王国に栄光あれ
男は死に場所を探していた。
そんな彼にとって、生まれの王国は都合が良かった。周辺国との戦争を十数年間続けているかの国は、いつだって兵士を欲していた。彼が王国の名もなき兵となって二十年が経つ。初め無垢だった肉体には無数の傷痕が刻まれ、眼帯がない方の目は冷たく据わり、平坦な感情で戦場を見極められるようになった。
男は死ねなかった。
その境遇は運命か才能か、いずれにせよ彼は満たされなかった。彼は一刻も早く死にたがっていたのだ。自殺などという手段はもってのほかだった。勇敢に敵兵をなぎ倒し、将の額を撃ち抜いて、また次の戦いへ身を投げて、その激流の中で死にたかった。
やがて、戦争に変化が起こった。
敵国が新兵器を導入したのである。「空焼」と呼ばれる爆弾だ。青天を埋め尽くすほどの爆煙を起こすことが由来だが、実際に焼かれていたのはかき集められた人々の群れだった。敵の手に空焼が渡った後、たちまち国土の大半は灰となった。草木も街も人もみな黒々とした塊となり、湧き続ける炎と煙によって昼夜の境はなくなった。
男は他の国民と同様、虚しさに襲われていた。だが、密かに歓喜してもいた。
太刀打ちできない破壊に逢えば、きっと死ねる。やっと死ねるのだ。
国や兵役を逃げ出す者が増え続ける中、男の姿は常に戦場にあった。兵より爆弾の価値が高くなった今、戦場では突撃作戦が主流となっていた。いわゆる玉砕である。火にまみれた平原を不要な資源らに駆けさせ、誰か一人でも運良く生き残って、爆弾を扱う将に一矢報えたらいい。
そんな宙に浮かんだ夢のような案を叶えるため、兵士たちは走った。人だったものの背を越え、赤い水たまりを踏みしめて、どことも知れない終点へ向かって。
この日、男は初めて突撃作戦に参加した。
前線近くにある狭く簡素なテント。粉塵で薄汚れているその下に、作戦に臨む兵たちが所狭しと押し込められていた。彼らは例外なく押し黙ってうつむいていて、心中は空模様と同じ黒煙で満ちていた。作戦の詳細は誰一人知らなかった。突撃して帰還した者などいないからだ。兵たちはその現実で、自らの死を悟っていた。
男だけが前を向いていた。
淀んだ泥濘のような空気は慣れたものだった。心地よさすら感じ始めていた。
だから、前を向けた。前を向けるからこそ立ち向かえる。立ち向かうからこそ、死ねる。
爆発音。鼓膜をつんざくような轟音の後、王国の将が悲痛な声で叫んだ。
「出撃!」
途端、兵たちは噴煙へ向かって走り出した。喉を裂くような雄叫びを糧に、何かに背を押されるように、煙と炎の中へ飛び込んでいく。その姿は理性的な人間から程遠い、感情のない銃弾そのものだった。
男は何一つ声を上げずに走り出した。突撃作戦はいつもの戦いよりずっと簡単だ。敵兵の位置をどう探るか、どのような道筋で前線を突破するか、相手の急所をどう突くか。そんなことはほぼ考えなくて済んだのだ。
ただ転ばぬように走っていれば良い。爆弾がどこに落ちるかなど、一兵士が悩んでも分かるはずがない。いつ死ぬか、どこで死ぬか、どう死ぬか、それは運だけで決まる。
突如、男の視界は白く輝いた。
衝撃。それを感じる一瞬前、彼の身体は鈍い金属音と共に吹っ飛んだ。
男はいつの間にか仰向けになっていた。何事もなかったかのように、黒煙が辺りを埋め尽くしている。彼は数秒経って、自分が生きていることに気づいた。そうして勢いよく身体を起こし、辺りを見渡す。
彼が元いた方向に、赤黒い塊が転がっていた。ぼんやりと揺れる眼を凝らす。それはかすかに蠢いていて、よく見れば周辺には手脚のような形をしたものが、すすと血液と砂塵に塗れて転がっていた。
あれは人だ。
そして自分は、庇われたのだ。
その死体を唖然と見つめていると、過去の影が自然と重なってくる。
妻と娘だ。
彼女たちは男のせいで死んだ。長期にわたる戦争の最初の戦い、国境近くの街にかの敵国が奇襲を仕掛けたとき、彼はそこに駐在する国防兵であった。
街の門が破られ、大量の敵兵がなだれ込んだ。息が詰まるほどの勢いに国防兵たちは押され、指揮系統もままならぬ中、離散して周囲の街へ退却した。国民も敵も兵たち自身も分かっていた。これは退却などではない、単なる敵を恐れた故の「逃げ」なのだと。
自分だって、家族の住む地区へ敵が向かうのを分かっていながら、死ぬのを恐れて逃げたのだ。援軍が到着してから街を取り戻したとき、自宅へ戻ってみると、そこには得体の知れぬ肉塊が二つあるだけだった。無事を喜ぶ声も、再会を嬉しむ笑みも、戦禍の下で泣く声すらない。無機質な沈黙と、犯した罪が転がっているだけだ。
男の全てがそこで砕け散った。兵としての矜持は当然として、何より父親、夫としての役割を持つ自分が、総じて否定されたのだ。言い訳のしようもなかった。自分が起こした事態であり、妻と娘は自分のせいで死んだ。仮に彼女らを助けに行ったとして、本当に救えたのかは分からなかった。ただ、あの「逃げ」は間違いなく誤りだった。そのことだけは確かに分かった。
自分はもう逃げない。あのとき捨て去られるべきだった命なのだ、戦って死ぬのが正解なのだ、早く、早く死ななければ。死なせてくれ。
そんな価値のない自分が、死ぬべき自分が、助けられてしまった。
頭が働く前に手が伸びていた。あの肉塊はまだ動いている、生きている。
戦場で経験を積んだ彼にとって、もう「それ」が助からないのは明白だった。それでも、生きていると思いたかった。自分の失敗のせいで死ぬ人間が増えるのは腹の底から嫌だった。
肉塊は口らしき穴を小さく動かした。焼け焦げた喉が僅かに震える。爆音と悲鳴の渦の中、か細い一本の声だけが、確かに男の耳に届いた。
王国に、栄光あれ。
そんな風に聞こえた。地に這いつくばった死体寸前の人間も、確かに誇り高き兵士であった。自他の死などどうでもいい、ただ一つの栄光のために戦うような気高さを備えていた。しばらくして肉塊は動かなくなり、乗り越えるべきただの障害へと変貌した。男は数秒して、静かに彼の死を感じた。
男は奥歯を噛んで立ち上がった。脚は爆風の衝撃で折れているようで、肉をちぎられるような痛みが絶えず襲いかかってくる。でも、行かなくては。
今までの自分は利己的だった。家族を捨てて逃げたときから何も変わっていない、常に自分は心の内しか見ていなかった。罪だの何だの、結局は自己を満足させるための概念だったのだ。ではどうする。何のために自分はここにいる。なぜまだ進みたがっているんだ。考えれば考えるほど脳内は混線して、ある一つの単語が残った。
……王国の誇り。
それがどんなに魅力的なものだったか、彼はとうに忘れていた。幼少期に国家の思想を教育された期間よりも、もう戦場にいる期間の方が長くなっていた。でも、それに全てを捧げてみようと彼は思った。自分が家族とともに放棄したもの、その中にはきっと、かの誇りもあるだろう。取りこぼしてしまった罪を、ここで晴らせるなら。
男は前を向いた。
過去なんてどうでもよかった。妙に晴れた感じがして、彼は黒煙の向こうに青天を見たような気がした。進み続ければ死ではない何かが得られる、そんな直感もある。進め、進め、生き残って敵を殺せ。
男はようやく兵となった。兵は倒れていった味方の山を踏みしめ、倒れゆく彼らに見向きもせず、一心に前進していく。彼はまじないのように呟き続けていた。
「王国に、栄光あれ」
兵の姿は炎のゆらめきに紛れて消えた。
その後、彼を見た者はいないという。