第一章 降魔軍 1鵬城
粗削りな石垣で囲われた降魔軍最前線基地の鵬城は、飾り気のない武骨な平城だった。
戦闘目的以外の何ものも入り込む余地のない、血で血を洗う戦場の真っただ中。魔族を滅ぼし尽くすまで戦う城鵬城は、須弥族が暗黒界の奥地に築城して以来、既に三千五百年を経ていた。
降魔軍遠征開始直後に辺境地域に造営された蘭城が七千五百年前、その後暗黒界内部に楔のように打ち込まれた拠点楊城の建設が六千五百年前であるから、鵬城の築城はずっと時代が下る。
楊城から鵬城に至るまで実に三千年––––––占領地域の拡大と領土化にそれほどの長き年月が費やされた。
蘭城と楊城は都市機能をも併せ持つ大規模な都城であり、蘭城は草原地帯の平城で、楊城は高地に建てられた山城だった。かたや鵬城は戦闘特化の城砦であり、魔族の喉元に突き付けられた降魔軍の剣先である。いく度となく降魔軍は、鵬城を発して魔族討伐のため暗黒界の深部に侵入した。逆に魔軍も降魔軍の橋頭保鵬城を破壊すべく、いく度となく攻め寄せた。鵬城はその都度魔軍を撃退し、持ち堪えてきた。
しかし、鵬城が実際に攻撃のための基地であったのは、最初の五百年に過ぎなかった。その後三千年間は、むしろ勢力を増した魔族の侵入を防遏するための、防人の基地として機能してきた。
七千五百年の降魔軍の歴史の中で、降魔軍が攻勢だったのは最初の四千五百年間で、そのあとの三千年間は増殖した魔族に押され、防戦を強いられた時代だったのだ。
魔族と顔を突き合わせて、最前線を守る防人の将兵に掛かる重圧はなまじではない。猛将青虎羅は鳩摩羅王から鵬城の防衛を任され、既に二千有余年その任にあった。
須弥軍中核の三十二将は後方の楊城と蘭城にあり、建前上は後方から必要に応じて出陣してくることになっている。しかし、官僚化した三十二将は功を立てられる勝ち戦でなければ腰が上がらない。
最前線の泥沼の戦いを背負わされているのは、鵬城に常駐している青虎羅大将ただ一人だった。
交易を生業とするククノチ族の母を持つ青虎羅は、肌の色が緑色なので、誰でも一目で異種族だとわかる。ククノチ族は、降魔軍に徴用され労役に従事している隷属民で、支配層である須弥族には蔑まれていた。
にもかかわらず青虎羅が降魔軍の要衝を任されていたのは、戦神と崇められる鳩摩羅王を除いては、右に出る者がない傑出した武勇によるところが大きかった。先代の天帝釈をも凌ぐ武人である鳩摩羅王は、三叉戟の名手青虎羅の武勇を愛し、母の出自にかかわらず、将軍に取り立てて重用したのだ。
青虎羅は自分が同じ将軍でも、須弥族の正規の将軍である三十二将とは別扱いされていることを知っていたが、特に気にしていなかった。青虎羅は生粋の武人であり、後方の楊城や蘭城で政の手伝いをさせられるよりは、最前線で魔族と命のやり取りをしているほうが性に合っていた。
しかし、今は––––––
鵬城の上空を陸続と通過しつつあるのは、楊城に向かう魔軍の大船団だった。
三日三晩の戦いで、鵬城は完膚なきまでに破壊され、城兵のほとんどが殺された。石造りの城壁は崩れ落ち、城の四方の望楼は全て火に包まれ、大きな篝火のように燃えていた。
青虎羅と僅かな生き残りの近衛兵達は、城の中心部にある内陣と呼ばれる古代遺跡の広場に集まった。鵬城築城以前からあったその一画だけは、なぜか魔族が足を踏み入れようとせず、不思議に破壊を免れていた。
「骨都侯はおらんか」
青虎羅は、残兵の中に側近の骨都侯が見当たらないので、近衛兵にたずねた。
須弥族における骨都侯とは、大臣格の将軍補佐役の役職名で、城主の意向を実行し、必要に応じて意見を具申する側近である。普通なら常に青虎羅のそばに付き従っているのだが、戦いの中ではぐれたのか姿が見えなかった。
近衛兵達は顔を見合わせたが、一人が進み出た。
「ククノチ族の徴用工の者達が、骨都侯を拉致して魔軍に寝返りました」
辺境種族のククノチ族は、降魔軍が暗黒界に侵入するまでは、魔族との交易に従事していた者達で、利にさとく強者になびく。数千年の間、須弥族に服属してきたククノチ族は、降魔軍旗色悪しと見て遂に魔族に走ったのだ。
「下賤の者どもが土壇場になって本性を顕わしたな」
青虎羅は信義よりも実利で動く自分の母方の種族を蔑んでいた。ククノチ族のさもしい商人の気質が、潔い武人の肌に合わなかった。そして何よりも自分を隷属民と同じ緑色に染めた血を憎んでいた。
部下の近衛兵達は全て純血の須弥族の精鋭である。腹の中で、外見的にはククノチ族にしか見えない青虎羅を、どう思っているかはわからなかった。ただし、誰もが戦神鳩摩羅王でさえ一目置く青虎羅の武勇を知っていたので、忠誠に揺るぎはなかった。
青虎羅は骨都侯をして楊城の須弥軍に鵬城の落城を伝えさせようと思ったのだが、時機を失した。二千年以上鵬城を守ってきた青虎羅は、今回も魔軍を撃退できる自信があったのだ。
ところが、今回魔街道と呼ばれる亜空間通路から溢れ出てきた魔軍の規模は、誰の予想をも遥かに上回っていた。魔軍は鵬城を一支隊で攻め落とし、本隊は鵬城を無視して楊城へ向かった。魔軍本隊の大船団は今も断続的に鵬城上空を通過し続けていた。降魔軍は龍玉の年にかける魔族の意気込みを読み違えていたのだ。
鵬城の守備軍は奮戦したが、魔軍を足止めすることさえできなかった。青虎羅と若干名の近衛兵が残っていても、魔軍はもはや無力化した鵬城に目もくれなかった。
青虎羅はもう組織的な戦闘は無理だとわかっていたが、おめおめと楊城まで退く気は毛頭なかった。
「戦馬を用意せよ」
大規模な魔軍が出撃したからには、魔族の本拠地は手薄になっているだろう。魔街道を越えて魔族の領土に入り、魔将軍と直接対決して首級を上げてやろう––––––
青虎羅は二千年以上もの長き防戦に嫌気がさしていた。城を破壊され、守るものを失った今、たとえ単騎でも敵陣に斬り込んで、魔将軍と刃を交える機会をつくり出そうとした。
近衛兵が全員が乗れる数の戦馬と予備馬を曳いてきた。須弥軍は騎馬隊を持たなかったが、少人数の残兵を乗せるに十分な数の馬は確保できた。
「これより魔街道を越えて魔族の領土に入り、魔将軍を討ち取りに行く。楊城に退きたい者は、遠慮せずに今すぐに行け。骨都侯を遣わそうと思っていたが、それもならないから、代わりに使者の役割も果たせ」
青虎羅は、全員がいなくなることもあり得ると思ったが、それでもかまわなかった。
それを聞いた近衛兵の一人が馬に跨り、内陣を囲む城壁の門に向けて走らせた。
皆の視線が見送る中、門の手前で戦馬がいななき、前脚を蹴り上げて反り返った。
近衛兵の体は地面に振り落とされて動かなくなった。
どこから現れたのか、黒い編み笠をかぶった黒装束の剣士が、抜身の剣を下げて立っていた––––––いつの間にか近衛兵を馬上から斬り落としたのだ。
そのすらりと立った細身の姿は魔族には見えなかった。
「何者だ!」
須弥族の近衛兵達は、一斉に剣を抜き、正体不明の剣士に駆け寄って取り囲んだ。
囲まれた剣士は答えず、剣を水平に寝かせて構えた。
編み笠がくるくると独楽の如く回転し、近衛兵が木偶のように次々と斬り倒された。近衛兵はそれぞれ黒い剣士に斬りつけたのだが、剣は全て空を切った。
最後の一人が叫び声をあげて倒れた時、編み笠の剣士の剣は鞘に収まっていた。
近衛兵を一瞬のうちに皆殺しにした黒ずくめの剣士は、将である青虎羅を無視して、背を向けて立ち去ろうとした。
「待てっ」
青虎羅は黒い剣士を呼び止めた。
剣士は振りかえって、ただ一人残った武将に向かって言った。
「ククノチ族の傭兵に用はない」
––––––なんと女の声だった。
「俺は須弥族の将軍青虎羅大将だ」
青虎羅は近衛兵を斬られたうえに将として無視されたことと、ククノチ族と呼ばれたことを侮蔑と受け取った。
此奴は何者であれ生かしてはおかん––––––
青虎羅は三叉戟をしごいて構えた。
「どう見てもククノチ族にしか見えぬが、須弥族の血が入っているのなら斬って進ぜよう」
剣士は青虎羅に相対して、いったん鞘に収めた剣を抜いた。
黒編み笠には赤い卍が描かれており、笠の下に白い顎と首筋が覗いている。剣を握っている手甲をした手指は細くて白かった。
やはり女か––––––
青虎羅は相手の正体を訝しんだが、既に恐るべき剣技を見たあとなので、油断はしなかった。
剣と三叉戟では間合いが違う。剣の方は三叉戟の使い手の懐に飛び込めなければ、勝機はない。剣の使い手と三叉戟の使い手がともに名手であれば、戦いは三叉戟のほうに分がある。そして青虎羅は須弥族切っての名手だった。
黒編み笠の剣士は、剣を脇に構えた。まず突いてくる三叉戟をはたいて、柄の上に剣を乗せて滑らせ、懐に入ることを狙っていた。入られると三叉戟の負けになる。
しかし、手練れの青虎羅がそんなことを簡単に許すわけがない。青虎羅の引きは突きより速い。剣に払わせず、三叉戟を引いて相手を誘い込む。剣のほうが中に入れる誘惑に負けて飛び込むと、その瞬間に突きがきて餌食なる。三叉戟は幅があり、一点でかわすこともできない。三本の槍を並べて同時に突いているのと同じで、左右に動いて隙を見出すことも難しい。
編み笠の剣士は青虎羅の尋常ならぬ腕前を見抜いたと見えて、簡単には踏み込んでこなかった。近衛兵を束にして斬った時とは違って、慎重に構えている。
剣士が動かないので、青虎羅は自分のほうから間合いを詰め、素早い連続技で仕掛けた。相手を串刺しにしないまでも、剣を握っている腕を突き刺せば勝負は勝ちなのだ。
剣士は剣で三叉戟の柄を払う機会を狙ったが、変幻自在に繰り出される突きを、正面から受け止めるのがやっとだった––––––三叉戟は槍と違って穂先に幅があるので受け止めることはできた。
しかし、払うことができなければ、飛び込む隙がなく、剣士は防戦一方になった。
青虎羅は剣士の受けを幻惑するように、三叉戟の柄を回転させながら突きを繰り出した。剣士は三叉戟を受け切れなくなり、素早い引き足で何度か危ない瞬間を逃れた。青虎羅は剣士が引き下がる分前進して、仕切り直す暇を与えなかった。剣士は内陣の壁に阻まれて、退くこともできなくなった。
内陣の壁際には、古風な甲冑を着た古代戦士の石像が立ち並んでいた。剣士はその裏側に回り込み、石像を盾に使いながら横方向に走った。青虎羅も石像と石像の間に三叉戟を突き出しながら並走して追い駆けた。
黒い剣士は居並ぶ古代剣士の石像の中で、中央の将軍と思しき像の背後に身を隠した。
ノウマク・サンマンダバサラダン・センダマカロシャダ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン
石像を盾に使いながら、剣士は呪文を唱えた。
青虎羅は石像と石像の距離が近過ぎて、間に入ってしまうと長い三叉戟を使うことができなかったので攻めあぐねた。剣士が石像の左右から飛び出してくる瞬間を狙うしかない。
「臆病者。隠れていては勝負にならんぞ」
青虎羅は言葉であおって、相手を外に引っ張り出そうとした。
ノウマク・サンマンダバサラダン・センダマカロシャダ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン
剣士は呪文を唱えながら、古代戦士の石像の片側に一瞬飛び出して姿を見せた。
やっ!
青虎羅がその一瞬を狙って三叉戟を突き出した。
その刹那、何者かが三叉戟の柄をぐいとつかんだ。
驚いたことに三叉戟の柄を握りしめていたのは、剣士ではなく古代戦士の石像だった。
おおっ、なんと––––––
驚愕した青虎羅は三叉戟を引こうとしたが、万力に締め付けられたようにびくともせず、逆に強い力で引き込まれた。
それを見て剣士が石像の後ろから飛び出してきた。
青虎羅は慌てて三叉戟を捨てて引き下がりつつ、剣の柄に手を掛けたが、間に合わなかった。
斬られた肩口から緑色の火花が飛び散った––––––須弥族のエネルギーが消散する時の火花だった。
剣対剣の戦いでは青虎羅は剣士の敵ではなかった。青虎羅はようやく抜いた剣を打ち落され、二度三度、武具の上から斬り刻まれた。
「貴様いったい何者だ?」
青虎羅は自分の命が消し飛ぶ前にきいた。
「暗黒剣士」
絶命した青虎羅は、全身から緑色の光を激しく噴き出しながら消えていった。
「なるほど、肌の色はククノチ族でも、中身は須弥族だったか。手間を掛けた甲斐があったな––––––」
暗黒剣士は強敵を殺した快感で満足げに微笑んだ––––––その微笑みは、癒しに満足した時のイヤシビの微笑みとそっくりだった。
鵬城の須弥族は青虎羅を最後にことごとく抹殺された。
暗黒剣士が振り向くと古代戦士の像は、三叉戟を投げ出して石に戻っていた。
剣を鞘に収めた暗黒剣士は、屯していた戦馬の一頭に跨ると、言葉を解する戦馬に話しかけた。
「楊城まで行っておくれ」
戦馬は従順に見知らぬ主の言うことをきいて走り始めた。
楊城までは、馬で何日も掛かる距離だ。楊城には降魔軍の大部隊が駐屯しているので、魔軍本隊との戦いは激戦でかつ長期戦になる。暗黒剣士はその激戦の地に飛びこんでいこうとしていた。
自らの剣技に絶対の自信があった暗黒剣士だったが、青虎羅との戦いで、三叉戟への対処方法を考えさせられた。
懐に飛び込めるような相手なら長物でも何も問題はない。そうでない場合は、長物を使えない場所に敵を誘い込むか、あるいは投擲できる武器で構えを崩して、隙を見出す必要がある––––––
暗黒剣士はどこかで手裏剣を手に入れたいと思った。腕の立つ三叉戟の使い手が多い須弥族と戦っていくうえで、初戦での青虎羅との対戦は今後の参考になった。
名手青虎羅の三叉戟を扱いかねた暗黒剣士に、不思議な古代戦士の石像が手を貸した。内陣に入った瞬間から石像に秘められた霊力を感じ取っていた暗黒剣士は、古代戦士の力を解き放つ呪文を知っていた¬¬¬¬¬¬––––––孤独な暗黒剣士に思わざるところに強い味方がいたのだ。
しかし、古代戦士の石像に霊力を与えた者は、いったいいつの時代の誰だったのか––––––暗黒剣士にも謎だった。一つ明らかだったのは、それが須弥族に敵意を抱く者だったということだ。
然るに、古代遺跡を中心に鵬城を築いた須弥族は、最後までそのことに気づかずに終わった––––––魔軍が鵬城の内陣と呼ばれるこの一角を破壊しなかったのには、それなりの理由があったのだ。