第4話 情報量が多すぎます!
……これが月宮さんとのお別れになるのか。
胸の奥で何かが崩れ落ちていく音がした。
私は、彼女に対して自分でも引くほど酷い怒り方をしてしまった。
たぶん、もう二度と会ってくれない。
しかも、最後に「ありがとう」も「またね」も言えなかった。
「……ぅぅ……ひっぐ…………」
涙は止まらなかった。
頬を伝い、手の甲を濡らし、テーブルの木目を滲ませていく。
頭の中で何度も後悔が反響し、呼吸が浅くなる。
――そんな時だった。
バンッ、と扉が勢いよく開く音が、空気を震わせた。
私はそれを聞いていたけれど、顔を上げることもできず、
ただ机に突っ伏したまま、小さな嗚咽を漏らし続けた。
足音が近づいてくる。
一定のリズムで、まっすぐこちらに向かって。
コツ、コツ、コツ――。
それが自分の席の真横で止まった瞬間、背筋がぴんと強張った。
「…………」
誰なのか確認する勇気は無い。
でも、確かにそこに人がいる。
鼓動が早鐘のように鳴る中、ふいに両肩にそっと手が置かれた。
そしてその人物は、私の耳元へ顔を寄せ、囁くように言葉を落とした。
「藤崎 茜ちゃん、私と一緒に頑張って学校に行こうよ」
――その音が聞こえた瞬間、涙が一気に引いた。
この声を、私は知っている。
何百時間も聞いてきた。
笑うときの息づかいも、歌うときの抑揚も、全部。
世界でいちばん大好きな声。
推し――天野シオンちゃんの声だ。
「シオンちゃんッ!!!!」
私は椅子を引き倒す勢いで顔を上げ、振り返った。
心臓が破裂しそうなほど高鳴っている。
けれど、そこに立っていたのは――
「つ、月宮さん?!もう帰ったんじゃ……」
……え、おかしい。
謎の状況すぎて頭の中が、殆ど真っ白になった。
今の声は間違いなく“あの”シオンちゃんの声だった。
でも、目の前にいるのは――さっき帰ったはずの月宮さん。
幻聴?
いや、そんなはずない。
私が知るシオンちゃんの声は、世界でいちばん正確に聞き分けられる。
配信で一度でも聞いた声は、鼓膜の奥に焼き付いているから。
どんなノイズ混じりでも、絶対に聞き違えたりなんてしない。
じゃあ今のは……何?
思考が暴走しそうになる中、月宮さんは平然と口を開いた。
「まだ話は終わってないからね。金原さん振り切って戻ってきちゃった――と言っても、たぶん1分もしないうちに連れてかれるけど」
そう口にした彼女は、いつもと変わらないミ◯キ◯声だった。
「まぁでも……ここで最後のお別れになって、暫く会えないのは勿体無いし、茜ちゃんには約束を果たしてもらわないとね」
「やっ、約束?! 一体なんの話ですか??」
私がそう聞くと月宮さんは帽子に手をかけた。続けてサングラス、そしてマスクを外していく。
顕になった顔を見て、私は息を呑んだ。
——美しい。
なぜこんな顔を隠していたのか、まるで理解できないほどの美貌だった。
「んふふふふっ。……茜ちゃん、もしかしてさっきの声でも分からなかった? 鈍いね〜」
月宮さんは口元を手で隠しながら、くすくすと笑った。
その瞬間——脳内で何かが繋がる。
これまでの月宮さんの言葉、仕草、声が。
それらがパズルのピースのように、漸くカチカチと音を立てて嵌まっていく。
「はっ? ……な、なな、何を言っているんですか。わ、わた、私は貴女の言っていることがががっ、まっ、全く……理解できませんんん!!」
喉が焼けるように熱く、舌がもつれて思うように言葉が出ない。
だけど脳裏にはすでに、彼女の言葉が何度も何度も反響していた。
……嘘だ、ありえない。
そんな偶然があっていいはずがない。
嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ
嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ
嘘だ嘘だ嘘だ。
そんなわけがない!
これは絶対に何かの間違えなはず。
絶対にありえない。
あるはずが……あるはずが――
「……あー、混乱してるんだね」
月宮さんは一歩、近づいてきた。
そして、逃げる間も与えずに両手を伸ばし、私の頬を包み込む。
冷たい指先が肌に触れた瞬間、心臓が跳ねた。
「じゃあもう一度――次はちゃんと、脳に分からせてあげるね」
息が耳にかかる距離。
彼女の唇がほんのわずかに動くたび、微かな吐息が肌を撫でた。
その声が、空気を震わせ、私の鼓膜を貫く。
「今日は楽しかったよ、茜ちゃん。次は学校で会おうね」
その声はまるで、時間の流れそのものを引き延ばしていた。
一音ごとに空気が震え、世界が粘ついた蜜の中を泳ぐように、ゆっくりと動いていく。
私の脳はそれを「言葉」としてではなく、衝撃として受け止めていた。
冷水を浴びたような――いや、それどころじゃない。
電気を直接、頭蓋の内側に流し込まれたような感覚だった。
思考が焼かれ、神経が弾け、視界の端が光で滲んでいく。
どくん、と心臓が鳴る。
脳が全力で処理を試みるのに、言葉が意味を結ばない。
それでも――脳が最低最悪な解釈をしてしまった。
この声が誰のものなのかはもう、決定的である。
「あぅ〜……」
気づけば口の端から涎が垂れていた。
体は震え、全身の感覚が妙に熱い。
あぁ、もう……私の中の“現実”という枠が、ゆっくりと溶けていく。
「――じゃ、また明日!」
その一言が刃のように空気を裂いた。
彼女は微笑み、私の頬から手を離し、軽やかにスカートを翻す。
ドアのベルがカランと鳴り、残響だけが店内に取り残された。
「ああ…………あああ……ぅぅ」
私の頭の中で月宮さんの声が脳内で反響する。
その音は紛れもなく、天野シオンちゃんそのものだった。
私が彼女の声を聞き間違えることなど、絶対にありえない。
「そんな……こんな事がある筈が、そんなわけが……!!」
夢かもしれない。
だってありえないでしょ……
月宮さんの正体が天野シオンちゃんって!!!
いや、でもそう考えたら私が普通に月宮さんと会話出来るのにも、ある種納得がいくかもしれない。
だって、今までまともに友人が出来たこともない私が、唯一の最推しと会話出来る。
それはまるで永遠に眠り続ける美女が、王子様のキスで目覚めるような——そんな奇跡。
でも! だけど!!!!
「あああああああああああああああ!!!!!」
私の脳はオーバーヒートを起こした。




