File31.ぬらりひょんの信用失墜と、あやかし社会における秩序の防衛について(序章)
その日、事務所の扉はノックもなしに、まるで最初からそこになかったかのように音もなく開いた。 オサキが息を呑む気配がした。彼の銀色の毛が総毛立っている。無理もない。そこに立っていたのは、一見するとただの人の良さそうな、しかしどこか掴みどころのない古風な着物を着た老人だったからだ。 彼がふわりと一歩、事務所に足を踏み入れる。それだけで部屋の空気が彼の存在感に塗り替えられていく。 あやかしの総大将、『ぬらりひょん』。その人だった。
「……九十九殿。久しいのぅ」 彼はまるで近所の散歩でもするように勝手にソファに腰を下ろし、オサキが淹れる間もなく自分で茶器を取り出し茶を淹れ始めた。
「御大。アポイントメントという言葉を、ご存知ないわけではありますまい」
私は目の前の伝説を静かに見据えた。この男が自らここまで足を運ぶ。それはもはや単なる「依頼」ではなく、「事件」が起きたことを意味していた。
「堅いことは言うな。お主も知っての通り、わしは待つのが嫌いでのぅ」
ぬらりひょんは湯呑みをすすり、そして本題に入った。その口調はいつものように飄々としている。しかし、その目の奥には笑っていない光が宿っていた。
「わしが築いてきた『秩序』が、何者かによって意図的に、そして急速に崩されようとしておる」
彼の言う『秩序』とは、彼があやかし社会に張り巡らせた複雑怪奇な『信用』と『貸し借り』のネットワークそのものだ。それは法律よりも強く、あやかし達を縛る絶対的なルールだった。
「しかし、ここ数ヶ月でどうだ。わしと古い契約を結んでいた土地神が一方的にそれを破棄した。長年の盟友であったはずの山の主がわしに反旗を翻した。皆、口を揃えてこう言う。『古い“貸し”は、もう終わりだ』とな」
「……彼ら自身の意思で、と?」
「ならば話は早いわい。だが、違う」 ぬらりひょんは湯呑みを置いた。カツン、と乾いた音が響く。 「彼らは皆、『唆された』のじゃ。どうやら、わしとは違うやり方であやかし社会に『コンサル』をして回る奇特な輩がおるらしくてのぅ」
その言葉に、私はカチリと心の中で何かが組み上がる音を聞いた。
「……その者の名を、お聞かせ願えますか」
「『カガチ』と名乗っておるそうだ」
やはり、奴か。 カガチ経営コンサルティング。あやかしの伝統的な『貸し』を、現代的な『負債』として清算させる。その甘言で古い秩序を破壊し、自らの影響力を拡大している。そのやり口は、あまりにも……。
「九十九殿」
ぬらりひょんが、私をまっすぐに見据えた。
「お主だからこそ、頼んでおる。あの男のやり口は……お主がよく知る、かつての“あの男”にそっくりじゃからのぅ」
その言葉は、私が蓋をしていた過去の記憶を容赦なく抉った。 そうだ。あの男もそうだった。秩序を憎み、全てを破壊し、そして……愚かで悲しい結末を迎えた。 カガチは、その模倣犯か。それとも……。
「……承知いたしました」
私は心の動揺を冷静な仮面の下に押し込めた。
「これはもはや個別のコンサルティングではない。あやかし社会全体のガバナンス・クライシス(統治危機)です。そして、その背後にいるカガチという男への『宣戦布告』と、理解しました」
「ふぉっふぉ。話が早くて助かるわい」
「まずは情報収集から始めます。御大、あなたの『信用』を最初に裏切ったのは?」
「北関東の、とある神社の『管狐』の一族じゃ。わしとの神託の独占契約を破り、今はそのカガチとやらのために情報を集めておる」
「……狐、ですか」
オサキの尻尾が不快げに揺れた。同族の裏切りは、彼にとっても思うところがあるのだろう。
「今回の案件は中編となります。報酬は全ての秩序が回復した後に、まとめて頂戴いたします」
「結構。好きにせい」
ぬらりひょんは満足げに頷くと茶を飲み干し、そして来た時と同じように、ふっとその場から消えていた。まるで最初から誰もいなかったかのように。
「……九十九さん」
オサキが、緊張した面持ちで私を見た。
「ああ。厄介なことになった」
私は窓の外を見つめた。カガチ。お前が一体何者なのか。そして、あの男とどういう関係なのか。
「オサキ、北関東へ飛ぶぞ。まずは、その裏切り者の狐どもに、九十九流の『ビジネス・マナー』を徹底的に叩き込んでやる」
物語は、まだ始まったばかりだ。
宜しければ、評価、ブックマーク!宜しくお願いします!




