第5話 最低最高の真実
おかしい。
どうしてだろう。
――気づけば私は、夜風の吹く歩道の上に立っていた。
「いつの間に外に……自分で歩いて出た気がしないんですが…………」
頬に触れる風が冷たく、夜の街灯がじわりと目に滲む。
自分で歩いて出た覚えなんて、まるでない。
なのに足の裏には確かにアスファルトの感触があり、手にはスマホが握られていた。
画面を覗いてみると、時刻は22時15分。
「あぁ……もう帰らないとです。早くバス停に行くとしましょう」
頭がぼんやりしていた。
何も考えられないまま、足だけがバス停の方へ動く。
まるで誰かに導かれているように。
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夜行バスの窓に、街の灯が流れていった。
ガラス越しに見える光が滲み、いくつも尾を引いていく。
目を閉じても、彼女の声が耳の奥から消えてくれない。
夢の続きのような、覚めた現実のような、不思議な夜だった。
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家に着いたころには、東の空が薄く白み始めていた。
鳥の鳴き声が遠くで響く。
私は家族を起こさないよう、そっと玄関を開ける。
冷たい空気が足にまとわりついた。
浴室のシャワーで身体を洗い流したあと、布団には向かわず、そのまま部屋のカーペットに倒れ込む。
床のひんやりした感触が、少しだけ現実を取り戻させてくれた。
だが――
「おかしいです。バスの中でも一睡も出来なかったのに、まだ眠くありません…………」
もちろん眠れない理由は明確である。
それは昨日、シオンちゃんの声を間近で――それもリアルで聞いたせいだ。
……本来、こんなことが起きることなんてない。
愛しの推しは、私を名指しで呼んでくれたのだ。
しかもそれだけに留まらず、彼女は私に「学校へ行こう?」と願ってくれた。
普通ならば、お金を払ってスーパーチャットでも払わない限り、絶対に私に眼を向けてくれない、神様のような相手である。
そんな子が私と――
「なんて私は贅沢なんでしょうか。神様は実在したんですね……」
胸の奥がくすぐったくて、頬の筋肉が勝手に緩んだ。
私は両手で顔を包み込み、ひとりでくるくると布団の上で小さく跳ねた。
天野シオンちゃんが私の名前を呼んでくれた。
それだけで世界が光に包まれるような幸福感があった。
――だけど。
「……じゃ、ないでしょうがッ!!!」
反射的に叫び、頭を勢いよく床に打ちつけた。
ドン、と鈍い音が部屋に響く。
「彼女は月宮さんであって、天野シオンちゃんじゃありません!!!あれは幻聴なんですううううぅぅぅ!!!!」
さらに二度、三度。
額に走る痛みと、頭の中の衝撃が同時にじんじんと広がる。
目の奥が熱く滲み、呼吸が荒くなっていった。
「はぁ……はぁ…………」
もうなんでこんな事をやっているのか、自分でも分かっていない。
たぶん――いや、絶対に無理やりでも寝るべきなんだと思う。
でも、それはできない。
眠れるならそうしてるし……
『学校に行こうよ』
それにどうしようもないくらい、シオンちゃんとしか思えないあの声が、頭に響いて仕方ないのだ。
これが幻聴or暗示or催眠術のどれか――もしくはAiで生成された音声なのは分かりきってるのに、それでも私は……頭に焼きついた推しの声を否定できなかった。
「学校に……行こうよ…………」
私はうわごとのように呟いた。
……そういえば、あの時は泣いて怒ってしまったけど、月宮さんは私の事を心配してああ言ってくれたんだと思う。
推しの声が尾を引いているのはあるけど、このまま学校から逃げ続けて、初めてできた友達に嫌われるのもすごく嫌だ。
遠い地で暮らす彼女に、次は胸を張って会いたいという気持ちは、無いこともない。
……ここは覚悟の決め時なのだろう。
「お姉ちゃん、いつの間に帰ってきてたの?! っていうか、今の音は何!!??」
そんな事を考えていると、戸が勢いよく開かれ、明日菜が寝巻き姿のまま飛び込んできた。
髪は寝癖でふわふわに広がり、目は半分眠たげ。
どうやら起こしてしまったらしい。
「……あれ、明日菜ですか。…………ノックくらいして下さいよ」
私はそう言いながらうつ伏せの姿勢から、正座に座り直した。
「部屋から大きな音がしたんだから、そんな――え?、なんでお姉ちゃんは頭から血を流してるの!?」
「え?」
思わず額に手をやると、ぬるりとした温かい感触が指先にまとわりついた。
見ると、指の腹が薄紅に染まっていた。
「……ほんとだ」
少し強く打ちすぎたのだろう。
こんなのは擦り傷程度――痛みより、むしろ頭の中で鳴り響く推しの声の主張の方が激しかった。
「そこでじっとしてて! すぐに傷バン持ってくるから!!」
明日菜は慌てて部屋を飛び出そうとする。
だが、その小さな背中を見送る前に――どうしても伝えたいことがあった。
「あぁ……ちょっと待ってください――大事な話があるんです」
足を止めた妹が、振り返る。
「大事な話?」
「はい」
私は大きく息を吸って、ゆっくりとそれを吐いた。
これから口にする事は、自分では重すぎて簡単に言い出せることではない。
でも一応は決めたんだから、しっかり家族には伝えないと。
「……ごくり」
明日菜は私の顔を見て、何かを察したようだった。
戸口から戻ってきて、私の正面に正座する。
眠気の残る顔に、真剣な光が宿っていた。
その視線を受け止めながら、私は静かに言葉を紡いだ。
「私は今日――学校に行ってみようと思います」
そう告げると彼女は少しの時間、顔が固まった後、ゆっくりと驚きの表情へと切り替わった。
「えええええぇぇぇぇぇッッッ??!!!!!」
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朝の6時半。まだ陽が柔らかい光を放ち始めたばかりの玄関前。
靴を履こうと屈む私の背後に、お母さんと明日菜が並んで立っていた。
「茜……本当に大丈夫? 何か悩みがあるなら聞くわよ?」
「おかしいよ、絶対におかしい。たぶん頭が本当におかしくなっちゃったんだと思う」
「2人揃って失礼すぎですよ。折角、不登校を辞めようとしているのに、なんで水を刺してくるんですか……」
私が呆れた声で言うと、ふたりは目を合わせて、まだ半信半疑の表情を浮かべた。
「だってお姉ちゃん、まだこの時間だよ? 今から行ったって誰もいないと思うし、なんで学校に行くなんか突然言い出したのかも分からないし」
……まぁ、確かに唐突だったかもしれない。
だけどお母さんさん達も、私がぶいフェスへ行く前に、こうなってくれる事を望んでいた筈だ。
2人の思惑通りに事が運んだのだから、もっと喜んでくれても良いとも思う。
「今日はただのお試しですよ。誰もいない教室を見て、ゆっくりと慣らしていこうと考えての事です」
「えぇ……?」
「偉いわ、茜。その調子で良いから、ゆっくりと歩いて行きなさい」
妹はまだ戸惑っている様子だが、お母さんはこの変化に好意的だ。
「ありがとう、お母さん」
私は小さく笑いながら、玄関のドアノブに手をかけた。
「――行ってきます」
そして私は玄関の扉を開けた。
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バスの車窓から見える街は、いつもより少しだけ明るく見えた。
制服を着た学生たちの群れを避けるように、早い時間の便を選んだおかげで、車内には老人と数人の社会人しかいない。
エンジンの低い振動が足元から伝わるたび、胸の奥の緊張も同じリズムで揺れていた。
そしてバスを降りて、少し歩いて学校に着いた。
校門をくぐり、学校用の靴に履き替えて廊下を進む。
あまりの人気の無さから、私は一言呟いた。
「やっぱり時間が早いから、あんまり人はいないようですね」
でも好都合。
私は基本的に人の群れの中にいたくない。
だからこれぐらい静かな方が良いのだ。
フェスを除いてだけど。
私は手すりに軽く指を添えながら、階段を三階まで上がった。
足音が古びた木の床に吸い込まれていく。
「ここ……だったはずです」
別に懐かしくもない扉の前で立ち止まり、深呼吸を一つ吐く。
……今日は一度教室の中を見て、それから今後を決める。
もし中を見てダメそうと直感的に思ったなら、このまますぐに帰ってしまえば良いし、いけそうだったら普通に学校へ通い直せばいい。
暫くは目立つだろうけど……
私は静かに引き戸へ手をかけた。
金属の軋む音とともに、扉がわずかに開く。
「え――うそ……そんなわけが…………」
あまりの光景に言葉が途切れた。
窓辺に、一人の女の子が立っていた。
肘をついて朝日を浴びるその姿は、どこか絵画のように穏やかで、それでいて現実離れして見えた。
長い黒髪の先に、青のメッシュが光を受けて煌めく。
その後ろ姿を――私は忘れたりしない。
「つき……みや…………さん…………?」
彼女は引き戸が開いた音に気づき、ゆっくりとこっちに振り向き、私の顔を見て唇の端をわずかに吊り上げた。
「正直、来ないもんだと思ってた」
囁くような声で、微かな挑発を含んだ笑みを浮かべる。
「でも私がお願いすると本当に来てくれるんだね」
月宮さんのその声は、会場やカフェで聞いたモノとは違う。
柔らかく、芯があって、息づかいのひとつひとつが推しそのもの。
……愛しい声が耳に届くたび、胸の奥がひどく熱くなる。
「おはよう、茜ちゃん」
月宮さんはゆっくりと窓辺を離れ、こちらへと歩いてくる。
まるで現実と幻想の境界線を踏み越えてくるみたいに。
「月宮さん……ですよね…………?」
「そう、私の名前は月宮 詩音」
その名を名乗る声はまっすぐで、静かに空気を震わせる。
そして彼女は、ほんの数十センチの距離まで近づき、足を止める。
息がかかるほどの距離。
瞳の奥に、自分の姿が小さく映っている。
「わっ!」
私の心臓が跳ね、反射的に一歩下がった拍子に、足がもつれて尻餅をついてしまった。
彼女はそんな私を見下ろして、小さく吹き出した。
そして膝を折り、そっと手を差し出す。
「そして――天野 シオンって名義でVtuberをやってる、普通の高校生でもある」
教室に差し込む陽の光が、私達の影をひとつに重ねる。
差し伸べられた指先が白くて、柔らかそうで、どこか現実味を欠いて見えた。
「……んふふふ。このシチュエーション、こうも完璧に決まると流石に面白いね」
そう言いながら彼女は、魅惑的な笑みを浮かべた。




