File35.伊勢神宮における神域防衛(ディバイン・セキュリティ)と、あやかし社会における秩序の防衛について(核心部・序)
伊勢。 その地は、我々が日常的に接するあやかし達の領域とは明らかに異なっていた。空気、密度、光の色が違う。日本という国の『秩序』そのものがここを起点として整えられているかのような、張り詰めた清浄な神気に満ちていた。 だが私は、その完璧な調和の奥底に微かな『ノイズ』を感じ取っていた。 まるで真っ白な絹の布に一本だけ黒い糸が紛れ込もうとしているような、異様な違和感。
我々を内宮の奥へと導いたのは人間ではなかった。漆黒の衣をまとった荘厳な三本足の烏。『八咫烏』。天照大神の眷属にして、この聖域の守護者の一人だった。
「――よくぞ参られた、九十九殿」
八咫烏の声は、人の言葉でありながら金属が擦れるような神聖な響きを持っていた。
「ぬらりひょんの爺からの報せはすでに受けておる。貴殿がカガチと名乗る者の企みを追っているとな」
「状況をお聞かせ願えますか」
我々が通されたのは、五十鈴川のほとりにある一般の立ち入ることのできない古い社だった。
「単刀直入に言おう」
八咫烏は、その鋭い目で私を射抜いた。
「この伊勢の『清浄』が何者かによって意図的に『汚されよう』としておる。カガチの言う『第四の楔』とは、その『穢れ』そのものだ」
「……穢れ、ですか」
「うむ。物理的な破壊ではない。奴は、この日本で最も清浄なる場所に最も禁忌とされる『呪い』を打ち込み、この地を内側から腐らせ、日本全土の霊脈のバランスを根底から崩壊させるつもりじゃ」
そのやり口に、私は血の気が引くのを感じた。
「……まさか、奴は……」
「左様」
八咫烏は、全てを見通すかのように頷いた。
「奴が使おうとしておる術式は、かつてお主の師――安倍晴明が命を賭して封印した『反転呪術』。神聖な力をそのまま等量の『呪い』へと反転させる、禁忌中の禁忌」
カガチは私の過去を、師の因縁を、知り尽くしている。 そして、その上でこの場所を選んだ。
「……九十九殿」
八咫烏が、私の名をあえてゆっくりと呼んだ。
「いや……あるいはこう呼ぶべきかのぅ。晴明様がその弟子として真の名を与えた――『道満』と」
その名を呼ばれた瞬間、オサキが息を呑む気配がした。 道満。 九十九ではない。私が、あやかしのコンサルタントになるずっと以前、師・安倍晴明と共に陰陽の理を究めていた頃の名。そして師を裏切り、禁忌を犯し、全てを失った、私の忌まわしき過去の名。
「……なぜ、その名を」
「カガチがそう呼んでおったわ。奴はお主の全てを知っておる。『道満は必ずここに来る。あの男が自らの手で穢したこの因縁の地に、必ずな』と」
カガチの言葉が私の脳裏に突き刺さる。 そうだ。あの時、師の教えに背き、暴走する力を止めるため私はこの伊勢の神域の力を無断で使い、禁忌の術で……あやかしを……。
「……九十九さん?」
オサキが、私の尋常ではない様子を案じている。 私は大きく息を吸い込み、乱れる心を小鞠君から授かった『心の静寂』で無理やり鎮めた。
「……戯言(はそこまでに。私は九十九だ。それで、カガチの『楔』はどこに」
「……ふむ。過去を捨てた、か」
八咫烏はそれ以上は追及せず、話を戻した。
「奴の狙いはこの五十鈴川そのもの。この川は内宮の『清浄』を保つ結界の役目を果たしておる。この水源にあの呪われた『炭(=楔)』を打ち込み、川全体を『穢れ』で満たす計画じゃ。すでに先遣隊が動いておる」
「コンサルティング、開始だ」
私は即座に思考を切り替えた。
「これは神域における深刻な『水質汚染』テロであり、ブランド・イメージの毀損事件だ。オサキ、河童の『水脈転移の瓢箪』を使え。この川の全ての『淀み』に一瞬で跳ぶぞ」
我々が瓢箪の力で辿り着いたのは、五十鈴川の最上流、禁足地とされている森の奥深くだった。 そこにはすでにカガチの配下たちが、あの山ノ神の森から作られた『呪いの炭』を巨大な杭として水源の龍穴に打ち込もうとしていた。
「――遅かったな、道満!」
「九十九だ、と何度言わせる」
私は懐から、砂かけ婆の『幻解きの砂』を呪いの杭に向かって投げつけた。 砂が触れた瞬間、杭の虚飾が剥がれ、その本質――無数の御神木たちの断末魔の叫びが怨嗟の霧となってあたりに立ち込めた。
「オサキ!」
「承知!」
オサキの狐火が、その怨嗟の霧を浄化の炎で焼き尽くす。 カガチの配下たちは、その神聖な炎に焼かれ退散していった。
間一髪、水源の汚染は防いだ。だが八咫烏の表情は晴れない。
「……これは陽動じゃ。奴の本当の狙いは別にある」
「だろうな」
「九十九……いや道満。お主がかつてここで何を『犠牲』にしたのかわしは知らぬ。だがカガチは、その『傷口』を再びこじ開けるつもりじゃ。奴はこの伊勢に、お主と因縁の深い『第五の楔』をすでに送り込んでおる」
「……第五の?」
「うむ。それは物ではない。お主がかつて、その手で……」
八咫烏がそこまで言いかけた時。 私の脳内に、直接、あの忌まわしいカガチの声が響き渡った。
『――思い出したか、道満。お前があの日この地で、自らの式神を秩序のために生贄にした、あの絶望の味を。……第五の楔は、その“式神の亡骸”そのものだ。お前は自らが犯した過去の罪と、もう一度ここで向き合うことになる』
私の、……式神だと? 全身の血が、凍りつくのを感じた。
物語は、ついに、私の、決して触れてはならなかった過去の核心へと、突き進んでいく。
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