ハートアタック・ディーヴァ
一般的なアーティストにとって、歓声は存在証明そのものだ。観客はイントロに沸き立ち、サビを合唱し、一体となることで熱狂を完成させる。拍手と喝采こそが、彼らを舞台に立たせる糧であった。
だが、彼女は違う。
その双肩が舞台の照明に照らされた瞬間、満員のはずの客席からあらゆる音が消え失せる。息を呑む音すら許されぬほど張り詰めた空気の中、観客は声を上げるのではなく、沈黙を強いられる。それは命令ではない。圧倒的な存在感の前に、呼吸さえも支配される自然な服従だ。
彼女の歌声は、凍てつく女王のように人を跪かせる。
同時に、陽光の祝福のように心を融かし、救いをもたらす。
相反する感情が同時に胸を突き破り、得体の知れない畏怖と、言葉にならぬ歓喜が、説明のつかない涙となって頬を伝う。観客は混乱する。なぜ心が震えるのか。なぜ息が詰まるのか。だが、その正体を掴めないまま、魂ごと彼女の歌に捕らわれている。
慈愛の激怒か、冷酷な微笑か。
彼女は常に、そのいずれかを纏いながら、聴く者すべてに等しく君臨する。
それは祝福であり、呪いであった。
平日の夜、三つの国で同じ種類の音が、別のかたちで映画を壊していた。
アメリカの郊外型シネコンでは、予告編と本編の境目がない。客はポップコーンの紙袋を破る音を合図に立ち歩き、スニーカーの底が階段の金属縁で無遠慮に鳴る。暗闇を切り裂くのはスマートフォンの矩形の光だ。レンズカバーを外す音、動画アプリの起動音、SNSに投稿するための縦長のフレーミング。座席の肘掛けには使い終えた紙コップが放置され、通路には踏み散らされた氷が転がり、背もたれ越しに届く笑いの衝撃がすぐ後ろの席を揺らす。係員の赤い誘導灯がふわりと揺れて近づき退場を促すが、客は肩をすくめて別の列に滑り込むだけ。注意は波紋にならず、泡のように消える。
フランスの中心街にある歴史の長い劇場では、別の礼儀が別の無秩序を生んでいた。開映直後、口笛でテーマ曲をなぞる者が現れ、観客席の高い段差がコールの反響板になる。舞台挨拶のない上映でも拍手の位置取りだけは完璧で、しかしそれは作品への賛同ではなく「ここは自分たちの場だ」という縄張りの主張に近い。古い座席のスプリングが軋み、ショールの端が隣席の肩を撫で、コルクを抜く小さな音がスクリーンの静寂に穴を空ける。係員はホールの後方で腕を組むが、長年の慣習と気位の前では規則が薄い。無秩序は洗練の外套を纏い、正面からは見えにくい。
日本の大規模シネコンでは、逆方向に秩序が崩れる。場内は静かだ。静かすぎる。だがその静けさは、作品への敬意のためではない。膝の上の三脚、カメラのホットシューに載った小型マイク、袖口に隠された録音機、上着の内ポケットに滑り込ませたWi-Fiルーター。注意喚起の「ご遠慮ください」は「条件付きの許可」に聞こえるらしく、掲示の文言は自己都合の解釈で骨抜きにされる。シャッター音の消し忘れが一度だけ鳴り、場内の空気が一瞬だけ凍る。係員は壁際の非常口から誘導灯を胸の高さで構え、客席番号を確認して静かに肩を叩く。通路での小声のやり取り、チケットの半券、身分証の提示。上映は止めない。止めれば返金と炎上の算盤が動き、止めなければ作品の尊厳が削れる。支配人の内ポケットの中で、苦情対応フローの紙が汗で柔らかくなっていく。
国が違えど、現場の帳尻は同じところに落ちる。音が音を上書きし、注意が注意を薄め、規則が空気に負ける。上映後、清掃用のラバー手袋が拾い上げるのは、こぼれたコーラの氷片と、破れたチケットの台紙と、匿名のため息の残り香だけだ。作品の余韻はどこにも残らず、そこにあるのは「黙らせる術を失った」という現場の冷たい自覚だけだった。
アパートに併設されたミニシアター。ソファに沈み込んだ男たちの間には、テーブルから溢れんばかりの「ラッキーセット」の箱が山積みになっている。近頃世間を騒かせている玩具の転売ヤーたちが、本体だけを抜き取って捨て値で流したものだった。冷めたポテトの匂いが、部屋の気だるい空気と混ざり合っている。
その中心で、中年の監督だけが一切の気だるさを見せず、 規則的に箱を開けていた。彼は一心不乱だ。周囲の嘆き節も、諦念の混じったため息も、彼の世界には届かない。彼はただ、自らの思考を巡らせるための燃料を補給するように、ハンバーガー、ポテト、パンケーキ、スイートコーン、そしてミルクを、決められた順番通りに黙々と口に運んでいく。その静かな食事は、一種の儀式のようでもあった。
監督以外の者たちは、その静寂を破るように重い口を開き始める。
新人プロデューサーの彼は食べかけのポテトの箱をテーブルに叩きつけ、絞り出すように言った。
「……もう、こんなの黙って見てるだけなんて、俺には無理です!」
その声に、他の同業者たちが気だるげに顔を上げる。一人は配給会社のベテランで、もう一人は別の制作会社のプロデューサーだ。ベテランの方が、大きくため息をつきながら言った。
「若いな、お前は。無理だと言って何かが変わるなら、誰も苦労はしないさ。アメリカもフランスも、そしてこの日本も、もう客の質で映画を選ぶ時代じゃなくなった。悲しいが、それが現実だ」
「現実だからって、諦めるんですか!? 俺たちが作品に込めた想いは、あんな騒音の中で消費されていいものなんですか!」
プロデューサーが食い下がるが、もう一人の同業者が「まあ、落ち着け」と彼を制す。「気持ちは分かる。だがな、今の観客に『静かにしろ』と正面から言っても火に油を注ぐだけだ。もっと予想外の一手、それこそ常識の外から何かを持ってこないと……」
その言葉が、部屋の空気にわずかな変化をもたらした。監督の食事の儀式は、まだ続いている。
「常識の外、ですか……」
新人プロデューサーが力なく繰り返す。
すると、彼を制した同業者が不敵に笑い、ソファから立ち上がった。彼は無言のまま上映用の機材へと歩み寄り、再生中だった映画の画面を停止させ、慣れた手つきで手持ちのUSBスティックを差し込んだ。
「おい、何するんだよ」「まだ途中だったのに」と、他の者たちから不満の声が上がる。
男は答えず、ただ再生ボタンを押した。
スクリーンは一瞬暗転し、次の瞬間、そこに映し出されたのは――ただ一人、ドレスを纏った女だった。過剰な演出はない。正面からの固定カメラが、彼女の姿を静かに捉えているだけだ。
そして、彼女は歌い出した。
声が響いた瞬間、すべてが変わった。
ソファから飛んでいた野次が、ピタリと止んだ。「ラッキーセット」の箱を漁る音が消えた。誰かがコーラの缶を床に落としたが、その乾いた音だけが妙に大きく響いた後、完全な静寂が訪れた。いや、静寂ではない。部屋の隅々までが、彼女の声だけで満たされていた。
それは支配だった。有無を言わさぬ、絶対的な音による支配。誰もが口を開けたままスクリーンに釘付けになり、身じろぎ一つできずにいた。
ミニシアターを包む濃密な沈黙の中で、監督がパンケーキを咀嚼する音だけが、小さく響いていた。
スクリーンが暗転し、歌姫の姿が消える。しかし、その声の残響は、アパートの一室に満ちたままだった。誰も言葉を発しない。食べかけの「ラッキーセット」も、飲みかけのコーラも忘れ、ただ呆然と無音のスクリーンを見つめている。
「……今のが、完璧な音質だったとは限らないんですよね……?」
新人プロデューサーが、まだ夢見心地のまま呟いた。このミニシアターのスピーカーを通した音でさえ、これほどの衝撃なのだ。だとしたら、本当の彼女の声は――。
その神聖な空気を、配給会社のベテランが唸るような声で現実に引き戻した。
「……参ったな。これは本物だ」
「ああ、奇跡だよ」と、もう一人の同業者が冷めた口調で応じる。「だがな、奇跡ってのは、大抵とんでもなく厄介なんだ。あの歌姫がどれだけ気難しいか、お前は知らないだろう。最高の環境、最高の音響、最高の伴奏者……そのどれか一つでも欠けたら、絶対に歌わない。そんな人間を、どうやって口説く?」
その言葉で、部屋の空気は熱狂から一気に算段へと変わる。彼らは「武器」を見つけた。しかし、その引き金に指をかける方法を知らない。
「じゃあ、どうするんですか……」
プロデューサーが狼狽しながら周囲を見回す。すると、同業者たちの視線が、まるで申し合わせたかのように自分一人に集中していることに気づいた。監督でさえ、いつの間にか食事を終え、ナプキンで口元を拭いながら、静かにこちらを見ている。
ベテランが、にやりと笑って言った。
「なあ。最初に『こんなの黙って見てるだけなんて、俺には無理です!』って叫んだの、お前だったよな?」
「え……」
「言い出しっぺの法則、ってやつだ」
プロデューサーが何か言い返すより早く、監督が短く、しかし決定的な一言を放った。
「お前が行け。決まりだ」
有無を言わさぬ、平坦な声だった。そして、こう付け加える。
「金なら、何とかする」
プロデューサーの「はい」という返事は、声にならなかった。
翌朝。アパートの共有区画にあるテーブルには、昨日と同じ「ラッキーセット」の箱が置かれていた。中年の監督は、まるで昨日の食事の続きとでもいうように、同じ順番で、同じ表情で、黙々とハンバーガーを咀嚼している。
そこへ、新人プロデューサーをはじめ、音響担当、脚本家、そしてこのアパートの別の部屋に住むディレクターが集まってきた。ディレクターが「じゃあ、行きますか」と愛車のキーを指で回す。彼の案内で一同が向かった先は、駐車場に停められた流線形のクーペだった。
大人五人。スポーツタイプの二枚ドア。
乗り込むのに、まず一苦労だった。前の座席に監督とディレクターが収まり、後ろのタイトなスペースにプロデューサー、音響、脚本家の三人が押し込まれる。膝と膝がぶつかり、誰かの肘が誰かの脇腹にめり込んでいた。
車が窮屈な密室と化す中、それぞれの時間が流れ始める。
助手席の監督は、チキンナゲットの蓋側に慣れた手つきでソースを絞り出し、淡々と食べ進めている。後部座席では、音響担当がディレクターの許可もなくカーラジオの周波数をいじり始め、隣では脚本家が文庫本を開き、狭さなど意にも介さず活字の世界に没入している。
三人が押し込められた後部座席は、言うまでもなく、地獄だった。
ディレクターが窮屈そうにハンドルを握り、バックミラーで後部座席の惨状を一瞥した。
「で、監督。肝心の目的地はどこです? このままじゃ、ただのドライブにもなりませんよ」
その言葉に、監督は食べていたチキンナゲットの最後の一つを飲み込み、おもむろにポケットからスマートフォンを取り出した。そして、無言のまま隣に座る新人プロデューサーに画面を見せる。そこには、市街地のマップと、一つの場所を示すピンが立てられていた。
プロデューサーが「これは……」と声を上げるのと、彼自身のスマートフォンが鳴り響いたのは、ほぼ同時だった。慌てて通話ボタンを押す。
『もしもし、プロデューサーさん!? こちら制作進行です!』
電話の向こうから聞こえてくるのは、快活な女性の声だった。彼女たち制作進行の女性陣は、今回のプロジェクトのために集められた優秀なスタッフであると同時に、歌姫ディーヴァに心酔しきっている熱狂的なファンでもあった。
「ああ、お疲れ様です。今、監督から目的地の……」
『分かります!監督の予測、ドンピシャです!我々のネット調査でも、歌姫が現在そのエリアに滞在中であることが確定しました!どうやらプライベートな旅行中のようです!』
電話越しの興奮した声が、狭い車内に響き渡る。
『これから移動するとすれば、次の目的地はおそらく……ここ!』
プロデューサーのスマホに、新たなマップ情報が送られてくる。監督が示した最初の点と、女性陣が予測した次の点が、一本の線で結ばれた。推定ルートが、ほぼ確定した瞬間だった。
「……だ、そうです」プロデューサーがディレクターに画面を見せる。
ディレクターは一瞬呆れたような顔をしたが、やがてニヤリと笑い、クーペのアクセルを踏み込んだ。
女性陣の的確なナビゲートのおかげで、クーペは目的地にたどり着いた。そこは、近代美術館に併設された、ガラス張りの静かなカフェテラスだった。
窮屈な車内から這い出るようにして降り立った五人の男たちは、明らかにその場から浮いていた。食べかけの「ラッキーセット」の匂いをかすかに漂わせながら、彼らはテラスの一角に視線を集中させる。
そこに、彼女はいた。
歌姫は、ただ一人、庭園を望むテーブルの上に、腰掛けていた。白いカップを静かに持ち上げ、一口だけ紅茶を含む。その常識外れな姿勢にもかかわらず、所作は完璧に計算され、まるで一枚の絵画のようだった。彼女の周りだけ、世界の喧騒が届かない聖域になっている。
「……おい、行けよ」
「お前の出番だろ、言い出しっぺ」
同業者たちが、新人プロデューサーの背中を小突く。監督は何も言わず、ただ顎で「行け」と示した。
プロデューサーは生唾を飲み込んだ。心臓が早鐘を打つ。テーブルに腰掛けたその姿は、あまりにも異質で、圧倒的なオーラに焼かれそうだ。しかし、後退は許されない。彼は意を決して、歌姫の座るテーブルへと、一歩を踏み出した。
プロデューサーは、彼女のテーブルまであと数歩というところで、足を止めた。
空いていた椅子に、彼女は足を乗せている。そして当人は、あろうことかテーブルの上に腰掛けていた。行儀が悪い、などという陳腐な言葉では表現できない。まるで、そこが彼女のために誂えられた玉座であるかのように、あまりにも自然に、堂々と。
彼は周囲の空気を探った。カフェの他の客も、店員も、誰一人として彼女のその常識はずれな振る舞いを咎めようとはしない。それどころか、まるで貴重な美術品に触れるのを避けるかのように、皆が彼女のテーブルから絶妙な距離を保っている。それは恐怖ではない。畏怖というには、もっと温かい。――そうだ、敬意だ。誰もが、彼女が作り出すその聖域を侵すことを恐れているのだ。
常識はずれを、その圧倒的な「歌」の力で正当化させてしまう存在。昨日スクリーン越しに聴いた声が、目の前の光景と重なる。
この完璧な均衡を、自分の一声が壊すことになる。
喉が乾き、背中に嫌な汗が伝う。新人である自分が、この業界の誰もが遠巻きに見ることしかできない至宝に、今から話しかけなければならない。
彼はゆっくりと息を吸い、覚悟を決めた。
クーペは、美術館から少し離れた公園の脇に停まっていた。
運転席のディレクターがエンジンを切ると、車内にはただ沈黙だけが残った。誰も、何も言わない。やがて、誰かがドアを開け、一人、また一人と外へ這い出ていく。
五人の男たちは、公園にぽつんと置かれた一台のベンチに、吸い寄せられるように集まった。そして、まるで示し合わせたかのように、全員がそこに座り込み、あるいは寄りかかり、動かなくなった。
その姿は、さながら撃沈された船から逃れた、哀れな生存者たちのようだった。
「…完敗、だったな」
後部座席にいたベテランが、乾いた笑いと共に言った。それが、この作戦行動における最後の言葉だった。
新人プロデューサーは、ベンチの端に座り、アスファルトの一点をただ見つめていた。
頭の中では、数分前の光景が何度も再生されている。テーブルに腰掛けた歌姫の姿。向けられた、温度のない視線。そして、言葉を発することすら許されなかった、あの絶対的な空気。
プロジェクトの失敗。キャリアの汚点。
だが、胸を押し潰すこの重苦しい痛みは、それだけが原因だろうか。
悔しい? 惨め? 無力?
違う。もっと、どうしようもなく個人的で、純粋な感情。
ああ、そうか。
彼は、診断を下す。
これは、仕事の失敗ではない。
俺は、あの人に、恋をしたのか。
その自覚は、絶望の淵で彼をさらに深く突き落とす、あまりにも残酷な診断結果だった。
やがて、誰かが「……帰るか」と言い、男たちは力なく立ち上がる。撤退だった。
アパートの共有区画に戻った男たちは、ソファや床に散らばるように座り込み、誰一人として口を開かなかった。テーブルの上には、朝に見た「ラッキーセット」の残骸がそのまま残っている。
その重い空気の中、部屋の隅でノートパソコンを囲んでいた制作進行の女性スタッフたちが、ようやく顔を上げた。その中の一人が、静かにレポートを読み上げるように口を開く。
「……先ほどの件、お疲れ様でした。皆さんが戻られるまでに、彼女……歌姫に関する追加情報をまとめておきました」
彼女の声は淡々としていたが、その瞳にはファン特有の熱が宿っていた。
「まず、彼女の出自。アルゼンチン生まれのイタリア系。どちらの国でも、音楽業界の主流には属さず、早くから孤高の存在だったようです。そして、彼女のプライドの根源になっているのが、『ホロフォニクス』という音響技術です」
音響担当が、その名前にわずかに顔をしかめる。
「80年代に発表された、伝説の立体音響技術ですね。マイケル・ジャクソンですら一時期その導入を検討したと言われていますが、権利問題などで揉めて、歴史から姿を消したはずです」
「はい」と女性スタッフは頷く。「公式には。ですが、彼女はその失われた技術を完全に自分のものにしている。彼女の声は、ただの歌声じゃないんです。観客や空間に合わせて音を完璧に調律する、それ自体がホロフォニクスなんです。彼女のプライドは、この技術への絶対的な自信と忠誠心から来ています」
彼女は一度言葉を切り、打ちのめされているプロデューサーを真っ直ぐに見た。
「だから、ただ『映画に出てくれ』なんて交渉は、彼女にとって『私の芸術を理解していない雑音』でしかありません。高尚なアーティストを求めているわけでもない。彼女が求めるのは、ポップで、ロックで、それでいて完璧に穏やかな『場』だけ。…説得が無謀だったのは、当然なんです。私たちは、彼女が立つための舞台を、何も用意していなかったのですから」
女性スタッフによる分析結果は、重い事実としてその場にいる全員にのしかかった。部屋は再び沈黙に包まれる。最初にそれを破ったのは、クーペを運転してきたディレクターだった。
「……つまり、技術的に彼女の要求を満たすのは不可能。そういうことだな」
「ええ」音響担当が力なく頷く。「ホロフォニクスを商業映画のレベルで安定して再現するなんて、国家プロジェクトでもなければ無理ですよ。俺たちじゃ、機材をそろえることすらできない」
脚本家がそれに続く。「となれば、手段は一つ。彼女は諦めて、別のアーティストを探す。幸い、今の日本にはアニメの主題歌でヒットを飛ばす歌手ならいくらでもいる」
その言葉に、それまで黙っていた新人プロデューサーが顔を上げた。
「諦めるんですか!? あの声を聴いておいて、代わりがいるなんて本気で言ってるんですか!」
「だが、不可能を可能にするのが仕事じゃない」ディレクターが冷静に諭す。「俺と音響、脚本家は、代替案を探す。それが最も現実的な判断だ」
プロデューサーが反論しようと口を開きかけた、その時。これまで食事以外に何の興味も示さなかった監督が、静かに彼の方を見た。ただそれだけで、プロデューサーの背筋が伸びる。監督は、まだ諦めていない。プロデューサーは確信した。
分析を終えた女性スタッフが、そっと口を挟んだ。
「私たちも、他の手段を模索することには賛成です。ファンとしては、これ以上、準備不足のまま彼女に接触して、ご迷惑をかけるのは避けたいので……」
彼女はそこで一度言葉を切り、両派閥を見比べた。
「私たちは、ディレクターさんたちが進める技術や人材の調達をお手伝いします。ですが、監督とプロデューサーさんが彼女本人へのアプローチを続けられるなら、連絡をいただければ、いつでもサポートに回ります」
それは、穏やかだが明確な意思表示だった。
大きな騒ぎもなく、チームは静かに二つに割れた。それぞれが、自らの信じる方法で、このあまりにも高い壁に挑むことを決めたのだ。
ディレクターたちが代替案を探しに部屋を出ていくと、共有区画には監督と新人プロデューサー、そして「ラッキーセット」の残骸だけが残された。プロデューサーは、この好機を逃すまいと、震える手で企画書を監督の前に差し出した。
「監督。次の、一手です」
監督は企画書を一瞥し、ゆっくりとページをめくる。そこに書かれていたのは、飛行船を利用したゲリラライブの計画だった。
「歌姫の気位の高さを逆手に取り、観客数をあえて未知数にするんです。飛行船から彼女の歌を響かせれば……」
「ありきたりだな」
監督は、企画書から顔も上げずに言った。「それに、費用対効果が悪い。治安の悪い国ならともかく、今の日本でやっても奇異の目で見られて終わりだ」
プロデューサーは狼狽し、慌てて別の案を口にする。
「では、通常のライブ形式で……!」
「無意味だ」監督は企画書を閉じた。「歌姫に知名度はない。我々が彼女を見つけられたのは、女性陣の異常な情報収集力のおかげだ。彼女はネットに音源一つ上げていないし、大々的に活動もしていない。我々が昨日見た映像も、ファンが無断で撮影したものが流出しただけだ。客も呼べないライブに、何の意味がある?」
監督は、そこで初めてプロデューサーを真っ直ぐに見た。
「それに、根本的な問題がお前には見えていない。ホロフォニクスは、スピーカーの技術じゃない。音源ファイル、そのものに革命を起こすための、40年以上前のマイクの技術だ。片耳でも音の出どころが正確に分かるほどのな。スピーカーをいくら弄っても、決して再現はできん。ゲームやe-Sportsの世界すら変えたかもしれん代物だ」
監督は静かに続けた。
「その技術の開発者は、今アルゼンチンにいるらしい。だが、過去のいざこざで誰とも連絡を絶っている。つまり、我々に本物のホロフォニクスは用意できない。絶対にだ」
プロデューサーは言葉を失った。飛行船も、ライブも、すべてが前提から崩されていく。完全な、チェックメイトだった。
プロデューサーは言葉を失った。全ての企画が否定され、技術的にも説得は不可能だと宣告された。彼は、絞り出すように監督に問う。
「じゃあ……どうすればいいんですか……」
監督は答えず、代わりに「お前が付けていたボディカメラの映像、確認した」と、全く別の話をし始めた。プロデューサーの胸元に仕込まれていた小型カメラが捉えた、先ほどの「失敗」の全記録だ。
「画面越しに見た彼女は、我々が用意した資料にも、お前の言葉にも、一切興味を示さなかった。当然だ。あの女は、歌以外のすべてをノイズだと考えている。感情の構造は至ってシンプル。気位が高く、精神性はロックに近い」
監督は、そこで初めてプロデューサーに視線を戻した。
「だから、ダイレクトなアプローチが必要だ。だが、それは凡庸な企画書のことではない。あの気位の高い女を、段階的に嫉妬させ、ストレスを掛け続けることだ」
「嫉妬……? ストレス……?」
「そうだ」と監督は頷く。「奴の感情はシンプルだ。ならば、揺さぶり方もシンプルでいい。最初は歌をメインに据え、そこから多角的に展開し、奴のプライドをギリギリと削っていく」
監督はゆっくりと立ち上がり、プロデューサーの肩に手を置いた。その目は、まるで獲物を前にした狩人のように、冷たく光っている。
「ならば……お前が研究すべきは、一つだ」
あの日から、新人プロデューサーの世界は一変した。
監督に命じられた、たった一つの「研究」。それは、新人である彼がこれまで関わってきたどんな仕事よりも、深く、暗く、そして終わりが見えないものだった。
彼のアパートの一室は、三日も経たずに研究資料の海に沈んだ。テーブルと床には、古びた音響技術の専門書、海外のゴシップ誌のバックナンバー、ダウンロードした論文の束が散乱している。壁には、付箋の貼られた膨大な人物相関図。その中心には、もちろん、歌姫の写真があった。
窓の外が白み、また暗くなる。その繰り返しに、彼は気づいてすらいなかった。カフェインと糖分だけを燃料に、乾いた眼でモニターを睨みつけ、キーボードを叩き続ける。彼女のプライドを刺激し、嫉妬させ、ストレスを与えるための、ただ一点の急所を探して。
そして、四日目の朝。
何かの糸が繋がったように、プロデューサーの指が止まった。画面に映し出されたある一点の情報を、彼は食い入るように見つめる。
「……そうか。そういう、ことか……」
かすれた声で呟き、彼は何かを掴んだ安堵と、真実を知ってしまった絶望が入り混じった表情を浮かべた。そして、その発見を誰かに伝えようと椅子から立ち上がった瞬間、彼の身体から完全に力が抜け、床に崩れ落ちた。
どれくらい意識を失っていただろうか。床の冷たさで目を覚ました新人プロデューサーが、飢餓に近い空腹に導かれて向かった先は、いつもの牛丼屋だった。失われた分の生命力を全て取り戻すかのように、彼は特盛の牛丼を無心でかき込んでいた。
その背後から、ぬっと伸びてきたのは、虫取り網だった。
網は寸分の狂いもなく彼の頭部に被せられ、そのまま軽く締め上げられる。プロデューサーが驚いて振り返ると、そこには当たり前のような顔で網の柄を握る監督が立っていた。
「……捕獲、完了だ」
監督はそう言うと、プロデューサーの隣の席にどかりと腰を下ろし、カウンターに一つのファイルを置いた。それは、歌姫の顔をデフォルメしたイラストが描かれた、無駄に可愛らしいデザインのパッケージだった。表紙には、ポップなフォントでこう書かれている。
『歌姫を嫉妬させる方法』(第一稿)
「……なんですか、それ」プロデューサーが、網の中でもがくように尋ねる。
「見ての通りだ。俺が印刷しておいた」
その言葉に、プロデューサーの目の色が変わった。彼は、虫取り網に捕らわれたまま、よろよろと自分のカバンを探り、中から数枚の紙束を取り出した。それは、コーヒーの染みがつき、端が折れ曲がったレポート用紙だった。鉛筆で書かれた文字は、熱に浮かされたような勢いで、かろうじて判読できる。彼が倒れる寸前まで、何とか書ききった企画書だった。
「俺も……あります」
監督は、その手書きの、あまりにも生々しい紙の束と、自分が用意した奇妙にポップなパッケージを静かに見比べた。そして、ただ「そうか」とだけ呟いた。
牛丼屋で交わされた計画は、静かに、しかし大々的に始まった。
まず動いたのは監督だった。彼は、自身が過去に手がけた数本の短編映画を、動画サイトで一斉に公開した。それは、一見すると美しいミュージカル映画だった。しかし、決定的に異質な点が一つあった。――登場人物たちは一切、歌わないのだ。歌うべきクライマックスで、彼らはただ口を開閉させ、そこに流れるのは言葉を失った、あまりにもセンスの良い劇伴だけ。この『無歌ミュージカル』は批評家たちを困惑させながらも、その楽曲のクオリティの高さから、音楽ファンを中心に奇妙なバズを生み出し始めた。
次に、新人プロデューサーが動いた。彼は、売り出し中のとあるアイドルグループの熱心な「ファン」であることを公言し始めたのだ。SNSには、ライブ会場でペンライトを振る彼の写真がアップされる。インタビューでは、こう語った。
「歌は素晴らしい。でも、今の時代、より早く、より多くの人に届くのは『踊り』なんです。言葉の壁も、感性の違いも超えて、直感的に心を動かす力がある」
あれほど歌姫に心酔していた男が、手のひらを返したかのように、歌そのものの価値を否定し始めた。その興味は、もはや完全に歌姫の外にあった。
そして、ディレクター、音響、脚本家たちも動いていた。彼らはそれぞれの業界の人脈を使い、「歌詞を消す」という流れを強引に作り出していく。アニメのエンディングテーマが急遽インストゥルメンタル版に差し替えられ、ドラマの挿入歌からボーカルが消えた。反発する者もいたが、脚本家には印税の配分増を約束し、渋るアーティストには業界のゴシップをちらつかせて脅す。すべては、静かに、しかし着実に進められた。
歌が、その中心であるはずの「言葉」を奪われていく。
歌姫の立つべき場所が、少しずつ、しかし確実に、削り取られていく。
この静かなる戦争の始まりを、彼女はまだ知らない。
アルゼンチンにある彼女の私邸は、静寂そのものだった。しかし、その静寂は、最近になって異質なものに変わり始めていた。世界中から舞い込むはずの、彼女の歌を求めるオファーが、明らかに減っていたのだ。届くのは、決まって「歌詞のない楽曲」ばかり。
「くだらない」
歌姫は、送られてきたデモ音源を一蹴した。そして、動画サイトで奇妙なバズを生んでいるという監督の『無歌ミュージカル』を一度だけ再生し、数秒で停止した。こんなもので自分の牙城が崩せるとでも思っているのか。彼女は自らのスタジオに入ると、その中で最も評価の高い楽曲を選び、同じメロディーに自らの歌声を乗せて録音した。圧倒的な技術と、感情の奔流。完成した音源を、彼女は『声』という一言だけを添えて、ネットに放った。――これで、どちらが本物か、世界が知ることになる。
その反応を確かめる中で、彼女は、偶然あるテレビ番組の録画映像を見つけた。そこに映っていたのは、満面の笑みでアイドルのダンスを語る、あの新人プロデューサーの姿だった。
『やっぱり、歌はダンスありきですよ!』
『どんなに素晴らしい歌手でも、最低限の振り付けと、人としての常識はあった方がいいですよね!』
その言葉は、鋭利な刃物となって、歌姫のプライドを静かに切り裂いた。テーブルに腰掛け、椅子に足を乗せる自分の姿が、脳裏をよぎる。あの時、ただ一人、必死な目で自分を見つめていた、あの男。彼の口から発せられた「常識」という言葉が、彼女の胸に深く突き刺さった。
歌姫は、無言でタブレットを閉じた。そして、部屋の外に控えるアシスタントに、短く命じた。
「日本行きのフライトを予約して」
日本に到着した歌姫が滞在先に選んだのは、都心のホテルのスイートルームだった。彼女は、日本で進行している不可解な「歌詞消去」ムーブメントの首謀者たちを、冷徹に分析することから始めた。
まずは、あの新人プロデューサー。SNSを検索すれば、彼が例のアイドルグループのライブに足繁く通う姿がすぐに見つかった。苛立ちが募る。その調査の過程で、当然のように彼の雇い主である監督の名前にたどり着いた。
監督の経歴を調べて、歌姫はわずかに眉をひそめた。彼のキャリアの初期は、アニメ業界に集中している。まだ世間から日陰の存在として扱われていた時代のアニメーターであり、演出家だった。
そして、彼女は一つの古い新聞記事のデジタルアーカイブを見つけた。
例の事故の記事だ。内容は、彼女が事前に把握していた通りだった。監督が事故で聴覚を失ったこと。強引に人を助けたこと。そして、助けられた被害者から「死んだ方がマシだった」と、救助そのものを否定されたこと。
だが、そこには新たな情報があった。記事の論調は、当時まだマイナーだったアニメ業界出身の監督に対する、テレビや新聞といった旧来メディアからのあからさまな敵意に満ちていたのだ。「アニメ監督による自己満足の救助劇か」そんな見出しすら見受けられた。
歌姫の指が、止まる。
異端者。
才能がありながら、主流から認められない者。
旧来の権威から、その価値を不当に貶められる者。
その姿は、あまりにも似ていた。
――正当な評価を得られず、業界の権威たちから異端扱いされ、歴史から消えていった「ホロフォニクス」の開発者の姿に。
監督は、ただの「普通の人間」などではなかった。彼もまた、自分や、自分が信奉する技術の父と同じ、「異端者」だったのだ。
歌姫は、モニターに映る監督の古い写真から、目を逸らせずにいた。
日本に到着した歌姫が滞在先に選んだのは、都心のホテルのスイートルームだった。彼女は、自らの聖域を侵す者たちの分析から始めた。まずは、あの新人プロデューサー。そして、その背後にいる監督。
監督の経歴は、アニメ業界という「異端」から始まっていた。そして、一つの古い新聞記事のデジタルアーカイブ。事故。聴覚の喪失。被害者からの一方的な非難。そして、アニメ業界出身の彼に対する、旧来メディアからの悪意に満ちた報道。
歌姫の指が、止まる。
――才能がありながら、主流から認められない者。業界の権威から、不当に価値を貶められる者。
その時、彼女の脳裏に浮かんだのは、自らが信奉する技術、ホロフォニクスの開発者の姿だった。彼女は、その悲劇的な末路を誰よりも詳しく調べていたからだ。
マイケル・ジャクソンをも魅了したその技術は、しかし、数多の権威によって徹底的に叩き潰された。英王室が支援する国営企業は彼を敵視し、耳音響放射の第一人者であるデイヴィッド・ケンプは「彼の理論どころか、能力そのものが疑わしい」とまで言い放った。父のスキャンダル、名を騙る偽物の横行、そして科学界と国家からの拒絶。
才能が、スキャンダルで潰される。
真実が、権威で歪められる。
本物が、偽物に駆逐される。
監督の身に起きたことも、ホロフォニクスの開発者を襲った悲劇も、根は同じだった。彼らは、ただの「普通の人間」でも「不遇の天才」でもない。業界という巨大なシステムの理不尽さによって、その存在そのものを否定された、「報われざる者」なのだ。
歌姫は、モニターに映る監督の古い写真から、目を逸らせずにいた。
日本に来た目的は、宣戦布告のはずだった。だが、今、彼女の心に宿っていたのは、怒りとは似て非なる、静かで、そして重い共感だった。
歌姫の指は、なおもキーボードの上を滑っていた。監督とホロフォニクスの開発者、二人の「異端者」の間に見出した共通点。その根源を、彼女はさらに深く探ろうとしていた。
そして、オーディオマニアが集う古いフォーラムのログの中に、決定的な記述を見つけた。
1986年。開発者のラボに、何者かが侵入した。盗まれたものは、三つだけ。
彼が長年書き溜めてきた、全ての技術文書。
録り貯めていた、全てのマスター音源。
そして、ホロフォニクスの心臓部である、あの人間頭部の形をしたダミーヘッドマイクそのもの。
彼の魂の全てが、一夜にして奪われたのだ。
そして、その事件の後を追うように、ホロフォニクスの特徴を謳った楽曲やオーディオ製品が、市場に次々と現れたという。
歌姫は、そこで初めてブラウザを閉じた。
部屋は、ホテルの空調の音だけが響いている。
(……ここまで悲惨な人生があっただろうか)
才能は権威に黙殺され、スキャンダルで貶められ、偽物に市場を奪われ、そして最後には、その魂そのものである研究成果を根こそぎ盗まれる。
「報われない」という言葉ですら、あまりにも生ぬるい。
彼女の胸に宿っていたのは、もはや共感ではない。
それは、同じ「声」を武器にする者として、決して許すことのできない、静かな怒りだった。
静かな怒りを胸に宿した歌姫は、まず行動の前提となる情報を集めることから始めた。彼女は、ネットである情報を目にした。
映画を、もう一度、礼儀正しく見てもらうため。
そのあまりにも純粋な目的を聞き、歌姫はわずかに眉をひそめた。馬鹿げている。だが、その馬鹿げた理想に、なぜ自分を主軸として使わない? 彼女はネットの掲示板やSNSで、この「静かなる戦争」の漏洩した断片情報を拾い集めた。そして、全体像を把握するにつれ、不満は確信に変わっていった。
――彼らは、私という最終兵器がありながら、あえてそれを使わずに回り道をしている。
特に許せなかったのは、あの新人プロデューサーだ。アイドルのダンスこそが至上だと語る彼の姿は、裏切り以外の何物でもない。
「……面白い。ならば、直接引導を渡してあげる」
歌姫はコートを羽織り、タクシーを拾うと、彼らの拠点であるあのアパートへと向かった。
しかし、アパートの前に着いた彼女は、異様な空気に足を止める。数人の男女が、黒い礼服を着て、沈痛な面持ちで建物から出てきたのだ。
嫌な予感が、胸をよぎる。
彼女が共有区画のドアを開けると、そこは様変わりしていた。ソファは壁際に寄せられ、中央には小さな壇が設けられている。そして、その中央に置かれた遺影の中で、あの新人プロデューサーが、困ったように笑っていた。
彼の、葬儀だった。
歌姫は、その場に立ち尽くす。
宣戦布告のために用意した全ての言葉が、喉の奥で凍りついて消えた。
プロデューサーの死は、元々彼が患っていた病によるもので、寿命が長くないことは皆知っていたこと。しかし、ここ数日の常軌を逸した仕事ぶりによるストレスが病状を悪化させ、本来の余命よりも数ヶ月早く、彼の命を奪ってしまったこと。そして、最期まで、彼は何かを必死に作っていたこと。
歌姫は黙ってそれを聞くと、誰に言うでもなく、ふらりとその場を離れた。彼女は葬儀の喧騒に紛れ、プロデューサーの部屋に滑り込む。ドアには鍵がかかっていなかった。
部屋の中は、彼が倒れた時のままだった。資料の山、空になったエナジードリンクの缶、そして、スリープモードから復帰したばかりのノートパソコンの明かり。
画面には、ファイルエクスプローラーのウィンドウだけが開かれていた。それはまるで、USBメモリから本体への、あるいはその逆のデータ移動が、ついさっき完了したことを示すかのように。
歌姫は、そこに彼の最期の仕事が残されていることを直感した。彼女は自らのスマートフォンをケーブルで接続し、データをコピーする。数分の、永遠のように長い時間。転送が完了すると、彼女はUSBメモリを元の場所に戻し、部屋を訪れる前の状態へと完璧に復元した。
全てを終えた彼女は、部屋の隅に置かれた、彼が笑うスナップ写真に目をやった。そして――静かに目を閉じ、そっと両手を合わせた。
それは、祈りだった。
あれから、数日が過ぎた。
歌姫はホテルの部屋で、プロデューサーが遺したUSBメモリの中身を、ただ静かに分析していた。
データは、膨大な量のアイドルの研究と、振り付けの調査だった。一部は破損し、欠けている部分もあったが、彼の意図を把握するには十分だった。
歌姫の歌は、観客ありきだ。彼女はステージの上から、観客の一人一人の魂をその視線で射抜き、支配する。歌うことは、戦うこと。だから、余計な動きは一切しない。それが、彼女という表現者の哲学だった。
しかし、彼が遺したものは、その哲学の真っ向からの否定だった。
無数の動画ファイル、ダンスのモーションデータ、観客心理に関する論文。その全てが、一つのメッセージを雄弁に物語っていた。
――ただ、楽しく、没入して歌って欲しい。
君臨する女王としてではなく、歌う喜びに身を委ねる、一人の表現者として。
それが、彼の最期の願いだった。
歌姫は、ノートパソコンを閉じた。
そして数時間後、彼女は再び、あの墓地の前に立っていた。
彼女が、プロデューサーの墓石に向けて響かせたのは、誰もが予想するような、悲しみに満ちた鎮魂歌ではなかった。
それは、彼が研究していたアイドルグループの、あまりにも明るいポップソング。
だが、彼女の声にかかれば、その軽快なメロディーは、悲しみも喜びも全てを包み込む、荘厳な祈りの歌へと昇華されていた。ほんの少しだけ、彼女の身体が揺れる。観客のいないその場所で、彼女は初めて、目を閉じて歌っていた。
その歌は、墓石の前で響かせるには、あまりにも奇妙で、「斜め上」に進んでいた。
それが、彼女の選択であった。
歌い終えた彼女が目を開けると、いつの間にか、そこに監督が立っていた。
(……どうせまた、彼の過去や「報われない者」の話でも聞かされるのだろう)
彼女は落胆と気だるさを感じていた。しかし、彼が口にしたのは、予想とは全く違う、静かで、しかし鋭い言葉だった。
「俺は聞こえないから分かる。プライドが、質を上げてるんだろ?」
歌姫は、思わず顔を上げた。
「俺はあのプロデューサーを、死ぬと分かって雇っていた。報われないと思ったら、助けに行く。……同じ轍を踏ませる訳にはいかねぇよ、年端もいかない子供に……」
その言葉に、歌姫は呆れたように、そして少しだけおかしそうに、息を吐いた。
「私、今年で34ですけど」
「……え?」
初めて監督のポーカーフェイスが崩れ、素の驚きが漏れる。その表情を見て、歌姫はふっと笑みをこぼした。
「……今の、気に入ったから受け入れるわ」
だが、彼女がそう言って「受け入れ」ても、その心の揺らぎは消えていなかった。プロデューサーの死という「報われなさ」が、彼女を内側から蝕んでいる。監督は、それを見越していた。彼は、同情ではなく、さらなる言葉を彼女に突きつける。
「人生は無価値で無意味で、運任せだ」
「その言葉の差異で揚げ足取り続けても何かが変わる訳でもない、いつでも言葉を残したのは勝者のみだ、遺書ですら多少耳目を集めるだけ、悪行の方がまだ聴衆には響く。」
監督は続けた。
「諦めよ、お前はその悪辣な人生を選んでしまったのだ。」
「その悲痛という取り返しのつかぬ過失を自ら抱えて、その痛みを喉奥に潜ませて」
「その墓石に遠くより響かせみせ、それこそ歌姫のすべき所業であろう。」
彼女を人間として救う気などない、あまりにも残酷な言葉。
歌姫は、一瞬、怒りに顔を歪めた。だが、次の瞬間には、その表情は静かな覚悟へと変わっていた。監督は耳が聞こえない。だから彼女は、声ではなく、無音のまま、その視線と佇まいだけで意思を伝えた。
監督は、その無言の返答を読み取ると、ただ小さく頷いた。
墓地からの帰り道。監督の運転する車が、街の喧騒の中へと滑り込んでいく。覚悟を決めた歌姫は、窓の外を静かに見つめていた。その沈黙を破ったのは、監督の唐突な一言だった。
「試せ」
有無を言わさぬ命令と共に、監督は車の全ての窓を全開にし、カーステレオのボリュームを最大まで引き上げた。街の騒音が、一気になだれ込んでくる。
「こんな最悪な場所で歌わされるならついて行かなきゃ良かった!」
歌姫は悪態をつきながらも、その声を発した。
彼女の声は、けたたましいクラクションも、人々の雑踏も、全ての騒音を飲み込み、街の空気を支配した。道行く人々が足を止め、まるで心臓を直接掴まれたかのように胸を押さえる。その目からは、理由もわからぬまま、涙が静かに流れ落ちていた。街は、奇妙な静寂に包まれた。
その光景を見て、監督は不敵に笑った。
「お前に悪趣味な日本での活動名を与えよう!」
「その名も『ハートアタック・ディーヴァ』! プロデューサー一人死なせたんだからこんくらい甘んじて受けろ!」
「ハイセンスでとってもいいと思うわ! ありがと!」
彼女は、即座にそう言い返した。
その直後、監督の車が大きく揺れ、エンジンがストールする。彼が忌々しげに、そして強引にエンジンをかけ直そうとキーを回す。その手の上に、歌姫がそっと自分の手を重ねた。
「これで静かに歌える」
そう言って歌姫は邪魔なエアコンでさえ付けっぱなしにしていた。