はどうすればよかったの? どうしてほしいのかくらい教えてよ」
言い終わった瞬間、空気が一気に冷えた気がした。
奏がびくっと肩を震わせる。
「ごめん。……今日は帰る」
言い過ぎたと思った瞬間、椅子を引く音がやけに大きく響いた。
奏はお金をテーブルに置いて、ほとんど走るみたいな勢いで店を出ていった。
テーブルの上に残された苺パフェは、もうすっかり溶けていた。
それから数日、私たちはほとんど口をきかなかった。
学校では普通に顔を合わせる。
でも、話しかけたらどこか壊れそうで、私はわざと友達としゃべるふりをして、奏の視線から逃げた。
夜、布団の中でスマホの画面を見つめる。
メッセージアプリの一番上には「奏」の名前。
打っては消して、打っては消して、結局「おやすみ」すら送れないまま画面を伏せた。
本当はあの日、「行ってほしくない」って言いたかった。
夢と私を天秤にかけたら、迷わず私を選んでほしいなんて、ずるいことも思った。
でも、そんなこと口にしたら、奏の世界を狭くしてしまいそうで、怖かった。
正しいことばっかり選んできた結果が、これか。
自分で自分を殴りたくなった。
放課後、音楽室の前を通りかかったとき、中からピアノの音が聞こえた。
ドアのガラス越しに、奏の横顔が見えた。
眉間にしわを寄せて、鍵盤を睨みつけるように弾いていた。
その指が、途中でぴたりと止まる。
肩が震える。
音の途切れた空間に、見えない涙の音が落ちた気がした。
逃げてるのは、どっちなんだろう。
奏の夢から目をそらしてるのか。
それとも、自分の本音から逃げてるのか。
分かってしまった瞬間、足が勝手に動いていた。
私はドアノブをつかんで、そのまま扉を開けた。
夕方の光が差し込む音楽室の中で、グランドピアノの前に小さく座り込んでいる奏だけが、ぽつんと残っていた。
「奏」
「……綾」
振り向いた奏の目元は、少し赤かった。
私はドアを閉めて、ピアノのそばまで歩いていく。
「この前は、ごめん。怒鳴って」
「私も、ごめん。変な言い方して」
謝っても、間にある空気はすぐに元通りにはならない。
だけど、少なくとも逃げるのはやめようと思った。
「ちゃんと本音言うから、笑わないで聞いて」
「笑わないよ」
「じゃあ、先に言うね」
息を吸う。胸の奥がじんじん痛い。
その痛みごと抱きしめるみたいに、言葉を引っ張り出した。
「留学してほしい」
「……うん」
「でも、行ってほしくない」
奏の瞳が揺れた。
「夢を諦めてほしくないし、離れたくない。本当は、空港のゲートの前で『やっぱやめる』って言って戻ってきてほしいくらいだよ」
言ってから、自分で笑ってしまった。
「なんかさ、綾らしくないなって思った」
「なにそれ?」
「でも、なんか新鮮で……また好きになっちゃった」
「もう」
少し笑って、すぐ真顔に戻る。
「奏が怒った理由、少し分かった気がする」
「え?」
「私が勝手に、聞こえのいい言葉でごまかして、本心ちゃんと見せてなかった」
「綾……」
「だからさ。ちゃんと言うよ」
私は一歩近づいて、奏の手をそっと握った。
ピアノを弾きすぎて、少し硬くなった指先が、ひんやりしている。
「寂しいから行かないでほしい。だけど、奏の夢は応援したいから、一緒にさ、悩もう。一人で決めなくていい。二人でずっと悩んで、最後に二人で納得して決めよう」
「二人で?」
「そう。私も勝手に『いいよ』って譲らないし、奏も一人で我慢しないの。その代わり、決めたら後悔しないって約束する。どうかな?」
奏がぎゅっと私の手を握り返した。
涙でにじんだ目の奥に、少しだけ光が戻る。
「綾のそういうとこ、ずるいと思う」
「またずるいって言われた。どうすればいいの」
「でもね、そんな綾が好き」
その一言で、音楽室の空気が少し柔らかくなった気がした。
「私も奏のこと大好きだよ。……で、奏はどうするの?」
「うん、試験受けてみる」
奏が小さく笑ってくれた。
「受かったら、本気で悩もう。それでも綾が『行っていい』って言ってくれたら、行く。でもね、そのときは、綾も『寂しい』って言ってほしい」
「受かってよかったねって言うよ。でもそのあと、めちゃくちゃ泣く自信ある」
「たぶん私も同じくらい、うれしさと悲しさが混じった感じで泣いちゃうと思う」
自然とふたりで笑った。
涙と笑いがごちゃ混ぜになった、変な笑い方だったけど、さっきまでの重さが少し軽くなった気がした。
これでよかったんだって、ちょっとだけ思えた。
奏の受験の日が来て、結果が出るまでの時間は、正直地獄だった。
勉強なんて頭に入らないし、スマホが鳴るたびに心臓が跳ねて、びくびくしていた。
結果発表の日。
放課後の廊下で、奏が走ってきて、そのまま私の胸に飛び込んできた。
「受かった」
「……そっか」
「綾のせいだよ」
「なんで私のせいなの?」
「綾が『試験受けてみなよ』って言ったから」
「それ、私のせいじゃなくて奏の実力じゃん」
「うるさい」
めちゃくちゃ理不尽に怒られてしまった。
奏は私の制服をぎゅっと掴んできた。
「空港まで、来てくれる?」
「行くに決まってるじゃん」
出発の日は、少し曇っていた。
空港のガラス越しに見える滑走路は薄い灰色で、どこか世界の終わりみたいに見えた。
チェックインカウンターの前で、奏のスーツケースに貼られたタグが揺れている。背中にはリュック。
「なんか、実感わかないね」
本当に、ただの海外旅行みたいだった。
このまま数日後には「お土産買ってきたよ」って言いながら帰ってきそうなのに、最低三年間はいなくなるんだって思うと、胸のあたりがじんわりさみしくなった。
「本当にね。まだ帰りの電車に乗れそう」
「じゃあ帰る?」
「怒るよ?」
お互いの顔を見て、ふっと笑いあった。
アナウンスが流れた。
言葉の意味は分かるのに、頭のどこかが拒否していた。
「綾」
「ん」
「最後に、お願いしていい?」
「何」
「『行かないで』って言って」
冗談みたいな声だったけど、目は本気だった。
私は一度目を閉じて、肺の中の空気を全部入れ替える。
それから、ちゃんと奏の顔を見る。
「行かないで。ずっとここにいてよ」
言葉にした瞬間、胸の奥がぐちゃぐちゃになった。
「だけどさ、行ってらっしゃい。そして、私の元に戻ってこないって選択肢は、許さないからね」
私は精いっぱいおどけた感じで、そう言ってみせた。
「やっぱりそう来ると思った」
奏が、泣き笑いみたいな顔をする。
「綾も言って。『待ってる』って」
「さっき言ったじゃん。戻ってこないのは許さないって。でも、ちゃんと待ってるからね」
どんどん涙があふれてきた。
「うん」
奏の目にも、たくさんの涙がたまっていた。
奏が一歩近づいた。
空港のざわめきの中で、私たちだけが静止画みたいに止まった。
「綾、好き」
「うん。私は愛してるよ」
誰かの視線なんて気にしないことにして、私は奏を抱きしめた。
細い肩が震える。
スーツケースのキャスターが、じわじわと私の足首に当たる。
「行ってくるね」
「うん、行ってらっしゃい」
「もう、泣かないでよ」
「無理。そっちもでしょ」
「……仕方ないでしょ」
離れて、ぐしゃぐしゃの顔で笑い合った。
ゲートの手前で、奏が大きく手を振る。
「さよなら、じゃないからね」
「うん。またね」
奏の背中が人の波に飲まれて見えなくなるまで、私はずっとその場から動けなかった。
最後にちらっとだけ振り返った横顔が、頭の中で何度も再生される。
帰りの電車の中、窓に映る自分の顔は、泣きはらした目をしていたけど、不思議と少しだけ前を向いているようにも見えた。
私も、奏に恥じないように頑張ろうと思った。
お互いがまた会えたときには、今よりちょっとだけ素敵な私でいられるように。
離れたって、終わりじゃない。
これは、お互いが成長して、もう一度手を取り合って前に進むための、ちょっとだけのお別れ。
帰国したら、かならず言おう。
「おかえりなさい、奏。愛してるよ。これから一緒になろうね」




