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今日も魔王は珈琲を淹れる  作者: 秋乃 よなが


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第九話 手書きのしおりとピザトースト


 午後の喫茶セピアには、珈琲の香りとゆったりとしたピアノジャズが流れていた。ガラス越しに差し込む日差しが、よく磨かれた木目の床に柔らかな模様を描いている。


 ドアベルがカランと、小さく鳴った。


 入ってきたのは、細身のコートを羽織った初老の男性だった。手には革のブックカバーがかかった文庫本、そしてどこか懐かしさを含んだ視線。リヴィアスがさりげなく顔を向け、葵もカウンター越しに『いらっしゃいませ』と微笑んだ。


「……ここ、まだやっていたんだな」


 男性はゆっくりと店内を見渡し、まるで時間が戻ったかのように歩みを進めた。カウンターではなく、窓際のテーブル席へ。かつて誰かと座ったことのある場所なのか、指で椅子の背をそっと撫でる。


「ご注文が決まりましたらお声がけください」


「ありがとう。じゃあ、以前に食べたピザトーストはまだありますか?」


「もちろんです」


 葵が笑顔で答えると、男性は目を細めて頷いた。


「…変わってないんだな、この店は。ああ、ホット珈琲も一緒にお願いします」


「かしこまりました」


 葵と男性のやり取りを聞いて、リヴィアスがカウンターの内側で準備を始める。厚切りのパンに自家製トマトソースを塗り、ピーマン、ベーコン、チーズを散らす。そしてオーブントースターに入れると、じゅわっと音がして、香ばしい匂いが広がった。


「以前もお越しいただいたことがあるんですね。よろしけばお名前を伺っても?」


 葵が尋ねると、男性は小さく笑って答えた。


「坂下です。古書店をやっています。…いや、やってました、と言ったほうがいいかな。今日、店をたたんできた帰りなんですよ」


 葵は一瞬、言葉を飲んだ。


「――おつかれさまでした」


「ありがとう。うちの古書店にも、前の店主さんがよく立ち寄ってくれてね。本をよく注文してもらっていたよ。…しかし、いやぁ、時代ですね。本を求める人が減って、ついに赤字続きになってしまって…。私も歳ですし、そろそろいいだろうと。……でも、いざ閉じると、何かが抜けてしまったような感じがするもんですね」


「このお店、昔からご存じだったんですか?」


「ええ、妻が店主さんと顔なじみでした。私は妻に連れられて何度か来たことがある程度です」


 そこにリヴィアスがピザトーストとホット珈琲を運んできた。芳しい香りに、坂下は思わず『懐かしいな』と呟く。


「いただきます、」


 一口、二口。もぐもぐと噛みしめるように味わうと、坂下の表情が少し和らいだ。


「うまいな…あの頃と同じ味がします。ちゃんと覚えてくれていたんだな、あの人が」


「覚えてくれていた?」


 葵が聞き返せば、坂下は静かに頷いた。そして珈琲を一口飲んでから、持ってきた文庫本から一枚のしおりを取り出す。セピアのロゴが入った、古いしおりだ。


「これ、昔この店でもらったんですよ。裏に小さく手書きの文字があるの、見えますか?」


 葵とリヴィアスが身を寄せて覗き込む。角が擦り切れて色褪せた紙には、それでも丁寧な手書きの文字が残っていた。


 ――いつか今日を思い出す日が来たら、そのときもきっと珈琲の香りとともに、あなたを待っています。


 筆跡は間違いなく葵の祖母のものだった。


「この言葉、私の記憶のしおりになってたんですよ。辛いとき、このしおりの文字を何度も読んだ。この言葉を見て、この店があったことを、私は忘れないようにしていたんです」


 葵は胸が熱くなった。リヴィアスもまた、葵の祖母が残した『小さな手紙』が誰かの人生に影響を与えていたことに、静かに目を伏せた。


「……坂下さん、よければまた来てください。今日が最後のページじゃありませんから」


 葵の言葉に頷き、坂下はまたピザトーストと珈琲を口にする。


「そうだね。また来させてもらうよ」


 噛みしめるようにピザトーストを平らげ、坂下はゆっくりと立ち上がる。そして再びドアベルを鳴らし、店をあとにした。


「……記憶の味、か。味は、舌だけで感じるものではないのだな」


 リヴィアスはピザトーストを乗せていた皿を片付けながら、その残り香に視線を落とす。


「うん…。おばあちゃんの味が、誰かの記憶にずっと残ってたんだね。そしてそれを今日、レヴィが繋いだ。すごいことだよ、これ」


 陽が傾き始め、店内がゆっくりとオレンジ色に染まり始めていた。静かに、けれど確かに、葵の祖母の想いが彼らの中で息づいていた。


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