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【没】  作者: 中毒のRemi


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第1話 入学1週間で不登校になる女の子

「ふ、ぁ……く、ぅ……っ」

 

 全身の骨が熱い液体にでもなったかのように溶けていく。

 膝が意思に反して折れ、立っていることさえままならない。

 私はその場に崩れ落ちるように、ざらついたアスファルトの上に膝をついた。

 

 それと同時に月宮さんは満足したのか、私の首からゆっくりと牙を抜いた。

 

 拘束が解かれ、私はぜえぜえと肩で息を繰り返す。

 肺が酸素を求めるのに、うまく吸い込めない。


「……いい顔してるね」

 

 後ろから聞こえてきた声が、甘く冷たい。

 月宮さんは私の首筋に指を滑らせたあと、ゆっくりと前へ回り込み、目の前に立ちはだかった。

 視界に彼女の靴のつま先が映り込む。


 私はその靴を睨むことしかできなかった。

 悔しさとも、羞恥ともつかない熱が、喉の奥を焦がしていく。


「どう? 私のガチ恋なら、これはよく効くんじゃない?」

「…………月宮さん……貴女は、はぁ……頭が、おかしいですよ。周りに……これだけ人が歩いてるのに、噛みついてくるなんて……」

「ふふっ、そうだね、そうかも。……でもVtuberは頭のネジが外れてるくらいの方が大成するんだよ。それに茜ちゃんはそんな私の事が、好きだもんね?」


 月宮さんは楽しそうにそう言うと、膝をついたままの私の顎に、すらりとした指を伸ばしてきた。

 

「……私が好きなのは月宮さんじゃなくて、シオンちゃんです。……そこを勘違いしないでください」

「う〜ん、そんな生意気な事を言ってるけど――」


 そして冷たい指先が肌に触れ、強制的に私の顔を上向かされる。

 逃れることのできない距離で、勝ち誇ったような彼女の紫紺の瞳と視線が絡み合った。


「――でも顔と体は正直みたい」

「…………」

 

 唇の端を上げて笑うその顔が、どうしようもなく癪に障る。

 私は心の底からの苛立ちを込めて、その完璧な美貌を睨みつけた。


「その顔、私は結構好きだよ」


 ほんっっとに……

 彼女の余裕の笑みがムカついてしょうがない。

 

 ……月宮さんはどうしようもないほど馬鹿だ。

 そしてそんな馬鹿女に私は、救いようのないほど依存している。

 

 ――いや、違った。

 正確にはV()t()u()b()e()r()()()()()()()に依存している、だった。

 

 これは最低で、終わっていて、狂っていてどうしようもない関係である。


 本当に誰でもいいから。

 どうか、こんな愚かな私を救ってくれる人はいないだろうか…………


 


 


 ◇△◯





 

 人が生を謳歌するためには、役割を持たなければならない。

 ――そういう研究があったはずだ。

 たとえば「ネズミの楽園」実験。

 餌も住処も与えられた環境で、やがて彼らは繁殖をやめ、静かに滅びたという。


 中学生のころの私は、まさにその中のネズミの一匹だった。

 誰にも必要とされず、居場所もなく、ただ日々を消費するだけの存在。

 自分を卑下することが呼吸みたいに当たり前になり、負け組としての時間を過ごしていた。


 ――♪「きみの声が きみのままで 誰かを照らしている」


 小学校でのトラウマから、中学では友達が作れず一人で孤立し、誰かとタッグを組めと言われても組む人がおらず、先生とペアになってしまう自分。

 お母さんに買い物を頼まれても、人前に出るのがあまりに怖い――というかストレスになり、仕方なしにいつも冷めた目で見てくる妹を付添わせて、やっとの状態で外に出ていた自分。

 家族以外の他人と話すのに、寿命の前借りをしている気分になりながらも必死に取り繕って、なんとか会話を合わせようと頑張り、それを継続する体力がなくどこかで生活が破綻してしまう自分。


 …………本当に、本当に……こんな自分が大っ嫌いで、中学2年生までは自殺してやろうかとさえ思った。

 でも、今は違う。


『だから泣かないで 生きて、生きて』


 スマホのスピーカーから流れるその一節が、胸の奥を掴んで離さなかった。

 

 何度も聞いたはずなのに、早朝の静けさの中で聞くと、まるで別の歌みたいに響く。

 今日が特別な日だからだろうか。鼓動の音まで、どこか浮き立っていた。

 

「シオンちゃあああああああああん!!!! 今日も百億倍愛してますうううううううう!!!!!!」


 私は布団の中で身を起こし、スマホをぎゅっと抱きしめる。

 画面の中、ステージライトを浴びた彼女が笑っていた。


 スマホの中で元気に歌い続けている彼女の名前は、天野シオン。

 ワールドピース株式会社が運営するVtuber事務所【ぶいれいん】の2期生だ。

 

 容姿は、白髪に赤のメッシュが入ったくらげみたいな髪。

 設定は吸血鬼。

 ダウナーな声に刺々しい口調。

 普段の活動は主にゲーム配信が中心。


 性格と口は悪い方だけど、それとは打って変わって、メンバーを気づかう優しさを隠しているし、仕事熱心なところが超良い感じの――ぶいれいんで1番売れてる私の最推しの女の子だ。


「シオンちゃん……!私は外に出るのが怖いですけど、明日からのぶいフェスは絶対に行きま――」


 そこまで言いかけた瞬間だった。


「お姉ちゃん!」


 私の部屋の戸が、バシッと大きな音を立てて開かれた。

 空気が震えたせいで、スマホを落としそうになる。


「ひゃいッ!…………って明日菜ですか、驚かさないで下さい」


 藤崎(ふじさき)明日菜(あすな)

 

 今年で中学三年生になる、私の妹だ。

 身長は私より少し低い。

 髪は肩までの黒髪で、いつも寝癖を残したまま学校へ行く、少しだけズボラな妹である。

 

「……お姉ちゃん、今日って何の日か知ってる?」


 妹の無表情のまま言うその声に、少しだけ棘を感じる……が、気にすることのほどでもないだろう。

 

「ふふ、それは舐めすぎですよ。今日は――ぶいフェス当日、前夜祭がある日です!!」


 私は勢いよく布団から飛び出し、スマホを突き出した。

 液晶には【ぶいれいん】のイベントホームページ。

 ステージの告知画像の中央には、シオンちゃんの姿。

 指でその顔をなぞりながら、私は微笑みながら妹を見上げた。


「明日菜の方からその話題を持ち出してくるとは思いませんでしたよ。血は争えないって事なんですね……」

「…………」

「ですが!シオンちゃんを好きになるのだけは許しません!!……私は同担拒否なので、身内に同じ子を推してる人がいるのを絶対に許せないんです」


 ぶいフェスとは、ぶいれいん所属のライバーたちが一堂に会し、ライブやトーク、展示やファン交流まで行われる、年に一度の夢の大舞台である。

 これは画面越しでしか会えない推しと、同じ空気を吸える奇跡の日。

 私にとっては、そこへ向かうことそのものが人生の大冒険だ。

 ……だから、明日菜がこの話題を切り出してきたのが、少しだけ嬉しくも思う。


 だが私は同担拒否である。

 推しを“共有”するなんて、愛の純度が薄まる行為だ。

 なので、妹がシオンちゃんを好きになることだけは絶対に許せない。


「というわけで一応、明日菜の推しの名前を聞かせ――ぐふっ?!」


 言い終えるよりも早く、胃のあたりに衝撃が走った。

 何をトチ狂ったのか、妹はノータイムで私の腹を蹴り上げてきたのだ。

 鈍い痛みが体の芯まで響き、私は布団の上に崩れ落ちる。


 息が詰まり、視界が揺れる。

 

 そのすぐ目の前で明日菜は冷えた表情のまま、私と視線を合わせるようにしゃがみ込み、スマホの画面を突きつけてきた。


 そこに映っていたのは、無機質なカレンダーアプリだった。


「今日は5月14日木曜日、朝の6時45分。……お姉ちゃんが高校入学とほぼ同時に不登校になって、一ヶ月の記念日だよ?」

「…………うっ……ぅぅ、痛い……」

「お姉ちゃんはいつになったら学校に行くのかなぁ? 私は将来が心配で心配で仕方ないんだけどな〜?」


 その声に感情はなかった。

 まるで、冷え切った氷柱が喋っているような声色である。

 私の部屋の空気まで、それに釣られて冷たくなった気がする。


「行きません……学校なんか絶対に!」

「どうして?」


 ……『どうして?』だって?

 そんなの、何度も何度も言っているじゃないか。


 私は人間関係に向いていない。

 教室のざわめきも、他人の視線も、朝の電車の湿った匂いさえ耐えられない。

 しかも人と会えば喉に何かつっかえたような感覚がする上に、その日の気分次第では眩暈で立ってられなくなることもある。

 

 あんな環境で“普通”を演じ続けられるほど、私は強くないのだ。


 そして義務教育という地獄はもう終わった。

 これ以上、誰にも無理強いされたくない。

 ――そう訴えたはずなのに。


 ……いや、もちろん自分でも分かっている。

 

 これが社会を生きる人として、絶対に間違った道だというのは。

 だけど仕方ないじゃないか。

 呼吸するだけで心が擦り切れるこの私に、どうしてまっすぐ立てと言えるのだろうか?


 ……というわけで今の私に文句を言うなら、こんな人間が出来上がるようにシステムを作り上げてしまった神様に文句を言って欲しい。

 私は悪くない。


「そんなフテクされた顔されても説明にならないよ」

「……人間なんて私以外みんな死んじゃえば良いんです。なんで私はこんな恐ろしい世界に、生まれてきてしまったのでしょうか?」


 俯きながら吐き出した言葉は、自分でも少し芝居がかっていると思った。

 だけど止まらない。


 胸の奥が焼けるように重く、誰かにこの気持ちを押しつけずにはいられなかった。

 そんな私の腕を、明日菜は容赦なく掴む。

 

「はいはい。馬鹿なこと言ってないで下に降りて制服に着替えようね、お姉ちゃ〜ん」

「嫌です嫌です嫌ですぅッ!! 私は料理・洗濯・掃除とかその他の家事も勉強も、全部完璧にやってるじゃないですかッ!」

「うんうん」

「それなのに貴女はこれ以上を求めると?! いま明日菜が強制しようとしている事は、私が自殺するまでの道にまた一歩、近づかせているに過ぎないと分からないのですか?!」

「うんうん、学生の本分は勉強だね〜」

「あすなぁぁぁぁあああああああッッッ!!!」

 

 悲鳴じみた声が部屋に響く。


 妹は悪びれることもなく、私をぐいぐいと引きずって行った。

 

 このままでは階段から転げ落ちそう――そう思った矢先である。


「明日菜……もう、やめなさい」

「ママ……」

「お母さんッ!?なんでここに……?」


 振り向くと、母が階段の直前で静かに立っていた。

 半ば呆れ、半ば疲れきったような顔だ。

 

 その眼差しが一瞬、私をかばうようにやわらいだように見えた。


「今の(あかね)は無理やり学校へ行かせたって逆効果なの。だからもうやめてあげなさい。……ね?」

「えー……」


 明日菜は唇を尖らせ、渋々と手を離した。

 

 解放された私はすぐさま逃げるように部屋へ戻り、扉を半開きにして様子を覗く。


 そして階下から微かに母の溜息がし、続いて妹の声がくぐもって聞こえた。


「でも、お姉ちゃんは自分だけ遊びに行こうとしてるんだよ? しかも学校に行く日なのに」

「別に良いじゃない。茜はいつも絶対に自分から出かけようとしなかったのよ? お買い物だってまだ付き添いアリじゃないと行ってくれないし……明日菜もお姉ちゃんに引っ張り出されるの、ウンザリしてたでしょ?」

「う〜ん」


 妹の曖昧な返事を合図に、母の声がさらに続く。

 

「もしかしたら今日のお祭り?に行ったのを機に、自分から外に出てくれるようになるかもしれない。そう考えれば、明日菜が面倒な事をしなくて済むかもしれないし、学校にだって進んで行き出すかもしれない」


 …………なんだここ、地獄か……?

 

 二人の穏やかだけど、本当に厳しい現実を突きつけてくる会話を聞いているだけで、胸がぎゅうっと締めつけられる。

 体中の血が凍るようで、背筋がぞくぞくと震えるような感じだ。


 ……早く二人とも学校と仕事に行ってしまってくれないだろうか?

 本当にお願いだから。


「だからこれは未来の投資と考えましょ?」

「分かった」

「じゃあ、お母さんは仕事に行くからね。明日菜もちゃんと行くのよ」

「は〜い」


 そう言ってお母さんは下に降りて行き、妹はこちらに振り向いた。


「お姉ちゃんも、ちゃんとそのイベントに行くんだよ?いい?」

「言われなくても。木・金・土・日、四日間まるまる泊まりで行ってきますし、楽しんできますよ」


 言葉に出した瞬間、胸の奥がじんと熱くなった。

 

 今回は四日間連続で開かれる大型イベントだ。

 なので必然的にしっかり楽しむなら、4泊5日の泊まりで行かなければならない。


 普段の私なら絶対に――ぜっったいに不可能だが、これは推し活のためでありシオンちゃんへの愛の力を試す場でもある。

 弱腰になんてなってられないし、ホテルの予約も電話でしたのだ。

 もう引き返すなんてことはできない。


 というか自分で予約できた事に、自分で驚いてしまったほどだ。

 

「……お姉ちゃん」


 明日菜の声が、ふいに現実へ引き戻す。

 顔を上げると、彼女は真っ直ぐな目でこちらを見つめていた。

 

「まだ何か言いたいんですか?早く学校に行かないと遅刻しちゃいますよ?」

「気づいてないかもしれないけど……」


 明日菜は少しだけ眉を下げて、まるで哀れむような声色で言い放つ。


「VTuberと“付き合う”なんて、普通は絶対に無理だからね? それにそんなことをしてたら、周りの人達に――」


 その言葉の続きを、私は聞かなかった。

 脳のどこかが反射的に拒絶していた。

 あまりにその続きの言葉が予想出来すぎたせいだ。


 パタンッと、私は力任せに開けていた戸を閉め切った。


「早く学校に行ってきて下さいッ!!」


 ……妹に言われるまでもなく分かっている。

 VTuberと恋に落ちるなんて、現実ではありえない。

 それに、こんな感情を抱いてる事を外の人達にバレたりしたら、とんでもない批難を浴びると思う。

 私はその暴言の嵐に耐えられるメンタルをしてないし、みんながみんな言うように、架空の相手に恋するのは馬鹿らしいと思わないわけでもない。

 けど――それでも、恋をしてはいけない理由にはならないと思う。


 私はスマホを強く握った。


「大丈夫……私は大丈夫。他人は関係ありません…………この数日間は、きっと最高の日になるんですから」

 

 画面の中で笑うシオンちゃんが、まるで本当にこちらを見ているように思える。

 現実で誰に触れられなくても、この視線ひとつで、私は救われてしまう。


 もちろんわかっている。

 あの笑顔の裏には“中の人”がいる。

 もし三次元で会ったら――多分私は、彼女を“恋愛対象”としては見られないだろう。

 だからこそ、この恋は純粋なのだ。

 私が二次元の天野シオンちゃんという存在だけに捧げる、一途で壊れた愛。

 

 ……妄想と幻想と依存。

 その渦の中心に、恋という劇薬を垂らしたのが今の私。

 側からみれば頭がおかしく見えるかもしれないが、今の私は最高にリアルを謳歌している。

 だから、誰にも水を刺されたくない。


「ふぅ……よし!」


 軽く頬を叩いて気持ちを切り替える。

 私は窓際へと歩き、カーテンを少しだけ開けた。


 外ではちょうど、明日菜が靴紐を結び終えたところだった。

 玄関のドアを閉め、振り返った妹の視線がこちらを見上げる。

 

 目が合った。

 次の瞬間、明日菜はこっちに向かって手をひらひらと振ってきた。


 朝の光を背にしたその仕草が、妙にまぶしくて胸がちくりと痛む。


「……私は、友達がいっぱいで元気な明日菜がとても羨ましいですよ」


 明日菜には絶対に聞こえない声で、小さく呟く。

 一応、私も手を振り返しておいた。


 ……あの子は口が悪いけれど、いつも正しい。

 私のことを“心配してるからこそ”ああ言うのだと、ちゃんと分かっている。

 

 なのに、素直に受け止めることができない。

 そのくせこうして見送る時だけ、私は優しい姉のふりをしてしまう。


 なんて最低で都合のいい人間だろう。

 でも今の私には、それくらいしかできない。


「……では」


 私は深呼吸をして、胸元をぎゅっと掴んだ。

 指先が、まだ少し震えている。


「――そろそろ、行く準備をしますか」


 そう呟いて、私は床の上に並べていた荷物に目を落とした。


 黒いキャリーケースの中には、三日分の服と下着、タオル、充電器とその他色々。

 そして一番上には、推しのシオンちゃんのアクスタと痛バッグ。

 誰にも見られたくないのに、持って行かないと落ち着かない――私にとっての“お守り”みたいなものだ。


 そして私はスマホを胸ポケットに入れ、キャリーを引きながら玄関に立った。

 ドアノブに触れた瞬間、心臓がドクンと脈を打った。

 家の中と外の境界線――。

 その一歩が、こんなにも重く感じるなんて。


 ……いや、今更考えても仕方ない。


 私は深呼吸をして、意を決して扉を開けた。


「……行ってきます」





---




 駅までの道を私は進む。

 

 通学路を歩く制服の子たち、スーツ姿の会社員、信号待ちの人の群れ。

 誰も私のことなんて見ていないはずなのに、視線を感じてしまう。

 それでも、キャリーを引く音を頼りに一歩ずつ進んだ。


 バスに乗り込むと、金属のドアが閉まる音が響く。

 車内は通勤ラッシュでぎゅうぎゅう。

 香水、柔軟剤、スマホの画面に映るニュース。

 誰かの笑い声にビクッと肩をすくめながらも、私は車窓に視線を逃がした。


 更に新幹線に乗り換え、流れていく街の景色が、どんどん知らない世界に変わっていく。

 心臓の鼓動が、揺れる車体と同じリズムを刻んでいた。


 ――そうして。

 目的地に到着し、幕張メッセ近場のホテルに泊まり、明日になるのを待った。

 ちなみに前夜祭はシオンちゃんがいないため、無料パートのみ配信で視聴した。




 ---




 次の日の朝。


 幕張メッセ前には、すでに長い列ができていた。

 スタッフの「列を詰めてくださーい!」という声が反響し、ファンたちの笑い声や、紙袋のこすれる音、ペンライトのカチッという音が重なっていく。

 その雑音のすべてが、祭りの始まりを告げるように高鳴っていた。


「凄い人の数です……」


 思わず口をついた呟きは、すぐにざわめきに溶けて消えた。

 開場からまだ一時間も経っていないというのに、空気はすでに熱を孕み、湿り気を帯びて肌にまとわりつく。


 広大なホールの中へ入ると、まず視界が色鮮やかな光で満たされた。

 天井から吊るされた巨大モニターには、ライバーたちの映像が流れ、企業ブースごとにスピーカーからテーマソングやボイスが絶え間なく響いている。

 

 床のコンクリートも、重低音に合わせて微かに震えるてるし、その振動が靴底から伝わり、まるで地面全体が鼓動しているようだった。


 会場の中央では、等身大パネルがずらりと並び、人々が順番にスマホを構えて写真を撮っていた。

 あちこちから「可愛いー!」「あっこれ限定だよ!」と歓声が上がる。


「気圧されていては駄目ですね。私も沢山楽しむとしましょう!」




 ---




 そしてこの数日間――会場を隅から隅まで歩き尽くし、展示を眺め、ガチャを回し、推しのブースでは声も出ないほど興奮していた。

 限定グッズの袋が増えるたび、胸の奥も少しずつ満たされていくようで、私はそれが嬉しかった。


 ……それなのに。


 気づけば、day3の昼下がり。

 私は壁際に立ち、会場を行き交う人々の背中をぼんやりと目で追っていた。


「ねえ、次どこ行くー?」

「着ぐるみステージかなぁ」

「え〜……。お化け屋敷が良い!」


 弾む声が、流れる人波の向こうから届く。

 

 カラフルなショッパー、ふわふわのツインテール、同じ推しの缶バッジで飾られたリュック――。

 彼女たちは笑いながら肩を寄せ合い、その輪の中にだけ、柔らかい光が集まっているように見えた。

 

 私の手元にある袋にも、グッズがいくつも入っている。

 けれど、その袋を見せ合う相手――友達が一人としていない。

 誰かと「可愛いね」と言い合う声を出す機会も私にはない。


 私は黒いパーカーの裾をぎゅっと握りしめた。

 ……フードの影が顔に落ちるたび、余計に周囲との差が際立っていくようで、心の奥がざらついた。

 

 せっかく来たのに、どうしてこんな気持ちになってしまうのだろう。


「何を考えてるんだろ……こんな特別な日に。……馬鹿みたいです」


 小さく吐き出して、両手で頬を軽く叩く。

 音に合わせて、気持ちを立て直そうとした。


「今はお昼ですし、フードエリアに向かうとしますか」


 ……久しぶりに自分以外の多くの世界を見たせいで、自分と周りの差を比較してしまった。

 こういうのは普段、外に出ないからこそなってしまう病みたいなものだろう。


 気をつけないといけない。


 そう自分に言い聞かせながら、下を向いて数歩ほど進む。

 ――その瞬間だった。


 ドンッ。


 横から鋭い衝撃。

 肩が弾かれ、視界がぐらりと傾く。


 私は倒れかけた身体を、なんとか踏ん張って立て直す。

 だけど、すぐ隣には――私と同い歳くらいの女の子が、尻もちをついていた。


「痛った……」


 くらげみたいにゆるく波打つ、ロングの髪。

 光を受けてきらめく青のメッシュ。

 大きめのサングラスに、つば広の帽子。

 アクセサリーを重ねすぎて、腕も首も光を反射している。

 派手で、鮮やかで、ひと目で「私とは違う世界の人だ」と分かる子だった。


 床にはその子のグッズが散らばっていた。

 アクリルスタンド、ブロマイド、限定チャーム――まるで光の破片のように四方に転がっている。


 ぶつかった衝撃で、中身が全部こぼれたのだろう。


 胸の奥が一瞬で冷えた。

 ――完全に、私のせいだ。


「ちょっと!どこ見て……って藤崎 茜?!? なんであんたがk――」


 どこかで誰かが私の苗字を呼んでいる気がした。

 でも思考が追いつかない。


 私は反射的に頭を下げ、言葉を重ねた。


「すみません!すみません! 本当にすみませんっ……! 今すぐ拾いますから!」


 半ば反射的に叫びながら、自身のシオンちゃんの痛バッグを床に置き、散らばったグッズを掻き集めた。

 手のひらが震えて、アクリルの縁が指に食い込む。

 拾い終えると、既に立ち上がっていた彼女に、落ちていたバッグごと手渡した。

 

「その……本当にすみませんでした」

「う〜ん、まぁありがとう。そんなに謝らなくてもいいよ」


 この女の子の明るく笑う声――それがどうにも不自然に聞こえた。

 妙に高く喉の奥でつくられたような、芝居じみたトーン。

 これは地声じゃない。


 耳が自然に、そう告げていた。


 声の質で表すならば、ネズミの国のミ◯キ◯に一番近いと言えるかもしれない。

 

「って……やば」


 小さく呟いた彼女が、ぱっと顔を上げる。

 次の瞬間、焦ったように辺りを見渡した。


「こんなことやってる場合じゃないや!」


 そう言って、彼女は私の手首を掴んだ。

 その手のひらは驚くほど熱く、細い指に似合わない力があった。

 拒む間もなく、私は引き寄せられる。


「な、何をしてッ?!」

「いいから、ついてきて!」

 

 彼女は迷いもなく人の波をかき分け、私を引きずるように走り出した。

 周囲の喧騒が遠ざかり、代わりに心臓の音がやけに大きく響く。


「え、え!? ……どこ行くんですか!?」

「どこでもいいでしょ」

「そ、その!私はお昼ご飯を食べに行こうと思ってて……それに――」


 人と話すのは苦手だから、今すぐその手を離して他人になって欲しい――などと言う暇などなく。

 

「じゃあそこでいいよ!とりあえず今はここから離れさせて!!」


 声の奥には、どこか切羽詰まったものがある気がした。

 それが何なのか私には分からない。

 でもその必死さに抗えなかった。


 彼女に握られた手の熱。

 汗ばんだ皮膚の感触。

 走りながらも、彼女の横顔は笑っていた。

 焦げつくような真剣さと、どこか砕けたような明るさが混じっている。


 この状況は、何もかも突然で意味不明で――現実味がない。

 それでも私は抵抗できず、ただ引きずられていった。


 いつもの私なら、絶対に怖がって逃げていたはずだ。

 でも――今日は違った。

 周囲の幸福そうな笑顔と、自分の孤独を見比べて、何かが壊れていた。

 

 だからだろう。

 少しぐらい、この熱に身を委ねてもいい気がした。


 そしてこの選択、この出会いが――

 私の未来を静かに狂わせていくことになる。

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