第1話 絶望
「エナ、何度同じ事を言わせるんだ! 今日は大切な客人がいらっしゃるのだから部屋から出てくるなと言っただろう!」
「あなたの存在は私たちにとってこれ以上ない汚点なのですよ。お客様にあなたの姿を見られる前にさっさと部屋にお戻りなさい」
「お姉様のお顔を見ると本当にイライラするわ。お母様、いっその事お姉様を地下牢にでも閉じ込めておいたらどう?」
「そうね、それも一考の余地があるわね。ねえあなた?」
「うむ、そうだな……」
「ご、ごめんなさい。今すぐ部屋に戻ります……」
今日も屋敷の中では理不尽に私を罵倒する言葉が飛び交っています。
それに対して私に出来るのは一切の口答えもせずに従う事だけでした。
辺境の領主であるタイター侯爵家の長女として生まれた私は幼い頃から両親に溺愛され何不自由ない生活を送っていました。
しかし今から一ヶ月程前を境にそれが一変しました。
今まで優しかった両親は人が変わったように私を虐待をするようになり、甘えん坊だった妹のロミも露骨に私の事を見下して暴言を吐くようになりました。
屋敷の使用人たちはそんな私を庇う事もなく、まるで汚物でも見るような眼差しを向けながら遠巻きに眺めているばかり。
どうしてこんな事になったのか私にはまるで心当たりがありません。
それは日を追う毎に酷くなり今では屋敷の中を自由に歩く事さえ許されなくなりました。
今日屋敷に来ている客人の事は私もよく知っています。
彼の名前はゴート・フォン・ヤオッツ。
王室に次ぐ強大な権力を有しているヤオッツ公爵家の跡取り息子です。
私が生まれてすぐに親たちによって取り決められた私の婚約者であり幼馴染でもあります。
ゴート様は大人しくて引っ込み思案の私とは正反対の性格で社交的で面倒見が良く「何か困った事があれば私に言え。必ず助けてやる」が口癖の頼れる兄貴肌の青年でした。
政略的な婚約関係とは思えないほど私たちの関係は良好で、毎週のようにお互いの屋敷を行き来して親交を深めたものです。
しかし近頃は領内に魔物が出没するようになり、ここしばらくはゴート様に会えない日々が続いていました。
魔物の脅威は王室も問題視しており、先日女神様の加護を受けたという勇者ライン様が元凶である魔王カガミーガの討伐に向かったと聞いています。
勇者様の活躍の賜物かそれ以降領内の魔物の数が激減したので再びゴート様が私たちの屋敷まで訪れる事ができるようになったという訳です。
ゴート様は今私がこんな事になっているなんて知る由もないはずです。
偶然使用人たちがゴート様がいらっしゃったと話しているのを耳にした私は、彼ならばきっと私を助けてくれると考えて部屋を抜け出したのですが、両親に見つかってしまい彼に会えないまま部屋に連れ戻される事となりました。
私は失意のまま自分の部屋に戻るとベッドの上にうつ伏せになり枕に顔を埋めました。
「どうしてこんな事になってしまったのかしら……」
私の目からは大粒の涙が止め処なく溢れ出て枕を濡らします。
こんなに辛い日々が続くのならばいっその事……と良からぬ事を考えた事も一度や二度ではありませんが、正式にゴート様に嫁いでさえしまえばきっとこの地獄のような毎日から抜け出せるはずです。
そのたったひとつの希望が私に耐え忍ぶ力を与えてくれました。
でもそろそろ限界かもしれない。
「ゴート様、早く私を迎えに来て……」
私はそう呟きながら意識が遠ざかっていくのを感じました。
◇◇◇◇
「エナ、いるのか? おい、エナ!」
私の名前を呼ぶ声が聞こえます。
「誰……ここはどこ? ああそっか……」
意識が戻るにつれて私は自分の置かれた状況を理解していきます。
どうやら私はベッドの上で泣き疲れて眠っていたようです。
「エナ、私だ」
「あ……はい!」
聞き覚えのあるその声の主が誰なのかを理解した瞬間、私はベッドから飛び起きて勢いよく扉を開きました。
「ゴート様、ずっとお会いしたいと思っていました!」
久しぶりに見た婚約者の顔に私は絶望に打ちひしがれていた先程までとは一転して嬉し涙を流しながら捲し立てます。
「お話したい事が山ほどあります。私は今──」
「うるさい黙れ」
「……え?」
しかし夢に出る程再会を待ち望んでいたはずのゴート様が私に向ける眼差しは両親と同様に侮蔑に満ちたものでした。
ゴート様は有無を言わずに私を黙らせて言いました。
「エナ、お前との婚約を破棄させてもらう」
「え……? それはどういう事でしょうか?」
「こういう事ですわお姉様」
ゴート様の後ろからぴょこんと飛び出してきた妹のロミが私に見せつけるようにゴート様の腕にしがみつきました。
それの意味するところは考えるまでもありません。
「嘘……私の事を一生愛してくれると仰ってくれたじゃないですか……それなのにどうして……」
「ああ、お前のような不快な女を好きになるだなんてあの時の私はどうかしていた。だが今日私は真実の愛に目覚めたのだ。お前と違って気品と慈愛に溢れたロミこそ私の妻に相応しい」
思いも寄らなかった最愛の人の裏切りに私の目の前が真っ暗になり膝から崩れ落ちました。
「そんな……それじゃあ私はどうすれば……」
「知るか。それにしてもお前のようなごみくずを今後も飼っていかないとならないなんてタイター侯爵には同情を禁じ得ないな。いっその事これ以上迷惑を掛けないように屋敷から出て野山にでも入って野たれ死んだらどうだ?」
「それは名案ですわゴート様。そうは思いませんかお姉様?」
「お前に伝えたかった事はそれだけだ。それじゃあ行こうかロミ。こんな女の顔は一秒だって視界に入れたくない」
「はい、ゴート様」
ゴート様とロミは私に見せつけるように身体を密着させながら歩いて行きました。
私にはただ二人の背中を茫然と見送る事しかできませんでした。
「どうして……女神様、いったい私が何をしたというんですか? あああああああっ!」
ショックのあまりその後の私の記憶は定かではありません。