ドミヌス転生編 プロローグ
卍の象嵌が施された剣を胸にしっかりと抱いて眠っているその少女の姿を見たのは、千五百年振りのことだった。桜模様を散らした薄絹の端から白い両肩が覗いている。
濃い茜色の天蓋の付いた寝台の枕元で、霊界ミミズクのズクは少女の顔をまじまじと見詰めていた。長い年月を経ても、凛とした美しい顔立ちは見まがうべくもない。ただ、肌の色が余りにも白かった。
これは本当に我らが長らく待ち望んでいた失われた種族の先兵なのだろうか。もしそうなら、なぜ本来あるべき亜空間霊界ではなく、実空間の人間界に現れたのか––––––ズクは既に何度もその問いを自問していた。
少女の空間を跨いだ異常な出現は、原因不明で何とも説明がつかなかった。先兵は気紛れで異なる空間に出現したりしてはならないのだ。
やはり何かが狂ってしまっておるのか––––––
高齢のズク族の長は気をもんでいた。
少女が実空間に出現してから、既に数時間が経過していた。千五百年間微粒子になって時空をさ迷っていた肉体の覚醒には時間が掛かっていた。少女の瞼は固く閉じられ、長い睫毛はピクリとも動かなかった。
しかし、少女の精神の深部では既に無意識の知覚力が目覚めており、ズクの存在に気づいていた––––––強い霊感力を持っているのだ。
身長三十センチほどのズクは、背伸びして箱枕に頭をのせている少女の額に顔を寄せ、少女の無意識の思念に精神を集中した。ピンと立った耳のように見える羽角がひくひくと動き、ズク自身の霊感力が少女の精神に感応した。
少女の心の囁きが聞こえた。
私の名は御子神静香・・・
私は剣士・・・
それ以外には・・・私には何も記憶がない・・・
少女の心はそう訴えていた。
ズクの懸念は不幸にして的中したようだった。
この少女は霊感力は強いが、失われた種族の先兵としての記憶が全くない。顔立ちはそっくりだが、記憶がなければ真正な先兵とは考えられない。先兵が真正でなければ、失われた種族の再来も起こり得ない。これは何としたことか––––––
記憶以外にもズクを危惧させる点はいくつかあった。
まず、少女の体は失われた種族特有の青緑色の蛍光を発していなかった。白く透き通るような肌は美しいが、一見人族のようにみえた。
また、卍に青龍があしらわれた紋章の付いた霊剣九頭龍卍刀を持ってはいるものの、先兵が必ず身につけているはずの玉と鏡が見当たらなかった。いわゆる三宝が揃わなければ先兵の力は備わらない。従って恐らくこの少女は、外見が先兵に酷似しているものの、能力的には内容が伴っていないものと思われた。
そして、そもそも名前が先兵には相応しくなかった。失われた種族であれば、御子神静香などという人族の名を名乗るはずがなかった。
いろいろ懸念材料がある中で、なかんずく先兵としての記憶がないのは致命的だった。先兵は再来するものであって、新生するものではない。当然過去の記憶は保持されていなければならないのだ。ところがこの少女は、まるで過去とは無関係に、新しくこの世に生まれてきたかのように無垢だった。
亜空間霊界に遠い昔から伝えられてきている先例に照らして、この少女の先兵としての真正性を問われれば、ズクの答えは否だった。
ただ、少女は霊剣九頭龍卍刀を持って現れた。亜空間霊界の青龍のもとにあった九頭龍卍刀をこの少女は呼び寄せたのだ。先兵の最も重要な所持品である九頭龍卍刀は自分の主人を選ぶ––––––少なくともその点だけは、この少女は先兵としての要件を備えていた。
それゆえ少女が今後時間を掛けて、真の先兵に成長する可能性は皆無ではなかった。しかし、それはかなり遠い道程のように思われた。失われた種族再来の過程で、何らかの大きな問題が起こったことは間違いなかった。
ズクはどうしていいものか途方にくれた。
もし、このままこの少女が目覚めれば一体どうしたらいいのじゃ。異常な先兵の出現は、迫り来る暗黒界魔族を撃退すべき失われた種族の再来を妨げ、亜空間霊界全体に未曽有の危機をもたらすじゃろう。望むらくは、この少女はいったん実空間から消滅し、最初からやり直して亜空間霊界に正しく再出現してくれれば、それが一番いいのじゃ––––––
ズクが心中でそう念じているうちに、緑色の小さな精霊達が台子を押してきた。精霊達は台子を三つ並べて黒い繻子の布を掛けて棚をつくった。更に大勢の精霊達が少女の衣服を運んできて棚の上に丁寧に並べた。
木霊と呼ばれる身長が五十センチほどしかない幼児体形の精霊達は、棚に背が届かなかったが、身軽に空中を浮遊することができた。
人間界で着られるように先兵の装束を手直しした和洋服、人間が普段着るような半袖と長袖のワンピース、ブラウスとスカート、浴衣と帯、セーターとカーディガン、ジーンズとキュロット、パジャマとTシャツ、ソックスと下着類、そして高校の制服一揃い––––––先兵であるかどうか見極められない状態で、先兵の装束を着せるのもはばかられた。
ズクの心配事には無縁の精霊達は、少女の衣服を揃える仕事が楽しくて仕方がなかった。精霊達は、少女の出現後大急ぎで用意した衣服のどれが選ばれるのか、とても楽しみにしていた。
眠っている少女は、薄絹一枚以外は何一つ身に纏っていなかった。しかし、前回三千年前に失われた種族の再来が起こった時には、先兵は三宝の全てを備えて先兵の装束を纏って出現し、直ちに鬼王と戦ってこれを倒したと記録にある。今、目の当たりにしているものは、史実とは余りにもかけ離れていた。
待ちに待った先兵の出現は、ズクが期待していたようには運んでいなかった。
これはどう転んでも亜空間霊界にとって芳しいことにはならんのう––––––
老ズクが溜息を吐いた時、薄絹が桜吹雪のように宙に舞った。
少女は突如バネのように弾けて寝台から飛び降り、目にもとまらぬ速さで剣を抜き放った。
切っ先を周囲に巡らせ、鋭い目つきで敵を見極めようとした。
霊剣九頭龍卍刀の白刃がキラキラと煌めいた。
少女は何度かあたりを見回したが、そこには目を丸くしたズクと、驚いて立ちすくんだ精霊達しかいなかった。
目覚めた瞬間から敵を求めて戦う姿勢は、まるで先兵のそれのようだった。
少女は敵がいないことを悟ると、優雅な手さばきで剣を翻し、パチンと音を立てて鞘に収めた––––––生まれついての剣士なのだ。
少女はズクにちらっと目をやったが、棚の上に広げられた衣服のほうに関心を向けた。剣を無造作に棚に立て掛け、衣類を片っ端から手に取って試した。そして気に入ったらしい制服のジャケットを胸に当てて、にっこりと笑った。
それを見たズクはギョッとして羽を毛羽立てた––––––武人であり亜空間霊界の守護者である先兵が笑うのを、ズクはついぞ見たことがなかったのだ。