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今日も魔王は珈琲を淹れる  作者: 秋乃 よなが


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第三話 婚約破棄と苺ショート


 昼下がりの喫茶セピアは、まるで時間がゆっくり流れているかのような静けさに包まれていた。小さく鳴り響くジャズのBGMが心地良い。窓から差し込む柔らかな陽光が、ローズウッドのテーブルを温かく照らし、カウンターの内側では葵が丁寧にカップを磨いていた。


「リヴィ、お客様が来たら接客お願いしますね」


「……ふん、分かっている。だが、どうにも『お願い』という言葉は何度聞いても慣れん。命令の方がまだ分かりやすい」


「命令なんてしませんよ。人と人は尊重し合うものなんですから」


「………」


 リヴィアスは腕を組みながら、葵の言葉の意味を図りかねていた。どうやら彼には『尊重』という言葉がしっくり来ていないらしい。


 そのときドアベルが鳴り、小柄な老紳士がゆっくりと入ってきた。背筋は伸びているが、その歩みには年相応の慎重さが滲んでいる。


「……い、いらっしゃいま、せ」


 リヴィアスの『いらっしゃいませ』は未だぎこちない。


「ああ、どうも。今日は天気がいいね。いつものをお願いするよ」


「……出たな、『いつもの』」


 リヴィアスが唸るように言うと、奥で仕込みをしていた葵がくすりと笑った。


「リヴィ、古谷さんの『いつもの』は、ブレンド珈琲とクッキーのセットです。お願いします」


「ふむ、ブレンド…いくつかの豆を混ぜた珈琲か。貴様の嗜好、しかと覚えた」


 リヴィアスはややぎこちない動きで準備に取りかかった。カップを選び、それを葵に渡し、レーズンサンドを冷蔵ケースから取り出して皿に並べる。お菓子をうっかり握り潰してしまわないように、慎重な手つきだった


「リヴィ、珈琲が入りましたよ」


「うむ」


 カウンターの内側からカップと皿を差し出しながら、彼はやや強張った笑顔らしきものを浮かべる。


「……注文のブレンド珈琲とレーズン入りの菓子だ。砂糖と乳もある。好きに使え」


「ははっ、ありがとう。君、ちょっとずつ慣れてきたみたいだねぇ」


「俺は進歩するのだ。なんせ魔王だからな」


「まおう?はは、なんだかよく分からないけど、立派そうな肩書だねぇ」


 古谷はカップを手に取り、珈琲を一口飲んだ。


「いい感じですよ、リヴィ。もう少し慣れてきたら、珈琲を淹れる練習もしてみましょうね」


「……ふん」


 古谷が穏やかに微笑みながら珈琲を飲むのを眺め、リヴィアスはふうっと小さく息をついた。慣れない接客とはいえ、少しずつ人間界に順応している自分に何とも言えない違和感を覚える。そんなときだった。ドアベルが激しく鳴ったのは。


「い、苺ショートケーキはありますか…っ」


 以前にも何度か見かけた女性客が駆け込むように入ってきた。その目は真っ赤に腫れていて、メイクは少し崩れている。だが、そんなことを気にする余裕はないとでも言いたげな様子だった。


「はい。ちょうど今朝焼いたばかりのものがありますよ」


 葵は僅かに目を見開いたあと、にこやかに頷いた。


「ください!一つ…いや、二つ!あとミルクティーも!」


「かしこまりました」


 女性はどこかふらふらした足取りで、窓際のテーブル席に崩れるように座った。その姿をカウンターの内側から見ていたリヴィアスが、ふっと眉をひそめる。


「……人間というのは、泣きながら甘いものを食べるのか?」


「慰めになるから、ですよ。甘いものを食べると癒されるような気持ちになるんです」


「…ふぅん」


「ではリヴィ、ケーキの準備をお願いします。私はミルクティーを淹れますね」


 注文の品を用意し、それをリヴィアスがテーブルへと運ぶ。女性はフォークを握りしめ、大きな一口でケーキを頬張った。口いっぱいに甘さを広げながら、涙がぽろぽろと落ちる。


 彼女は何度かセピアに来ていた女性だが、ここまで感情を露わにしているのは初めてだった。


「……見苦しくてすいません…。他にお客さんもいるのに…」


 ケーキを食べて、ミルクティーを飲んで。しばらくして、彼女は掠れた声で呟いた。


「……わたし、婚約破棄、されたんです」


 カウンターの内側で、葵とリヴィアスは顔を見合わせた。


「理由は…可愛げがないから、ですって。仕事のことばっかりで、女らしくないって…。…ああもう!何なのよ、可愛げって…!仕事を頑張ることの何が悪いの…!」


 フォークが皿にぶつかる音が響いた。


「わたし、頑張ってたんです。彼と暮らすために残業も減らして、料理も習って…。それでも、足りなかったって言うの…?」


 彼女の叫びは誰に向けたものでもなく、ただ空中に消えていく。


 そのとき、リヴィアスはカウンターの内側から歩み出た。彼の目は鋭く、その表情は険しかった。


「ちょっ、リヴィ!?」


「……貴様、戦いに敗れたわけでもないのに、なぜそんなに涙を流す?」


「……は?」


「可愛げがない?…くだらん。強き者こそ、真に美しい。努力を否定し、成果を(あざけ)るとは、その男、愚かにも程があるな」


 女性はぽかんと彼を見上げた。異国風の長身の男が、真剣な顔で彼女に言い放っているのだ。


「この世界では、なぜ強き者が『可愛げ』などという曖昧な言葉で判断されねばならない?戦場では戦う者こそが尊敬されるのだ。己を貫いた貴様の方が、その男より百倍価値がある」


「え?え?」


「弱さを演じ、男に媚びることが『可愛げ』なのか?」


「……でも、彼が女はそういうものだって…」


「ならば俺が女とはそうではないと断言しよう。人間どもは勝手な定義を他者に押し付ける傾向がある。全くもって気に食わん」


 静かに、しかし力強く言い放つリヴィアス。その背後から葵がやってきて、穏やかな声で補足する。


「リヴィはちょっと極端ですが、私も彼の意見に賛成です。強い人はそれだけで素敵です。でも、疲れたときは、ちょっと立ち止まってもいいんです。泣くのも、誰かに相談するのも、悪いことじゃありませんよ」


「……ちょっと、立ち止まる…?」


 女性はぽつりと呟き、最後の涙が一つ頬を伝った。


「……そう、ですよね。完璧じゃなくても、いいんですよね…」


 彼女は残っていた苺ショートの最後のひとくちを食べ、深く息をついた。その顔にはどこか、すっきりとしたものがあった。


「やっぱり、苺ショートは裏切らないですね…」


 彼女の呟きに、リヴィアスは神妙に頷いた。


「実は来週、面接があるんです。転職活動中で」


「テンショク?転生ではないのか」


「転職です!転生って、わたし、また死んでませんよ?」


 女性は笑った。その表情はさっきまでの涙とは違い、ほんの少し前を向いた光を宿していた。


「ここに来て、ちょっと救われました。ありがとう。ケーキもおいしかったです」


 そう言って彼女は立ち上がると、深々と頭を下げた。


「それは何よりです。また、来てくださいね」


 葵が微笑むと、彼女は会計を済ませて、店をあとにした。ドアが閉まったあと、リヴィアスは腕を組んで、ふんと鼻を鳴らした。


「可愛げ、か。人間の価値観は全く理解に苦しむ」


「リヴィは可愛げ…あるような気がします」


「ない!俺にはない!」


「そうやって否定するところが、ちょっと可愛いですよ。ねぇ、古谷さん」


「うんうん、そうだねぇ」


「やめろぉぉぉ!」


 喫茶セピアの午後は、ほんのり甘い苺の香りとともに、静かに流れていった。


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