現代版『カルネアデスの板』をめぐる男たちの攻防【心優しき紳士たち】
太平洋の真っ只中に、今、2人の男が浮かんでいる。
手足をばたつかせ、辛うじて生を繋いでいる。
見渡すかぎり紺碧の深い海。陸地はおろか、渡り鳥が羽を休めるちっぽけな岩礁すら見当たらない。
成田にある船着場から出港した世界一周の旅の途中だった。
豪華客船から誤って転落したのだ。幸い脚から着水し、しばらく波に弄ばれたが、どこも骨折していなかった。
クルーズ客船はこんな真昼間に男たちを落としたにもかかわらず、素知らぬ様子で航海を続けていった。
声を嗄らして助けを求めたのに、あれよという間に見えなくなってしまった。後方を担当していた数人の監視員たちは、持ち場を離れポーカーにでも夢中になっていたのではないか。
いずれにせよ、こんな無情なことはない。
2人は20代前半と若く、体力もあった。
双方とも泳ぎは巧みで、立ち泳ぎも堂に入ったものだ。
しかしながら3時間も波間を漂っているうちに、身体が凍えはじめていた。
日が傾きはじめているのだ。
低体温症に陥れば長くはもたない。この分だと、夜は乗り越えられそうになかった。
奇しくも2人は、似た者同士なのかもしれない。――内心、自分へのご褒美として、せっかく高い船賃を払って乗船したのに、その客を置き去りにした船のスタッフを罵り、教育を怠った船会社を呪った。
たがいに己の不運を嘆き、あきらめかけていた。
なのにこの期に及んで、わずか4メートルと離れていない距離で漂いながら、口を利こうともしなかった。
むろん極限状況である。それどころではなかったのだが――2人とも、人見知りするタイプだったのだ。
そうこうするうちに、ひときわ大きな波が襲いかかってきた。さながらライオンの顎だ。
洗濯機に放り込まれたように巻き込まれ、揉みくちゃにされた。
息も絶え絶えで、やっと海面に顔を出したときのことだった。
大自然は、思わぬ土産を残していったことに気づく。
なんと、一枚の板切れではないか。
真っ青な海に、ひときわ鮮烈な色の木片が浮いているのだ。
ちょうど小学生が水泳で使う、ビート板よりやや大きいサイズ。
男たちは、あっぷあっぷしながらも、たがいに眼を合わせた。
――あれにつかまれば、なんとかなるかもしれない。あれこそ仮初の陸地。天からもたらされた命綱である。
たとえそれをつかんだとて、救助が迎えにくるまで生命を維持できるかどうかは別問題である。それでも当面は生き永らえることができよう。
しかしながら、その板切れは人間1人分しかつかまることができない。
1人がそれにつかまり、もう一方がその背中に……という連携プレーをしようにも、ビート板は1人分をやっとのことで浮かせる力しかなく、そんなことをすれば2人とも沈んでしまいかねない。
男たちはとっさに思った。
どちらかの一方が、相手を蹴落としてでも、この板切れを独占するしかない。
残酷な椅子取りゲームに座り損ねた場合、それは死を意味する。
ほぼ同時に、板切れめざして泳いだ。
◆◆◆◆◆
地球上には、合法的な殺人がいくつか存在する。
戦争時における兵士同士の戦闘。
同じく警察官が職務の際、法で認められている行為。
堕胎も、広義の意味においては数えられるかもしれない。
あと1つが、緊急避難によるそれだった。
緊急避難とはすなわち、自身、もしくは他人の生命や身体、自由もしくは財産に対し、ふりかかる危難を避けるべく、やむを得ずにした行為である。これによって生じた害が、避けようとした害の程度を超えなかったケースを指す。
今まさに、2人の男たちが一枚の板切れをめぐる状況こそ、緊急避難を選択するか否かの問題に直面していた。仮に蹴落とさなくても、この板切れを奪うこと自体が、間接的に相手を殺害するも同義である。
緊急避難――まさに今2人の男たちがおかれている状況は、『カルネアデスの板』そのもののシチュエーションであった。
カルネアデスの板とは、古代ギリシャの哲学者カルネアデスが出したといわれる問題である。別名カルネアデスの舟板ともいう。
舞台は紀元前2世紀のギリシャ。
一隻の船が難破し、乗組員はみんな海に投げ出されてしまう。
1人の男が、破船した板切れにすがりつく。するとそこへ、別の男が同じ板につかまろうとする。
とはいえ、おたがいがつかまれば、板そのものが沈んでしまうのだ。先につかまっていた男は、あとから来た者を突き飛ばして水死させてしまう。
その後、救助された男は殺人の罪で裁判にかけられたが、罪に問われることはなかった……。
これは緊急避難の事例として、現代でも引用される有名な寓話として知られている。
日本の法律でも同じく、刑法第37条の緊急避難に該当すれば、この男は罪に問われないのだ。もっとも、その行為によって守られた法益と侵害された法益を天秤にかけた場合、過剰避難と捉えられることもあり判断が難しい。
したがって、この板切れをめぐる生死を賭けた争奪戦は殺人が正当化されるのだ。どうせ他に目撃者はいない……。
◆◆◆◆◆
2人は板切れに近づいた。
クロールで、あとひと掻きで手が届くところまで、おたがいの距離が狭まった。
ほぼ同時に、こう言った――。
「どうぞ、この板につかまってください!」
ハモるほどのぴったりなタイミングだったので、2人は言ってから面食らった。
その拍子に片方の男が潮水を飲んでしまい、あえいだ。
もう一方が、
「君こそお先に!」
「……いやいや、僕は大丈夫! あなたがつかまって!」
「遠慮しないで! おれの方が大丈夫だから!」
「自分を犠牲にしてる場合じゃない!」と、男が必死の形相で叫んだ。「僕にかまうな! あなたが生き残るんだ!」
「おれのことはいいから! 君だ! 君がつかまるべきだ!」
「早くしろ! 人の善意をムダにするんじゃない!」
「おれよりも君だ! 譲り合ってる場合じゃないだろ! さっさと板につかまれ!」
「あぐ……」
「グズグズするな!」
「僕のことはほっといて、あなたこそ!」
「なに言ってる! 溺れかけてるぞ! 無理するな!」
「まだまだですって……」
「やせ我慢するな! 早くつかまってくれ! おれの方もじきに……」
「あ」
「そうだ、名案が……。これにつかまって、かわりばんこに休むって方法は……」
「ぐ」
「まず君が先だ!」
「ダメだ……」
「おい? しっかりしろ!」
「もう……」
「今気づいたんだが、こうやって、仰向けになって浮かべば体力を温存できるぞ!」
「早よ、言えや……」
片方の男が潮水をたらふく飲んで海中に沈むと、そのまま力尽きてしまった。
もう一方も、反射的に相手を救おうとして潜ったが、すでに低体温症による症状で身体がいうことをきかなくなっていた。
彼もまた意識が途切れ、やがてもう片方のあとを追ったのだった……。
相手を押しのけてでも生き残るのを是とするべきか。
それとも片方が自己犠牲を払い、相手に譲るのが美徳か。
この場合おたがいが譲り合い、双方とも命を落としてしまうとは……。
了