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2 シシグマ王子(1)



 半獣の姿を目撃される――そんな致命的な失態を犯したあの日から、気づけばひと月以上の月日が過ぎていた。

 まだ夏の入り口だった季節も、もう遥か彼方。今では雲ひとつない空に浮かぶ太陽がじりじりと大地を照りつける毎日だ。

 北の辺境領といえど、やっぱり夏は暑い。暑さを避けるのはやはり木陰の下だと、カナタの北の森に行く頻度はいつの間にか随分と増していた。……決して、「彼」との再会を期待しているわけではない。


 「彼」と出会ったあの日のことは、努めて思い出さないようにしている。あの日のことをなかったことにして、カナタは今までの生活を続けることを選択したのだ。

 そんな彼女に、いつもの日常はあっけないほど簡単に戻ってきた。薬草を採集し、山の罠を見て周り、たまに父の往診に同行する……少しだけ変わったのは、その何気ない時間が今まで以上に大切に感じられるようになったことくらいだろうか。


 やっぱり自分はこの町で静かに暮らしていきたいんだな、と自分でも気づかなかった強い気持ちに新鮮な驚きを覚える。本当の姿を隠し続けているという後ろめたさを抱えてもなお、カナタは皆と過ごす日々を失いたくないのだ。


 ――しかし。

 彼との再会は、思ってもみなかった形で果たされることになるのであった。




「ねぇ、カナタ。カナタにお願いがあるのだけど……」

「ん、良いよー、また薬草採取? 何が必要?」

 ある日の朝。義父に何気ない調子で切り出された言葉に、カナタは気軽に頷いた。普段から義父の仕事を手伝っていることもあり、そういった頼みごと自体は日常茶飯事だ。


 しかし、それに対して彼は少し困った顔を向ける。

「いや、それが少し面倒なことでね……ほら、いま砦に大切なお客さんが来ているだろう? 彼が、北の森の薬草採取について知りたいっておっしゃっていてね。その辺はカナタが一番詳しいから、案内してあげられるかな」

「え、あのシシグマ王子が?」

「こらこら、そんな呼び方をするもんじゃない。彼は決して、噂で言われているような人ではないよ」

 おだやかに窘められて、カナタはペロリと舌を出した。


 ――シシグマ王子。

 それは、辺境領であるこの北の砦が最近大混乱に陥っている原因となった人物の呼び名だ。第一王子という身分でありながら後ろ盾が弱く、修行という名目で辺境領へ飛ばされたという曰く付きの存在。

 押し付けられた辺境領としては堪ったものではないだろう。一応彼の母親の生家がここ辺境領らしいのだが、現当主はこの厄介者をどう思っていることか。


 もちろん、「シシグマ王子」というのは本名ではない。シシグマというのは、この辺りで稀に出没する魔物の名前だ。熊と猪を足して二で割ったような凶暴な生き物で、鼻を突っ込んで植物の根を引きちぎるので農地や山林の荒廃の原因にもなっている。

 砦で大人しくしてくれていれば良いものを、この厄介なお客さん(第一王子)も色んな分野に首を突っ込み仕事場をかき回していくために、このようなあだ名を付けられたらしい。しかも癇癪持ちで、突然激昂して周囲に当たり散らすこともしばしば。周囲の者を悩ませているそうだ。

 ……とは言っても、カナタはそのシシグマ王子を直接目にしたことはないのだが。すべて友人であるメイドのマリーの受け売りである。




「たしかにジーク王子は色々なことに興味を示される方ではあるけれど、それはこの地を良くしようと尽力してくださっているからだよ。僕も彼と王都の医療事情について意見交換をさせてもらったけど、勉強熱心で博識な方だった。今回の見学も、その一環らしい」

「ふぅん……」

 カナタは気のない返事をする。父はお人好しではあるけれど、周囲への評価は厳しい方だ。そんな父が褒めているのだから、きっとそれなりの人物ではあるのだろう。


 父の立場もあるだろうし、薬草採取の案内は引き受けても良い。でも、果たしてお貴族サマがあの険しい北の森の山歩きに耐えられるだろうか? ぼんやりとそんなことを考えながら、カナタはパンにかぶりついたのだった。



○   ○   ○   ○   ○   ○   ○



 ――その日の夜。


「アッシュ! アッシュー!」


(……あ、久しぶりにあの子の夢だ)


 微睡(まどろ)みに揺蕩(たゆた)いながら、懐かしい声にカナタは微笑みを浮かべた。

 夢と知りつつ、ゆっくりと瞼を開く。その瞳に映るのは、満面の笑みの少年だった。

 くるくるとした金色の巻き毛と、抜けるように白い肌。ふっくらとした頬は薔薇色に輝いていて、まるで人形のように愛らしい少年。

 カナタと目が合うと、彼は少女のような可愛らしい顔立ちをほころばせて嬉しそうにその首に抱きつく。


 夢の中のカナタは完全に狼の姿で、その小さな少年に鼻をすり寄せて挨拶をする。少年はわしゃわしゃと、近寄ったカナタの毛皮を小さな手で撫でた。

 少年の目元は少し赤く、腫れている。また何処かで泣いていたのだろうか。ここに居れば、彼をずっと守れるのに。そんなことを思いながら、少年の目尻に残る涙跡をぺろりと舌で舐めとる。


 少しだけ驚いた顔をしてから、少年は嬉しそうにもう一度カナタに抱きついた。

「ありがと、アッシュ! 今日もいっぱい遊ぼうね!」

 そう言いながら、全身のブラッシングを始める少年。カナタはその感覚に目を細めて、気持ち良さそうに喉を鳴らした。


 ――ああ、そういえばそんな出会いもあったな……。

 半ば夢に浸かりながらも、カナタはそんなことをぼんやりと思う。


 まだ義父に引き取られる前の、北の山で暮らしていた頃。獣の自分にも、人間のお友達が居たのだ。もう何年も前のことで、すっかり忘れてしまっていたけれど。

 彼を背に乗せて、野山をあちこち駆け巡った。風を浴びて、遠吠えを響かせて。いっぱい笑って、いっぱい遊んだ。それは懐かしくて、そしてとても大切な記憶だ。


 ――ああ、それなのに思い出せない。彼の名前は……、何だっただろう……。

 


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