1 出会い(4)
「アンタ、普段からそんな格好で出歩いてんのか? 特にそんな神話じみた噂は聞かなかったが……」
やがて気になったように、青年は切り出した。
「神話じみている」という表現は、戦女神、ドルアードのことを指しているのだろう。勝利をもたらすという伝説の彼の女神は、半人半獣の姿だと伝えられているのだ。
その当時なら自分もありのままの姿でいられたのかな、と思いつつカナタは苦笑いで首を振る。
「そんなワケ、ないでしょ。普段はこんな耳も尻尾もないんだから。――ああ、もうっ、全部、ショコラードの所為だ……」
肌の距離感は、そのまま心の距離感に直結するらしい。
当初は必要以上に言葉を交わすつもりはなかったのに、カナタは気づけば己の心情を吐露していた。
「へぇ?」
「すっごく美味しかったのに、あんなにお酒が入ってるなんて。おかげで酔っ払って耳も尻尾も隠せなくなるわ、ヒトには見つかるわ、散々だよ……!」
振り返って青年を睨みつけるが、その状態でも尻尾を撫でられているのだからどうにも格好がつかない。
「ショコラードの酒精、ねぇ……アンタ、今後は酒を飲まない方が良いな。あんなん、香りづけ程度のもんだぞ?」
「ぅ……そうなんだ……?」
――それはショックだ。それでは、自分はもう一生あのショコラードを口にすることはできないのか。
「そうがっかりすんなよ。今度、酒を使わないショコラードを持って来てやるさ」
嘆きはいつの間にか口から洩れてしまっていたらしい。青年が楽しそうな口調で慰めの言葉を口にする。
「……今度なんて、ない」
その提案に思わずくらりと心が傾きかけたが、慌てて首を振った。そんなお菓子ごときで懐柔されるなど……!
「なんだ、つれないな、」
そんな反応にも青年は気を悪くする様子はない。先ほどと変わらずに優しく櫛を動かし続ける。カナタはほっと息をついて、再びその感覚を甘受しはじめた。
「……どうだ、触られて嫌な気分だったりしないか? もしくは俺から嫌な匂いがしたりとか……」
弱みにつけ込んで来たくせに、カナタに触れながら青年は気弱な質問を口にする。その強引さと妙な気遣いのギャップが面白くて、カナタはつい素直に返事を返していた。
「全然? 毛並みが揃えられて、スゴく気持ちが良いよ。寝ちゃいそうなくらいだもん」
しかし、何故かその言葉に青年は情けない顔で眉を下げる。
「それじゃあなんで俺、動物に逃げられるんだろうな……」
その途方に暮れた呟きがおかしくて、カナタは思わず吹き出した。明るい笑い声が空へと響く。
どうやら青年は本当に動物が好きらしい。それは、少し言葉を交わしだけでも伝わってきた。動物に逃げられる彼のやるせない気持ちは切実すぎて、いっそ滑稽なほどだ。
――見つかったのが、彼で良かったのかもしれない。
気がつけば、カナタはそんなことすら思っていた。
――そうして、身も心も緊張が抜けたところで。
「……なぁ、アンタのこの毛皮、本当は何色なんだ。茶色いのは染めてるだけだろう」
「え?」
和やかな時間をぶち壊すように投げ込まれた、青年の何気ないひと言。
その思いがけない言葉に、ウトウトしかけていたカナタの意識は一瞬ぴしりと固まった。遅れてきた質問への理解に、忘れていた警戒心が一気に噴出する。
青年の手を振り払って、勢いよく後ろに飛びすさった。ウゥ、と思わず獣の唸り声が喉からこぼれる。本能的に牙を剥きそうになるのを必死で堪えるが、溢れ出る敵意は止められない。
一方の青年は、あまりの激しい反応に、戸惑ったような顔で肩をすくめた。
「なんだ、そんな怖い顔するなよ。――悪かった、詮索するつもりじゃなかったんだ。ただちょっと気になっただけでさ」
先ほどの質問に、他意はなかったのだと、威嚇するカナタを前に青年は困惑の表情を浮かべる。
それでも距離をとったまま、カナタはそんな彼を睨みつけるような眼差しできっと見据えていた。
ほら機嫌直して戻って来いよ、と手で招かれるが、一度警戒心が芽生えてしまうともう先ほどのように触れられる気分にはなれなくて。
「…………」
しばらく身じろぎもしないで距離を保っていると、諦めたようにやれやれと青年は両手を上げた。
「しょうがないな、じゃあもう帰るよ。付き合わせて悪かった……でも楽しかったぜ。約束は守るさ。んじゃ、また会おうな、カナタ」
「……っ! なんで、私の名前……!」
愕然とするカナタを尻目に、青年は余裕の表情で手をひらひらと振ってその場を去っていく。
「っていうか上着、上着も返してない……!」
はっと呼び止めてた時には、もう遅い。その後ろ姿はすでに木立の奥へと消えていた――不慣れな人間であれば進むことを躊躇うような藪の道を、不思議なほどに慣れた足取りで。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
呆然とその場に立ち尽くすこと、数刻。
「これから、どうしよう……」
やがて、しおしおと力なくカナタの耳が垂れていった。
この正体を知られては生きていけないと、ずっと覚悟してきたつもりだった。いざというときは、かつての母のようにヒトとの関わりを避けて山奥で暮らすか、流浪の旅に身をゆだねるつもりでいた。
今の生活はそれまでの、かりそめの安寧に過ぎないのだと言い聞かせてきた。……その、つもりだった。
――それなのに。
カナタは自分で思うよりもずっと……ずぅっと、今の暮らしが気に入っていたのだ。
家族を捨てて、友人を捨てて孤独に身をやつす覚悟なんて、実際のところ何もできていなかった。そのことに今、気づかされてしまった。
『ヒトは、恐ろしい存在だ。この姿を知られたら、殺されるか死ぬまで利用されるかの道しかない――』
小さな頃から母に何度も言い聞かされてきた言葉が、頭をよぎる。
それでも、カナタの周囲に居たヒトはみな親切で優しい者たちばかりで……そして、ヒト嫌いのはずの母が幼いカナタを最終的に託したのも、結局のところヒトである養父であった。
母の言いつけを守り、獣の姿を隠してずっと暮らしてきた。それでもヒトの醜さに触れることのなかった彼女は、最後の最後のところでその教えを受け入れることができなかった。
カナタは――ヒトと共に生きたかったのだ。
自分のヒトの姿が本来のモノでないことはわかっていても、それでもその正体を隠してずっと皆と暮らしたかった。ヒトとして与えられた幸福を、自分も最後まで享受したかった。
知らないうちに浮かんでいた目尻の涙を、ぐいと拭う。
本来であれば、このままこの地を後にして二度とあの青年に会わないように身を隠すのが最善であろう。でも、どうしてもその思い切りがつかない。
――約束は守るさ。
ふと、去り際に告げられた、彼の言葉を思い出した。必要以上に関わりたくないと、彼の名前すら知ろうとしなかったカナタ。そんな頑なな態度を貫いていたのに、誰にも言わない、と彼は言ってくれた。
そんな言葉を信じるなんて、馬鹿げていることはわかっている。だけど……。
結論の出ない堂々巡りは、いつまでもカナタの思考を苛ませる。そんな心を落ち着かせようと、カナタは無意識のうちに自身の尻尾を触っていた。
警戒のあまりブワッと膨らんでしまった尻尾。それを撫でつけるように手櫛で整えているうちに、指に絡みつく毛束に引っ掛かった。
あれだけ梳かしてもらったばかりなのに、と何気なくその指先を見る。その口元が、思わずふっと緩んだ。
――そこにはひと束だけ。
――きっちりと丁寧に編み込まれた三つ編みが隠れていたのだ。
「……なんか、悩んでるのがバカらしくなっちゃった」
こっちは人生の進退まで考えるほど追い詰められたというのに、肝心のその相手は子供のような悪戯に興じていたのだから脱力するのも無理はない。
軽い苦笑いと共に、晴れ晴れとした達観が込み上げてくる。
「うん、私は私の直感を信じる。……信じよう、彼を」
悪いヒトには思えなかった。こんな出会いじゃなかったら、友達になれていたかもしれない。不思議なほどに気が合って、彼の隣は居心地が良かった。
動物に逃げられるとしょぼんとする姿は、少年のようで。カナタを触るその手は、温かな優しさに満ちていた。それは、遠い昔の誰かのことを思い出させてくれて。
――そう。結局のところ。
カナタは名前も知らないあの青年のことが、嫌いになれなかったのだ。