1 出会い(1)
――全部、ショコラードが悪い。
グルグルと回る視界の中で、カナタはそんな言葉を脳内で繰り返していた。
一切の迷いのない足取りで、彼女は細い山道を奥へ奥へと進んでいく。彼女が進むのは、一般の人が敬遠する魔の森の中だ。少しでも人の気配から遠ざかろうと、動かす足は休むことがない。
千々に乱れる感情が、どんどんカナタを追い詰めていく。そんな気持ちを落ち着けようと、カナタは先程までの自身の行動を思い返していた。
「ねぇねぇ、珍しいモノもらったから一緒に食べようよ!」
発端は、メイドのマリーからのそんな誘いであった。
いつものように砦へ薬草を届けに行った帰り道。普段であれば寄り道なんてしないはずなのに、久しぶりに会う友人の誘いにその心は大きく揺れた。
なにしろ三ヶ月ほど前にこの辺境の地には不相応な客人が訪れて以来、北の砦は上へ下への大騒ぎが続いているのだ。
マリーを始めとするメイドたちは、今もなお家に帰る暇もないほどの忙しさに明け暮れているらしい……部外者であるカナタの耳にも、そんな噂は届いていた。
だからこそ彼女の誘いが嬉しくて、カナタはそのとき深く考えることなく頷いてしまったのである。――今になっては己の迂闊さを悔いるばかりだが、過去の行動は変えられない。
そして、そんなカナタにマリーが差し出してくれたのが……他でもない、例のショコラードであった。
思い出しただけで口の中にあの香りが広がるようで、カナタは思わず唾を飲み込んだ。
最近王都で大流行りしているというショコラード。カナタが口にしたのはほんの一欠片ではあったけれど、それでもその味わいは衝撃的なものだった。
これまで嗅いだことのないような甘く、蠱惑的な香り。目が覚めるほど鮮烈で芳醇な甘味は身震いするほど美味しくて、まるで天国に昇るかのような多幸感に酔いしれた。
その余韻は舌の上で消えてなくなってもしばらく続くようで、食べ終わってからもしばらくの間カナタは目を閉じたままその場に立ち尽くしていた程である。
――そのときは思ってもみなかったのだ。
まさか、あの奇跡のような甘みに隠れて、あのお菓子に酒精が含まれていたなんて。
酔いはどんどん全身に回ってきている。思考は蕩けそうな高揚感と眠気にかき回され、顔は火照るほどに熱い。きっと、頬は茹で上がったように真っ赤になっていることだろう。
自分としては真っ直ぐに歩いているつもりなのに、その足取りはあまりに怪しい。こんな醜態を晒すことになるなんて、初めてのことであった。
――そして、何より問題なのは。
「困ったなぁ……」
つい洩れた呟きとともに、頭の「上」の耳がへにゃりと垂れるのを感じた。手を上げて何度確かめようと、頭上にあるのは犬のような毛皮で覆われた大きな三角形の耳だ。
さらにくるりと半身を振り返れば、腰の辺りからはふかふかの大きな尻尾まで覗いていて、カナタは何度目かもわからない大きなため息を吐き出した。
人間の服に尻尾の収まるスペースなどない。そのためチュニックは尻尾に押し上げられてめくれ、背中の地肌……すべすべの人間の少女の肌が剥き出しになってしまっている。しかし、そんなことを気にする余裕もなかった。
大きな獣の耳と、尻尾。
いずれも、普通の人間には持ち合わせるはずのないパーツである。
こんな姿を見られたら、一巻の終わりだ。得体のしれない化け物として、たちまちの内に討伐されてしまうに違いない。
――だからこそ、彼女は人気のない山奥へと必死に進んでいるのである。
鬱蒼と繁る前方の木々の隙間から、明るい光が差し込むのが目に入った。その光景に、ほっと肩の力が抜けた。
砦の裏に広がる大きな北の森。そこは昼でも仄暗く、魔の領域として人々から恐れられている場所であった。
どこまでも続き、奥に行くほど深い霧が立ち込めるためにその全容を知ることはできない魔の森。大の大人であっても、魔物の討伐任務でもなければ好き好んで足を踏み入れることはないこの場所。
しかしカナタにとってここは子供の頃からの遊び場であり、今も薬草採取のために定期的に訪れる通い慣れた拠点であった。今の状況に限って言えば、他の人間が来ないというのはカナタにとって安心材料でしかない。
あの茂みをかきわければ、いつも休憩をとっている小さな空き地に出る。そこでゆっくりと身体を休めよう――そんな展望が見えたことで、カナタの気持ちはぐっと楽になった。
……早く横になって、身体を落ち着けたい。酒に正常な判断力を奪われていたカナタは、ただそれだけを思って足を進める。
普段であれば考えられない、あまりに無防備な行動。そんな己の状態を自覚する余裕もないままに、カナタは飛び込むように広場へ足を踏み入れ……そして目の前の光景に呆然とその場に立ち尽くすこととなった。
新連載、始めました。
投稿はゆっくりになると思いますが、よろしくお願いします。