第一話 情緒更生プログラムへようこそ
「これで終わりだ…!倒れろ、魔王…!」
「ぐあぁぁぁあ!!」
魔王は勇者の渾身の一撃を受け、断末魔の叫びを轟かせた。
人間族と魔族の争いがいつから始まったのか定かではない。しかし先代の魔王もまた、人間族から魔族を守って散っていった。魔族の頂点に君臨してから何百年も続けた戦いが今日で終わると思うと悔しかったが、それでもどこか戦い続けることに疲れていた事実に、魔王は死に際に気が付いた。
勇者に倒された魔王の魂は、純白の空間に漂っていた。周囲には何もない。浄化の力で、自分が魔王であったことさえ忘れてしまいそうになる。けれど彼の中には、純白の中でも消えない強烈な感情が一つだけあった。
(――人間族になどに負けて、悔しい)
それが、魔王の魂を純白に留めている感情だった。そのとき、純白の空間に無機質な声が響いた。
《リヴィアス・ルフ・デウス。あなたの成仏判定は『保留』とされました》
(……なんだ?)
魔王リヴィアスが響いた声の意味を図りかねているところに、ハットを被りスーツを着た初老の男性が現れた。
「成仏するには、君はあまりにも情緒が未成熟だ。……まあ、戦いばかりの日々に明け暮れていたことを鑑みると、それもやむを得まい」
(貴様は誰だ?)
「なぁに、君の成仏案内人だとでも思ってくれたまえ。そして君は、成仏のために情緒更生プログラムへの参加が決定した」
(なんだと!?なんだそれは!?そんなもの俺には必要ない!)
「必要があるから参加が決定したのだよ。君の意見は関係ない。これは『裁定』なんだよ」
初老の男性が魔法をかけるように指を動かすと、リヴィアスは妙な浮遊感を感じた。
(おい!貴様!何をする気だ!)
「情緒更生プログラムに送るだけさ。安心したまえ」
(安心できるか!おい!やめろ!)
ぐるぐると振り回されているような不快な浮遊感が続く。それと同時に、魂から魔力を無理やり引きはがすような痛みがリヴィアスを襲う。
(――ぐ、ぐあぁぁぁあ!!)
回転する視界が暗転したかと思えば、いつの間にかリヴィアスは、年季の入った建物の中に立っていた。壁や家具にはローズウッドの木材があしらわれ、室内やテーブルはオレンジ色の照明に包まれている。全体が落ち着いた色味で統一されていて、不思議と落ち着く場所だった。
それに、室内に漂うナッツのような香ばしい香りが心地よい。その香りがする方へと視線を向ければ、一人の女性がカウンターで珈琲を淹れていた。その女性が、ふと顔を上げて――。
「……え?いつ入ってきたの?」
驚きに目を見開いて、問いかけてきた。
「え?ドアベル鳴ってなかったよね?え?――っと、失礼しました。いらっしゃいませ」
「……貴様、この俺が見えるのか?」
「はい?ええっと、お客様、ですよね…?」
微妙に会話が嚙み合わない。
(え?お客様じゃない?え?じゃあ誰?)
長い艶やかな黒髪に、涼しげな切れ長の目。どこかの国のハーフと言われても納得できる美貌の客らしき人物。その女性は、困惑した表情でリヴィアスを見つめていた。
「――貴様もあの成仏案内人などと抜かす男の一味か?」
低い声に鋭い目つき。リヴィアスに睨まれた女性は、びくりと肩を震わせる。
「…あの、おっしゃっている意味がよく分からないんですが…」
「なんだと!?殺されたいか!?」
「ひぃっ」
なぜ突然現れた男に自分は脅されているのだろうか?激しく混乱しながらも、その女性はどこか冷静に状況を把握していた。
「わ、私はこの喫茶店の店主です!小早川 葵と申します!」
「喫茶店?」
「はい!ここは『喫茶セピア』です!そしてあなたは誰ですか!」
混乱した勢いで喫茶セピアの店主、葵はリヴィアスの正体を尋ねる。するとリヴィアスはふんぞり返った態度で、葵を見下ろした。
「俺は魔王だ。魔王リヴィアス」
「ま、まおう…?」
――なんかやばい人が店に入ってきた。このときの葵の心情だった。
「ようやく自己紹介ができたね。彼女が君を更生してくれる講師だよ」
「何っ!?」
「ひぇあ!」
突如として二人の間に割り込んできた声。これまたいつの間にか店の一番奥の席に座っていた成仏案内人の男が、二人を見て微笑んでいた。
「こんな小娘が講師だと!?そもそも俺は更生する気などない!」
「そういう反抗的な態度はいけないよ?君はもう、何の力もないただの魂なのだから」
「き、貴様…!」
「葵くん、騒がしくして申し訳ないね。そういうわけだから彼をしばらく預かってくれないか?」
「いや、どういうわけか全く分からないです」
『あれ?説明できてなかったかな?』と成仏案内人はとぼける。そして改めて彼女に状況を説明した。リヴィアスの魂を浄化するため、彼の情緒を更生させてほしい、と。
「……まだ頭の整理が追いついてないんですが、その、魔王さん?は幽霊なんですか?」
「うん、この世界ではそうとも呼べるね」
「その幽霊を預かって、この店で働いてもらえばいいんですか?」
「そうだよ。理解が早くて助かるね」
「……はい?むりむりむりむり!なんで私が魔王の情緒教育をしないといけないんですか!」
「大丈夫。葵くんのおばあちゃんもやってくれてたことだから」
「え?おばあちゃんが?」
葵の祖母とは、喫茶セピアの先代の店主である。そういえば時折、『不思議な客』が来るとか来ないとか話していたような。
それから『はい』と成仏案内人から葵の手に冊子が渡される。『成仏転生局・情緒更生プログラムマニュアル第五版』。
「おい!俺を放ってなぜ話を進めているんだ!俺はやらんからな!」
「全く君は大声を出さないと話せないのかい?これは君にとっても良い選択だと思うがね。成仏できなければ、一生、生まれ変わることなく、魂が朽ちて消えるだけだよ?」
「く…っ。そ、それは嫌だ…っ」
大声を指摘されたからなのか、リヴィアスの声が少し小さくなった。
「だったら素直に情緒更生プログラムを受け入れなさい。葵くんの役に立ちながら、成仏できるようになる日まで修行しなさい」
「くそ…っ」
渋々感がかなり強いが、どうやらリヴィアスは更生プログラムを受け入れたらしい。あとは葵が受け入れるだけなのだが。
「どうだい、葵くん。できそうかい?」
「……口の悪いアルバイトを雇ったと思えばいいんですよね。だったら大丈夫だと思います!」
「おお、頼もしい」
意外と図太い――いや、適応能力の高い葵だった。
「じゃあ、はい。このエプロンを使ってください」
カウンターの奥から黒いエプロンを取り出して、カウンター越しにそれをリヴィアスに渡す。
「……この俺が、人間と一緒にいる羽目になるとは…」
ぶつぶつ言いながらもしっかりとエプロンを受け取るリヴィアス。
「なんだこのペラペラした布は!」
「エプロンですよ。あ、着け方が分からないですか?まずエプロンを広げて腰に当てて…」
「……う、うん?こうか?」
(あ、意外と素直に身に着けるんだ)
葵に教えてもらいながら、なんとかエプロンを着用した。
「…うん。エプロン似合ってますよ、魔王さん」
「う、うるさいな!魔王様と呼べ!」
「葵くん、葵くん。彼のことはリヴィって呼ぶといい」
「分かりました!改めてよろしくお願いします、リヴィ!」
「気安く呼ぶな!」
かくして、魔王リヴィアスの情緒更生プログラムは始まったのだった。




