第一章 異端者 1学園崩壊
ひっそりとした朝の校舎の廊下は、自分の靴音が気になるほど響いた。空っぽの教室がいくつも連なっている。窓越しに見える運動場にも人影はない。
ひょっとしたら誰も来ないのか––––––暗い予感が心をよぎった。
世界史担当の教師水田が教室に入った時、がらんとした部屋には生徒が二人しかいなかった。
いや、二人もいたというべきか––––––
「やあ、お早う。よく来てくれた!」
怖れていた生徒が一人もいなくなるその日は、今日ではなかった。少し緊張がほぐれてほっと溜息を吐いた。
「このご時世に学校に来なきゃならないなんて滅茶恥ずかしいんですけど、僕らはお金がないのでダウンロードもそうそうできなくて」
生徒の一人がふてくされた態度で足を組み、椅子の背にふんぞりかえった。
「そ、そうか。でも少数精鋭になれば密な授業ができるし、いいところもあるさ」
「少数精鋭というか、落ちこぼれですよ。最後の二人になるなんて気が滅入ります。世の中何でも金がないと駄目ですね」
もう一人のほうが、腕輪状の携帯端末「リング」から空間に投影しているアニメの動画を覗き込んだまま、吐き捨てるように言った。
水田は持ってきた教科書と自分用のレジュメを教卓に置いて両手をついた。
「でもねえ、世の中金では買えないものもあるんじゃないかな。例えば学校での共通の体験とか青春の思い出とかさあ––––––」
自分でも確信のない言葉の語尾が力なく萎んだ。
学校が提供できる知識が全て金で買える時代になったのは紛れもない事実だった。教えるべき生徒がいなくなって教員もどんどん転職している中で、最後まで教職にしがみついている自分こそ惨めだった。
金があれば、自分もこんなことはしていないかも知れないな––––––
水田も内心そう認めざるを得なかった。
ドミヌスが開発した「大脳皮質直入ダウンロード」によって、知識のパッケージが格安で販売されるようになってからというもの、学校の成績や学歴は社会的に意味をなさなくなった。
大脳皮質をストアレッジに使い、デジタルデータを短時間でダウンロードするテクノロジーが、知識の格差による差別化を帳消しにしたのだ。誰でも教科書や参考書を数十秒で丸暗記できてしまうのだから、学校も教師も無用の長物と化した。
千テラバイトレベルと推計される人間の脳の記憶容量は、論理的には図書館を丸ごと呑み込むことができる。サヴァン症候群の患者が電話帳を一冊丸暗記したり、コンピューターにしかできそうにない桁数の計算を暗算でできたりすることは、以前から知られていた。
大脳辺縁系の海馬を経由した通常の選択的記憶では、脳が持つ潜在的キャパシティをフルに活用することはできない。ドミヌスは記憶の入り口を狭める働きをする海馬を介さず、直接大脳皮質に情報を記憶させる技術を開発し、通常人の脳の潜在能力を電子工学的に開花させることに成功したのだ。
この新技術により記憶の限界がほぼなくなったことで、知識と情報を売り物にする産業は壊滅的打撃を受けた。学校は崩壊し、ウェブでさえその地位が凋落した。
一科目のダウンロード費用が約六千円だから、テーマパーク入場料一回分に過ぎない。中学・高校生でも金さえあれば、博士号さえ取れてしまう時代になった。知識は万人のものになり、大学教授の権威は地に堕ち、データバンクや情報検索ツールなどの情報産業も落ち目になった。
知識の取得が容易になっただけでなく、新しいものの研究・開発はほとんどAIがやる時代になった。人間はその成果を労せずして享受できるようになり、学習や研究のための労苦から完全に開放されたのだ。
「さあ、授業を始めよう!今日はヨーロッパの中世史、神聖ローマ帝国の成立について」
水田は元気を出して、授業を始めようとした。しかし、生徒のほうはまるでその気がなかった。
「水田先生、それより僕らに少しお金を貸してもらえませんか。僕らも他のみんなと同じように、世界史のダウンロードを購入したいんです。そのほうが手っ取り早いし、先生も授業をする必要がなくなって楽になれますよ」
ふてくされた態度の生徒が真顔で言った。
水田は最後の二人にダウンロードされてしまえば、自分の存在意義がゼロになることはわかっていた。だからといって、他の誰もがやっていることを、この二人が経済的理由でできないとすれば、それは不公平であり気の毒だと思った。
生徒の切なる願いを聞いてやるのも教師の務めか––––––
「お金っていくらくらい?」
ポケットから薄っぺらい財布を取り出して、札を数えようとした。
「ノーノー。キャッシュじゃなくてディジコインでこれに送金してください。バイトしてちゃんと返しますから」
もう一人がリングをした片腕を差し出した。
「六千円ずつでいいですから」
「そ、そうか。それくらいならまあ何とかなるけど」
水田は思い切って自分のなけなしのディジコインを二人のリングに送信した。
すぐに受け手のリングに資金が到着した着信音が鳴った。
「よっしゃ!」
入金を確認すると、二人はリングの投影画像を操作して、直ちにダウンロードを開始した。
DOMINUSの赤いロゴがディスプレイに点滅し、二人の目もそれと同調して赤く輝いた。
「き、来たよ!」
「うん、来た。うわーっ、速いっ!」
「頭の中にメモリーが、どんどんできあがっていくぞっ」
「気持ちいい!」
「自信が湧いてくる!」
「このダウンロードのスピードなら、あっという間に終わってしまうぞ」
「残り十秒」
二人は異様な輝きを帯びたお互いの目を見てうなずきあった。
ディスプレイにダウンロード完了の表示が出た。光が目から脳内に吸い込まれるように消えていき、プロシージャーは完了した。
「先生、やりました!」
「素晴らしい気分です!」
「そ、それは良かった。ダウンロードできていい気持ちになれたのはとても良かった。だけど––––––それでその––––––この授業はどうなるのかな?」
水田が恐る恐るきいた。
「もちろんこれでお仕舞いですよ」
「もう世界史は完全にマスターしました。こちらが講義してあげられますよ」
二人はどや顔で言った。
「おーっ、もう修了証書が来た!」
「こっちも来た」
「やっと退屈な授業から解放される!」
「遂に僕らも世間並みになれた!」
「学校よ、さようなら。ドミヌスよ、こんにちは」
「借りた分はそのうち必ず送金しますから、ご心配なく」
「先生もお達者で。グッドラック!」
二人は席を立った。
「そ、そうか。じゃ、今日の授業はこれまでか。うーん、それじゃ君達も元気で。もし何かあったら、何時でも連絡してくれ。質問でも何でも––––––」
水田は肩を落として、それでも最後まで教師らしく振舞った。
用が足りた生徒達はそそくさと教室を出ていった。
「もうこの学校も終わりだな」
「用済みの前世紀の遺物さ」
「俺達ドミヌスのお陰で解放された」
「考えてみれば、毎日学校に来なきゃならなかったなんて、野蛮人の暮らしだった」
「囚人のような生活だったな。でもとうとう自由の身になった!ドミヌス様様だ」
去っていく会話と笑い声が教室の中まで聞こえてきた。
一人残された水田は、全てが終わったことを悟った。世の中の変化に取り残された敗者にはどこにも行き場がなかった。
もうこれで自分はお終いだ。世界史の教鞭をとることしか能がないのに、これからいったいどうやって生きていけばいいんだ––––––
絶望で文字通り目の前が暗くなり、体に悪寒が走って立っていられなくなった。
水田は教室の片隅に腰を下ろして壁に寄りかかり、抱え込んだ膝の間に顔を埋めた。どん底から抜け出す手立ては何一つ思い浮かばなかった。水田は考えることさえもあきらめた。
ただ茫然として時間だけが流れ、のどが渇いて水が欲しいと思っても、立ち上がる気力もなかった。遠くで何度も時限を知らせるチャイムが鳴っていた。
日が傾き放課後になっても、水田はまるで石になってしまったかのように動かなかった。水田が職員室に帰ってこなくても、誰も気づく者はなかった。
この世の中に負け犬の教師水田にかまってくれる者は、もう誰一人いないと思われた。
しかし、校庭が夕焼けに染まる頃になって、放心状態の水田の背後から、音も立てず忍び寄った者がいた。
誰かの手が突然肩に触れたので、水田ははっと我にかえった。
踵の高いサンダルから足指の赤いネールが覗いている。そこから水田の視線は遡った––––––すらりと伸びた脹ら脛、ワインレッドのワンピースが纏わりつく曲線的な肢体、鋭角的で形の良い顎と鼻、そして水田を見下ろしている蠱惑的な切れ長の目。
あっ!
水田は思わずのけぞって肩を壁にぶつけた。
「そんな怖いもの見たみたいに驚くことないでしょ」
心地よく響く透き通った声だった。
「紅林先生!」
寂れた教室には場違いな装いの女性は、水田の目を見てルージュの唇の隅に優美な笑みを閃かせた。
美し過ぎる女教師、男子生徒の憧れの的、同僚や校長からも一目置かれている紅林凛子––––––その容姿だけでも誰もが特別扱いするに十分だったが、加えて著名なドミヌスの開発者、故紅林省三博士の一人娘であることが、彼女の大物感を増していた。
「水田先生ったら、そんな所でふさぎ込んじゃってどうしたの?さ、立ちなさいよ」
水田の手を取り、抱きかかえるようにして立ち上がらせた。
「す、すみません」
紅林凛子に手を握られただけで、気が弱い水田は動転し、ドギマギしてしまって言葉がまともに出てこなかった。
「それが––––––いや、別に、その、特に何でもないんです」
「何でもないですって?よく言うわよ。自殺でもしそうなくらい落ち込んでいたじゃない」
「ええ、それはその––––––ちょっと待ってください」
水田は深呼吸で息を整え、鼓動の高まりを抑えて、少し平静を取り戻した。
最後まで教員としてちゃんとしなければ––––––
「実は今日、最後の生徒を失ってしまって、茫然としていたところなのです。こんなことになるなんて教員の資格を取った時には想像もしなかった。新しい技術がこんなにあっと言う間に世の中を変えてしまうなんて––––––ダウンロード一発で学科修了ですから」
「そういうことね。でもそれは別に水田先生だけに起こっていることじゃないわよ」
「は、はい。その通りですね。でも自分は性格的に鈍いのか、世の中の変化に半信半疑で、現実の厳しさを実感できていませんでした。なんとか細々とでもやっていけるんじゃないかと、甘いことを考えていました。
実際にこうして教室から誰もいなくなって、初めて絶望感が込み上げてきたのです。過去に積み重ねてきた努力が全て無駄になったことが確定してしまい、もう自分をごまかすこともできなくなりました。今後生きていく術もなく、この世のどこにも自分の居場所がなくなってしまった現実に直面して、立っている気力さえなくなってしまったのです」
水田は体裁をつくろう余裕もなく、正直に惨めな胸中を打ち明けてうなだれた。心身ともに疲弊していて、今にもまたその場にうずくまってしまいそうだった。
「気持ちはわかるけど世の中の激変には聖域はないの。社会全体が非可逆的な化学変化を起こしているのよ。大きな変革の時代が訪れている。でも逆に言えばこういう時だからこそ、新しいチャンスをつかむ機会もある」
水田は紅林凛子が発している力強いオーラに気圧された。
自分と同じ学校で同じ教員をしていたのに、紅林先生はなぜこんなに自信に満ちていられるのだろう––––––
「よく変化の時がチャンスといいますよね。でもそれはそのようなチャンスをつかむ能力のある人だけのものなのではないでしょうか」
自分のような変化に適応力のない人間は、むしろ淘汰される機会なのだ、と水田は思った。
「もちろん水田先生にはその能力があるから言っているのよ。これを見なさい」
紅林凛子がペンダントのように金のチェーンで首に掛けていたのは、ドミヌスのIDだった。
「ドミヌスでは学校に代わって生徒達の監視をする要員を、厳選して採用しています。特にドミヌスを活用しない異端者については、十分な管理が必要です。生徒の扱いに慣れた教員をその役割にコンバートしています」
「それってあの大脳皮質直入ダウンロードを開発したドミヌスそのもののことですか?」
「そうです。社会を大きく進化させているドミヌスです」
「本当ですか?学校制度を崩壊させたドミヌスに、教員が再雇用してもらえるチャンスがあるのでしょうか」
まるで負け犬が突如逆転して勝ち馬に乗るような話ではないか––––––
「下世話な話だけれど、給料は教員の何倍もいいわよ」
紅林凛子は鈴を転がすような声で笑った。
「紅林先生、それはとてつもなく耳寄りなお話ですけれど、私なんかでも採用の検討の対象にしていただけるのでしょうか?」
「水田先生は生徒達に大変好かれていたから、きっと優秀な監視員になれるんじゃないかしら」
「そ、そうでしょうか」
見え透いたお世辞と思ったが、たとえ言葉だけとしても嬉しくて顔が紅潮した。
「物理の飯島先生も一緒です」
「皆さん凄いですね。教員からそんなに素早く転身できるなんて」
「ドミヌスはもともと私の父がつくったものだから親の七光よ。飯島さんはもともとドミヌスの主任研究員をしていた経験者だし。
もし水田先生がOKならこれが連絡先です。オフィスに来て、必要な手続きさえしてくれれば大丈夫。私がちゃんと手配しておきますから」
名刺にはドミヌス監督長官紅林凛子とあった。住所は丸の内になっていた。
「それって私を採用していただけるという意味と理解してよろしいでしょうか?」
「私が最終責任者ですから。水田さんもそういうことでいいわね」
念を押されて水田は何度も首を縦に振った。
「じゃ、早く元気が出るようにしてあげる」
紅林凛子の手が伸びてきて水田の頬を包んだ。
「口を開けて」
言われなくても紅林凛子に触れられた衝撃で、自然に水田の下顎はあんぐりと垂れ下がっていた。
薄く開いたルージュの唇が近づいてきて、その隙間から流れ出た白く光る霧のようなものが、水田の口と鼻孔に侵入してきた。
それはエネルギーを帯びた熱い気のようなもので、気道と食道の両方から体内に浸透し、たちまちのうちに体の隅々(すみずみ)まで行き渡った。全身の細胞の一つ一つが気に刺激されて振動し、水田の体は感電したかの如くぶるぶると震えた。
水田は自分の肉体と精神が不思議な気によって浄化され、新たな力を与えられたのを感じた。気持ちが高揚し、腹の底から活力が湧いてくるのがわかった。
「あなたに私の生魂をほんの少し分けてあげた。もう大丈夫、あなたは私の奴隷よ。これからはドミヌスのために、全身全霊働きなさい」
紅林凛子の奴隷になら頼んでもなりたいくらいだ––––––
アニマを注入されたショックから覚めて水田が目をしばたいた時、ワインレッドのドレスの女は既に漂うように教室を出ていくところだった。ファッションモデルのような均整の取れた後ろ姿が、水田の眼底に焼きついた。
紅林凛子がたった今水田に何をしたのか、まるで見当もつかなかったし、アニマというものが何なのかもさっぱりわからなかった。しかし、ついさっきまで枯れた木の根っこのように死に体だった自分に、今は精気が戻っていた。
アニマが毒であれ薬であれ、何の文句があろうか。多分ドミヌスの新種の技術なのだろうが、あの紅林凛子がここまで自分なんかに気をつかってくれるとは––––––
紅林凛子の申し出は、絶望のどん底の暗闇に突如差し込んできた一条の光だった。ついさっきまで往くも帰るも道のない八方塞がりの状態だったのに、今は心の中に希望の灯がともっていた。
ドミヌスでの仕事は想像もつかなかったが、とにかく進むべき道が開けたのだ。行き場を失って追い詰められた負け犬に、敗者復活のチャンスが舞い込んだことは、何物にも代え難かった。
水田はもう一度、空になった教室を見渡した。
誰もいないこの教室を、そして人生の転機のこの時を、しっかりと記憶に刻み付けようと思った。
学校よ、さようなら。教室よ、どうもありがとう。でももうここから立ち去ることに迷いはない。ここにはもう未来はないのだから–––––
抑えようもなく湧き出てくる涙を、水田はシャツの袖で拭った。自尊心は見る影もなく傷ついていた。希望が芽生えチャレンジする気力が湧いたものの、自信というには程遠く、まだ不安で一杯だった。
しかし、希望が有るとないでは大違いだった。
何とかして、石にかじりついてでもこのチャンスをつかみ、人生のどん底から這い出すんだ。そのためだったら、自分は喜んで紅林凛子の奴隷になる––––––
水田は心の中で紅林凛子とドミヌスへの永遠の忠誠を誓った。