2 シシグマ王子(4)
「ぐぅぅうう~」
突然、そんな和やかな空気をぶち壊すように間抜けな音が鳴り響いた。びっくりした顔でカナタが見上げると、ジークは決まり悪そうに目を逸らす。
「悪ぃ、腹の虫が鳴いた。しかし、困ったな……今日の昼飯がアレだと、食えるものが何もない……」
「ああ、そっか。それなら何とかするから、ジークはここで待っててくれる?」
あっさりと言うやいなや、返事を待たずにカナタは軽やかに大地を蹴った。ぽんぽん、と迷いなく手近な枝に飛び移るその背中は、瞬く間にジークの視界から消えていく。
「すぐにご飯持って戻ってくるからー!」
最後に告げられた元気な彼女の声だけが、呆気にとられたジークを取り残してこだましていた……。
「ただいまー! はい、ジーク。これ、ごはん代わりにどーぞ!」
宣言どおり、それほど待つこともなくカナタは戻ってきた。
魔物の襲来を警戒し緊張状態を続けていたジークはホッと肩の力を抜く。そして、カナタが差し出した採集用のカゴへと目をやり……そこで情けない顔を浮かべた。
「いや、気持ちはありがたいんだけどな……カナタ」
「ん? どうかした?」
「熟れてないどころか、色づいてもない果実を食うのはちょっと……」
――ジークの言葉どおり、カゴの中に転がっているのは陽光の気配を感じさせない蒼白い果実。子供の拳ほどの大きさの果物はどれを見ても未熟な姿で、見るからに固そうだし、率直に言って不味そうだ。
半獣のカナタは平気なのかもしれないが、自分のようなごく普通の人間が食べたらお腹を壊しても不思議ではない。まさか、何かの嫌がらせのつもりなのか……。
しかし、そんな懐疑的なジークの反応にカナタは嬉しそうに手を打った。
「やっぱり、ジェリーチ食べるの初めてなんだ! 大丈夫、これはこういう色の果物なんだよ。この辺では子供のおやつとして親しまれてる、一般的な食べ物なんだ。面白いから、紹介したくて!」
こんな感じ、とひとつ手に取ると、カナタはナイフで薄く皮に切れ込みを入れる。それだけでつるんと簡単に皮が剥け、瑞々しい透明な中身があらわになった。
見た目は大きなブドウといった感じだが、ほぼ無色透明な色合いのために水球のような趣もある不思議な果肉。カナタは大きな口を開けて、それをふた口ほどでぱくりと食べてみせる。
ほら、と促されてジークも心を決め、カゴの中へと手を伸ばした。皮を剥いて現れた透明な果肉を少しだけ気味悪そうに眺めてから、思い切ってそれにかぶりつく。
「……っ!」
途端に拡がった彼の驚愕の表情に、カナタは嬉しそうに声を掛けた。
「どう? 美味しい?」
声を発する余裕もないとばかりに何度も無言で頷きながら、ジークはゆっくりと目を閉じた。そうしてしばしの間、口の中の食感を全力で堪能する。
――しばらく無言の時間が続いてから、ジークはようやく目を見開いて声を上げた。
「なんだコレ……! プルプルしていて瑞々しくて――ほとんど水のような感触なのに、どうしてこんなふうにカタチを保っていられるんだ⁉︎ ほのかに甘いだけでクセも香りもないし、本当に甘い水を食べてるみたいな気分だ……!」
初めての食感に衝撃を隠しきれず、感極まった声が裏返る。ふふっとカナタの笑みが空気を揺らした。
「気に入ってもらえたなら、良かったよ。珍しいものでもないから、いくらでも食べて」
渡された二個目のジェリーチを、ジークは皮を剥いた状態で今度は半分に切ってみる。どう見ても水球にしか見えないそれは、しかしスパッと半分に割れた半球の状態のまま溢れることなくそのまま転がった。
指でつついたり、転がしてみたり。表面を少し強い力で押すとズブリと指は沈むものの、その形は液体ともブドウともまた違った過程で異れていく。いくら触ってみても興味は尽きない。
そうして色々と試しているうちに、ハッと気づいた頃にはもうジェリーチの実は見る影もないほどにグズグズに崩れていた。
「こんな不思議な果物が珍しくないなんて、やはり辺境の地はひと筋縄ではいかないな」
変なところに納得して、ジークはカナタに向き直る。
「興味深いものを教えてくれてありがとう、カナタ。気に入ったよ。悪いけど予定を変更して、今日は薬草ではなくこのジェリーチの実を採取することにしても良いか?」
「それは構わないけど……でも本当に良いの? コレ、別に北の森まで来なくても辺境領に居ればいくらでも手に入るものだよ?」
ジェリーチに見慣れているカナタは戸惑うが、頼む、とジークは強い瞳で念押しした。
――初めて見る素材と、その性質。それだけで調べてみる価値は十分にある。彼はもともと、未知に対して強く惹かれるタイプなのだ。更に言えば、これは彼の趣味にも一役買いそうな気配があった。
「ついでに、採集しながらこのジェリーチについて知っていることも全部教えてほしい。それから、標本は実をつける前のものから腐る寸前のものまで色々な状態があると良いな」
「う……うん、わかった……」
ジークの脳内で目まぐるしく組み立てられていく計画は、カナタには伝わらない。その熱意に多少圧倒されながらも、カナタは引き気味の表情で頷く。
「あ、そうだ。ジークにはさっそく言わなきゃならないことがあるんだけど」
そこでふと、カナタは何かを思い出したように切り出した。どことなくバツの悪そうな表情を浮かべながら、彼女は言いづらそうに言葉を続ける。
「実は、ジェリーチってほぼ九割が水でできてるんだよね。だからお弁当代わりに渡したけれど……」
そこまで言って、そっと目を逸らす。
はて、とジークは首を傾げた。その濁された言葉の意味するところがピンとこない。
しかし、頭で理解はできなくとも胃袋の気づきは早かった。
「ぐぅぅううー!」
先ほどよりも立派な音がジークの腹から響き渡る。その音は何よりも如実にカナタを責めていたのであった――。