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1 出会い(3)


「まさか、お願いがこんなことなんて……」

 ペタンと草原に腰を下ろしたカナタは、姿勢良く背筋を伸ばしながら困惑の声を洩らした。

「嫌なら別に良いんだぜ?」

 背後から、笑いを含んだ声が首筋をくすぐる。それでも振り向く訳にもいかず、カナタはまっすぐに前を向いたままこっそりと溜め息をついた。


 ――彼からの「お願い」。

 それは、「その耳を触らせてほしい」という想定外のものであった。


「実は俺、けっこー動物が好きでさ……でも、何故か可愛がろうとしても怖がられて逃げられるんだよな。それで、生き物との触れ合いに飢えていてな」

 引き締まった身体と堂々とした雰囲気にはそぐわない、なんとも可愛らしい言葉。それを口にする本人もいささか気恥ずかしいのか、その声は照れくささを誤魔化すようにぶっきらぼうな言い方となる。


 断れない立場のカナタはそれになんと返したら良いか分からず、ひっそりと無言を貫いた。

 スタスタと背後で動く青年の足音を、耳が追う。


「へぇ、本当に犬みたいにピクピク動くんだな」

 さわ、と前触れなくカナタの耳を大きな手のひらが包み込む。思わずびくり、と身体が震えたが、怯えている姿を見せるのも悔しくてカナタは努めて平静を装った。

「うん……うん、薄いのに柔らかくて、とっても温かい。なんて言うのか……命に触れてるって感じだ。癒される……」


 意外にも、青年の手つきは優しく気遣いに満ちていた。カナタが嫌がらないように慎重に、丁寧にその耳を撫でていく。最初のうちは強張っていたカナタの緊張も、やがてそこまで警戒することはないと徐々に緩んでいった。

 青年の言葉遣いも、少しだけ優しさを帯びはじめる。




「なぁ……髪も梳いて良いか?」

「? こんなゴワゴワの髪、梳いても楽しくないと思うけど……」

 長さこそそれなりにあるものの、彼女の髪は特徴のないくすんだ茶色だ。手触りだって良いとは言えない。それなのに青年は良いから良いから、と有無を言わせずにポケットから櫛を取り出す。


 むぅ、と振り向いたカナタは、しかしその先にあるものを見て驚きの声を上げた。

「もしかして君って、結構良いところのお坊ちゃんだったり?」

「……さぁな」

 一言だけ少し苦々しそうにそう返すと、「そら、前を向け」とこれ以上の詮索は無用とばかりに青年は追い立てる。


 それでも、カナタの目はしっかりと彼が手にした櫛の姿を捉えていた。

 村の若者が恋人に送る素朴なものとは明らかに質が違う、見るからに高価な櫛。櫛の歯は緻密で繊細な間隔を整然と揃えており、持ち手にも美しい彫刻と宝石の飾りが施されている。

 そんなものを普段使いに持っているこの青年が只者でないことくらい、簡単に窺い知ることができた。もしかすると、貴族なのかもしれない。


 ――よりによって面倒な相手に見られてしまったものだ、とカナタは心中で己の不運を嘆く。

 貴族に目をつけられたら、逃げるにしても格段に面倒なことになる。養父(ちち)にも間違いなく迷惑をかけてしまうだろう。


 それでも、カナタの髪を梳く青年のその手つきに悪意は感じられなくて。もとより他人に悪意を持つことが苦手なカナタは警戒し続けることにも疲れて、気持ちを切り替えることにした。

 ――とにかく、彼がこのことを胸に留めてくれていればそれで良いのだ。ひとまず彼が満足いくまでこの「お人形遊び」に付き合って、それから改めて口止めをお願いすれば……あぁ、髪を撫でられるの気持ち良いなぁ……。


 ふと気がつくと青年の手にとろかされている自分が居て、慌ててカナタは背筋をピシリと伸ばした。違う違う、これは彼の依頼に付き合っているだけで、気が抜けている訳では……ふにゃぁ……。

「尻尾、気持ち良さそうに揺れてるぞ」

 揶揄(からか)うようにかけられる声にも、脱力したカナタは即座に反応できない。

「ぇ……? 尻尾も触る?」

「良いのか?」

 ふわふわとした気持ちのまま、気づけばとんでもない提案を口にしていた。




 ――思えば、この半獣の姿を誰かに晒すのは、六年前に母が死んで以来初めてのことだ。こうして撫でられることもすっかり無くなっていて、その温もりについつい心が緩んでいく。

 もともと触れられることは好きだったのだ。それなのに母が居なくなってからはそれが叶わなくなり、心の奥では本人も意識することのない寂しさがずっと燻っていた。


 もちろん、家族としての愛情は母が亡き後も養父(ちち)がしっかりと注いでくれた。養父との間には、揺るぎない親子の絆がある。そう思っている。

 ……それでも、やはり血の繋がらない年頃の娘には遠慮があったのだろう。いくら振り返ってみても、養父との間のスキンシップは……それこそ頭を撫でるといったちょっとしたことさえ……行なわれたことは一度もなかった。


 そんなことをぼんやりと思い返していると、そっと背中を押された。それと同時に青年が少し離れる気配がする。どうしたんだろう、と不思議に思うより先にばさり、と彼の着ていた上着が肩にかけられる。

「?」

「背中、見えてんぞ」

 不審そうにその顔を見上げると、目を逸らして青年は乱暴にそう述べた。

 そっけなく短い言葉だが、それでも気遣いに満ちたその行動。


 ワンテンポ遅れて、その言葉の指すところに気がついた。どうやら尻尾の位置を変えたことで、服の裾がまた捲れてしまったようだ。知らぬ間に、乙女にはあるまじき露出をしてしまっていたらしい。

「あ、ありがと……」

 遅ればせながら自身の格好に気づいて、頬がカァッと赤くなった。そんな反応を見られることすら恥ずかしくて、慌てて肩に掛けられた上着を引き寄せ顔を隠す。


「それで……ホントに触っても良いのか?」

「……ん、良いよ」

 改めての意思確認に、素直にカナタは頷いた。

 さすがに恥ずかしかったので小声になってしまったが、尻尾はそんな主人の気持ちなど知らぬ顔。撫でられる期待にゆさゆさと揺れてしまう。

「そんじゃ、遠慮なく」




 すとん、と斜め後ろに腰を下ろした青年は、そっとカナタの尻尾を持ち上げる。

「立派な尻尾だな。身体の半分くらいの長さがあるじゃないか」

 独り言のような声で呟きながら、確かめるような手つきがさわさわと丹念に尻尾を撫で始めた。身をよじるほどではないが、少しくすぐったい感覚。

 自分でも気に入っている尻尾を褒められて、カナタの口元が知らぬうちにニマニマと緩む。


「そして、見事な毛並みだ。しっかりと梳かしつけたら、三つ編みだって編み込めそうだな」

「っ、それはやめてよ⁉︎」

 そんな悪戯をされては堪らないと、反射的に声が出た。思わず勢いよく振り返る。


 それに対して、くつくつと喉の奥で笑う青年の声。どうやら冗談だったらしく、それ以上は何も言わずにブラッシングが再開された。

「あぁ、なんかスゴい満たされる気分だ。心のささくれが取れていくような……」

 うっとりとした呟きは、つい出たものらしい。恍惚とした彼の声は、返事を欲する訳でもなくただ空中に消えていく。


 その後に残る、体温が触れる確かな温もり。自分のものではない鼓動が、耳のすぐ後ろで一定のリズムを刻んでいる。

 穏やかな時間が流れていく。――ホッとするような懐かしさと、それなのにどこかむず痒い羞恥心。

 それでも意識は段々に緩み始めて……ぱたん、ぱたん、と心地良い櫛の感覚に合わせて尻尾がゆっくりと左右に揺れ始める。


 ――相手が見知らぬ青年でさえなければ、このまま身をゆだねて眠ってしまうのに。気づけばそんなことを思ってしまうほど、気持ちが良い。


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