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今日も魔王は珈琲を淹れる  作者: 秋乃 よなが


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第四話 記憶のレコードと甘いココア


 夕暮れの光がカウンターの奥まで届き始めた頃、喫茶セピアのドアが静かに開いた。カランというドアベルの音が、店内に軽やかに響く。


「……いらっしゃいませ」


 リヴィアスの接客にも慣れが見えてきた頃。入ってきたのは細身の女性だった。オフィス街と下町が混ざる一角にあるこの喫茶店では、珍しくないような出で立ちだが、その表情には明らかな疲労が滲んでいた。


「あの、ホットココア、テイクアウトでお願いします」


「ココアだな、承った」


 リヴィアスは頷き、手早く作業に取りかかった。ミルクを温め、ココアパウダーを丁寧に溶かし込んでいく。どうやら目の前の『戦士』は、甘いものを欲しているらしい。


「……人間というのは、疲れたときにも甘いものを求めるのだな」


「ええ、逃げるように、って感じですかね。甘いもので一瞬でも現実逃避をしたいというか」


「それは逃げではない。疲れた身体と心を甘味で癒すのは、生き延びるための戦略だ」


 ココアの上、そっと生クリームを絞る。そして爪楊枝を使い、慎重に――まるで魔法陣でも描くような集中力で、生クリームの上に簡単な記号を描いた。


 そうして紙カップに蓋をする前に、リヴィアスは出来上がったココアを女性に見せた。


「……蓋をする前に見ておけ。味だけでなく、術式の美も(たしな)むのが礼儀だ」


 女性は一瞬ぽかんとして、それから小さく噴き出した。


「…うそ、ハート?こんな見た目の人が…」


 やや失礼なことを言われたような気がしないでもないが、彼女がほんの少し口元を緩めたから良しとしよう。


「うれしいです。ありがとうございます」


 ココアを手にした彼女は、少し軽くなった足取りで店を出て行った。その様子を隣で見ていた葵が、くすっと笑った。


「リヴィ、ハートが上手く描けるようになりましたね」


「ふん、あんな単純な術式、余裕だ」


「接客も上手にできるようになって何よりです」


「く…っ。褒められているはずなのに素直に喜べん…っ」


 それから間もなく。もうひとつ、ドアベルが鳴った。


 入ってきたのは、やや背の曲がった老紳士だった。上質なグレーのハットとベスト、くたびれたレコードジャケットを大事そうに抱えている。


「あ、佐々木さん…!」


 葵が思わず声をかける。リヴィアスは訝しげにその様子を見ていた。


「……あれは?」


「祖母の代からの常連さんの佐々木さんです。昔はよくここでレコードを持ち込んで音楽を聴いていたって。…でも最近は記憶が少しずつ薄れてきていて…」


 佐々木はカウンターに近づき、ゆっくりと椅子に腰を下ろす。そして持ってきたレコードをカウンターに置き、しばらくそれを見つめ続けていた。まるで、それが何だったのかを思い出そうとしているかのように。


 リヴィアスは彼の目の奥にある『虚ろ』を見て取っていた。


「……こんにちは。…ここは、どこだったかな…」


「喫茶セピアですよ、佐々木さん。よく若い頃に通っていただいていたお店です」


 葵がそっと答えると、佐々木はふと顔を上げた。だがその目は焦点が定まらず、ぼんやりと空間を漂っているようだった。


「……そうかい。君は…ああ、誰だったかな…」


「葵です。先代店主の孫です」


「……ああ、そうか…彼女のお孫さん、か」


 微かに記憶の端が引っ掛かったように、佐々木の声に僅かな明かりが灯る。しかしその光もすぐに霧の中へと消えていった。リヴィアスは、その姿をただ黙ってみていた。


「佐々木さん、今日もレコードを持ってきてくださったんですよね。良かったらかけましょうか?」


 葵はそう言いながら、佐々木からレコードジャケットを預かった。そしてプレイヤーのターンテーブルにレコードを乗せ、静かに針を落とす。カリリというノイズのあとに、甘く切ないジャズの旋律が流れ出した。


 その音に、佐々木の手がぴくりと動いた。


「…ああ、この曲だ…」


 彼の目の奥から『虚ろ』が消える。


「懐かしい…。あの子と、ここでよく――待ち合わせたなぁ…」


 佐々木は、記憶の中の大切な誰かとの再会が果たせたようだ。その目に、涙が零れた。


 若い頃、彼は恋人と一緒にこの店でレコードを聴いていたという。今はもう亡くなってしまったその人に、また会えるような気がして――彼は今日もこの店を訪れたのかもしれない。


「おかえりなさい、佐々木さん」


 葵がそっと、佐々木にティッシュを差し出す。彼はそれに微笑んで応えた。柔らかく、ほっとしたような、少年のような笑顔だった。


 リヴィアスはその涙を黙って見つめていた。


 許しを請う人間の涙ばかりを見てきたリヴィアスにとって、佐々木の涙は不可思議だった。人間の涙など汚れたものばかりだと思っていたのに、彼の涙は、美しく見えた。


「佐々木さん、いつもの珈琲、お淹れしますね」


「ああ、頼むよ」


(人間の涙が美しいだと…?そんな馬鹿げたことがあるものか)


 リヴィアスの心の奥に、誰にも気づかれないほどの揺らぎが、そっと芽生えていた。


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