2カゲリビ
漆黒の闇の中に青緑色の光がさざめき、黒装束に黒編み笠の剣士が出現した。時空流動体の再凝縮が発した光が周囲を照らしたのは束の間で、辺りは再び闇に包まれた。
ただ一人暗黒界に再凝縮した四人目の我カゲリビは、剣を抜き、身を低くして構えた。
地を震わせるような唸り声。
巨大な野獣がすぐそばにいる。
暗黒界の血に飢えた捕食者––––––獣魔が光とともに現れた獲物を見逃すわけがない。剣士は黒ずくめの闇に紛れる出で立ちだったが、出現時の発光のせいで獣魔に位置を知られていた。
一匹ではない––––––
カゲリビは知覚力を研ぎ澄まし、周囲を取り巻いている獣魔の数を把握しようとした。
数十頭––––––
数百頭––––––
否、数千頭––––––
––––––カゲリビはよりによって、獣魔の大群のただ中に生まれ出たのだ。
亜空間霊界の我が、暗黒界に出現すること自体異常である。そのことをしてカゲリビの如き者は、我と区別されて彼と呼ばれる。彼のカゲリビには仲間は誰一人いない。周囲は皆敵である。カゲリビは敵を殺すために生まれてきた。自分の使命が殺戮であることをカゲリビは生まれながらにして知っていた。
獣魔は、カゲリビが狙う標的ではなかった。しかし、獣魔のほうは、突如群れの真っただ中に飛び込んできた血迷ったよそ者を、生かしておく気はなかった。
血に飢えた獣達は、ゆるりとカゲリビの周囲を取り巻いた。
おもしろい––––––
屈折した喜びで笑みが浮かんだ。純粋な殺戮者として生まれてきたカゲリビには、その快感を味わうための相手は誰でもよかった––––––カゲリビは獣魔にも増して血に飢えていたのだ。
目が慣れてくると、暗闇の中に赤い目がいくつも動き回っているのが見えた。黒い獣魔の体躯は闇に溶け込んでいたが、闇を見通す眼だけが赤く光る––––––目の高さからして四つ足の者達と見受けられた。
カゲリビは霊感を視覚に集中した。霧が晴れるように、暗闇の中を忍び寄る獣魔の輪郭が浮かび上がった。
獣魔には獲物を狩る優先順位がある。群れが一斉に襲うのではなく、まず一頭だけが臆病そうな相手を驚かせないように、忍び足で近づいてきた。
一瞬獣魔の動きが止まり、しなやかで筋肉質な体が引き締まった。
グオッ
狩猟者は咆哮とともに、巨体を宙に踊らせた。
確実に獲物を倒す鋭利な爪のひと掻き––––––カゲリビはその致命的な攻撃をかわし、剣を横薙ぎに振った。
ドビュッ
剣が肉と骨を断ち斬る音。ずっしりとした手応えがあった。
重い響きとともに獣魔の巨体が地に落ちた––––––狩猟者は牙を剥いた顎から肩口までを斬り裂かれて死んだ。
一頭斬ると背後からまた別な獣魔が襲ってきた。カゲリビは独楽のように回転しながら二頭目を斬った。
そしてまた左右から––––––獣魔は次々と飛び掛かってきた。
カゲリビは、亜空間移動で瞬間的に位置を変えながら剣を振るった。その度に、肉と骨が断ち斬られる音がして、獣魔の死骸が地面に転がった。
この辺りでは無敵の狩猟者を、彼の剣士は試し斬りでもするかの如く、いとも簡単に斬り殺した。
屍の山を築きながら、カゲリビは殺戮の快感に酔った。敵が大きい分殺した実感が強く感じられ、喜びも大きかった。斬れども斬れども湧いてくる獲物のおかげで、その気になれば血生臭い悦楽に、いつまででも浸っていられそうだった。
そうは言っても数千頭の獣魔を殺し続けたところで何の成果にも至らない。それは猟奇的な道楽に過ぎない。
楽しみもほどほどにせねば––––––
カゲリビがそう思った時、雷鳴が轟いた。それは立て続けに鳴り響き、まるでどこかで砲撃が始まったかのようだった。
それを聞いた獣魔の群れは、一斉に移動し始めた。
カゲリビの周囲を無数の赤い目が、川の流れのように通り過ぎていった。獣魔の軍団は狩りではなく、彼ら自身の本当の敵に向かっていた。
獣魔に敵するのはいったい何者なのか––––––
カゲリビは高速で走る獣魔の群れのあとを、亜空間移動で追った。
その向かう先には、赤と黄色の光が見えてきた。獣魔はその光に向かって一直線に突っ走っていった。
獣魔を追尾するうちに、光を発しているのは魔族とその敵が戦っている戦場だとわかった。
赤々とした無数の篝火が焚かれ、雷撃の黄色い光が轟音とともに閃いていた。
雷撃を発しているのは金剛杵を武器とする降魔軍の須弥族の部隊で、標的は巨大な蛇の体を持つ蛇神族だった。蛇神族には手があり、人型種族のように武器を使う。しかし、本能的には巨大な口で敵を咬み殺すほうを好む。蛇神族は、須弥族の兵の三倍ほどの大きさがあった。巨体をくねらせて雷撃をかわそうとしていたが、図体が大きく動きが鈍いので、金剛杵の直撃を受けて黒焦げになって死ぬ者もいた。
より俊敏で機動性のある獣魔は、雷撃を易々(やすやす)と掻い潜って須弥軍の陣に襲い掛かった。須弥軍の兵士は剣と三叉戟で獣魔に応戦したが、金剛杵は沈黙し、乱戦になった。金剛杵の的になっていた大きな蛇神族は、須弥兵を喰い漁り始めた。
蛇神族と獣魔からなる魔軍と、降魔軍の須弥族の兵士が入り乱れて殺し合う中を、見物でもするかのように悠々(ゆうゆう)と歩くカゲリビは笑みを浮かべていた。
これは手間が省ける。雑兵は魔族が片付けてくれるな––––––
カゲリビにとって好都合だったことに、魔族が戦っている降魔軍の須弥族こそが、カゲリビが根絶やしにせんと目論んでいる宿敵だった。魔族のおかげで、カゲリビは標的を須弥軍の将に絞ることができた。
本陣に、抜刀した黒い編み笠と黒装束の剣士が現れた時、須弥族の将は驚いて床几から立ち上がった。
突然の侵入者に、指揮官の前に素早く近衛兵の垣根ができた。
カゲリビはくるくると独楽のように回転し、武具で身を固めた近衛兵を藁人形のように次々と斬り倒した。将を守る親衛隊は用をなさなかった。難なく近衛兵を皆殺しにしたカゲリビは、その死骸を踏み越えて、降魔軍の将の前に立った。
「貴様何者だ?」
如何にも剛の者らしき髭を蓄えた武将は自ら剣を抜き、どう見ても魔族には見えない華奢な体つきの相手を睨みつけた。
「暗黒界に生まれた剣士だから、暗黒剣士とでもしておこう」
カゲリビは、駆け寄りざま逆袈裟に斬った。あまりにも動きが素早く、須弥族の将は剣を振る暇もなかった。降魔軍は兵達の知らぬ間に指揮官を失った。
暗黒剣士ことカゲリビは、将の死骸のそばにしゃがんで、そのこめかみに手を当てた。
鵬城、楊城、蘭城の三拠点––––––魔街道の向こう側か––––––
死者の脳に残っていた記憶から、須弥軍の所在の情報を搾り取った––––––暗黒剣士の意識には再凝縮した瞬間から、須弥族こそが根絶やしにすべき仇敵であることが刷り込まれていた。その点については、カゲリビは疑問も理由も持ち合わせていなかった。
戦場では蛇神族と獣魔が、将を失った須弥軍を着実に殲滅しつつあった。
先程何頭も斬り殺した獣魔が須弥兵を殺戮しているのを見て、暗黒剣士は思わずニヤリと笑顔を浮かべた。
魔族はなかなかどうしてやるではないか––––––
今魔族が戦っている須弥軍は、降魔軍の一支隊に過ぎなかった。魔軍の勝利は間違いないと見た暗黒剣士は、須弥軍の本隊を求めて、魔街道––––––魔族の棲息地域とその外の暗黒界をつなぐ大型の亜空間通路––––––へと向かった。
魔街道は戦場からほど近かった。
魔街道の巨大な開閉口は渦状星雲のように光り渦巻いていた。
これなら霊山龍神宮でさえ楽に通過できるな––––––
カゲリビは我の住処である霊山龍神宮についても、まるで自分のものであるかのように知っていた。
折しも魔軍の三段櫂船の大船団が次々と渦の中へ進入し、降魔軍の占領地域に向かって進発していくところだった。
三千年前の龍玉の年に、その略奪に成功した魔族は、龍玉のエネルギーを利しておびただしく増殖していた。
龍玉は千五百年に一度しか発生しない。不首尾に終わった千五百年前の略奪の企ての後の三千年振りの機会に、魔族は降魔軍の想像を超えた規模の軍団を用意していた。
須弥族を滅ぼさんとするカゲリビにとって、魔族の空前の大攻勢は渡りに船だった。須弥族の鳩摩羅王と配下の三十二将は手強い相手である。雑兵の相手をしていたら切りがない。
自分は将だけを斬ればよい。あとは魔軍が始末してくれるだろう––––––
千五百年に一度の龍玉の年は我の再生の年でもある。我と龍は種族として関係が深く、龍のエネルギーが高まる龍玉の年に変化が起こる。カゲリビの場合は、我の者達が前回の龍玉の年に再凝縮したのに対して、千五百年後の周回遅れだった。カゲリビは我の異常出現であり、我とは呼べない異態の彼だった。
カゲリビは外見はイヤシビの転写で、イヤシビと瓜二つだった。然るにその性情は癒し人であるイヤシビとは正反対の殺戮者だった。カゲリビはイヤシビとキリタテが千五百年前の再凝縮時に、時空の狭間に置き忘れてきた武の因子を、一身に吸収して生まれてきた。イヤシビが癒しに特化し、キリタテが防御に特化した裏返しとして、カゲリビは、敵を殺すことだけに特化した、純粋な殺戮者になったのだ。
それ故にカゲリビは、我が過去との連続性を喪失してしまっていることを知っていた––––––カゲリビ自身の存在がその動かざる証拠だった。イヤシビとキリタテが正常に再凝縮していれば、カゲリビが生まれる余地はなかったのだ。
本来三人である我は四人に分裂していた。その結果先兵シズカミには一部記憶の欠落が生じ、イヤシビとキリタテに至っては、消散前の記憶をほぼ全て失っていた。
カゲリビ自身の記憶も完全とは言い難かったが、カゲリビはイヤシビやキリタテのように、以前の我のことを忘れ去ってはいなかった。
我はもう取り返しがつかないところまで歪んでいる。大きな時空の歪みが我を歪ませた––––––
カゲリビには、時空の歪みを感じ取る能力があった。一方、時空の歪みを感知できない我の三人は、歪みの存在に気がついてさえいないのでないかと思われた。
我の歪みを正せる者はカゲリビしかいなかった。特にカゲリビから見れば、自分と相似形の我のイヤシビこそ異態であり、どうしても相容れない存在だった。
まず仇敵須弥族を滅ぼし、その後で我を消散させて時空の歪みを正さねばなるまい––––––
殺すべき相手はあまたあった。暗黒剣士カゲリビは殺戮の予感に心を躍らせ、青緑色の蛍光を発しながら、魔軍に紛れて魔街道を通過した。