File36.式神の亡骸と、あやかし社会における秩序の防衛について(核心部・弐)
『……お前が、あの日この地で、自らの式神を秩序のために生贄にした、あの絶望の味を……』
カガチの声が、伊勢の清浄な神気の中で不快な残響となって私の思考にこびりついていた。 私の、式神。 その言葉を聞いた瞬間、私の全身の血液が一度、凍りついた。
「九十九さん……?」
オサキが、私の顔を、見たことのないような表情で覗き込んでいる。無理もない。私としたことが、この九十九という仮面を保てなくなるほどの動揺を露わにしていたのだから。
「……道満」
八咫烏が静かに、しかし厳しく私の『過去の名』を呼んだ。 「カガチの言葉、真か。お主、ここで自らの式を……」
「……」
私は答えなかった。答える必要などない。 忘れたことなど一日たりともなかったのだから。
その名は、『呉葉』。 安倍晴明に師事していた頃、私がこの世の理の全てを注ぎ込んで生み出した、私だけの最強にして唯一の式神。そして私がこの伊勢の地で師の教えに背き、暴走する『何か』を封じるため、その存在そのものを『楔』としてこの五十鈴川の龍穴に沈めた……。 あれは、犠牲ではない。 私が一方的に、殺したのだ。
「カガチめ……!」
込み上げる激情を、私は『心の静寂』の宝玉を強く握りしめることで無理やり押さえ込む。
「奴は、その呉葉の『亡骸』をどうするつもりだ。八咫烏殿」
八咫烏は目を伏せた。
「……カガチは単にその亡骸を利用するのではない。奴はあの山ノ神の森から作らせた『呪いの炭』を燃料として……呉葉の亡骸に再び命を吹き込もうとしておる。お主への強烈な『忠誠心』と『怨嗟』が入り混じった、最強の『傀儡』としてこの伊勢の神域で蘇らせるつもりじゃ」
それは、この聖域を内側から破壊する最悪の『穢れ』の顕現。 そして私に対する、最も残忍な精神攻撃だった。
「……九十九さん」
オサキが、震える私の方に一歩進み出た。
「……あなたは九十九さんです。私の主です。道満とやらが何をしたか私は知りません。ですが今、我々がすべきことはカガチのその悪趣味な計画を止めること。それだけでしょう」
……そうだ。 オサキの言う通りだ。 過去に囚われている暇はない。
「オサキ、八咫烏殿。カガチがその『儀式』を行なっている場所を特定する。奴は必ず、この伊勢のどこか聖なる場所をあえて汚しているはずだ」
私は懐から二つの『報酬』を取り出した。 一つは、目一様から授かった『因果の算盤』。 もう一つは、一つ目小僧から授かった『看破の義眼』。
「オサキ、お前は河童の瓢箪を使い、五十鈴川の水脈に沿って物理的に『呪いの炭』の反応を探れ。八咫烏殿は空から神気の『乱れ』を」
「では、九十九さんは?」
「私は、ここから『因果』を辿る」
私はその場に座し、『因果の算盤』を構えた。 カチ、カチ、と。私が弾いたのはカガチの名ではない。 『呉葉』。 その名を弾いた瞬間、算盤はありえないほどの勢いで回転し、私と呉葉との間に結ばれたあまりに巨大で未だ清算されていない、絶望的なまでの『負債』の総額を叩き出した。
「……見つけた」
その『負債』の先。因果が今、最も強く捻じ曲げられようとしている一点。 私は次に『看破の義眼』を自らの胸……心臓のあたりに強く押し当てた。 『私の、最も恐れていること』 それは、呉葉との再会。 義眼を通して、私の脳内にビジョンが流れ込む。 そこは伊勢の神域の中でも特に古く、今は誰も立ち入らない禁足地。 ……あの日、私が呉葉をこの手で封印した、あの古い古い社の跡地。
カガチは、そこにいた。 呉葉の亡骸を前に、黒い『炭』の炎を燃え上がらせ、呪われた儀式の最終段階に入ろうとしていた。
『――遅かったな、道満。お前の“罪”が、今、蘇るぞ』 カガチの、嘲笑う声が再び脳内に響く。
「オサキ! 八咫烏殿!」
私は血を吐くような声で叫んだ。
「場所がわかった! 奴の思う壺かもしれん! だが、行くぞ!!」
過去の清算か、それとも更なる絶望か。 私は自らが犯した最大の罪が眠る場所へと、今再び足を踏み入れる。
面白い。 ……面白い、とでも言うしかないではないか。




