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あのあと、何が起こったのだろうか。
その場には何の痕跡もなく、まるで最初から何事もなかったかのようだった。
座り込んだまま、ぼんやりと不思議に思いながら周囲を見渡す。
すると、不意に背後から声がかけられた。
「おー、目ぇ覚めたぁ?」
振り返ると、少し離れた場所に数人の人影が地面に転がっていた。
そのうちの一人の上に、ユランがのしかかるようにして座っている。
「……お前ね、何してるの」
「エディを守ってやったんだぁ」
「見知った顔も混じってるように見えるけど」
「知らねぇよ、そんなん」
「はあ……だからお前は“気狂い”なんて呼ばれるんだよ」
どうやら、エディが倒れていた間に、ユランが“何か”から彼を守ってくれていたらしい。
ユランはこの界隈で知らぬ者のいない、“気狂い”の異名を持つソロだ。
気分が良さそうに笑っていたと思えば、突然キレて相手をボコボコに殴る。
意味不明な行動が多く、関わると面倒な、厄介な気分屋である。
相手の気が狂うほど追い詰める行為や、その本人の感情の起伏の激しさから“気狂い”と呼ばれていた。
「倒れてるエディに近づこうとするからさ、疑わしきゃ罰せよ?っていうじゃん?」
「……“疑わしきは罰せず”だよ。意味、真逆なんだけど。……まあ、でもありがとう」
「……うん」
エディはなぜかユランに懐かれており、彼の奇行に手を焼いた者たちから“相談役”として呼ばれることも多い。
見知った顔も構わず殴り倒しているようで、本当に困ったやつではある。
だが、今回は善意でエディの用心棒をしてくれていたようなので、礼を言うと、ユランは少し照れくさそうに返事をした。
今、この路地裏で“年長組”と呼ばれているのは、エディとユランの二人だけ。
ついこの前までは、もう一人いた。だが、その者は路地裏を巣立っていった。
この路地裏では、ある程度の年齢になると、遅かれ早かれ出ていくのが通例だった。
生き延びるだけで精一杯の子どもたちの中で、体が育ち、判断力がつけば、次に問われるのは“どう生きるか”だ。
エディもユランも、もうその時期に差しかかっている。
子ども扱いされていた頃が終わりを迎え、代わりに背負わなければならないものが増えてくる。
だからこそ、そろそろ出口を探さなければならない。
そしてそれは、エディにとって“今日”であり、ユランにとっても、そう遠くない未来のはずだった。
「あのさ、ユラン。君が来た時、何もなかった?」
「……何かって?」
「いや、……なんでもない」
ユランは首をかしげると、別に気にした様子もなくごろりと寝返った。
一方でエディは、あの“声”のことが頭から離れなかった。
けれど思い返そうとしても、あの瞬間から記憶が曖昧で、霧がかかったようになっている。
(……気を張りすぎて、ぶっ倒れたのかもな)
そう自分を納得させるように小さく息を吐いて、エディは立ち上がった。
「僕、寝蔵に戻るけど……」
「うん、行こっかぁ」
「いや、“僕”が、だよ」
「わかってるよ?」
エディが止めようとした時には、もうユランは当然のように後ろに立っていた。
彼のその気まぐれさと、聞いてるのか聞いてないのか分からない返事には、今さら驚かない。
「……勝手にして」
肩をすくめながら歩き出すエディに、ユランは楽しそうに鼻歌まじりでその後ろについていった。
入り組んだ路地を抜け、小さな物置のような建物の裏手にある、崩れかけた壁の隙間をすり抜けると、そこがエディの寝蔵だった。
瓦礫と板切れで自分なりに囲っただけの小さな空間。雨風を完全にしのげるわけではないが、この街で孤児として生きていくには、十分すぎるほどの「持ち家」だ。
中には、毛布代わりの古布と、盗んだり拾ったりして集めた生活道具。古い鞄がひとつ、角の荷物の下に押し込まれていた。エディはしゃがみ込み、慣れた手つきでその鞄を引っ張り出すと、手早く中身を整理し始めた。
持っていくのは、本当に必要なものだけ。食料、少しの着替え、金。決して多くはないが、それでも“外”に出る準備としては、十分だった。
「なぁ、エディ」
背後から声がして振り向くと、そこにユランがいた。いつの間にか、寝蔵の入り口に腰を下ろしてこちらを見ている。
「……何?」
「もしかしてさ、出ていくつもり?」
エディは、少しだけ黙って、それから小さく息を吐いた。
「……そろそろ潮時だと思ってたんだ。僕たちくらいの歳になれば、ここを出るのが“自然”だろう?」
その言葉を聞いて、ユランはふぅんと声を漏らした。
「じゃあ、ついてっちゃだめって言われても、ついてくからね」
「はぁ?」
「だって、エディといると飽きないんだもん」
まるで当然のように、ユランはエディの寝蔵の中に転がり込んできた。
気分屋で、厄介者で、だけど妙に勘が鋭くて、人と違うものが見えているようなユラン。
エディは頭をかきながら、小さくため息をついた。
「……勝手にして」
エディは鞄の口をきゅっと締め、肩にかけると寝蔵の中を見渡した。もう、ここに戻ることはないだろう。
「行こっかぁ」
いつの間にかユランが鞄の反対側に並んで立っていた。
まるで散歩にでも出かけるかのように、ユランは足取り軽く路地を跳ねるように歩き出す。
エディは肩をすくめてその後に続いた。
路地裏を抜け大通りに出ると、朝の喧騒が始まりかけていた。
街の外れ、石畳の端を踏みしめるように二人は歩いていく。振り返ることはなかった。
この路地裏で過ごした日々も、今日限り──名残惜しさや不安がないわけではないが、それでも足取りは軽かった。
ユランが鼻歌を歌い出すと、エディは眉をひそめて「うるさい」と一言だけ返す。
そのままふたりは、あっけないほど簡単に、街を抜けた。まるで、この街に未練など一つもなかったかのように。
──それからしばらくして。
ふたりが旅立ったその日の夕方だった。
エディたちが暮らしていた路地の隅で、孤児たちがひそひそと話し合っていた。
「あのファミリー……誰もいないんだって」
「は?一人も?」
「うん。……全員」
「でも、誰かが襲った形跡もないんだろ?」
「そう。寝蔵も、持ち物もそのままだって……」
その話は、すぐに路地裏中に広がったが、そこまで気にする者たちは居なかった。
この路地裏で「消える」ということが、ただの移動や逃走ではないときがあることを孤児たちは知っていたからだ。
けれどエディは、そんなことを何ひとつ知らず、ユランと並んで新しい道を進んでいた。
その歩みは、まっすぐで、どこまでも軽やかだった。