File8.べとべとさんのストーカー冤罪と無形文化財としての生存権の確立について
「……べと、べと、べと、べと……」
事務所の床を、落ち着きなく歩き回る革靴のような音が響いている。姿は見えない。ただ、湿った足音だけが、依頼人の深刻な悩みを代弁するように、円を描き続けていた。
今回のクライアントは、『べとべとさん』。夜道で人の後をついて歩くだけの、古くから知られる無害なあやかしたちの総称だ。
「――と、いうわけでして」
オサキが、宙に浮いた訴状の写しを尻尾で指しながら解説する。
「先日、クライアントがいつものように夜道を歩いていたところ、霊感が少しある人間と遭遇。その人物から『姿なきストーカー』として警察に通報され、最終的に弁護士を立てて民事訴訟を起こされた、と」
訴状には、『被告による執拗な追跡行為(足音)により、原告は深刻な精神的苦痛を被った』とある。
「……べとぉ……(そんなつもりは…)」
か細い心の声が、オサキを通じて聞こえてくる。
「これは、厄介な案件だな」
私は腕を組んだ。人間の法廷で、あやかしの存在を証明することは不可能だ。まともに戦えば、被告人不在のまま、一方的に敗訴が確定する。
「クライアントの行動は、彼の存在意義そのものです。悪意や害意に基づくものでは断じてない。これは、法的な問題であると同時に、異文化コミュニケーションの断絶が引き起こした悲劇です」
「べと、べと!(その通り!)」
足音が、力強く床を踏み鳴らした。
「弁護士を立てて法廷で争うのは得策ではありません。我々が目指すのは『勝訴』ではなく、『和解』。そして、クライアントの**『文化的生存権』を、原告側に認めさせることです」
これは、法廷の外での情報戦。そして、心理戦だ。
「ご提案します。今回は、あなたを『訴訟の被告』から『地域に根付く無形の民俗文化財』**へと、その社会的立ち位置を再定義します」
私の戦略は、法廷というリングには上がらず、その外堀を埋めることから始まった。
一、学術的アプローチによる事実の補強。
まず私は、民俗学の権威である大学教授(もちろん、我々の事情を理解している人物だ)に依頼し、『べとべとさんに関する一考察』という学術レポートを作成してもらった。その地域で、いかに古くからべとべとさんの伝承が語り継がれてきたか、そしてそれが人々の生活にどう根付いてきたかを、客観的な事実としてまとめたものだ。
二、原告側との交渉テーブルの設定。
次に、私は弁護士としてではなく、『民俗文化におけるトラブル解決の専門コンサルタント』という肩書で、原告側の弁護士に接触。
「この度の件は、ストーカーという単純な事件ではありません。非常に特殊で、デリケートな文化的背景を持つ事案です。一度、専門家としてご説明の機会をいただけませんか」
法廷での泥沼化を避けたいという相手の心理を突き、我々は調停の場を設けることに成功した。
三、調停室での『実演』。
そして、運命の調停室。原告と、その弁護士が、緊張した面持ちで我々を待っていた。
「はじめまして。九十九です」
私が挨拶をすると同時に、部屋の入り口から「べと、べと……」と、クライアントの足音が聞こえてきた。原告の顔が、さっと青ざめる。
私は慌てず、用意した学術レポートを提示した。
「原告の方が体験された現象は、この地に古くから伝わる『べとべとさん』と呼ばれるものです。彼らに悪意はありません。ただ、夜道を歩く人間の寂しさに寄り添うように、共に歩くだけの存在なのです」
そして、私はおもむろに立ち上がり、足音がする空間に向かって、静かに言った。
「べとべとさん、お先へお越し」
古来より伝わる、唯一にして完璧なコミュニケーション手法。
すると、それまで不安げに部屋をうろついていた足音は、ぴたりと止み、次の瞬間、「べと……べと……」と、我々の横を通り過ぎ、扉の向こうへと消えていった。
静まり返る調停室。原告も、その弁護士も、今起きた現実離れした、しかしあまりに平和的な現象を前に、呆然としていた。
「ご理解いただけましたか。これは、暴力や法律で解決すべき問題ではないのです」
結果、訴えは正式に取り下げられた。
原告側とは、「今後、同様の現象に遭遇した際は、先ほどの言葉をかけることで友好的に解決を図る」という内容で、和解合意書が交わされた。
べとべとさんは、自身の存在を否定されることなく、これまで通り夜道を歩く自由を取り戻したのだ。後日、彼は何度も事務所の周りを「べと、べと(感謝)」と、喜びの足音を鳴らして歩き回っていた。
「さて、九十九さん。お待ちかねの報酬です」
オサキが差し出したのは、足跡の形をした、小さな木製のお守りだった。
「クライアントより、『無音歩行の加護』を頂戴しました」
「効果は?」
「はい。このお守りを身につけている間、我々の足音や衣擦れの音、果ては呼吸音に至るまで、全ての生活音が完全に消失するとのことです。諜報活動や、気難しいクライアントとの面談前のサプライズ登場に、大いに役立つかと」
これは、物理的なステルス機能。金では決して買えぬ、極上の報酬だ。
私は、そのお守りを静かに懐にしまった。
「さあ、次の準備を」
「承知いたしました。次は……少し変わっております。クライアントは『がしゃどくろ』」
「あの巨大な骸骨のか」
「はい。なんでも、近年、匿名でVTuberとして活動し、絶大な人気を博しているそうなのですが……」
「ほう?」
「最近、アンチの活動が活発化し、『中の人』の正体、つまり自分ががしゃどくろであることが特定されそうで困っている、と。正体がバレずに、活動を続けるためのPR戦略を……とのことです」
どうやら次は、インターネットという現代の闇が生んだ、新たな悩みに向き合うことになりそうだ。
巨大な骸骨のVTuber。
面白い。実に、面白い。




