月(三十と一夜の短篇第64回)
防護壁に囲まれた居住区域では、外でいくら砂嵐が吹き荒れていようとも内部まで伝わらない。ましてその中に建つ個人の家々には音も風も気圧の変化もない。完全に調整された空気、水が循環し、希望すれば重力も変えられる快適な人工の空間。
しかし母は窓辺に近寄り、ものかなしげに夜空に目を向けた。
「こんなに空が荒れているのだから、バリアから出てみたとしても月は見えないだろう」
父から言われても母は窓から離れない。
「お母さんたら変なの。月なんていつだって見られるじゃない」
アーシュラは苛立たしい。生意気盛りの年頃で親のすることは何でも癇に障る。
「衛星といっても……」
「判っているわよ! お母さんが見たいのはフォボスでもダイモスでもない、ルナなんでしょ! 天体望遠鏡が無ければ見えないちっぽけな星」
娘の言葉のきつさに母はやっと向き直った。
「アーシュラ、人が大事にしているものを否定するのはいけないわ。あなただって好きなものを悪しざまに言われたら傷付くでしょう?」
「お母さんが古臭いと言っているのよ。お母さんが今住んでいるのは火星よ、地球じゃないわ」
今いる場所が大切なら、今の家族を愛しているのなら、とアーシュラは上手く口にできない。
アーシュラは火星で生まれ育った。父も火星の入植の三世で地球に対する思い入れはない。
詳しい事情を知らされていないが、母は地球の出身で火星に移り住み、父と一緒になった。重力の違う惑星での生まれ育ちの所為か、母は骨太でずんぐりしている。
「そんなに生まれた惑星がいいならどうして火星に来たのよ。わたしはお母さんに似て背が伸びやしない」
入植一世は今でも諸惑星で珍しくない。また、見た目で人を判断していけない、言葉を選ばず口にしてはならないと身に着けているはずなのに、家族に対して忘れ、ついつい辛辣になってしまう。
母はひび割れたように歩き、椅子に掛けた。
「アーシュラ、お母さんに向かってなんて口の利きようだ。
おまえにはまだ判らないだろうが、誰だって昔を懐かしむ時があるもんだ。それに付き合ってくれる優しさはないのか?」
「いいのよ、あなた。アーシュラには退屈なのよ。判っているの」
父は母の肩を抱き締めた。アーシュラは言い過ぎたと気付いた。どう振る舞ったらいいだろう。幼児みたいに縋り付いて謝るには半端に大人で、親の心情を慮るには頑なな子どもだった。それにいつも父は母に優しい。娘の前でも遠慮しない。成長した子に干渉するよりも夫婦仲良くしてもらっていた方がいいのは確かだが、母をいたわる父の姿に、娘さえ入り込めない絆の強さを感じ取り、はぐれた子兎みたいに何も言えなくなった。
アーシュラは奨学金を得て大学に入学する為、家を出た。卒業後、鉱山開発の研究所に勤めた。研究所には地球出身の開発技術者が多く来ており、そのうちの一人と気が合い、アーシュラは休日にもよく会った。長い休暇には二人でマリナー峡谷の観光旅行に出掛けた。
フェイは峡谷の岩の裂け目が作る迷路を進むのに疲れ、ふと切り取られた夜空を見上げた。
「火星の月は二つで面白いね。地球の月よりも小さくて、一つは動きが早くて、もう一つは遅い」
「フォボスもダイモスもいつもの動きとしか思っていないから、面白いと眺めたことはないわ。あなたも知っての通り、火星は砂嵐や霧が多いから、天体の運行を観察するのが趣味の人は少ないわ」
「衛星の動きを単なる天体現象と捉えているのだとしたら、ちょっと寂しいな。地球じゃ太古の昔から月を眺めて暦を作成し、多彩な伝承を語り継いできた。そりゃ今更月に兎やガマガエルが住んでいるなんて誰も信じてやしない。
宇宙進出を果たした人類にはもう神話や伝説なんて必要ないのかも知れないが、失えない心の潤いだと思うんだ。」
アーシュラにはフェイが少年っぽく見えた。
「地球の人って感傷的なのかしら?」
「出身は関係ないさ。出身が違っても僕たちはこうして親しくしているじゃないか」
「そうね」
月を画像で見たことはあるが、アーシュラには天体の一つに過ぎず、何の感興もそそらなかった。
――人として冷たいのだろうか?
人を愛するのが不得手なのかも知れない。両親、特に母には反発ばかりして、孝行しないまま過してしまった。
――過ぎ去った日々よりも今いる場所が故郷で、仲間。
ドライな性格と自分で決めつけていた。それでもフェイは友情を超えて男女の愛情を抱き、アーシュラに求婚した。
「形式や法律に縛られたくないのならそれで構わない。私と共に暮らして欲しい」
逡巡するアーシュラにフェイは怖いくらいやさしい。
フェイと過す時間は心地いい。フェイの為に何かしたいと欲するし、フェイがほかの女に朗らかに対しているのを見れば落ち着かなくなる。
――多分、わたしはいつでも、いつまでもフェイと一緒いたいのだ。
アーシュラはフェイと結婚した。
火星での十数年を経て、フェイは地球での勤務を命じられた。アーシュラは地球についていくと告げた。フェイのいない生活に耐えられないかも知れない、とは言わない。
「君には君の仕事があるんだから、簡単に決められないだろう?」
「ええ、三年の休暇を申請したわ。だからあなたと共に地球へいく。オリンポス山での掘削事業に戻るか、地球でもできる仕事があるか、その間に決められると思うわ」
「有難う」
こうして、アーシュラはフェイとともに地球へ降り立った。火星と違い、防護壁どころか防護服も無しで屋外を自由に出歩け、濾過や煮沸をしなくても自然の湧き水を手ですくって飲める環境があるという惑星。操作なしに繁る植物に、人類の知らぬ所で増える動物たちがいるなんて、火星では有り得ない。
何の覆いもされない、無防備な姿がまるで裸でいるようだと居心地の悪さを感じつつ、アーシュラは宇宙空港を出た。水を得た魚のごとくのフェイとは対照的だ。アーシュラは調整なしなのにずっしりと感じる重力と濃い大気、強い気圧に驚いた。火星よりも太陽に近い分気温が高く、日差しも強い。
「人類が発生した星なんだ。生命維持装置のわずらわしさはない」
ゴーグル無しで見上げる青空は奇跡のように晴れ渡っている。
「もうじき私の祖先たちが言っていた中秋節の時期だ。月を見よう。火星からでは本当に小さい光の点にしか見えなかったから、懐かしい」
フェイは異郷に来た妻をいたわりつつ、故郷へ戻った喜びを隠さなかった。
何日かしてフェイの言う中秋節の夜、フェイは住まいの庭に出て月を仰ぎ見る。アーシュラも夫に並んで夜空を仰いだ。望遠鏡など使わなくてもはっきりと目に映る大きな天体、真円に近い衛星の輝きに圧倒された。
「美しいだろう?」
「ええ、素晴らしいわ」
肯きつつ、アーシュラは思った。
――あれはわたしの知る月ではない。わたしの知る月はクレーターのへこみがはっきりと表面に出ていて、二つとも歪にゆがんで……。
これが望郷の念だと胸が絞られそうになる。
――わたしの故郷、わたしの月たち。地球では望遠鏡を使わなければ見えないのね。
アーシュラは初めて母を思って涙した。
参 考
『太陽系観光旅行読本』 オリヴィア・コスキー&ジェイナ・グルセヴィッチ著 露久保由美子訳 原書房