第十二話 勇者と魔王の午後
静かな午後。喫茶セピアの窓辺から差し込む陽光は、深煎りブレンドの香りとともに店内を満たしていた。
カウンター越しで向かい合うのは、かつて戦場で剣と魔力を交わした二人――勇者と魔王。間には、湯気の立つカップが二つ、置かれている。
「……私が君を殺したのは、間違っていなかったと思っていた」
カップを置いた葵の父は、視線を落としたまま言った。低く掠れた声は、珈琲の香りに紛れそうなくらい静かだった。
「だが…今の君はもう、『魔王』ではない」
リヴィアスは何も言わず、深く一口を啜った。口の中に広がる苦味と酸味、その奥に僅かな甘み。勇者と相対したあの日の記憶が、苦味とともに蘇る。
「……お前の剣で、俺は初めて負けを知った」
カウンター越しに、静かに言葉を置く。
「その悔しさが、ずっと俺を縛っていた。お前を倒すまでは終われないと…そう思い込んでいた」
葵の父は黙っていた。だが、その眉間の皺は、僅かに緩んでいる。戦場では交わすことのなかった言葉が、今、珈琲の香りの中で形を持ち始めていた。
葵の父は、手元のカップをそっと撫でた。
あの日、魔王城の玉座で剣を振るった自分が、こうしてカウンター越しに彼と向かい合っている――それだけで現実感が揺らいでいた。
本当に俺は、あのとき、正しかったのか。そんな問いが、今更のように胸の奥で響く。
娘を害するつもりだったのなら、迷わず剣を取ったはずだ。だが、目の前の魔王は柔らかい表情で珈琲を淹れている。その姿は、戦場の怪物とはまるで違った。
ふと、リヴィアスが視線を落とす。カウンターの木目に、過去の血の色が重なって見えた気がして、瞬きをする。あの頃、自分の心は常に戦場にあった。勝つことだけが価値で、それ以外は灰色だった。
――だが今は、湯気の向こうに色がある。濃い琥珀色の珈琲、陽光に輝くほこりの粒、そして葵の笑顔。それらは、かつての自分にはなかったものだ。
窓の外では、小さな子どもが駆け抜ける笑い声が響く。午後の陽射しが少しずつ移ろい、三人の影がテーブルの上で重なった。
「……それにしても、」
葵の父がふっと笑みを零す。
「剣を置いた魔王が、喫茶店でエプロンを着ているなんて、誰が信じるだろうな」
「信じる必要はない。事実はここにある」
リヴィアスは肩を竦め、淡々と答えた。
二人のやり取りを、葵は息を潜めて聞いていた。父とリヴィアス――二人の間に流れる過去と、今の温度差を感じ取っていた。そしてそっとカウンターに歩み寄り、二人の間に手を差し出す。
「……ここから新しく始めるのはどうでしょうか?」
勇者と魔王、二つの視線が交わる。葵の父は一瞬ためらい、そして葵の手に自分の手を重ねた。リヴィアスも、ほんの僅かな間を置いて同じように手を重ねる。
三つの手が静かに重なり合った瞬間、勇者と魔王の戦場の記憶が、少しだけ遠くなった。
窓の外では、午後の陽射しがさらに傾き始めている。葵の父は残りの珈琲を飲み干し、深く息を吐いた。
「悪くない午後だ」
「…そうだな」
リヴィアスは小さく笑い、空いたカップを引き取った。
後日、葵の父はときどき喫茶セピアを訪れるようになった。注文はいつも深煎りのブレンド。カウンター越しに交わされるのは、戦場の剣戟ではなく、珈琲豆の焙煎時間や湯の温度の話。葵は笑いながら二人の会話を聞き、静かな午後を共有していた。
ある日、葵の父が手にしていたのは、小さな箱に入った季節のチョコレートケーキだった。
「珈琲に合うと思ってな」
そう微笑みながら差し出す。リヴィアスはそれをそっと受け取り、切り分けた三つを皿に盛った。
「もう、お父さんったら。喫茶店にケーキを持ち込むなんて」
「すまんすまん。どうしても食べたくなってな」
ケーキの濃厚な甘さと珈琲の苦味が、ゆっくりと店内に溶けていく。その温かな空気の中で、葵はふと思った。もし異世界で父とリヴィアスの戦いがなければ、この穏やかな午後も訪れなかったのだろうか、と。
リヴィアスはケーキを一口味わい、小さく目を細めた。
「……悪くない」
葵の父は優しく微笑み返す。言葉少なでも、戦いの記憶は影を潜めていた。かつて剣を交えた二人の間に、今は珈琲の香りが流れていた。




