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エディとユランは路地裏を後にし、街を囲う低い石壁を越えて、外の世界へと足を踏み出した。
街の喧騒が遠ざかり、代わりに風と草の音が耳に届く。前方には、緩やかに連なる山の稜線が広がっていた。
この先にあるエリオン聖王国は、多くの神々を信仰する宗教国家だが、移民や難民にも門戸を開いた柔軟な国だと聞いている。孤児であろうと素性がなかろうと、居場所くらいはある──そういう場所。
エディは肩の荷物を持ち直しながら、横を歩くユランにふと目をやった。
「……ユラン、髪、切った?」
今まではもう少し長かったはずの白銀の髪が、ユランのうなじでふわりと揺れている。
今は短く、耳が出るくらいに整えられていて、どこか軽やかな印象だった。
「んー?あー……ちょっとねぇ。気分ってやつ?」
ユランは笑って、特に気にする様子もなく答えた。
その金色の瞳は、今日も陽の光を受けて淡く光っている。
ユランの外見はどこか中性的だ。白銀の髪と光る金色の瞳は路地裏でも目を引いたが、今はむしろ、この開けた風景の中に自然と溶け込んでいた。
簡素な服に着替えてはいるが、それでもなお、どこか浮世離れした雰囲気がある。
華奢な体つきに、どこか無邪気な振る舞い。人間らしいのに、“何かが違う”と、見る者の直感に訴えかけるようだった。
エディはそんなユランを一瞥し、自分の髪に手をやった。
「僕も……切ろうかな。最近、首のあたりがうっとうしくて」
「ええー!もったいないよ、それ!」
ユランがすかさず身を乗り出してきた。
大げさに目を見開き、エディの髪をつまんでくる。
「この長さ、好きなのにぃ。エディっぽくていいじゃん。ふわってしてて、やわらかくて、なんか──」
「“なんか”って、なに?」
「うーん、“生きてる”って感じ?」
「……なにそれ」
エディは苦笑して、肩をすくめた。ユランはそれでも不満げに唇を尖らせながら、つまんだ髪をそっと離した。
「っていうかぁ、本当に山越えるの?魔物とか出るって聞いたけどぉ」
「出るはずなんだけど……今は妙に静かだね」
そう言いながら、エディは足元の地面に手をかざした。
使ったのは、生き物の気配を探るための簡単な探知魔法だ。
エディには魔法の素養はあるが、学んだことがないため、高度な術は使えない。
けれど、こうした簡易的な魔法なら、それなりに使いこなせる。
魔力の流れを通して、周囲にある生命の反応を探る──はずだった。
だが、感知できたのは微弱な草木の気配だけで、鳥や小動物の影すら、ほとんど感じられなかった。
「……魔法が鈍ってるわけじゃない。気配が、ない」
「ふーん。なんか、つまんないねぇ。せっかく山に入ったのに」
「まぁ、無事に通れるなら、それが一番だよ」
エディは首をすくめて歩みを進めた。
山道は決して楽ではなかった。傾斜がきつく、足場も不安定な箇所が多い。
けれど、魔物に襲われることもなければ、天候にも不思議と恵まれ、二人は順調に山を越えていった。
夜になれば、ユランが木々に火の粉を散らして即席の焚き火を作り、エディが小さな結界で周囲を守った。
眠りの中で微かな気配を感じることはあったが、それも近づいてくることはなかった。
「……やっぱり、おかしいね。こんなに何もいないなんて」
「もしかしてさ、エディが一緒だからじゃない?」
「僕が?」
「うん。“持ってる”っていうかさぁ」
「……なにそれ。都合のいい理屈だね」
冗談めかして返しつつも、エディの胸には小さな違和感が残っていた。
──なぜ、これほどまでに順調なのか。
──なぜ、魔物たちは姿を見せないのか。
答えは出ないまま、三日が過ぎた。そして、四日目の朝。木々が切れ、風が開けた場所を吹き抜けた先に、目的の国がその姿を現した。
広大な平地の上に築かれた城壁都市。白い石で組まれた高い壁と、その向こうにそびえる塔が、陽光を反射してきらめいている。エディは立ち止まり、目を細めてその光景を見つめた。
「……着いた」
「うわぁー。意外と立派だねぇ、ここ」
「“意外と”って……」
肩をすくめるエディの横で、ユランがひときわ楽しそうに笑った。
けれどエディは、心の奥で気づいていた。
あの静かすぎた山越えの旅は、単なる幸運ではない。何かが、どこかで、自分たちを見ていた。
理由はわからない。けれど、特に被害があったわけでもない。だからエディは、気づかないふりをすることにした。
それからさらに半日ほど歩き、街道沿いに徐々に人の姿が増え始めた。
やがて行き交う馬車や旅人が現れ、大きな都市の気配が空気に混じる。
白い石壁が遠くに見えはじめた頃には、山の静けさはすっかり遠ざかっていた。
そして今、二人はその城壁の門前で、入国のための列に並んでいた。
門の前には剣を携えた兵士が二人。背後には、帳面を手にした文官が控えている。
「名前と出身国を」
文官が書類に目を落としながら問いかけた。
「……エディ。スェンレリカ王国出身です」
その瞬間、文官の手が止まり、顔がわずかにこわばった。
兵士のひとりが目線を交わし、無言のまま警戒するように立ち位置を変える。わずかに空気が張り詰めた。
「……確認する。少し待て」
文官が手を挙げて合図すると、奥から一枚の紙が運ばれてきた。粗末な紙に急いで刷られた号外だった。
「これに目を通しておけ」
そう言って、彼はもうそれ以上何も説明せず、次の対応へと視線を戻した。
“《スェンレリカ王国消滅》──火に呑まれた王国。厄災の神、現る。”
「……え?」
エディは手渡された号外を凝視した。
三日前、王都を中心に突如として地が裂け、炎が吹き上がり、国土の大半が黒い焼け野原と化したこと。
その中心にいたのは、“魔王”と呼ばれていた存在──だが、他国ではそれは神話に登場する“厄災の神”に該当するとされていたこと。
エディは震える手で紙を握りながら、目を滑らせていった。
──王国では何年も前から不作や疫病が続いていた。だが、原因は“魔素除け”の結界が長らく機能していなかったためであり、それを維持すべき王族や上層部が、国防費を私的に流用していた。
──責任の所在を隠すため、上層部は古い神話から“魔王”を引き出し、すべての罪をそこに押しつけた。
──各国に協力を求めたが、内容は支離滅裂で信頼されず、拒否された。
「……全部、でたらめだったんだ……」
エディは低くつぶやいた。隣に立っていたユランは、ちらりと号外を覗き込み、特に何の表情も見せなかった。
「ふぅん。燃えちゃったんだ」
それだけだった。声には感情の起伏がなく、事実を確認しただけのような調子だった。
門をくぐる際、文官がひとことだけ告げる。
「君たちは難民として扱われる。入国は許可するが、滞在には報告義務がある。指示は後日通達する」
「……わかりました」
重い返事をして、エディは静かに門をくぐった。
街の中は穏やかで活気にあふれていたが、その空気の奥には、外の情勢に対するかすかな緊張感が確かに漂っていた。
人々の目はどこか落ち着かず、掲示板には、あの号外と同じものがいくつも貼られている。
最初はただ驚いていたが、時間が経つにつれて、現実味がじわじわと押し寄せてきた。
──もし、あと一日あの町を出るのが遅れていたら……。
「……ユラン。怖くないの?」
「うーん?……燃えるもんなんだねぇ。びっくりはしたけど、怖くはないかなぁ」
「……そっか」
エディは目を伏せた。
そんなユランの、どこか他人事のような態度が、今は不思議と心を軽くしてくれた。
──少なくとも、ここまで無事にたどり着けた。それだけで、今は十分だった。