第十話 成仏案内人と苦い珈琲
その日、喫茶セピアの空気はどこか冴えていた。いつもと変わらない珈琲の香りの奥に、微かな違和感が混じっているような、そんな感覚。
リヴィアスは開店準備を終えたあとも、カウンターの隅でしばらくじっとしていた。腕が鈍らないようにと淹れた珈琲のカップを指で撫で、ぼんやりとガラス越しの空を見上げていた。
「……朝からしんみりしてどうしたんです?リヴィ」
葵が声をかけると、リヴィアスは少し驚いたように瞬きをして、しかしすぐに口角を上げた。
「いや、なんとなく…いつもより空気が軽く感じられてな」
「……それ、成仏の前兆じゃないですよね?」
揶揄うような葵に、リヴィアスは肩を竦めた。
「さあな。冗談に聞こえなくなってきたのが困るが」
そんなやり取りをしていると、ドアベルが鳴った。不自然に冷たい空気が、流れ込んできた気がした。
入ってきたのは、ハットを被りスーツを着た初老の男性。そう、初日以来の成仏案内人の男性だった。
「やあ、ひさしぶり。順調にやっているようだね」
彼は葵とレヴィアスに挨拶をし、カウンターへと歩みを進めた。
「……ご注文をお伺いします」
リヴィアスは成仏案内人相手でも丁寧に接客する。しかしその表情には渋々といった様子が現れており、口元が引きつっていた。
「ホット珈琲を。苦味がしっかりしたもので頼むよ」
「かしこまりました」
リヴィアスはいつも通りの手際で珈琲を淹れながら、葵に小声で言った。
「成仏案内人のあいつ、一体何しに来たのだ…?」
「……本当に『そのとき』が来たってことですか…?」
やがてリヴィアスは、丁寧に淹れた珈琲を目の前に差し出す。
「……どうぞ」
成仏案内人は一口飲み、小さく頷いた。
「味覚補正をしていないのに、これだけの深み。…うん。情緒更生プログラムの成果が出てるみたいだね」
「で?お前が来たということは、俺は成仏するということか?」
リヴィアスは無表情の男を睨むように見つめながら、問いかける。
「正確には予告、だね」
成仏案内人は懐から銀色の小型端末を取り出した。それはどんな現代のデバイスとも異なる、無機質で霊的な雰囲気をまとっていた。
《リヴィアス・ルフ・デウス。情緒更生プログラムは最終段階に入りました。あなたは現在、成仏判定:保留の要因の大部分を解消しています》
それは、リヴィアスの成仏を保留と言いつけた、あの無機質な声だった。静かに、しかしはっきりとその場の空気が変わった。
「……そうか」
淡々と受け止めたように見えたが、その直後、彼はぽつりと呟いた。
「――まだ、成仏はしたくない」
その言葉は、珈琲の湯気のように、ふっと空気に溶けた。リヴィアス自身も、なぜ口に出したのか分からないような顔をしていた。
「……ここで、怒りも、哀しみも、少しずつ手放してきた気がする。だが、それだけじゃない。今の俺には、『惜しい』ものができてしまった」
成仏案内人は、その反応を見つめている。記録しているのか、ただ観察しているのか、判別がつかない。
葵はゆっくりとリヴィアスの隣に立ち、いつもの笑顔で言った。
「じゃあもう少しここにいてください。誰も追い出したりしませんから」
その声にリヴィアスは僅かに目を見開き、そして照れ隠しのように小さく咳払いをした。
「……ふん。そう言われる筋合いはないが…善意として受け取っておこう」
成仏案内人は、端末をしまいながら笑った。
「随分と丸くなったね、君。良い傾向だ。このまま順調にいけば、次は成仏通知になる予定だよ。その日までに、心残りがないようにしたまえ」
そう言い残して、彼は珈琲代を置いて出て行った。ドアベルが鳴る。まるで風が通り過ぎたように、店内が静かになった。
「……リヴィ、いつかは行ってしまうんですよね。よく働いてくれてるから、すっかり忘れていました」
「…そうだな。俺も忘れそうになっていたくらいだ」
そう言ったリヴィアスの表情は、ほんの僅かに寂しさと苦さを帯びていた。カウンターに残る珈琲の香りが、二人を慰めるように静かに漂っていた。




